1990年ワールドカップ イタリア大会決勝 アルゼンチンvs西ドイツ&王貞治

2018年04月29日 | スポーツ

 ワールドカップ決勝戦といえば、思い出深いのは王貞治さんである。

 というと、野球ファンの方から、



 「あれは感動したなあ。あの強豪キューバ相手に勝った2006年でしょ」



 なんて熱く語られそうだが、そのことではない。

 私が語るのは1990年の決勝戦であり、いやいやそんな昔にWBCはないっしょ、と言われれば、それはその通りで、これは野球ではなくサッカーの話なのだ。

 舞台はサッカーW杯1990年イタリア大会

 というと、私と同世代くらいの方はニヤリとされるのではないか。

 なんとこの決勝戦のテレビ放映時、王貞治さんが特別ゲストとして実況席に招かれていたのである。

 サッカーのワールドカップに、元野球選手が出演。しかも、超がつく大物

 どういうチョイスなのか、当時でも違和感バリバリであった。

 なんで、こんなことになったのかといえば、今となっては考えられないことだが、当時の日本では、サッカーなどカポエラやポートボールにもおとる「ど」のつくマイナースポーツであったから。

 日本のW杯出場など夢のまた夢。Jリーグはまだなく、名作マンガ『キャプテン翼』の第一話では、大空翼君が「サッカーやろうよ!」というと変人あつかいされてハブられていた。

 そんなサッカー受難の時代だったので、

 

 「ゲストに大物野球選手」

 

 という売りで大衆の興味をひこうとしたのだろう。

 迷走感はバリバリだが、そういう時代だったのだ。

 そんな夢のサッカーと野球のコラボ企画だが、果たしてそんなものはうまくいくのか。

 王さんにサッカーを語れといっても、困るのではないかという声もあろうが、その危惧はかなり正しいものとなった。

 実際のところ、この「ゲスト王貞治」はかなり不思議な空気を醸し出していた。

 サッカーに関しては予想通りずぶの素人の王さんは、西ドイツ(これも時代だなあ)やアルゼンチンの選手が、どんなスーパープレーをしても、技術的にも思い入れ的にも、語ることなどないだ。

 まあ、ブッキングがそもそもおかしいのだから、王さんがうまく対応できなくても責任はないんだけど、なにやら気まずい空気が流れていたことはたしかだ。

 また、そのおかしさを助長させていたのが、実況の持っていき方。

 サッカーの素人、しかしスポーツ界では大御所どころか国民栄誉賞という超ビッグマンという、ふり幅が大きすぎるゲストをむかえて、アナウンサーもどうしていいのかわからなかったのだろう、話の振り方が

 むりくりに野球に例えようとするのだが、テニス卓球とか、柔道レスリングとか、多少似たようなところがある競技ならともかく、本質的に全然ちがうサッカーとベースボールでは、かみあうわけがない。



 「王さん、今の選手の動きはまるで野球のようですね」

 「王さん、野球は9人ですが、サッカーはそれより2人多い。なにかちがいは感じますか?」

 「王さん、野球には満塁ホームランという一発逆転がありますが、サッカーにはありません。そのあたりはどうお考えですか?」



 細かいところは適当だが、まあこういった内容のものばかり。

 話がつながってない。無茶ぶり方が、すさまじいではないか。

 もう私など、90分間ひたすらテレビの前で、



 「知らんがな」

 「どんなフリや!」

 「野球は関係ねーじゃん!」



 などと、つっこみを入れるのにいそがしく、試合内容がまったく入ってこなかったもの。

 スポーツ中継に芸人さんや旬のアイドルを呼ぶのは、正直ちょっとと思うことも多いのだが、その最たるである。

 ただ、偉いと思ったのは、王さんの対応

 普通なら、こんなトンチンカンなやりとりには、それこそ

 

 「なんや、この仕事は! ナボナはお菓子のホームラン王やぞ!」

 

 なんてムッとしたりしそうなところだが、ひとつひとつの質問に苦笑いしながらも、



 「ええ、同じスポーツとして共通するところは多いですね」



 みたいな、それなりの答えを返しておられたのだ。

 マジメというか、王さん大人やなあ。

 こんなこともあったので、ワールドカップ決勝戦といえば、私にとって思い出深いのは、リオネル・メッシでもアンドレス・イニエスタでもなく、王貞治なのだ。

 なぜかYouTubeに映像がなかったから(前はアップされてた記憶があるんだけど)、ロシア大会開幕前にでも再放送してもらいたいものだ。

 「世紀の大凡戦」と酷評された試合の方より、よっぽど王さんの方がステキです。




 ★おまけ 王貞治ファンといえば、この人。《コンバットRECさんによる【アイドルとしての王貞治】特集》は→こちらから



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連休にイタリアの児童文学はどうでしょう ジャンニ・ロダーリ『猫とともに去りぬ』

2018年04月25日 | 

ジャンニロダーリ猫とともに去りぬ』を読む。

イタリア文学というと日本ではさほどなじみはない印象だが、幻想文学ではイタロカルヴィーノ

 また『薔薇の名前』で、ヒットをかっとばしたウンベルトエーコなどなど、なかなかの実力者を擁している。

ジャンニ・ロダーリもそのひとりで、イタリア児童文学界の重鎮。

 この短編集も、主に子供向けに書かれたっぽいものだが、ページをめくるとなかなかどうして、大人が読んでもいけるクチである。

 ロダーリの武器は、そのフワッとしたユーモア。

 いわゆる大人の童話というか、やさしいホラ話というか、のほほんとしたボケがツッコミなしでフワフワとただよう、なんというのか「ええ塩梅」な物語たちなのだ。

 家に居場所がなくなったおじいさんが、になって第二の人生を過ごそうとする表題作をはじめ、この本に出てくる人たちは、とにかく独特なのだ。

 その設定からして不思議で、



 ★重量挙げの大会に出るのに、寝坊してはいかんと「急いで寝過ぎて」古代エジプト時代に目を覚ましてしまった男。
 

 ☆水没の危機に瀕した街で

 「じゃあ、みんなでになってしまえばいいんじゃね?」

 と決心して、水の中で暮らすようになった家族たち。



  ★銃の代わりに、ピアノで決斗するカウボーイ。

 

