2020年の終わりと『小さな恋のメロディ』

2020年12月31日 | 日記

 2020年も、もうすぐ終わりである。

 コロナをはじめ、政治経済に世界情勢など、しんどいニュースが多い1年(というか、ここんところずっとそんな感じだけど)だったけど、あれこれ振り回されているうちに年末。

 冬休みということで、とりあえず時間はあるから、家でゴロゴロしながら一回気持ちをリセット。

 関西の年末といえば「八方・今田のよしもと楽屋ニュース」と「オールザッツ漫才」で、あとは銭湯行って、エルンスト・ルビッチの『天国は待ってくれる』観て、フェルナンド・ペソアを読みながら年を越す予定。

 もう完全にオフモードなので、今年1年をダーッと振り返って本日はおしまい。

 こんなもん、だれも興味ないから、私のストーカーだけ読んでください。では、ドン。

 

 アニメ『映像研には手を出すな!』がすばらしかった、ミステリドラマ『トンネル』のヨーロッパテイストは好み、藤井フィーバーにはただただ驚かされっぱなし、金子英樹さんもすっかりユーチューバーだ、『バビロン・ベルリン』は設定がどストライクでずっと見ていたい、とよぴーの棋風のマニアックさは説明が難しい、ドライフルーツにハマった、ロベルト・バウディスタ=アグートのテニスが渋くて良い、秋から冬の朝の楽しみは『南の虹のルーシー』、どんな悪いことやっても法的におとがめなしなプーチンてすごいね、とか思ってたらウチの国も大して変わらないらしくてコケそうになる、2021年に来るのは間違いなくTOKYOあむあむWORLDの「スリル」、『若おかみは小学生』と『小さな独裁者』が今年のベスト1、大人とは自分が若いころにされた説教をまったく同じ文言で後輩に垂れ流す生物、大坂なおみ選手を支持します、空気階段に真空ジェシカに蛙亭のラジオとかよく聴いた、でも今世界で一番おもしろいのはしずるの池田さんかもしれない、『ニュクスの角灯』と『映像の世紀』をセットで見ると楽しくも切ない、ラテンアメリカ文学を読んで「日本はちゃんとした国でよかったなあ」とか思っていたことを心底謝罪したい、新しい自転車を買った、腰痛がヒドくなった、井筒俊彦先生の本を吸収できるほどの知性がほしい、アマゾンプライムにある英国ドラマにヨダレが止まらない、たぶん日本を生きづらくしてるのは悪人と「勤勉な愚か者」、『シネマこんぷれっくす』とか『放課後ミンコフスキー』とか『ヘテロゲニア リンギスティコ』とか、「肉屋を応援する豚」にならないよう自分も警戒せよ、コロナが明けたら外国に行きたい、ウズベキスタンとかいいなあ……。

 


 今年おもしろかった本


 


ロバート・A・ハインライン『人形つかい』

ジョー・ウォルトン『図書室の魔法』

藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』

コニー・ウィリス『リメイク』

猿谷要『アトランタ』

ガルリ・カスパロフ『ディープ・シンキング 人工知能の思考を読む』

上田早夕里『華竜の宮』

ジョージ・オーウェル『一九八四』

ヘニング・マンケル『リガの犬たち』

飯塚英一『旅行作家マーク・トウェイン 知られざる旅と投機の日々』

パトリック・ジュースキント『香水』

井筒俊彦『イスラーム文化 その根底にあるもの』

フランシス・M・ネヴィンスJr『コーネル・ウールリッチの生涯』

水生大海『少女たちの羅針盤』

タニス・リー『闇の公子』

初野晴『ひとり吹奏楽部 ハルチカ番外編』

エラリー・クイーン『災厄の町』

サマセット・モーム『劇場』

ヘレン・マクロイ『逃げる幻』

中村文則『掏摸』

 

 今年おもしろかった映画


『沈黙 サイレンス』

『小さな独裁者』

『若おかみは小学生!』

『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男』

『レディ・プレイヤー1』

『ノーカントリー』

『影の軍隊』

『アンディ・マリー 再起までの道』

『ブレードランナー2049』

『IT2 イット THE END/それが見えたら、終わり』

『ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル』

『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』

『しあわせの雨傘』

 

 今年はコロナがあって、なにかと大変であった。

 モロに影響を受けてしまった人、幸運にもそうでもなかった人など様々だが、こういうときにどうするかの答えはひとつしかない。

 かつて、カート・ヴォネガットは『スローターハウス5』の中で、

 「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある」

 と書いたが、それでいえば人生で大変な時期をむかえたとき、どうするかのすべては、『小さな恋のメロディ』という映画の中にある。

 劇中歌を担当した、ビージーズの「Give your best」という曲(→こちら)を聞けばいいのだ。

 

 

And when you think that your life isn't right
You know the day isn't always like night
You've had your peace
Now it's time for you to fight.
Just give your best to your friends.


いいことなんてないと思ったときだって

日々が夜の闇みたいだとはかぎらない。

心安らかだったころもあったけど、今は戦うときなんだ。

ただ友達のために、キミのベストを尽くすんだ。


 

 

 それでは本年度はここまで。

 サンキューバイバイ!

 また来年。

 

 

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「コーヤン流」の極意 中田功vs伊奈祐介&畠山鎮 2016年 第65期王座戦 1997年 第56期C級1組順位戦

2020年12月28日 | 将棋・好手 妙手

 中田功さばきと来たら、まったく官能的なのである。

 振り飛車のさばきといえば、まず最初に出てくるのは「さばきのアーティスト」こと久保利明九段だが、将棋界にはまだまだ、腕に覚えのある達人というのはいるもの。

 今では山本博志四段に受け継がれている、小倉久史七段の「下町流」三間飛車もいいし、黒沢怜生五段の実戦的指しまわしも魅力的。

 そんな猛者ぞろいの中でも、玄人の職人といえば「コーヤン」こと中田功八段にとどめを刺す。

 中田八段の得意とする「コーヤン流三間飛車」は、その独自性が過ぎるため、だれもマネできないと言われているが、そのさばきのエッセンスは見ているだけで楽しい。

 前回は羽生善治近藤誠也による、濃厚な詰む詰まないの話を紹介したが(→こちら)、今回はさわやかに軽やかな振り飛車を見てみたい。

 

 

 2016年の王座戦。中田功七段と伊奈祐介六段の一戦。

 三間飛車居飛車穴熊になった戦いは、伊奈が2筋から仕掛けたところから、中田は「コーヤン流」の定跡通りにから反撃。

 むかえた、この局面。

 

 

 

 

