つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

アメジスト

2010年02月28日 13時51分59秒 | Weblog

 「Amethyst/アメジスト」は2月の誕生石。一般に紫水晶と呼ばれているもの。
水晶にもいろいろあるが、宝石としてはこの紫水晶だけで、他のものは宝石にしないらしい。紫の色も薄いものから濃いものまであるが、そこは天然物、原則同じものは無いということになっている。

                  

  かなり気合いを入れて作成してみたが、やはりこの紫の色合いが難しい。それと、アメジストの台座には何故か銀色がふさわしい。金色も考えてみたが、どうも今一つ似合わない。

 この冬、我が家のエリカ(ヒース)は元気一杯紫の花を咲かせている。この寒いのに何故か元気だ。先日雪が降ったときもまったく意に介さずで、ますますきれいに咲いている。そんな中、2月も今日で終わりだが、いささか寒さ疲れした気分。3月ともなればググッと暖かくなってくる。身体をしっかり伸ばして、「雨ニモマケズ、風ニモマケズそして不況ニモメゲズ」元気に行きたいものだね。

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急加速

2010年02月26日 09時25分54秒 | Weblog
 思いもよらぬ急加速!!。米国は、最近この話題で持ちきり。ターゲットはトヨタだが、不景気でしかも一向に改善されない失業率などがあって不満の矛先になっていることは確かだ。公聴会では「強欲」だの「カネの亡者」だのとののしられたようだが、それも当たらずしも遠からずだ。
 最初の「急加速」は10年も前に遡る。その間、無策に放置したのは慢心以外の何ものでもない。但し、米国は2000年~2009年で「急加速」が原因とおぼしき死亡事故は当初17件としていたが、最近になって34件に倍増した。単にカウントの誤りなのか、疑わしいというだけでカウントしているのか、この数字はちょっと信頼性に欠ける。

 それはそれとして、日本国内では「急発進、急加速、暴走」に関する苦情は2006年から2009年で38件ほど起きているらしい。ただ妙なことにこの中でトヨタ車の事故発生の割合は27.8%で他社の車と変わらない、というのである。では、米国で売られている車は各社特別仕様なのか、という疑問が湧いてくるが、そのようなことはちょっと考え難い。つまりこれはトヨタ車だけの固有の問題ではない可能性が高いということだ。

 そこで考えられるのがETCSiという電子制御スロットルシステムだが、トヨタは装置そのものに問題はないと言っている。勿論、多様な角度から通常の試験は行われたはずで、初期のバグ的な不具合は考えにくい。しかし、この結果を持って「問題がない」とは言い切れない。
 昨今の電子部品は小型軽量化と同時に低電圧化が進んでいる。例えば、プログラムやハードウエアに問題が無くても、或る場所で或る速度で或る条件で走行しているとき、或る種の電磁的影響によって「スロットル全開」信号が発生することはあり得ることだ。このような状態に陥った場合、ブレーキペダルを踏む等のリセットを掛けない限り、システムは「スロットル全開」を維持する可能性があるのではないだろうか。運転者がギョッとしてブレーキを踏むまで0.7秒、100km/hで走行中の場合は凡そ20mは「スロットル全開」で進んでしまうだろう。しかしこのような状況を実験や試験走行から事前に発見することは極めて難しいように思われる。

 個人的に思うことだが、安全性に直結するアクセルやブレーキに、ETCSiを使用するのはとてもハイリスクなことだと思う。しかし電子部品やプログラムを使わない機械的な構造であっても、工作物である以上何らかの不具合が起きる可能性は完全に払拭することは出来ない。航空機でも戦闘機でも列車でも原子力発電所でも、コスト削減、小型軽量、自動制御において今や電子制御は欠かせない。これからも電子制御に替わるものが出来ない限り、この流れは変わらないだろう。
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回らぬ風車・その後(2)

2010年02月15日 11時43分23秒 | Weblog
 2010/01/22、「つくば市民」は、「市」を相手に損害賠償の訴訟を起こすことになる、と書いたが、どうやら既に住民訴訟は起きているようで、2月4日に東京高裁でその判決があったらしい。

訴状の主旨は、
「つくば市が計画通りに発電しない小型風車に公金を支出したのは違法」
であり、この計画を進めた責任者(市長等)は3億円の損害を賠償すべし。
――――というものだ。