 なんか、おかしくて、かわいいのばっかり。

 「急いで寝すぎて過去に目を覚ます」って、すごい発想だよなあ。

 一番のお気に入りは『恋するバイカー』。

 文字通り、日本製バイクに恋した、金持ちのボンボンが主人公。

 世のマニアオタクと呼ばれる人は、その興味の対象を語るのに「恋する」と表現することはあろうが、この青年は本当にガチで「異性として」恋しちゃうのだ。

 なんたって、結婚まで決心してしまうというのだから、マジもマジも大マジメ。

 当然のこと、父親をはじめ周囲から大反対

 だが、そんなことで熱い想いを止められるはずもなく、恋する青年はついには「左のチェンジレバーのミーチャ」に乗ってかけおち(!)してしまい……。

 というドタバタ喜劇。

 トボけててバカバカしくて、それでいて読後感はほっこり幸せという薫り高い一品。もう読んでて、ニコニコが止まりません。

 この中で描かれる親子のやりとりが、私は大好き。

 ロダーリの持つ独特のフレーバーを、もっともよく表しているのではないかと思うので、ここに引用して本日の幕としたい。

 ステキな社長令嬢と結婚させたがっているパパとママに、キッパリと断りを入れる息子のセリフがコレ。



 「嫌だよ。バックミラーがないもの」

 

 

 

 

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モンテカルロ・マスターズ2018決勝 土の王者ラファエル・ナダルvs錦織圭の展望

2018年04月22日 | テニス
 「おい、このラファエル・ナダルとかいうヤツなんや! 独禁法違反で逮捕やろ!」

 昨日の夜中、そんな電話をかけてきたのは友人ヒシエ君であった。

 ラファエル・ナダル。いうまでもなく、テニスの世界ナンバーワンとして君臨し、もうすぐ開催されるフレンチ・オープンでも優勝候補の筆頭としてあげられる、スペインのスーパースターだ。

 それを「逮捕」などおだやかではない話だが、友の言いたいことというのはもちろんのこと、現在行われているテニスのモンテカルロ・マスターズの件だ。

 昨日の試合で、われらが錦織圭が、ドイツ若手のホープであるアレクサンダー・ズベレフをフルセットの末破って、見事決勝に進出したのだパチパチパチ。

 昨年から、ケガで長らく戦列を離れていた錦織選手だが、クレーシーズンに入って見事な復活を遂げた。

 ここ数年、安定したトップ10プレーヤーとして君臨した彼だが、いまだマスターズのタイトルがないというのが課題のひとつであり(準優勝が3回)、このたび2016年のカナダ以来、ひさしぶりにチャンスが巡ってきたのだ。

 と、そこは日本人ファンとしては気合が入ろうというものだが、ここにひとつ、その気持ちに水を、それもコップではなくナイアガラの瀑布レベルで大いにさしまくってくる男がいるのである。

 そう、反対の山から決勝にあがってきた、ラファエル・ナダルのことだ。

 まあ、テニスファンならクレーでのラファといえば、その恐ろしさは身にしみているが、ヒシエ君はそんなにテニスを見る人ではない。

 たまたまテレビをつけたら「錦織、決勝進出」とあって、

 「おお、日本人選手ががんばってるやないか。こら、明日の決勝も見ねばなるまい」

 となり、そこはテニスにくわしくない彼のこと。

 「で、この相手のナダルとかいうのはだれや。なんか強いって聞いたことくらいはあるけど、ま、天下の錦織圭なら勝てるやろうけどな」

 と、温泉気分でグーグル検索したら、世にも恐ろしいものが次々とはじき出され、あたかもジーパン刑事のごとく「なんじゃこりゃあ!」と、テニスファンの私に電話してきたわけだ。

 あー、ラファのすごさを知らずにあれを見たら、そら腰もぬかしますわな(笑)

 ラファといえば、生涯グランドスラム達成やオリンピックの金メダルなど、様々なサーフェスの大会で勝っているが、そのホームはやはりクレーコートにある。

 その勝ちっぷりはすさまじく、いまだに土のコートでの勝率は9割を超えている(!)というし、このクレーシーズンの歴代チャンピオンを見ても、それはハッキリと伝わってくる。

 たとえば、2005年から2012年までの、モンテカルロ・オープンの歴代優勝者を見てみよう。


 2005年 ラファエル・ナダル
 2006年 ラファエル・ナダル
 2007年 ラファエル・ナダル
 2008年 ラファエル・ナダル
 2009年 ラファエル・ナダル
 2010年 ラファエル・ナダル
 2011年 ラファエル・ナダル
 2012年 ラファエル・ナダル



 怒涛の8連覇。この間、無敵時代のロジャー・フェデラーが3度決勝で吹っ飛ばされている。

 このせいで、テニス界のすべての栄誉を手に入れていたはずのロジャーが、いまだモンテカルロのタイトルが取れていない。なんたる不条理。

 2013年以降、ラファはケガと不調に苦しんで、その間にノバク・ジョコビッチとスタン・ワウリンカが「ようやくかよ!」といった感じで優勝者に名を連ねるが、2016年と2017年はまたもラファが優勝。

 決勝の相手は、ガエル・モンフィスにアルベルト・ラモス=ビノラスと曲者ぞろいだったが、試合内容も盤石で、まったく危なげがなかった。

 クレーシーズンの大きな大会といえば、この次は錦織圭も優勝経験のあるバルセロナ・オープンだが、ここでの優勝者も、


 2005年 ラファエル・ナダル
 2006年 ラファエル・ナダル
 2007年 ラファエル・ナダル
 2008年 ラファエル・ナダル
 2009年 ラファエル・ナダル
 2010年 フェルナンド・ベルダスコ
 2011年 ラファエル・ナダル
 2012年 ラファエル・ナダル
 2013年 ラファエル・ナダル


 
 やはりズラリとラファが並んで、2014年と2015年は見事錦織圭が連覇したものの、次からの2年はまたもラファ。

 クレーのマスターズの締めくくりであるローマ国際ではといえば、


 2005年 ラファエル・ナダル
 2006年 ラファエル・ナダル
 2007年 ラファエル・ナダル
 2008年 ノバク・ジョコビッチ
 2009年 ラファエル・ナダル
 2010年 ラファエル・ナダル
 2011年 ラファエル・ナダル
 2012年 ラファエル・ナダル
 2013年 ラファエル・ナダル