 後手の2段ロケットも強力だが、いきなり飛び出しても、がいなくなると▲93角成とされるのが怖いところ。

 歩切れということもあって、やや攻めが単調に見えるところだが、ここから中田功は、あざやかなさばきを見せる。

 遊び駒を活用し、攻めに厚みを加える視野の広い一手とは……。

 

 

 

 

 

 △43飛と浮くのが、振り飛車党なら、血を売ってでも身につけたい軽快な手。

 これが飛車をタテに使う、穴熊左美濃に有効な構想で、▲89玉の早逃げに、△83飛と転換する気持ちの良さよ。

 

 

 

 遊び駒だった飛車が、攻防の急所に設置され、いかにも後手の味がいい。

 先手が期待のはずだった▲23歩成が、なんと遠い世界の出来事であることか。

 以下、8筋に回った飛車を△86飛と切り飛ばし、バリバリ攻めまくる。

 穴熊のお株を奪うかのような、自玉の固さにモノを言わせる猛攻を決め、中田勝ち。

 さすが、「飛車は切るもの」と言い切る中田功の将棋。

 これは久保利明、藤井猛鈴木大介ら、並み居るマイスターたちも、口をそろえて語る振り飛車の極意。

 なんといっても、先日Abemaで放送された藤井聡太王位棋聖野月浩貴八段の順位戦で、解説の都成竜馬六段井出隼平四段が、

 

 「プロの指した手の中で、【飛車を切る手の率】を計算したら、中田功先生がダントツじゃないですか?」

 

 と話していたほど。

 そんなコーヤンによる、大駒の見切りと言えば、やはりこれ。

 1997年の第56期C級1組順位戦畠山鎮五段の一戦。

 

 

 

 

 めずらしく三間ではなく、四間飛車穴熊に組んだ中田は、中央からの大さばきでをつくることに成功。

 ただし、駒割りは金銀角桂香の交換と、やや駒損な感じで、またそのがバシッと△51に打ちつけられているのが、

 

 「下段の香に力あり」

 

 で腰が入っている。

 並ならを逃げるか、▲33竜と切って△同桂(△同金)▲34歩くらいだろうが、「天才」中田功はそれを軽く超える発想を見せてくれるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ▲54歩とつなぐのが、観戦していた米長邦雄九段も、

 

 「ここ3年で一番の好手だ」

 

 と絶賛した一着。

 △53香を取られるが、▲同歩成として攻めが切れることはない。

 

 

 

 接近戦では、大駒よりも、と金のほうが働くのだ。

 とはいえ、ここでを捨てるなんて、ふつうは思いもつかないところ。

 しかも、わずか3分(!)の考慮で指しているのだから、その気風のよさにはシビれるではないか。

 以下、▲43銀とからみついて、▲34歩から▲36金打と上から押しつぶして勝利。

 

 

 大駒のさばきでかきまわしたあとは、それをサッパリと捨てて、あとは小駒で追い詰める。

 これぞ「コーヤン流」の指し回し。

 九州男児、カッケーですわ。

 

 

 (「永世七冠」をかけた「100年に1度の大勝負」編に続く→こちら

 (中田功の三間飛車の名局はもうひとつ→こちら

 

 

 

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2020年読書マラソン 今年も出走者が出そろいました

2020年12月25日 | 日記

 全国から重度の活字中毒者を集めて行われる、読書マリリンマラソン。

 今回も45億人以上が集まっています。

 さあ、スタート。優勝者以外は、罰ゲームとして、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』のストーリーやテーマを「論理的」に説明していただきます。

 

 というわけで、年末年始はとにもかくにも読書の時間。

 私はこの季節、スーパーとコンビニと銭湯に行く以外は、ひたすら家でじっとして本を読むというのが恒例になっており、極論を言えばこの日のために1年をがんばっているといってもいい。

 積読をひたすら消費していくのが楽しいわけだが、最近は買うスピードと読むスピードのバランスが悪く、本がどんどんたまる一方。

 何度か断捨離はしたけど、処分した本も結局、未練がましく古本で買い直したりしてるから、なにをかいわんや。

 ジャングルのごとく生い茂る紙の物量の前に、茫然とせざるを得ない。

 これに対抗するには、どんどん読んでいくしかない。

 腹をくくって、出走者はこちらです、ドン。


 
逸木裕『虹を待つ彼女』

マリオ・バルガス=リョサ『アンデスのリトゥーマ』
 
チャールズ・H・ハスキンズ『十二世紀のルネサンス』

カレル・チャペック『長い長いお医者さんのはなし』

千野栄一『言語学フォーエバー』

パトリーシア・メロ『死体泥棒』

沼野充義『モスクワ ペテルブルグ縦横記』

ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト『MORSE モールス』

滝野沢優子『来て見てラテンアメリカ』

フィリップ・K・ディック『高い城の男』

辻村深月『サクラ咲く』

オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』

石持浅海『セリヌンティウスの舟』

黒田龍之助『水曜日の外国語』

アンドレアス・グルーバー『月の夜は暗く』

近藤史恵『スティグマータ』

小泉喜美子『血の季節』

ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』

岩瀬彰『「月給100円サラリーマン」の時代  戦前日本の〈普通〉の生活』

ジョン・ディクスン・カー『夜歩く』

山口瞳『ああ! 懐かしのプロ野球黄金時代』

アイザック・アシモフ『鋼鉄都市』

宮地昌幸『さよならアリアドネ』

 

 まだまだ山ほどあるけど、何冊いけることか。

 世界は色々あるけれど、みかんと本があれば、とりあえずは大丈夫だ。

 

 

 

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「うつ病」への偏見をなくすには、先崎学九段の『うつ病九段』が良い入口に 

2020年12月22日 | 将棋・雑談

 先崎学『うつ病九段』が、ドラマ化されて話題を呼んでいる。

 将棋のプロ棋士である先崎学九段が、2017年に突然の休場宣言をしたのには、おどろかされた。

 

 「一身上の都合により」

 

 というあいまいな理由が、心配と共にさまざまな憶測を呼んだが、フタを開けてみると「うつ病」という意外なもので、そのときの顛末と七転八倒の(という表現がピッタリな)闘病記が記されている。

 


 妻にはなすと、少しやり取りがあった後、突然泣き崩れられた。私はそんな妻の姿を見たことがなかった。

「先崎学が将棋を指せないなんて……」といって、しばらく涙が止まらず、私はかけることばもなかった。



 
 作中にあるこの一文が、内容をすべて表しているといってもいい。

 私も発売されてすぐ読んだが、この本は「うつ病」のだけでなく、その人がもっとも魂をささげ、人生をかけて積み上げたなにかが、一瞬でに帰す恐怖絶望、そして回復への希望の記録でもある。