 で、判決は「助役に465万円、担当職員に約310万円の賠償を命じる」というものだった。3億円には程遠いが、「つくば市の責任」を重視したものであることは間違いない。しかし、助役の責任は理解できるが、市長や管理職ではなく、何故一担当職員の責任なのか、不思議である。つくば市の担当職員は、その職位権限で3億円が決済できるのか、通常では考えられないことなのだが、「一担当職員の責任」としたことにはそれなりの理由があるのかもしれない。

 ここに登場する助役は既にトンズラしてしまっているが、当時は「入札審査委員会委員長」であり、地元SV(Supervisor)を元請させることが出来た。しかし裁判所は、このSVは何の仕事もしていないと断定した。結局、助役がやったことは不要なSVを入れて、その「業者の利益を図った」ということだったのである。市長はこの裁判所の判断に「事実と異なり非常に遺憾」とコメントしているが、いやはや掘り下げれば掘り下げるほど、つくば市政のボロが出て来る状況だ。地元企業を優先するのは理解できるが、何も仕事をしないのに「名ばかり仲介」させたのでは、単純に費用が嵩むだけである。結局、市民はそのツケを二重に払うことになる。

 そんな折、名古屋市でのこと。「市建設事業サービス」なる財団が市から業務委託を受けていたが、実は再委託(丸投げ)して自らは何も仕事をせずに7000万円の中間マージンを稼いでいたという話し。何のことはない、財団の理事は全員市の幹部又はOB、職員も大半が市のOBということで、地方自治体も某省庁と公益法人の関係を見習って、よろしくやっている訳だ。つくば市のSVも市役所OBの天下り先じゃああるまいな。まさか、そんなことは‥‥。
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地球温暖化否定論4

2010年02月13日 19時09分58秒 | Weblog
 地球温暖化の否定論について、以下のような考え方がある。

 「温暖化はどうなるものではありません(むしろ寒冷化を心配する説もあります。本当だとするとこちらの方が深刻です)、石油は有限なことは確かなので、次世代エネルギー源を開発しなければなりません。このことは確かです。温暖化の合唱は脱石油社会を実現するためには都合の良い合唱です。太陽エネルギーとか風力エネルギーとか言われていますが、実際は、効率の点から実用的ではないので、脱石油社会の最有力候補は原子力です。
 温暖化防止を叫ぶ人は環境に鋭敏な人たちです。環境に鋭敏な人たちはどちらかと言うと原子力に反対の人が多いものです。その人たちが温暖化防止を叫んでくれるのですから特に否定することもないと感じているのでしょう。」


 前回にも書いたように「石油は有限」であることに異論はない。そして「次世代エネルギー源を開発」しなければならないことも賛同できる。しかし、「温暖化の合唱」は「脱石油社会を実現」することに対して「都合の良い合唱」だとは、どうもシックリ来ない。このような話しは決して「合唱」の話しでもないし、都合の善し悪しの話しでもないからだ。

 また、現状の技術では太陽光や風力からのエネルギー転換は、まだまだ非効率で改善の余地がある。「実際は、効率の点から実用的ではない」ということも否定できない。そして現状では「最有力候補は原子力」だと言うのも間違いではない。国内で1(kWh)の電力を作るのに、CO2排出量が最も少ない電力会社は、原子力を最も多く利用している四国電力や九州電力である。しかし近年、太陽光発電は徐々に効率が向上して、今や原子力に次ぐCO2排出量の少ない発電設備になっている。原子力が「最有力候補」から外れる日もそう遠くはないかもしれないとうことも知っておく必要があるだろう。

 原子力には大きなリスクが伴う。これがまた半端なリスクではない。核兵器への転用、地震による設備崩壊、核廃棄物・汚染物資の始末、テロ攻撃の目標、人為的操作ミス等々。基本的に1つの方式に依存するとリスクが増す。原発が使用するウラン235や238、プルトニウム239も、石油と同じいずれは無くなる資源である。これでは「どちらかと言うと原子力に反対」なのも無理からぬ事ではないだろうか。現在、国内では既に55基の原発が稼働しており、総電力量の30%を賄っている。しかし「最有力候補」だからといって、全てを原発にすることはできないだろう。

 現在、東京電力は地下300(m)に廃棄物を保管する計画を進めようとしている。「保管」といえば聞こえは良いが、これは単なる埋め立て廃棄である。地震国でなくても何が起きるか判らない。見えないところだからこそ危険が伴うと考えるべきではないだろうか。たった300(m)で安全だというのなら地下で「保管」する必要はない。異変が起きてもすぐに判る地上で(見える所で)保管すべきではないのか。そうすれば異常の発見も早く、地下300(m)よりはずっと簡単に対処できるだろう。