 クレーシーズンの総本山ともいえるフレンチ・オープンはといえば、


 2005年 ラファエル・ナダル
 2006年 ラファエル・ナダル
 2007年 ラファエル・ナダル
 2008年 ラファエル・ナダル
 2009年 ロジャー・フェデラー
 2010年 ラファエル・ナダル
 2011年 ラファエル・ナダル
 2012年 ラファエル・ナダル
 2013年 ラファエル・ナダル
 2014年 ラファエル・ナダル

 

 ようやっと、2015と16はスタン・ワウリンカ、ノバク・ジョコビッチが勝ったと思ったら、昨年はまたラファが優勝。しかも、7試合すべてストレート勝ちの完全優勝。

 決勝で戦ったスタンは、まさに「手合い違い」といった差をつけられて負かされた。まさに「おととい来い」といったところであった。

 いかがであろうか。こんなもん見せられたら、クトゥルフ神話のごとく恐怖で発狂するか、銭形のとっつぁんの口調で、「ラファ~、独占禁止法違反で逮捕だぁ!」といいたくなりそうなものではないか。

 昔のソ連や中国なら、まちがいなく処刑か労働キャンプ送りであろう、この富の独り占め状態。それくらい圧倒的な偏り。

 勝ちすぎだよ。よく飽きないなあ。すごすぎて、思わず『あずまんが大王』のともちゃんの口調で、

 「え? これって、ギャグ?

 と、たずねてしまいそうではないか。

 よく、マンガなどで巨大組織をバックにした悪者が、

 「われわれにたてつくなど、アリが象に戦いをいどむようなものだ」

 なんて笑うシーンがあったりするけど、蟻ってことはないにしても、ことクレーでのラファエル・ナダルに関しては、「人が熊にいどむ」くらいの体格差はありそうだ。

 今年の大会でも、伸び盛りのドミニク・ティームが0-6・2-6の鼻息プーで吹き飛ばされたのだから、バケモンである。私だったら、試合なんてしたくないよ。

 でも、上を目指すには、そういう相手に勝たなければならない。それも「いい場所で」だ。

 その意味では、苦しいとはいえ、やはり大きなチャンスであることは間違いない。「勝て」というには大きすぎる相手であるが、ここでどんなテニスを見せられるか、錦織圭の真価が試されるとも言えそうだ。

 恐怖に震えるヒシエ君同様、私も今から決勝戦が楽しみなような、コワイような……。



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映画『レディ・プレイヤー1』は、アーネスト・クラインの原作『ゲームウォーズ』の方もおもしろいぞ その2

2018年04月19日 | オタク・サブカル
 前回(→こちら)に続いて映画『レディ・プレイヤー1』の原作である、アーネスト・クライン『ゲームウォーズ』について。

 「リアルでは冴えないオタクだけど、仮想空間でのボクは伝説の海賊王なんだぞ!」

 という、『マトリックス』や『のび太の宇宙開拓史』から昨今の異世界ものなどに通じる「ボンクラ作品」の典型のような小説だが、なかなかどうして、そんな「オタクの妄想」だけでなく、ストレートな青春冒険小説としてもよくできている。

 アクションやロマンスなど、娯楽の王道をひた走る本作品だが、それと同列に語られるべき魅力がもうひとつあり、それが全編にちりばめられた濃いオタクネタ。

 作者はたぶん、私より歳はちょっと(5歳くらい?)上なんだと思うけど、世代的にかすってるところがあるからか、結構そこも楽しめた。

 ここでまず言っておきたいことは、別にここに出てくるオタクネタがわからないと、小説自体が楽しめないということはまったくないこと。

 先も言ったが、ストリーラインがしっかりした冒険小説なので、その部分だけでも十分におもしろいのでご安心を。

 現に私も、この本の中で音楽やアメコミ、向こうのテレビドラマやアタリのゲームに関してはよくわからないけど、そういうところは、まあ雰囲気だけ感じてさっと流せばいいと思う。

 では私が反応するのはどこなのかと問うならば(以下ネタバレほどではないけど、軽く中身を語っちゃいます)、これが「特撮」「テーブルトークRPG」「ナムコのゲーム」あたりであろうか。

 あと、ジョン・ヒューズの青春映画とか。『フットルース』は、この本読む少し前にたまたまテレビでやってるの見たのだった。めぐりあわせが良かった。

 『D&D』は中学時代、友人たちとよく遊んだけど、まさかこんなところで濃い再会を果たすとは。

 日本では、結局メジャーになりきれてないのが残念だ。やはり山本弘さんがいうように、

 「『ロードス島戦記』のリプレイ出版の許可を出さなかった」

 ところが分岐点になったかなあ。

 今でも文字通り「伝説」なんだよね、あの連載。私は古本屋で『月刊コンプティーク』探して、飛び飛びではあるけど読んだけど。今からでも出せないもんか。買う人、全員同世代になりそうだけど(笑)。

 ナムコは『パックマン』も『ギャラガ』も、自分の時代はすでにレトロだったけど、『ディグダグ』と『ファミリースタジアム』は目から血が出るくらいやった。『ファミリーテニス』の持ちキャラは「びょるぐ」。『ドルアーガの塔』を無限ループできる友人がいる。

 あとメガドラ派だったので、『マーベルランド』とか。おもしろいんだけど、目がチカチカするんだ。おい、ウェイド、オレと『レッスルボール』で勝負しようぜ!

 ジョン・ヒューズ作品は、当たりはずれもあるけど、ボンクラ男子必見の映画ばかり。とりあえず、『フェリスはある朝突然に』と『恋しくて』は、血を売ってでも観ておけよ! 5回見て、次会ったとき感想聴くからな!(←これが文化系の「かわいがり」です)

 一番ツボをつかれたのが、主人公が巨大ロボットをもらうシーン。

 仮想空間「オアシス」の中では、アニメなどでおなじみのメカの本物に乗ることができるわけで、まさに男子の本懐。夢の究極といっていい。

 そこには「鉄人28号」「マジンガーZ」「ジャイアントロボ」といった古典から、「ガンダムのモビルスーツ各種」「エヴァンゲリオン」まで、新旧ズラリとそろえられている中、さりげなく

 「ジェットジャガー」

 ここを読んだ私の爆笑と感動を想像してほしい。

 ジェットジャガー! ようこんなんいれたな!