 というと「なんか暗いのはヤダなあ」と思われる方も、おられるかもしれないが、そこは将棋だけでも文筆才能でも鳴らす先チャンのこと。

 本来なら陰惨になりそうな話なのに、あまりそれを感じさせることもなく読み進められ、「自分も持っていかれる」という心配はまったくない。

 この本はとにかく、「うつ病」というものが、先崎九段の体験と、またお兄さんが優秀な専門医だったこともベースに、かなりくわしく描かれているのが目を引く。

 

 「寝転んだ状態から、ただ起き上がる」

 

 という行為に、こんな苦痛労力がともなうなど、経験者にしかわからないだろうし、またそれを他者に伝えるのも至難。

 先チャンも書いているが、「うつ病」の苦しさはそれ自体にくわえて、

 

 「伝わらないこと」

 「誤解」

 「偏見」

 

 というものが厳然と存在し、その「よけいな苦しみ」を周囲があたえてしまわないためにも、こういう本はもっと読まれるべきだろう。

 このあたり、私も「うつ病」ではないし、ここまで重症でもなかったけど、心身のバランスをくずしてしまった一時期、その「伝わらなさ」に大苦戦したことがあるので、多少ながら共感はできるところはある。

 かなり幸運にも、周囲に「理解しようとしてくれた」人が多かったにもかかわらず、

 

 「どうすれば正確な状況が伝えられるのか」

 

 ということに煩悶したものだから、

 

 「甘え」

 「仮病」

 「かまってほしいだけ」

 

 みたいな、弱者に妙なきびしさを見せる日本社会では、それが治療の足かせになるのは容易に想像できる。

 ただこれは、自分が反対の立場になったとき、悩んでいる友人を見て

 

 「それホントにィ?」

 「大げさに言ってない?」

 「もう、何回も聞いたって、その話!」

 

 など、似たようなことを感じてしまうケースもあったから、そのあたり一概に

 

 「理解しようとしない方が悪い」

 

 とも言い切れないところもある。

 うつ病に限らずだが、こういうのは自分も体験してみないと、なかなか実感はできないものなのだ。

 仮に「理解しよう」としたところで、

 

 「苦しんでいることはわかっても、それに対して自分がどう対処すればいいのかわからない」

 

 立ち尽くすしかないストレスも相当で、このあたり私は、どちらの立場も経験したことがあるので悩ましいところだ。

 そういった場面におちいったとき、やはり最後に頼れるのは「正しい知識」と「ケーススタディ」であり、先崎九段のこの本には、かなりそれがそろっている。

 たとえば

 

 「うつは心でなくの病気」

 

 というのは、今では知られているとはいえ、案外と世間には浸透していないのではないか。

 少なくとも、「甘えてるだけ」という偏見を凌駕するほどには。

 「うつ病」というのは、決して他人事ではない病気である。

 だから、自分がかかったとき、大切な人がそれで苦しんでいるとき、この両方にそなえて、ある程度のことは知っておきたいわけで、その入門書として本書はとても役に立つ一冊ではないだろうか。

 あと、ひとつ「そっかー」と感じたのが、この言葉。
 
 
 「こういうときのために、人権という言葉があるんだな」

 

 昨今の日本では、やたらと「自己責任」という言葉が、幅を利かす場面がある。
 
 でもこの先崎九段のケースみたいに、人は「責任」のあるなしにかかわらず、足をにとられたりすることもある。
 
 それは我々だって同じなんだから、そんな簡単な言葉で決めつけてしまっていいのかと、考えるところはある。
 
 金や権力など、を持った人からすれば、それを持たない人間の権利は、なるたけ少なめにした方が色々と便利であろう。
 
 なら「される側」にある我々が、口車にのせられたり、
 
 
 「ガツンと言ってやったぞ!」
 
 
 という一瞬快感のためとか、
 
 
 「自分は他者など頼らない強い存在である」
 
 
 なんてアピールで、それに加担するのを見るのは、なんだか変な気がするわけだ。
 
 もちろん、先崎九段のようになってしまった人に同情したり、共感したり、救いの手を差し伸べたりするかどうかは、それぞれの判断。
 
 私だって聖人ではないから、たいしたこともできないし、先も言ったとおり、めんどくさいときには友人相手でも「ホンマかいな」くらいの対応になってしまうときもあろう。
 
 言いにくいことだけど、実際に「ただ甘えているだけ」の人だって、いるのかもしれない。 
 
 でも、そういうときでも、仮になにもアクションを起こさないにしても、足を取られた人の状態を、限られた自分の知識や経験だけで決めつけず、
 
 
 「話を一回、聞いてみる」
 
 
 くらいのことは、してもいいのではと自省をこめて思うのだ。
 
 どう考えるかは、それからでも遅くはない。
 
 そしてそれは長い目で見れば、きっと「自分のため」でもあるのだから。
 
  

 

 

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詰む詰まないの迷宮 近藤誠也vs羽生善治 2018年 第59期王位リーグ

2020年12月19日 | 将棋・好手 妙手

 「近藤誠也の、あの顔やね」

 

 という出だしから、前回は第3回アべマトーナメント決勝で見せた近藤誠也七段の表情が、亡くなった村山聖九段を思い起こさせることを書いた。

 ここではふだん、先日紹介した中村修九段の若手時代に見せた将棋のような(22歳のとき!)ヴィンテージマッチを紹介しているが(→こちら)、もちろん今の将棋もあれこれ観戦している。

 せっかく今の若手の話をしたので、今回はその近藤誠也の将棋を見てみることにしようということで、2018年の第59期王位リーグ

 羽生善治竜王との一戦。

 近藤誠也と言えばデビュー初年で、いきなり超難関の王将リーグに入るというスゴ技を見せつけた。

 強豪ひしめくリーグ戦では陥落の憂き目に合うも、そこで豊島将之羽生善治を破るという大金星を挙げる。

 しかもこれによって、羽生はリーグ陥落を喰らってしまうのだから(この前いつ落ちたか思い出せないくらいだ)、新人らしく大いに「かき回した」と言えよう。

 トップ棋士からすれば、若手との初戦は多少様子見の一面もあるだろうが、この場合はなかなかに痛い負け。

 羽生はこういうとき、容赦ない復讐を敢行し「つぶし」にかかってくるが、果たしてこの将棋はどうか。

 横歩取りから、後手の羽生もまた横歩を取りに行く積極策を見せ、激しい戦いに。

 むかえたこの局面。

 

