つむじ風

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ウクライナ

2022年08月23日 14時16分18秒 | Weblog

 2022年2月24日、突然「ロシアがウクライナに侵攻」というNewsが飛び込んできた。確かに数日前からロシアが侵攻の準備をしているというNewsはあったが、世界はただの脅しと思って眺めていたような気がする。当のウクライナでさえ、そう思っていたのではないだろうか。

 それが、いきなり現実となって、「ウクライナって何処よ」「日本と何か関係があるのか?」と改めて地図を眺めるような事態になった。確かにユーラシア大陸の中央あたり、ロシアと国境を接している東欧と呼ばれている遠い国だった。周辺にはあまり馴染みのないラトビア、リトアニア、ベラルーシ、スロバキア、ポーランド、モルドバ、ルーマニア、ブルガリア、アルメニア、ジョージアなどの国々がある。(かつて、ソビエト共和国の「共和国」は15もあった)

 歴史をたどれば、陸続きであるためか、昔から西から東へ、東から西へ、いろいろな民族が行ったり来たりした。大国と大国の谷間にあって、その度に民族自決は吹き飛び、国土は荒れ果て、人々は逃げ惑ってきたという悲しい歴史だ。大国の盛衰に翻弄されてきた国だとも言える。コサック民族は勇猛果敢ではあったが、帝国を持たず貴族でもなかったため、ポーランド王国に割譲されたことも、或いはロシア帝国の支配を受けて先兵として消耗させられたこともあった。ドイツ帝国、ハンガリー帝国、ロシア帝国の戦場となったこともある。内戦もあった。国名も「小ロシア=ウクライナの蔑称」と呼ばれた時代から何度も変わった。

 今のウクライナの年寄りに忘れることの出来ない苦難はソビエト連邦下の「2度の大飢饉」ではないだろうか。ロシア革命(1917年)以降、1921~22年及び1932年~33年、ソビエト社会主義の「農業の集団化政策」によって400万人から1000万人が餓死したとされている。このソビエト社会主義の仕打ちは今も語り継がれているに違いない。

 昔、中学生か高校生の頃、歴史の教科書の中で「白系ロシア」という言葉があった。ロシアに白系とか赤系とか黒系とかあるのだろうか。今頃になって「白系ロシア」って何だったのだろうと調べてみた。「=ロシア革命(1917年)後、国外に脱出、亡命した人のこと」らしい。主にソビエト政府による弾圧、迫害がひどかったウクライナ、ポーランド、ユダヤ系の人々だという。

とても紛らわしいことだが、
「小ロシア」はウクライナの蔑称だった。「白ロシア」は現在のベラルーシのこと。軍隊で言えば、赤軍はソビエト軍(革命派)、白軍はロシア軍(帝政派)、緑軍はウクライナのゲリラを中心とする軍、黒軍は無政府主義者の軍ということになっているらしい。

 ロシア革命(1917年)を機に、日本へ逃れてきた亡命ロシア人(白系ロシア人)が日本で暮らすようになり、その数は1918年時点で7,251 人ほどになった。だが、日本社会の偏見などでなかなかなじめず、1930年に3,587 人、1936年には1,294人と激減した。その後第二次世界大戦が始まったため、ほとんどがオーストラリアや米国などへ移住したり、ソ連へ帰国したりし、日本に留まったロシア人はごくわずかとなったようだ。外人は一律に「鬼畜米英」「露助」の時代である。ファシズムが台頭し、とても安心して生活できる国ではなかったと思われる。今回のロシア侵攻によって避難してきたウクライナ人は現在1,700人余り。やっとの思いで極東の日本にやってきた訳だが、凡そ100年前にも同じロシアの政策によって祖先たちが日本に逃れたことを知るウクライナ人は少ないかもしれない。

 文化も言語も習慣も異なる極東の島国、一見「縁も所縁もない」ように見えるかもしれないが、凡そ100年前、ウクライナ(白系ロシア)の人々が日本に残したものがある。例えば、

〇マルキャン・ボリシコ
 革命後日本に亡命してきた白系ロシア人(ウクライナ人)の一人である。
日本の伝統芸、大相撲の横綱大鵬の父である。

〇ヴィクトル・コンスタンチーノヴィチ・スタルヒン(須田 博)
 ロシア革命(1917年)以降、革命政府(共産主義政府)から迫害され、中国ハルピンを経由して1925年、日本に亡命した一家の息子である。
後に巨人軍の300勝投手となり、数々の偉業を球界に残し、野球殿堂入りした。北海道旭川にはその功績を記念した「スタルヒン球場」がある。しかし、日本国籍帰化申請は何故か受理されず生涯無国籍だったと言われている。

〇マカール・ゴンチャロフ
 1923年に神戸市北野でチョコレートの製造販売を開始した白系ロシア人の菓子職人。洋菓子「ゴンチャロフ」の創始者である。

〇フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ
 1924年に米・シアトルを離れ日本の神戸へ移住してきた白系ロシア人の実業家。洋菓子「モロゾフ」の創業期の経営者である。経営を巡って対立があり、屈辱的な妥協を強いられたとも言われている。

〇エマニュエル・メッテル
 大阪フィルハーモニック・オーケストラの指揮者、「関西音楽界の父」と言われている。朝比奈隆を育て、服部良一、貴志康一らに強い影響を与えた。芦屋浜の文化ハウスでは、山田耕筰や近衛秀麿、竹中郁、小磯良平ら日本の音楽家や芸術家らも訪れ、交流を持っていたと言われている。詩吟と浪曲しか無かった日本にとって、全く新しい音楽文化であったに違いない。

 そこには、外人は一律に「鬼畜米英」「露助」の時代でありながらも一生懸命生きた白系ロシア人(ロシア人やウクライナ人)の足跡がある。函館や横浜、神戸の外人墓地には今も「白系ロシア人」達が眠っているだろう。その意味では白系ロシア人にとって日本は「縁も所縁もある」ところだ。

 避難してきたウクライナの人々が、特に年配のおばさん達が胸に手を当てて頭を下げる姿を見る時、長い筆舌尽くし難い厳しい歴史を思い起こさせる。(若い人はさすがに「現代っ子」なのだが)
 先人たちの残した有形無形の文化は、日本の文化に溶け込み、今もその輝きを少しも失ってはいない。現代日本は決して暮らしやすいとは言えない部分も多々あると思うが、100年前の先人達に思いを馳せ、どうか自信を持って、誇りを持って暮らして欲しいと思う。この先のことは本当に解らないけれども、家や財産を失い、仕事も失って途方に暮れても、ひたむきに生きる、そんな人々に私は心からエールを送りたいと思う。

ウクライナ国歌「ウクライナは滅びず」
 世界には「国歌」は数多有るけれど、多くは国威発揚、国民を鼓舞するものが実に多い。しかしウクライナの国歌はどうだろう。その曲を最初に聞いた時「何と悲哀に満ちた曲」「悲しげな曲」だろう、と思った。そう思うのは私だけだろうか。その意味では日本の「君が代」も負けてはいない。荘厳ではあるが、何だか暗くてとてつもなく陰気な曲である。そこには民族主義的な精神性、「ニオイ」があるように思う。文化的背景や地政学的状況は全く異なるけれども、もしかしたら日本とウクライナはその精神性に共通するものがあるのかもしれない、と密かに思っている。




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