 しかも、これが

 「ガンガル」「ステカセキング」「ジェットジャガー」

 みたいな並びじゃなくて、普通に、

 「ヤマト」「ライディーン」「ジェットジャガー」「ゲッターロボ」

 てな並びなの。ものすごく、さりげなく挿入してるところがセンス抜群。

 ちがう! ジェットジャガーは、そんないいメカにはさまれるようなタマやない!(笑) 
 
 アーネスト、わかってるなあ。学生時代に自主映画で、道着を着たジェットジャガーが山籠もり中のマス大山と戦う『ジェットジャガー師匠 特撮空手番長』というシナリオを書いた身としては(そんなん書くなよ)、もう大満足です。

 このラインアップは「巨大ロボット ジェノバ」があったら、もっと良かったけど。というか実写化の主人公、杉作J太郎さんがよかったなあ。

 ちなみに私が乗るなら「量産型ザク」かな。『プラモ狂四郎』世代なんで、アニメの奴じゃなく、

 「ザクの最高キットといわれる06-Rと旧ザクの部品で作った1/144パーフェクト・ザク」

 でお願いします。ミサイルポッド付きフルアーマーは不要です。「セメントコーティングされて、モーターライズでパワーが3倍になったタミヤのタイガー1型」か、「パーフェクトコンバットビーグル」でも可。

 あとは「ザブングル」も悪くないか。ロボットを「ハンドルとクラッチで操縦」は男のロマン。最初見たときは衝撃でした。

 もうひとつ、ストレートな燃えポイントとして、「あのヒーロー」が登場するところ。

 ダイトウとショウトウのバトルシーンで一度出て、そこもいいんだけど、やはりクライマックス近くのあの決戦。

 日本人としてはピンチといえば「彼」! しかも対戦するのはヤツ! でも2000年代のだって。ごめーん、そっちは見てないわというか、金もらっても見いひん(笑)。

 嗚呼、河崎実や庵野秀明は正しかった。みんな「彼」になりたいのだ。でも、映画化では権利関係がややこしくて出ないとか。あらら。

 そんなこんなで、オタクな人もそうでない人も、とにかくおもしろい『ゲームウォーズ』はとってもおススメです。はやく映画も観に行かないとなあ。




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映画『レディ・プレイヤー1』は、アーネスト・クラインの原作『ゲームウォーズ』の方もおもしろいぞ

2018年04月18日 | オタク・サブカル
 アーネスト・クライン『ゲームウォーズ』を読む。

 数年前に本屋に並んだとき読んでたんだけど、本国アメリカでもバカ売れし、現在スピルバーグが映画化した『レディ・プレイヤー1』も話題沸騰ということで、今回再読してみたが、やはりおもしろかった。


 西暦2041年。革新的なネットワーク〈オアシス〉が張りめぐらされた世界は、深刻なエネルギー危機に陥っていた。多くの人々はそうした現実から逃避するように、〈オアシス〉と呼ばれるコンピュータの仮想世界にのめりこんでいた。

 ある日、〈オアシス〉のコンピュータ画面に、突然「ジェームズ・ハリデー死去」のニューステロップが現れた。ジェームズ・ハリデーとは、〈オアシス〉を開発し、運営する世界的億万長者。ゲーム界のカリスマ的存在だ。

 テロップに続いて、ハリデーの遺書ともいえるビデオメッセージが現れ、〈オアシス〉内に隠したイースターエッグを一番先に見つけたものに、遺産のすべてをゆずることが宣言された―――。


 
 あらすじを見ると、「お、SFじゃん」と目を細める人もいれば、「ライトノベルみたい」と興味を惹かれる人いるかもしれないけど、その印象はズバリ正解。

 設定はバリバリにSFだけど、主人公が冴えないオタクなところとか、文体など物語の雰囲気は、かなりラノベやジュブナイルに近い。

 なんたって、

 「現実ではこんなダサダサだけど、仮想の世界だとボクは最強のカンフー使いなんだ!

 っていう発想は、それこそ『マトリックス』や『ファイトクラブ』(バーチャルではないけど)でわかるような、定型の「ボンクラ少年の理想の妄想」だ。最近なら異世界ものとかね。

 でも、この物語の魅力はそこだけじゃない。

 オタクの自己実現に加えて、そこから「ギークガール」とのロマンスはあるし、「イースターエッグ」をめぐるクエストあり、仲間との熱い友情あり、笑いあり涙ありバトルありアクションあり、最後には男としての成長もある。

 さらにはゲームやマンガなどサブカルチャーのトリビアなどなど、さまざまな燃える要素を詰めこんだ、サービス満点てんこ盛り娯楽小説であるのだ。

 そう、この『ゲームウォーズ』、かなりきらびやかなインターフェイスで彩られているけど、中身は実にストレートな正統派少年青春冒険小説。

 主人公は「冴えないオタク」だけど、物語のノリはむしろ『ONE PIECE』とか『少年探偵団』ものに近い感じ。映画でいえば『インセプション』のノリで『グーニーズ』をやるみたいというか。

 テンポがよく、数々の謎に頭を悩まし、小ネタに笑い、リアルの世界でそれぞれに悩める登場人物たちと一緒に、泣いて笑って転がって、どんどん物語にのめっていくその気持ちよさよ。

 その見せかけとは裏腹に、ストレートな小説としても十分に面白い『ゲームウォーズ』は意外に幅広い世代におススメだが、もうひとつの楽しみはやはり、全編にちりばめられたオタクネタであり、ここもまた読者の「語りたい欲」を刺激してくれるのだ。



 (続く→こちら



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このドイツ文学がすごい! 生野幸吉&桧山哲彦 編『ドイツ名詩選』