 

 

 ネット中継で見ていたが、ここで解説のプロ同様「え?」となる。

 ここは羽生の手番だから、△68銀成とすれば、次の△89飛成詰めろで、▲88金などと受けても、△67成銀で一手一手なのだ。

 一方、後手玉に詰みはないから、これで決まりのようだが、実戦は△89歩成

 △68銀成に、なにかスゴイしのぎでもあるのかと、思わずモニターにかぶりついてしまったが、なんとこれが両者ともに見落としていた筋。

 

 近藤「うっかりしてました」

 羽生「あっ。そうか、ひどいですね」

 

 トッププロでも、こういうことがあるのだ。

 ある意味、この2人の読みの波長が合っていたから起こった、ともいえるかもしれない。

 椿事だったが、本譜は△89歩成から▲79金△99と▲88玉△83銀▲55桂△51桂と進行。

 

 

 

 

 『将棋世界』の解説によると、最後の△51桂では△74銀と攻防に活用すれば後手が良かったそうだが、この手で混戦になってしまったよう。

 クライマックスはこの場面。

 

 

 

 羽生玉には詰めろがかかっているため、近藤玉を詰ますか、受けに回るかの選択を迫られている。

 詰ますのはむずかしそうだから、△32飛成で息長く指すのかなあと見ていたのだが、それには▲33歩のタタキが手筋で、これがまた悩ましい。

 羽生は△89銀から、決然と踏みこんでいく。▲同玉に△77桂の王手。

 

 

 

 

 ここが運命の分かれ道だった。

 近藤誠也は秒に追われて▲78玉と逃げたが、これは地獄行きルートだった。

 △89角と打って、▲77玉に△67角成から先手玉は逃げられない。

 ここでは目をつぶって▲同金と取り、△88歩▲79玉とかわせば詰みはなかった。

 

 

 

 

 とはいえ、これは相当に難解、かつ危険な変化をたくさんはらんでおり、1分将棋ですべてを読みつぶすのは至難。

 羽生によると、「1歩足りない」という変化があって、それが△77桂で、代わって△39飛成と追う変化。

 以下、▲79金、△88歩、▲78玉、△89角、▲同金、△同竜、▲77玉。

 △79竜、▲78歩、△65桂、▲66玉、△54桂、▲65玉、△55金、▲同玉、△37角、▲65玉、△64金、▲同銀、△同角成、▲56玉、△65銀、▲47玉、△49竜、▲36玉、△38竜、▲25玉。

 

 

 

 ここで後手に1歩でもあれば、△24歩、▲同玉、△46馬という筋でピッタリ詰むのだが、まさに紙一重で先手の逃げ切り。

 将棋の記事や本をおもしろく読むコツは、

 

 「難解な変化や長い手順は、どんどん飛ばして読む」

 

 ことだから、ザッと飛ばしていただきたいが、おもしろい変化だったので、ちょっと紹介してみた。

 ということは、おそらくその他にも無数の王手の筋に、このような難解な手順が内包されているわけで、近藤誠也の若さと計算力をもってしても解明できなかった、すこぶるおもしろい終盤戦ということ。

 敗れたとはいえ、最後までドキドキハラハラの大熱戦で、トップ棋士相手に十分力を見せたと言っていいだろう。

 こういう将棋と気迫でもって、

 

 「若くてイキのええのは、藤井聡太だけやないんやで!」

 

 どんどん存在をアピールしていってほしいものだ。期待してます!

 

 (中田功の「コーヤン流三間飛車」編に続く→こちら

 

 

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海外で詐欺であう詐欺師って気づかないものなの? その2 イタリアのローマ&タイのバンコク編

2020年12月16日 | 海外旅行

 前回(→こちら)の続き。

 ローマのテルミニ駅周辺で、白人青年に道をたずねられ、お礼に「知人のやってるバー」に誘われた。

 それに対しては、

 

 「ただの気のいい青年

 「絶対アヤシイ。なにか目論見があったにちがいない」

 

 意見がわかれたのだが、このカラクリが解けたのは、その数年後におとずれたスペインでのこと。

 ユースホステルで日本人旅行者たちと仲良くなったのだが、そこにいたトノツジ君という青年が、

 

 「いやあ、ローマではヒドイ目にあいましたよ」

 

 話を聞くと、なんでも悪辣イタリア人にだまされて、ボッタクリバーに連れていかれたのだという。

 ひとしきり酔っ払って、勘定書きを見るとそこには「1000ユーロ」(だいたい10万円くらい)の記載があって青ざめたという。

 なにやら、どこかで聞いたような話だが、私も事態を薄々察しながら、

 

 「それって、テルミニ駅の場所を訊かれへんかった?」

 「そうですよ」

 「で、あなたはイタリア人かっておどろかれた」

 「なんで知ってるんですか?」

 「で、そのさわやか男子が、お礼をしたいからバーに案内するって言い張るんや」

 「千里眼あらわる! マジでエスパーじゃないですか?」

 

 もちろん私が清田君というわけではなく、同じ鴨なんばんだったというだけのことだ。

 テルミニ駅から、知人のバー。流れるようにトレースしている。

 もし病気の連れがいなければ、こちらも同じ目にあっていたわけであろう。

 で、そんときはどうしたの、と続きを問うならば、払えないというと奥から屈強なボクサーみたいな男が出てきて、小便ちびりそうになったと。

 彼がタフなのは、泣きながら金を出すフリをして、相手が油断したスキにダッシュで逃亡したこと。

 なんとか事なきを得たそうだが、まったくヒドイ目にあったと、ボヤきにボヤきまくりだ。

 そりゃ、災難やったねえ。ほんでさ、ひとつ気になることがあるんやけど、「イタリア人か?」って訊かれたとき、どう思った?

 

 「あー、ヨーロッパ人に間違われて、うれしかったですねえ」

 

 やっぱり、あれは「お世辞」やったんや。てか、そんなに日本人って「イタリア人」にあこがれてるものなの?