2018年04月14日 | 

 第二外国語の選択はむずかしい。

 というテーマで以前少し語ったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」。

 前回はハイネの『流刑の神々 精霊物語』を取り上げたが(→こちら)、今回も私をそんなマイナー街道へと導いた、罪深くもすばらしい作品の数々を紹介したい。

 生野幸吉&桧山哲彦 編『ドイツ名詩選

 ふだん日本語だと、さほどなじみがないが、外国語をやっていると、というジャンルと接する機会がままある。

 小説などとちがって、翻訳だと味わうのがむずかしい詩という表現形式をダイレクトに味わえるのが、語学学習の醍醐味ともいえるだろう。

 私もドイツ語学習者の御多分にもれず、多くの詩を暗唱し暗記したものだが、それには大学の恩師の影響がある。

 ドイツ語学の講義を担当しておられた先生が、ヘルマン・ヘッセ『デミアン』における少年同士のキスシーンや、映画『ベニスに死す』のビョルン・アンドレセンの美しさを語ってくれたことがあった。

 また先生は同時に、学生時代は野球部の先輩お尻がステキだった話も熱く語ってくれて、全体的にやや偏りがある授業だったが、そこで取り上げられたのがドイツの詩について。



 「みなさんは、この4年間に多くのドイツ語にふれると思いますが、散文とともに詩もたくさん暗記してください」。


 そこで、ヘルダーリンノヴァーリスの作品をいくつか朗々と歌い上げると、


 「これらの詩は、おぼえたからといって、別にお金になったりするものではありません。でも、まちがいなく人生豊かにしてくれます」

 

 先生は続けて、

 

 「あなたたちがを取っても、若いときに口ずさんだというのは、いつまでもあなたたちとともにあり、その心を青春のときまで戻してくれるでしょう」。


 ガラにもないことだが、若き日の自分はこれを聴いて、なかなかに感動してしまった。

 そっかー、詩をおぼえてたら、それはおじいちゃんになっても残るものなんやー。

 そもそも文学部に来ようというようなヤカラは、

 

 「金になる」

 「就職に役立つ」

 

 などといった、即物的な発想を軽く見ているもの(いやあ、ホントはメッチャ大事ッスけどねー)。

 そんな生意気な小僧にとって、

 

 「外国の詩を原語で暗唱する」

 

 という、まさに人生においてまったく使い道のないスキルというのは、すこぶる魅力的だった。

 まったくもって、今となっては、

 

 「そんなことよりバイトでもしとけ」

 

 とか説教したい所存だ。

 そもそも文学部に行くなよ。経済学部か商学部行って、合コンとか楽しんどいたほうがいいよ!

 かくして、ロマン派気取りのボンクラ学生は、ここに岩波文庫から出たばかりだった『ドイツ名詩選』を購入。

 冒頭からズラリと並んだ詩の数々を、順番に頭にたたきこんでいったのだ。

 パウルツェラン死のフーガ』をはじめ、モルゲンシュテルンカシュニッツなど、日本ではなじみのない詩にふれられたのは大きな財産だ。

 これに味を占めた私は、そこからもエーリヒケストナー人生処方詩集』や、ゲーテの「君よ知るや南の国」、シラーの『歓喜の歌』など、それらをガツガツと身につけていった。

 若かりしころ歌い上げた、これら豊饒な詩歌の数々は、時を越え、若者とは言えなくなった壮年の私に今も……。

 といいたいところであるが、今回の記事を書くにあたり、のことをあれこれ思い出してみて、気がついたのだった。

 ありゃあ、ワシ、あんときおぼえた詩、もうほとんど記憶にないわわ。

 これには我ながら、スココーンとコケそうになった。

 さほど記憶力の良い方ではないけど、それにしたって全然おぼえてないとはどういうことか。

 おかしいなあ。当時は友人とカラオケに行った際は、酔っ払ってシューベルトの『菩提樹』やベートーベン第9を高らかに歌い上げて、周囲に嫌な顔をされたものだが、さっぱり頭から抜け落ちている。

 うーむ、これにはなんだか、先生に申し訳ない気持ちになってしまった。阿呆ですいません

 ただ、おもしろいなあと思うのは、あのころの「詩」はがらんどうになったけど、「歌詞」の方はおぼえているものが多い。

 ドイツ語の勉強に聴いた、むこうの伝統的な古いの数々。

 原語で「Lied」(「リート」と発音します)といいまして、日本でいえば「ひなまつり」とか「うさぎおいしかのやま」みたいな唱歌にあたるもの。

 これはけっこう、でも歌えるのだ。



 「Freut euch des Lebens」

 「Muss i denn」

 「Rosamunde」

 「Heidi」



 などなど。

 こういう唱歌的なものは、歌詞もメロディーもわかりやすく、自然に口をついてきやすい。


 Freut euch des Lebens,

 weil noch das Lampchen gluht!

 Pflucket die Rose,

 eh sie verbluht!


 おお、これならバッチリ。

 「」は忘れても「歌詞」は残っている。

 要するに私は、昔から「芸術」よりも「エンタメ」寄りの人間のようだ。

 美しさよりも楽しさ。

 まあともかくも、詩というのは、その言語の持つ「リズム感」を味わうのにもっとも適している。

 ドイツ語にかぎらず、外国語を学ぶなら、ぜひとも自分だけの、お気に入りの詩を見つけていただきたい。


 
 ★おまけ ドイツのリートの数々。

 「Freut euch des Lebens」→こちら

 「Muss i denn」→こちら

 「Rosamunde」→こちら

 「Heidi」→こちら


 同世代のみんながチャゲアスやZARDを聴いていた中、私だけこんなんを聴いていたわけだ。変なヤツ。


 (ツヴァイク戦に続く→こちら



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このドイツ文学がすごい! ハインリヒ・ハイネ『流刑の神々 精霊物語』

2018年04月11日 | 

 第二外国語の選択はむずかしい。

 というテーマで以前少し語ったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」。

 前回はハイネの『ドイツ古典哲学の本質』を紹介したが(→こちら)、今回も、私をそんなマイナー街道へと導いた、罪深くもすばらしい作品の数々を紹介したい。

 ハインリヒハイネ流刑の神々 精霊物語』。

 前回の『ドイツ古典哲学の本質』がおもしろかったので、セットで読んでみたが、こちらも大あたり

 ヨーロッパといえばキリスト教文化というイメージが強いが、「野蛮」だった古代ゲルマンなどには実に多様で魅力的な神々妖精などが存在していた。

 それらを「流刑」に処し、ヨーロッパから粛清してしまったのが「一神教」のキリスト教。

 「唯一神」を抱くそれにとって、古代からその土地に根付いた多くの神々は否定されるべきもの。

 また布教の邪魔にもなるということで、その多くが「悪魔」などとして追放された。

 だがその文化的「侵略」を悲しんだハイネは、丁寧にそれらを拾い上げ、慈しみの心でもって読者の前に提示していく。

 一言でいえば、

 