 なんて笑ってられるのは自分が無事だったからで、あのときはまったく疑ってなかったのだから、他人事ではない。

 ちなみに、このとき「怪しい」と喝破した同行者も、後年友人とアジアを旅行したとき、

 

 銀行の場所を教えてくれないか? それと、わたしは日本お金興味があるから見せてほしい」

 

 インド人(の扮装をしてるだけかもしれないが)らしき夫婦に声をかけられ、一緒にいた友人に、

 

 「無視して。ガイドブックとかに書いてる、典型的な詐欺やから」

 

 そう、耳もとでささやかれたとか。

 その通り、これは「を見せてくれ」(というのも考えてみればな要求だが)といって、1万円札を出したところ、観察するフリをしながら巧妙に小額紙幣とすり替えるという、一種のスリなのだ。

 これには同行者も、

 

 「いやあ、全然わからんかった。ただのいい人にしか見えへんかったもん」

 

 この経験以来、私は詐欺に引っかかる人のことを

 

 「わからんかったんかい!」

 「そんな簡単な手口、気づけよ」

 

 と思うことはなくなった。

 これはねえ、将棋とか好きな人ならわかると思うけど、他人がやってるところを観ているといい手や冷静な対応がいくらでも思い浮かぶのに、その局面を自分が「対局者」としてプレーすると、何も見えなくなる

 それと同じで、詐欺も情報として見ると

 

 「なんでこんなもんに」

 

 となるけど、実際あったら話術巧みだし、人当たり抜群にいいしで、相当に見抜くことなどできないのだ。

 そりゃまあ、プロが本気になって、しかも無防備な外国人をねらうのだから、そもそも「戦力」に差がある。

 だまされても、それは不注意のみとも言い切れないのだ。

 こういうことがあると悲しいのは、もちろんお金を取られた被害もさることながら、その土地印象がどうしても悪くなってしまうこと。

 前回の三井さんの記事のように、

 

 「本当に申し訳ないけど、今はインド人が詐欺師に見えそうです」

 

 ということになっても責められないし、実際私もスペインで出会った別の日本人旅行者とフラメンコを見に行ったら、その帰りに、

 

 「すいません、最初はあなたのことを疑ってました。詐欺かなにかじゃないかって。こっち来てスペイン人はおろか、日本人にもだまされて、なんだか人間不信におちいってしまって……」

 

 なんて告白されて(当時のマドリードはメチャクチャに治安が悪かった)、ただでさえ詐欺はいかんのに、ましてや同胞をだますなんてと義憤に燃えたものだが、そういうこともあるのだ。

 なんにしろ、一度だまされると

 

 「悪い人はあくまでごく一部で、ほとんどがふつうの人

 

 という当たり前のことに紗がかかってしまう。

 旅行者にとっては下手すると、金銭よりもそっちの損害の方が多いかもしれず、そのためにも最低限の備えはしておきたいものだけど、手当たり次第に疑うのは、それはそれで失礼

 また「いい出会い」のチャンスも逃してしまうかもしれないから、むずかしいところではあるなあ。

  

 

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海外旅行であう詐欺って気づかないものなの? イタリアのローマ編

2020年12月15日 | 海外旅行

 「外国の詐欺って、だまされてもわからんもんなん?」

 

 ある日LINEで、そんなことを訊ねてきたのは友人バンダイ君であった。

 なんでも彼は、最近「海外旅行のトラブル話」みたいな本を読んだらしく、

 

 「ああいうのってさ、美人局にだまされるとか、睡眠薬飲まされて荷物取られるとか、ニセ警官がワイロ要求とか、よう聞く話やん」

 

 そこで思ったわけだ。

 

 「でも、ああいうのんって、ガイドブックとかにもかならず書いてるもんばっかりやのに、なんでダマされるんやろって不思議でさあ」

 

 たしかに、こういった旅先での被害は、話に聞くと不思議に思う人は多かろう。

 バックパッカー専門誌『旅行人』編集長の蔵前仁一さんがリツイートしたのをはじめ、一時期旅行好きの間で話題となった、写真家三井昌志さんによる記事

 

 「コルカタの詐欺師ラージ」

 

 (詳細はこちら→こちら)などを読んでも、

 

 「典型的な詐欺ですやん」

 「高額のディポジット取られたところで、気づきそうなもんやけど」

 

 なんて感じてしまうかもしれないが、これに関しては私も頭をかきながら、

 

 「いやそれが、現場におると案外わからんもんですねん」

 

 今から15年以上前のこと、私はイタリアに旅行をした。

 滞在地のローマで夜、買い物に出かけたところ、若い白人男性から声をかけられた。

 

 テルミニ駅はどこですか?」

 

 こちらと同じ旅行者だろうか。外国の街で、暗くなってから道に迷うのは不安だというのわかるので、

 

 「テルミニ駅はこちらである」

 

 案内してあげると白人男性はよろこんで、

 

 「ローマにくわしいんですね。あなたはイタリア人ですか?」

 

 そんなことを言ってから、

 

 「お礼に一杯おごりたい。知り合いがやっているいいバーがあるから、そこで飲みませんか?」

 

 お誘いを受けてしまった。

 異国の夜はヒマだし青年はとてもいい人に見えたし、これもまた旅の出会いかということで、すこぶる魅力的な話だったけど、このときは同行者が体調をくずしており心配だったため、申し訳ないがお断りすることにしたのだ。

 宿に帰って、同行者に「こんなことがあってさあ」とこの話をすると、

 

 「えー、それって絶対に怪しいって!」

 

 私の買って来たオレンジを食べながら(イタリアのオレンジは安くてメチャウマです)、そんなことを言うのである。

 これには私も「いやいや、ふつうの気のいい青年やったよ」と反論するも、

 

 「いや、おかしい。行かんでよかったよ。なんか危ないことあったかも」

 

 たしかに、考えてみれば変なところもある。

 青年が道を訊いてきたのはテルミニ駅と目と鼻の先だったし、「イタリア人ですか?」という質問も意味不明だ。

 私にそういう感覚はないが、世の中には

 

 「白人と思われる」

 

 ことをよろこぶ人がいるかもしれず(タイインドでは「色が白い」ことがステータスだったりする)、そう見ればお世辞ともとれるし、そもそもテルミニ駅も見つけられない人が、

 

 「知人のやってるバー」

 

 に誘うというのも、筋が通らない気もする。

 でもねえ、このときはそれでも「あやしい」なんてことは毛ほども思わず、

 

 「ふつうに迷子になっただけでしょ」

 

 最後まで言い張ったのであった。

 そのカラクリが解けたのは、ローマを出て、他の街へ移動したときだった。

 

 (続く→こちら

 

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「相手を殺す気持ちだ」と村山聖は言った 近藤誠也vs永瀬拓矢 第3回アべマトーナメント決勝

2020年12月12日 | 将棋・雑談

 「近藤誠也の、あの顔で決まりやね」

 

 近所の食堂で、月見ハンバーグ定食を食べながら声をそろえたのは、将棋ファンの友人トミオカ君とであった。

 少し前の話になるが、アべマが企画した「フィッシャールール」によるトーナメント戦は、おもしろかった。

 早指し戦特有のスピーディさと、ウッカリやトン死などハプニングもあったりして、毎週末が楽しみだったもの。

 トミオカ君とも、そこで盛り上がり、

 

 菅井のファイティング・スピリットにはシビれたなあ」

 「オレは青嶋のクールさにホレたね」

 「若手も元気やね。明日斗は愛敬あって人気でそうやから、もっと勝ってほしい」

 「本田の棋王挑戦に『刺激しかない』いうてたから、バチバチやってほしいよな」

 「ところで、今回出てないメンバーで、もう1チーム作るいうたら、だれ選ぶ?」

 「いやー、むずかしい。チームリーダーは郷田で、あとは中村太地梶浦かなあ」

 「強いなあ。じゃあオレは関西縛りで千田澤田大橋でいくわ」

 

 なんて話をメシでも食いながらワチャワチャやるのは将棋ファンの至福なわけだが、では大会のハイライトシーンといえばどこか。

 私が「実は決勝戦やねん」と言うと友は

 

 「あ、偶然やな。オレもや」

 

 というので、一緒に言おうか「せーの」で見事合致したのが冒頭の答えだ。

 

 「第3回アべマトーナメント最大の見せ場は、決勝戦で見せた近藤誠也の殺気

 

 と聞いて、少しばかりいぶかしく思った方もいるかもしれない。

 というのも渡辺明名人(棋王・王将)率いる近藤誠也七段石井健太郎六段のチーム「所司一門」は今大会、見事に決勝戦進出を決める。

 ただそこで、永瀬拓矢王座の率いる藤井聡太王位・棋聖増田康宏六段のチーム「バナナ」に5連敗と、屈辱のストレート負けを喫しているからだ。

 そんなボロ負けなのに、わざわざ負けたほうのメンバーを出してくるのかという方はぜひ、アべマのビデオに残っている映像を見返していただきたい。

 近藤誠也が、実にいい表情をしているのだ。

 登場したのは決勝戦第3局5局で、相手はともに永瀬拓矢二冠と強敵だったが、このときの顔がすさまじい。

 とくに決着局であり、5連敗の完封負けが決まった第5局の終盤はまさに鬼気迫るというか。

 ふだんは棋士らしく穏やかに見える誠也の顔がどす黒く染まり、頬はこけて見え、でも目だけは射貫くよう盤上に注がれている。

 嗚呼、すごいな、と思った。これを一言で表現するなら、誤解を恐れずに言えば、

 

 「殺人者の目」

 

 もちろん、現実にナイフを突き立てられることはないが、まるで昭和刑事ドラマに出てくる犯人のような、ギラギラしたものが発散され迫力だ。

 その姿を見て思い出したのは、亡くなった村山聖九段の言葉。

 映画にもなった『聖の青春』などで、最近のファンでも知ってる方は多いだろうが、この天才棋士が将棋雑誌のある文章で、こんなことを書いていたのだ。


 対局前は無心か、相手を殺す、このどちらかの気持ちだ。体調の悪いときはだいたい殺すという気持ちが強い。初めは倒すという感じだったが、それでは生ぬるい。


 四段昇段の記か、なにかの自戦記だったか忘れてしまったが、いわくいいがたいインパクトを残す一文である。

 子供のころ初めて読んだときは、

 

 「【殺す】なんて不穏な言葉を使ってええんやろか。スペクトルマンやないんやから」

 

 なんてゾッとしたものだが、あの近藤誠也の戦いぶりを見て、頭に浮かんだのが、まさにこの村山の「殺意」だった。

 彼は村山聖とちがって健康体だろうが、問題の本質はそこではない。

 「体調」を「形勢」に変えれば、おそらくは多くの棋士が似たようなものなのではあるまいか。

 テニスのノバクジョコビッチラファエルナダルロジャーフェデラーら「ビッグ3」も、ふだんは紳士だがコートの上では「猛獣」にたとえられ、「殺しに来る」という表現はよく使われるのだから。

 負けた将棋でこんなことを言われるのは、近藤誠也も不本意だろうが、それでもいわく言いがたいインパクトを残したのは確か。

 こういうのを、これからもたくさん見たいものだ。

 新時代の将棋も、なかなかにアツいぜ。

 

 (近藤誠也の見せる殺気は→こちらから)

 

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将棋の団体戦がもっと見たいぞ! 第3回アベマトーナメントとフィッシャー・ルール

2020年12月09日 | 将棋・雑談

 団体戦はおもしろい!

 という認識を再確認させてくれたのは、言うまでもなく、あの企画からである。

 少し前の話になるが、アべマがやってた「フィッシャー・ルール」によるトーナメント戦は、おもしろかった。 

 最初はこのルールだと、終盤なんかはメチャクチャになってしまうのではと危惧したが、そこはさすがプロで、激しい競り合いが何度も見られて興奮したもの。

 たしかに、精度の点などでは、持ち時間が長い対局と比べると話にならないだろうが、その分、時間がなくなったときのたたき合いは、まるで格闘技のような迫力。

 棋士たちの息遣い、残り1秒のスリルと、パンパンというリズミカルなボタンの音。あれは将棋を知らない人でも、けっこう楽しめるのではないか。

 そういえば、昔、先崎学九段のエッセイで、10分切れ負けのたたき合いを、将棋にくわしくないはずの女性が、食い入るように観戦していたという描写があったっけ。

 個人的に印象的だったのが、序中盤での駆け引きで、挽回不可能ながついてしまうケース。

 時間もないし、対戦相手や先後がめまぐるしく入れ替わる戦いでは、入念な準備などできるはずもなく、どうしても突発的なワザやパンチが入りやすい。

 将棋ファンからは、

 

 「最近の将棋は序盤の研究が進みすぎて、つまらない」

 

 なんて意見も昔からよく聞くが、現実問題として、ある程度の研究はしておかないと、あっという間に大差になってしまうこともあるのだなあと実感。

 「均衡を保つ」というのが何気に、ものすごくむずかしく神経を使う作業であることが、よくわかるルールでした。

 普段と違う将棋だからこそ、そんなところを再認識できたのも興味深い。

 あと、これはやっぱり思ったけど、団体戦って楽しいんだよなあ。

 私は昔から、エキシビションでいいから、団体戦をもっとプッシュしてほしいと思っていた。

 テニスデビスカップもそうだけど、個人競技の中の団体戦というのは、たしかにちょっと違和感もあるけど、それはそれで燃えるものなのだ。

 昔、『将棋世界』で東西対抗の団体戦をやって、これが里見香奈倉敷藤花が、若手バリバリだった村山慈明五段に完勝したりとか。

 勝負も最終の大将戦久保利明棋王・王将渡辺明竜王)まで突入したこともあって、熱くいい企画だったんだけど、その後のタッグマッチ双龍戦」がイマイチだったせいか、次の展開はなかった。