 トールキンからドラクエまで、あらゆる《ファンタジー》世界の元ネタ



 ユピテルオーディンは「悪魔」になり、コボルトエルフサラマンダーなどとの交流は消え去ったが、詩人は決してそれを忘れない。

 日本でいえば、トトロポケモンが「おそろしいモンスター」にされ、京極夏彦さんの小説が禁書

 水木しげる先生は「魔女」として裁判にかけられるようなものか。

 失われた伝説神話を残すというのは、「」を生きる我々のレゾンデートルの根源にかかわる仕事だが、ハイネはその筆の力で見事にそれを成しとげているのだ。

 読めば眼前に広がる、ドイツの森、北欧の海、ギリシャの大地。

 ときに楽しく、ときに壮大で、ときに哀しくも美しい、失われた神々や精霊たちよ!

 ユーモアもふんだんに盛りこまれた文体ながら、全体を通じて感じられるキリスト教の「不寛容」への静かな怒りも盛りこまれているところに、重低音的深みも感じられる。

 ファンタジー的興味のみならず、民俗学比較文化論の観点からも価値の高い本。

 『ドイツ古典哲学の本質』を酷評された小谷野敦さんも、こちらは高評価をつけていますね。おススメです。


 (続く→こちら



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このドイツ文学がすごい! ハインリヒ・ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』

2018年04月08日 | 
 第二外国語の選択はむずかしい。
 
 というテーマで以前少し語ったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」。
 
 前回は(→こちらホフマンの『黄金の壺』を紹介したが、今回も私をそんなマイナー街道へと導いた、罪深くもすばらしい作品の数々を紹介したい。
 
 ハインリヒハイネドイツ古典哲学の本質
 
 10代のころ、読書の手引きとして活用していたものに、早川の『ミステリハンドブック』『SFハンドブック』と並んで、『青木 世界史講義の実況中継』があった。
 
 河合塾の講師であった青木裕司先生の講義録で、「中国共産党長征」について異様に熱く語ったり、戦時中のドイツ日本を激しく批判しながらも、スターリンについては、
 
 
 「いろいろ間違いもやらかしたけど、まあおおむね評価してもいい人物ではないか」
 
 
 みたいな甘々な評価を下していたり(いや「世界史」学んだら、とてもそうは思えませんでしたけどね……)、なにかこう
 
 「わかりやすいなあ」
 
 と笑ってしまう部分もあるが、読み物としてもおもしろいし、中でも「文化史編」は教養のガイドとして活用させてもらったもの。
 
 そこでおススメされていたのが、『ドイツ古典哲学の本質』。
 
 ハイネといえば
 
 
 「情熱の詩人」
 
 「愛を語るハイネのような」
 
 
 といった歌詞に見られる、ロマンチストで熱い人と思われがちだが、実のところはかなりクールな実際家で、詩と同じくらい散文評論方面でも評価が高い。
 
 アマゾンレビューで、小谷野敦さんが酷評(ちょっと「いちゃもん」ぽいけど)しているのが興味深いが、内容はといえばハイネがフランス人のためにドイツ哲学神学を語るという、元はパンフレットのようなものだったらしい。
 
 宗教改革ルターからはじまって、スピノザレッシングカントフィヒテシェリングヘーゲルといった、世界史の教科書でもおなじみの巨人たちを紹介していく。
 
 ハイネの持ち味である平易な文体で語られるそれは、とにかく読みやすくて、それでいて格調高く、サクサク読んでいるうちにドイツ哲学史が頭に入ってくるというスグレものだ。
 
 ただ、リーダビリティーが高い分、ひとつひとつのテーマに対する掘り下げはサラッとしていて、また取り上げる人選の偏りなど、「哲学書」を期待していた人には、やや物足りないかもしれない。
 
 そう、この本は『哲学の本質』として読むと肩透かしかもしれないが、話のうまい先生による「楽しい入門編」としてだと、とたんに輝きを増す。
 
 一言でいえば、「ハイネ ドイツ古典哲学講義の実況中継」。
 
 「哲学なんて重くて難しそう」と敬遠している人に、池上彰先生の番組を見る感覚で、手に取ってもらいたい一冊。
 
 個人的には、スピノザの汎神論についてのところが、日本にも応用効くのではとか思えて興味深かったです。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
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オリンピック映画はこれを観よう! レニ・リーフェンシュタール『民族の祭典』『美の祭典』