 このときも、関西では棋士たちにチーム感があって、かなり盛り上がったそうだけど(大将戦では「久保先生、勝ってくれ!」と祈る奨励会員もいたという)関東の方では、渡辺明名人や広瀬章人八段のように、

 

 「関東は人数も多いし、仲のいい棋士はいても、チームの仲間という感じではない」

 

 なんてクールな意見が多く、今回の企画も若手チームリーダーの世代では、ちょっと温度差があったよう。

 これには思わず松岡修造さんのように、

 「もっと熱くなろうぜ!」

 と訴えかけたくなったもの。

 

 

 

 2009年から翌年にかけて『将棋世界』誌上で行われた、「東西対抗フレッシュ勝ち抜き戦」の最終局。

 出場選手は西が豊島将之、里見香奈、稲葉陽、糸谷哲郎、山﨑隆之、久保利明。東は村山慈明、矢内理絵子、佐藤天彦、広瀬章人、阿久津主税、渡辺明の豪華版。

 両チームゆずらずフルセットでの大将戦という、最高の盛り上がりを見せたが、図から▲64飛が気持ちのいい決め手。

 △34の金取りと、▲61飛成の両ねらいがあるが、△同角は▲22角成で詰んでしまう。

 以下、△25金に▲34飛で渡辺が投了し、西チームの勝利が決まった。

 

 私自身、団体行動が苦手で、明らかに個人競技向けの人間なんだけど、だからこそ、あこがれがあるのだろう。

 やっぱ、アベマ見てたら、団体戦はいいよ。もっと、やってほしい。

 元旦にチーム渡辺とチーム佐藤康光でスピンオフ企画もやるそうだけど、すごい楽しみ。

 テニスのレーバーカップや、自転車ロードレースのハンマー・シリーズのような、ふだんのツアーとは違う、独自のシステムで、どんどん将棋も見せ方の可能性を増やしてほしいものだ。

 

 

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「ハスラー」と呼ばれた女

2020年12月06日 | スポーツ

 「おまえ、ハスラーだな! そうか……ハスラーだったのか……」

 そんな、映画『ハスラー』の有名なセリフをマネしてみたくなったのは、クラブ合宿の夜であった。

 高校生のころ某文化系クラブに在籍しており、そこでは夏になると合宿に行くというのが恒例行事だった。

 うちは練習なども、結構しっかりやるタイプのクラブだったが、この合宿は完全に遊び。

 海で遊んで昼寝して、陽が落ちればみんなで肝試し、花火にサバイバルゲームとか。

 女子部員もたくさんいて、ふだんはイケてないボンクラ男子部員たちには、身に余るさわやかなイベントであった。 

 そんな中、もっとも盛り上がるイベントというのが、夜のゲーム大会。

 部員が各組に分かれて「大富豪」「花札」「モンスターメーカー」(なつかしい!)「スピード」「インディアン・ポーカー」などなどで朝まで戦うのだ。

 酒も煙草もなければ、ドラッグや不純異性交遊にも無縁という(当たり前だ)健全な場であったが、逆に言うとシラフだからこそ

 「ガチの頭脳戦と心理戦」

 を楽しめるともいえるわけで、勝てば「神の子」「皇帝」という待遇だが、負ければ「負け犬」「くそ虫」としてあつかわれるという、まさにプライドをかけた負けられない一戦なのである。

 そんな私が、対決の場に選んだのが「ナポレオン」のテーブル。

 「ナポレオン」とは「コントラクト・ブリッジ」に似たゲームだが、そのとき1位だったのが、ポコ先輩という人であった。

 これがおどろきの結果で、部内が騒然となったのだが、その理由としてはポコ先輩がどう見ても「勝負師」タイプではないこと。

 顔も体形も丸っこく、さらに丸眼鏡までかけているという、ゆるキャラみたいなひと。

 将来は保母さんとか絵本作家とかになりそうなイメージで、どう考えても「ガチのゲーム大会で2位以下をぶっちぎる」人には見えないわけだ。

 

 

 

      こういう感じの人 

      (写真は大阪府東大阪市石切のゆるキャラ『いしきりん』)

 

 

 

 ところがこの人が、もうとんでもなく強かった。

 なにがすごいって、その洞察力とポーカーフェイス。

 この「ナポレオン」というゲームのキモは「副官」の存在にあり、親であるナポレオンはこの副官とともに、子である「連合軍」と戦うのだが、この副官がだれであるのかは、連合軍はおろかナポレオンにもわからない。

 つまりはだれが味方で、だれが敵なのかわからないままゲームが進み、副官は連合軍には見破られないようにナポレオンをサポートしながら、どこで正体を現すかとか、そのかけ引きがメチャクチャにおもしろいのだが、これがポコ先輩にあうと、みなまるでかなわないのだ。

 たとえば、ポコ先輩が「副官」になると、まず正体を見破れない。

 いつもニコニコ。ゲームも「勝っても負けても、ウチはどっちでもええんよ」という空気感を出し、

 「もー、先輩、やる気出してくださいよー」

 なんて笑ってると、最後にしれっと「副官指令」のカードが飛び出してきて、のけぞることになる。

 ええええ! アンタが副官やったんですかあああああ!!!!

 とにかく、ずーっとニコニコフワフワしながら、まったく周囲に警戒心をあたえることなく、いつのまにか全員を裏切っている。下手すると、ナポレオンすら最後までダマしてしまうことも多々。
 
 彼女の恐ろしさはこれだけではない。ナポレオンになったときも、どういうマジックかすぐさま「副官」がだれかを見破ってしまい、圧倒的有利にゲームをすすめる。

 こっちの困惑をよそに、先輩はやはり絶好調で、彼女が敵に回るとまず勝ち目がない。

 あまつさえ「ナポレオン兼副官」になったときには連合軍が、全部の札を取られてパーフェクトを喫するなど惨敗。ムチャクチャ強いがなァァァァァ!!!