2018年04月05日 | 映画

 レニリーフェンシュタールオリンピア』を観る。

 古い映画も好きな方は、ご存じであろう。1936年に開催された、ヒトラー政権下でのベルリンオリンピックの記録映画。

 当時から、小林秀雄も絶賛する映像技術センスのすばらしさのみならず、



 「ナチのプロパガンダでは」

 「いや、それは関係なく、映像作品としても一級品だし、そこを評価すべき」



 などと議論かまびすしかった問題作

 ちなみに『オリンピア』は通称で、正式名称は『民族の祭典』『美の祭典』の2部作。

 まあ、しちめんどさい政治議論は他にまかせるとして、単純に映画としてみると、これは今見ても、すばらしくおもしろいのだからすごいもの。

 本作は1部、2部合わせると約3時間半の大作だけど、観ていても長さを感じない。

 私も昔観て、今回東京つながりで久しぶりに鑑賞しなおしたのだが、



 「長いし、ストーリーものじゃないから、飽きたらちょっとずつ細切れで観よう」



 と作業用のBGM感覚で再生ボタンを押したら、そのまま最後まで走ってしまった。

 馬術のシーンがちょっと冗長なくらいで、それ以外はホントに退屈しないのだから、よほど編集や演出のテンポがよいのだろう。

 オリンピックの花形である陸上競技もさることながら、トリをつとめる高飛びこみの美しさよ。

 様々なアングルから、きたえあげられた体が宙を舞い、華麗な空中回転を決めながらプールに吸いこまれていく。

 こいつが、これでもかと何度も繰り返され、なんとも美しすぎて陶然となる。

 ほとんどドラッグムービー。いつまででも見ていられる。まさに「美の祭典」。

 スポーツは好きだけど、「肉体美」のようなものに興味の薄い私がこうなるのだから、ホントにすごいもんだ。

 そら、いろいろ言われても、レニ評価自体は高いはずや。おみそれしました。

 『第三の男』やチャップリンの喜劇といった「古典」は、理屈ではそのおもしろさやすばらしさはわかっても、どこか時代との齟齬感がかくせない。

 平たく言えば「古臭い」のにくらべて、『オリンピア』はその「昔の名前で出ています」なところがほとんどない。

 実際、これをカラーにしてデジタルリマスターとかでキレイな画面に整理しなおしたら、の作品としても通じるのでは。

 そんなことすら感じさせるほど、レニの才能センスがほとばしっている。

 モロにプロパガンダ映画の『意志の勝利』とちがって(ちなみにこっちも名作なのが困りものですが)、政治色はほとんどありません。なんで、



 「ナチスって、なんか怖い」


 と警戒している人でも、全然大丈夫です。

 それにしても、これに影響を受けたと言われる市川崑の『東京オリンピック』は、なぜにてあんなにつまんないんだろう。

 同じような内容のはずなのにねえ。



 ■おまけ 『民族の祭典』は→こちらから

      『美の祭典』は→こちら



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悩める小僧どもはこれを読め! 北方謙三『試みの地平線』 その2

2018年04月03日 | 

 前回(→こちら)に続いて、北方謙三試みの地平線』の話。

 あらゆる悩みを

 

 「女を抱け!」

 「ソープへ行け!」

 

 を軸に解決に導く先生は、もう男としてはリスペクトするしかないのであるが、こういうやりかたに反発を覚える人というのもいる。

 女性もさることながら、中には生真面目男子もいて、曰く



 「発想が男中心すぎる」

 「質問によって、意見がちがうことがある」

 「自分に酔っているだけ」



 という、あながち的はずれでもない批判が来たりしたそうだ。

 それに対して北方先生は、



 「小僧ども、お前たちのいいたいことはわかる」



 そこは、いったんは受け入れる。

 続けて先生は、「地平線とはなにか」について語る。

 地平線、それは遠くにあり、追いかけても追いかけてもたどりつけない。

 人生もそれと同じだ。だが俺たちはそれでも、あの地平線に向かって走っていこうではないか。

 それが人生ってもんだろ。そうタイトルの由来について語り、そこから



 「それでも文句のあるやつは、直接俺のところへ来い!」



 真の男はで語り合うという。

 すわ! これはを見るのか! 一瞬ドキリとするが、北方先生は



 「ケンカはよくない。だから、アームレスリングで決着をつけようじゃないか」



 うーむ、日本の男は腕相撲だ。ハードボイルドである。



 「まだまだ、小僧どもには負けないぜ(ニヤリ)」



 公言したところ、実際に「一戦交えてください」という男子が、結構な数来たという。

 もちろん、挑戦受ける。さすがはハードボイルドの大家。

 伊達に西原理恵子さんの漫画で、新宿鮫がドン引きするのをよそに、女体盛りにかぶりついていない。

 ところが北方先生、あるときミニコラムの中で、こんなことを書いておられた。


 「もう、アームレスリングを挑んでくるのはやめてほしい」。



 一体どうしたというのか。

 もしかしたら、手の中に画鋲をしこんでくるとか、そんなことをするタチの悪い奴がいたのかもしれない。

 などと想像しながら読んでみると、そこには


 「こないだある若者に負けてしまった」。


 ええええええええ!!!

 北方謙三、アームレスリングで敗北。まさかの展開である。

 敗退の理由は「どうも最近、衰えてきたようだ」という純粋に年齢的なもの。


 「これはから歳のことも考えて、無体なファイトはひかえたい。なので、これからは腕相撲の代わりに握手の腕を出してくれ」



 方針転換を発表。

 素直に敗北を受け入れるあたり、謙三かわいいところもある。こういうところも、男である。

 そんな北方先生に、第二試練がおとずれる。それは読者による、「北方謙三排斥運動」だ。

 これを起こしたのは、前述のような生真面目男子と、ハードボイルドな北方文体に男尊女卑のにおいを感じた女子から。

 

 「北方の連載をやめさせろ」

 

 そう訴える葉書に、先生はすかさず反応。



 「小僧ども、お前たちの気持ちはわかった」



 そこも、いったんは受け入れる。なんというフトコロの深さか。

 だが、先生は語る。

 自分は本気である。本気で、小僧どもと向かい合っている。

 だからこそ、あんな恥ずかしいセリフをぶつけることができるのだ、と強く主張する。

 恥ずかしいセリフ。なるほど、意外とキャラ自覚があった北方センセ。

 たしかに真面目だ。人柄は誠実である。北方先生はそこで



 「わかった、じゃあこうしよう。どうしても俺を追い出したかったら、『嫌葉書』を送ってこい。それが多ければ、いさぎよくやめてやる」



 野次馬としては、おいおいそんなこといって大丈夫なのかと心配になるが、先生は


 「俺は平気だぜ。なぜならば『嫌葉書』は来るだろうが、それ以上に『良葉書』がくるはずだからな。俺をやめさせるのは大変だぜ(ニヤリ)」



 自信に満ちておられる。やはり、男の中の男だ。シブすぎである。

 その集計の結果はといえば、



 「俺の連載は続くこととなった。『やめないでくれ』という葉書が山ほど来たからな」



 さすがである。このカリスマ性には驚嘆だが、北方先生はそこで



 「だが、残念な知らせもある」



 これには少し、身を固くする。なにかあったのかといえば先生曰く、



 「俺を追い出したかったら『嫌葉書』を送れといった。だが俺はなんの心配もしていなかった、それ以上に『良葉書』が来るからだ」。


 たしかにそうおっしゃっていた。実際にそうなった。たいしたものである。

 が、先生によると



 「ただ、俺が思っていた予想よりも、まあまあ多めの数の『嫌葉書』が来ていた」



 あー、そうなのか。

 おそらくは、北方先生の挑発的な口調をストレートに受けとってしまった人が、ムキになって送ってきたんだな。

 どうも北方先生、そのことに若干ションボリしておられるようなのである。

 アハハハハハ! 軽く傷ついてますやん! かわいいなあ。

 そのコラムの結びには、



 「特にひとりで6枚の『嫌葉書』を送ってきた君、フェアにやろうや、切ないぜ」



 先生、結構どころでなくヘコんでます。

 なんか、6枚というところが妙なリアリティーというか。

 本当にやめさせたかったんだけど、若者の手間財力的にはこんなもん、という感じが伝わってきて、そこがなんともおかしい。

 それにへこむ北方謙三。ハードボイルドなのに。うーん、まったく切ないぜ。

 先生を慕う小僧のひとりとしては、やはりこういうときこそ、ソープへ行って元気を出していただきたいものである。

 そして、また地平線を目指そうじゃないか(ニヤリ)と、ついつい本を読みながら爆笑、もといニヒルな笑みを浮かべる私なのであった。



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悩める小僧どもはこれを読め! 北方謙三『試みの地平線』 

2018年04月02日 | 

悩み相談というのはむずかしい。

 という出だしから、前回(→こちら)大学受験を

 「モテるモテないか」

 という基準だけで語る田中康夫の『大学受験講座』などなど、実にファンキーでフリーダムな悩み相談コーナーについてお話しした。

 そんな個性的な相談コーナーの中で、私がもっとも愛してやまないものが、もうひとつある。

 大げさにいえば、人生のバイブルであると言い切ってもいいかもしれない。

 それが、北方謙三試みの地平線』だ。

 あのバブル時代のまっただ中、世界一脳みそがチャラいといわれた妄想恋愛マニュアル誌『ホットドッグ・プレス』で連載されていた、悩み相談のコーナーである。

 HDPといえば、



「アルマーニを着て、シルビアに乗って、ボッタクリ店でメシ食って、ワンレンボディコンの女子大生ナンパせえ! それができんモテへん貧乏人は最低カーストにも入れん不可触民、魚のエサほどの価値もないクズや!」



 という、現代日本から見たら、



「よういうたな、オマエ」



 とでもいいたくなるような、イカした雑誌であった。

 私のような地味な若者には無縁であったが、



「ジーパンに白Tシャツの女は明らかに男を誘ってる!」



 とか、もう『月刊ムー』なみに電波が飛びかうところは実に興味深く、散髪の待ち時間などに読んで楽しんでいたものだ。

 そんなHDPの記事の中でも、異彩を放っていたのが『試みの地平線』。 

 こんな広告代理店の奴隷養成雑誌で、アッシーだメッシーだミツグ君などという国賊的流行に眉をひそめるハードボイルドの大家が、ヤングの悩みにお答えする。

 その回答もぶっ飛んでいて、

 

「自分に自信がない」

 「恋と受験、どっちを優先すべきか」

 「転職すべきかどうか」

 

 といった、若者たちの定番の悩みを、すべて

 「ソープへ行け!

 でかたをつける。

 ソープといっても今のヤングにはなんのこっちゃかもしれないが、昭和には「ソープランド」と呼ばれる施設がありまして、要するに「風俗営業店」のこと。

 北方流では、世の男子の悩みの大半が、を知らないことからの肉体的精神的劣等感からくるという。

 ならば、答えはひとつしかない。

 

 「グダグダ言わずに抱いてみろ!」


 ということであって、この姿勢は終始ブレない。

 そして、もうひとつの特徴が二人称

 普通の悩み相談では、読者に語りかける二人称といえば「あなた」とか「」だが、北方先生はそんなぬるい言い方ではない。

 ハードボイルドな先生の呼びかけは

 

 「小僧ども!」

 

 これである。

 私はこれまで、人類最強の二人称といえば、ジャニーさんの「ユー」だと思っていたが、それに対抗できるのがこの「小僧ども!」であろう。



 「ユー来ちゃいなよ」

 「小僧ども、ソープへ行け!」



 優劣はにわかにはつけがたい。それくらいのインパクトである。

 そんな北方先生なので、一般にはどのページも「女を抱け」ですましているようなイメージもあるのだが、これが実際に読んでみると、案外そうでもない。

 せいぜいが3回1回くらいで(それでも充分だけど)、それ以外にもちゃんとしたアドバイスや、はげましの言葉を贈っている。

 失礼ながら、イメージ以上に真摯な返答なのだ。

 そんな頼れる北方先生であるが、やはりそこは普通に使える話だけでは終わらない。

 一見ちゃんと答えると見せかけて、そこにはかならず北方流のキラーフレーズを放りこんでくる。

 たとえば、東京から地方に転勤になり「さみしくて仕方がない」という男性には、開口一番



「女を作れ!」



 まずは、地元松山のを作れ、と。その方法に関しては、


 「自分で考えろ」


 まさかの相談放棄である。

 まあ、そこで話は「それができないなら」と、きちんとした回答へと流れていくわけだが、締めはといえば、やはりそれも北方流。

 先生は「一人で生きていることの孤独感」にふれ、「孤独を癒す拠りどころ」を見つけることを奨励し、「下宿でもしたらどうだ」というのである。

 そして、締めの言葉が



 「もちろんその場合は、未亡人宿にするんだぜ」



 くわあ、シブい。

 やはりこの本に心酔する大槻ケンヂさんのごとく、思わず語尾に(ニヤリ)とつけたくなるようなナイスな落とし方。

 もうその男っぷりに、感動爆笑は必至である。

 とりあえず、こんな連載をのせていたということは、当時の編集部の人たちが、

 

 「自分たちの作っていた雑誌のことを信じていなかった」

 

 のだろうということはよくわかる。

 きっとこの連載で、こんな電波雑誌を作らされているフラストレーションを晴らしていたのであろう。

編集者の悩みまで吹き飛ばすとは、さすがは北方先生である。

 やはり人生のバイブルであると、いわざるを得ないではないか。


 (続く→こちら


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