 こうして夏の夜のゲーム大会はポコ先輩の圧勝で幕を閉じたのだが、これが今でも謎なのが、

 「ポコ先輩が本当に強いのか」どうか。

 あんなニコニコと、なにも考えてなさそうな人が、こんな勝負に強いわけなさそうなんだけど、結果はぶっちぎりである。

 でもそれは、ただのまぐれやビギナーズラックのようにも見え、それだってもしかしたら「巧妙なポーカーフェイス」やもしれず、けどそれってホンマなんかいななど、もう部員の解釈もバラバラ。

 疑心暗鬼は深まり、今でもなにが真実なのかは闇の中。

 ホント、どっちだったんだろう。いやマジで、今こそ再戦を申し込みたい。今度は絶対勝つッス。

 

 

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「不思議流」「受ける青春」の大トン死 中村修vs脇謙二 1984年 昇降級リーグ2組(B級2組順位戦)

2020年12月03日 | 将棋・ポカ ウッカリ トン死

 将棋の「受け」というのは、大変な作業である。

 前回は羽生善治九段の見せた、あざやかな振り飛車のさばきを紹介したが(→こちら)、今回は受けのワザをいろいろ。

 攻めというのは、失敗してもリカバーがきくことが多いが、受けは守備陣や玉の近くが食い破られると、その瞬間どうしようもなくなることがある。

 私もたまに自分で指すと、受け将棋というか、正確には

 

 「策もなく漫然と駒組をしていたら、いいタイミングで仕掛けられて、いきなりつぶされそうになって大あわて」

 

 という棋風なので(←そんな棋風はない!)、耐えて、ねばって、ようやっと光明が見えたと思ったらミスが出て、一瞬ですべてが水の泡という経験は枚挙に暇がない。

 私がショボいのは別としても、受けが神経を使うのはトッププロでも同じようで、今回はそういう将棋を。


 1984年、第43期昇降級リーグ2組(現在のB級2組順位戦)。

 中村修六段と、脇謙二六段の一戦。

 このとき脇は23歳で、中村は21歳

 開幕戦から昇級候補同士の対戦で、なかなかきびしい当たりだが、将棋のほうもその通りの大激戦になる。

 中村修の著書である『不思議流実戦集』(私が初めて買った現役プロの本でもある)にも収録されたこの一局は、相矢倉から後手の中村が、穴熊にもぐる展開に。

 脇が先手番らしく攻めかかると、中村はそれをめんどう見ながら、着々とカウンターの態勢を整えていく。

 むかえた、この局面。

 

 

 中村が△67銀と設置したところ。

 激しい攻め合いで、形勢は難解だが、後手がやや有利。

 先手はピッタリした受けが見当たらないため、攻め合いに活路を見い出したいが、こういうときまず確認しておきたいのは、ここから自陣がどれだけ耐えられるか。

 放っておけば後手は、△78銀打とつないでくるが、この瞬間がなんでもない。

 次に△79銀不成と取られても、▲97玉と上がると、△88銀打△88角と打たれないかぎり絶対詰まない、俗に「ななめゼット」と呼ばれる形にできる。

 つまり先手玉は「三手スキ」になっているわけで、その間に後手玉を仕留めてしまえば勝ちだが、を渡せないという制約もある。

 そういったことを頭に入れたうえで、脇は▲34歩と攻めかかる。

 △同金なら▲23銀と放りこんで寄りそうだが、中村は△24金拠点をはらう。

 

 

 

 これが金を犠牲に、攻めのスピードダウンを図る終盤の手筋。

 ▲24同角△64角が、質駒のを取りながらの、詰めろ飛車取りで先手負け。

 かといって、▲同飛は攻めの手掛かりがなくなり、後手陣にせまる手が思いのほか見えない。

 まさに「終盤は駒の損得よりもスピード」だ。

 そこで脇は▲36桂と打つ。

 金を取れないのはくやしいが、とにかく後手玉に王手がかかる形を、作りたいということだ。

 後手は△34金と逃げるが、▲12歩と追撃。

 玉を危険地帯に誘い出して、王手のかかる形にする思想の継続だ。

 △12同玉に、▲35銀とからみつく。

 中村はここで、切り札の△64角を発動。

 

 

 

 を補充しながら、▲同角と角の利きを玉頭からそらし、さらには△92にいる飛車横利きも通ってくるという、一石三鳥の手。

 ▲64同角に、ここで満を持しての△78銀打が入った。

 設置されていた時限爆弾の針が、ついに動き出す。
 
 盤面左下から、警告音が鳴りまくる中、必死の脇は▲34銀と取る。

 これが▲24桂からの詰めろで、先手玉に詰みはないとなれば、勝てそうにも見える

 対して中村は、一回△79銀不成と取って▲97玉に、次の手がまた好手だった。

 

 

 

 

 △23金打が、ふたたび終盤の手筋。

 詰めろを防ぎながら

 「ナナメ駒をください」

 という催促で、先手が困っている。

 ▲同銀成には△同歩で、自動的に先手玉が詰めろになって、受けても一手一手。

 を渡せない先手は金を取らず、単に▲45角と、きわどくつなぐ。

 どこかで▲24桂の一発をねらうが、やはり△33金打と強引にチャージをかけられて、いよいよ手がなくなった。

 

 

 

 玉頭戦で怖い形だが「受ける青春」中村修にかかれば、なんのこれしき、といったところだろう。

 やむを得ない▲33同銀成△同金直で、とうとう受け切りが見えてきた。

 先手玉は△88銀打に、▲98玉でまだギリギリ耐えているが、もう一枚も駒を渡せない。

 歩があれば▲24歩だが、あいにくの歩切れで、まさに「歩のない将棋は負け将棋」。

 手段に窮した脇は、▲14香と特攻をかける。

 

 

 

 虎の子の一歩を取りに行って、部分的には筋だが、△34歩と受けて後続手がない。

 そこで▲24歩が、詰めろでもなんでもないのだから。

 ところが、ここまで完璧な受けを見せていたはずの中村が、まさかのミスを犯してしまう。

 

 

 

 「最後のお願い」に△14同香と取ったのが大悪手

 すかさず、▲13歩とたたいて、なんと後手玉は詰んでいるのだ!

  △同桂▲23飛成と飛びこんで、△同歩に▲24桂と捨てるのが、詰将棋のような華麗な一着。

 

 

 

 △同金に、▲21銀まで中村が投了。

 以下、△同玉に、▲54角と出る手があって、ピッタリ詰んでいる。

 たしかに、▲14香△同香▲24歩なら、そこで△34歩と打てばが手に入るから、より明快なように見える。

 それがだったのだ。

 中村は終始、▲36を使わせない作りで、受けていたはずなのに、最後の最後でカッコよく、▲24桂と跳ねられて詰まされるとは……。

 まさに受けのむずかしさを表わす将棋で、中村修ほどの達人でも、こういうことがあるのである。

 

 (近藤誠也と羽生善治の詰むや詰まざるや編に続く→こちら

 (脇謙二の米長邦雄との名局は→こちら

 

 

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