 「温暖化はどうなるものではありません」「その人たちが温暖化防止を叫んでくれるのですから特に否定することもない」というのは、自分では何の努力もしない傍観者だけれども、人が出した結果には便乗しようという他力本願ご都合主義というものだ。生活がセコいのはやむを得ないが、考え方までセコくなることはないだろう。

            
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地球温暖化否定論3

2010年02月12日 11時02分46秒 | Weblog
 地球温暖化の否定論について、以下のような考え方がある。

「CO2が増える原因は石油を使うからですが、石油の埋蔵量はあと30年と言われて、石油がなくなることが心配されています。その石油を全部燃やすと大気中のCO2がどのくらい増えて何がどう温暖化するのかという数字も見たことがありません。皆が温暖化というから温暖化と言っているだけのようです。温暖化は物理現象ですから合唱したとしても温暖化するものではありません。温暖化を歓迎していたとしてもです。石油30年説が正しいとすると30年後にはCO2を排出したくともできません。こっちの方が問題ではないでしょうか。」


 あと30年で石油が枯渇するという説はあるかも知れない。石油資源は有限で、取り続ければいずれ無くなるのは確かだろう。但し、他にも有望な油田が見つかるかも知れない訳で、30年かどうかは判らない。その上で「石油を全部燃やすと」という話しは、仮説の上の仮説で、推定値を出したとしてもあまり意味がないのではないだろうか。

 「温暖化は物理現象」で、「合唱」とは関係がないことは確かだが、「合唱」せずに知らんぷりを決め込んで漫然とCO2を出し続け、何の努力もしないのはいかがなものか。CO2の増加は一種の「公害」であり、何の対策も取らないのは、ダンマリを決め込んで公害を垂れ流している企業と同じではないか。「温暖化は物理現象」なのだから、許容の範囲を越えて過度な状況を作れば、それに応じた反応があることは当然の結果だとも言えるだろう。

 「30年後、石油が枯渇することの方が問題」という点については否定しない。30年後かどうかはともかく、人間のあらゆる活動が石油に大きく依存していることは確かだ。便利な石油だからこそ、無駄なく出来るだけ長く大切に使い、枯渇しないうちにその代替を考えなければならない。そして石油に代表される化石燃料からの脱出が出来れば、地球温暖化の防止にも道は開けるというものだ。結局、石油枯渇の問題は地球温暖化の問題の解決にもつながるということを認識すべきである。

          
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地球温暖化否定論2

2010年02月11日 11時05分36秒 | Weblog
 地球温暖化の否定論について、以下のような考え方がある。

 「CO2説にしても、毎年、100単位の石油を使うと仮定して、その一部をレジ袋にしようがエコバックにしようが、もとの石油100単位の消費量は変わらないので、CO2の排出量は変わりません。不況になって全体の石油消費量が90単位に落ちれば、日本のCO2の排出量は少なくなりますが、石油の生産総量が変わらないのですから、その分、他の国に消費量がアップして、地球規模ではCO2の排出量に何の変化もあありません。
 CO2は大気中に0.034%あるそうです。0.037%と言う数字も見ました。そうすると、現在大気中に0.0何%あって、それが0.00何%増えると何がどうなると言う数字は見たことがありません。みんな気分で言っているからです。ちなみに、CO2は植物の食料ですので、CO2が増えると植物の成長が早まります。現在は、地球規模で増やすわけには行かないので、ハウスの中でCO2の濃度をあげてイチゴなどを育てています。」
 

 単に消費といっても、燃焼させることと物を作ることではかなり違う。物も燃してしまえば同じ事になるのだが、燃さない限り(製造工程は別として)二酸化炭素は発生しない。つまり石油を産出しただけでは二酸化炭素は発生しない。しかし、プラスチックなどの原料ではあるが、大方の石油は飛行機、車などの動力、火力発電、暖房などで燃料として消費されていることは確かだ。その意味で石油の生産量と直結していると見てもおかしくはないと思う。

 現在の空気中のCO2濃度は0.038(%)、これが産業革命前では0.028(%)、ここ200年で0.01(%)増えたことになる。0.028(%)のCO2濃度は少なくとも数千年変わらなかった値であり、ここ200年の間にCO2濃度が増した原因は人間の活動以外に考えられないことが問題となっている。このまま濃度が増え続けると、人類が遭遇したことのない状況に陥ることが懸念されている。現在「0.00何%増えると何がどうなると言う数字」CO2の濃度の変化と自然に対するインパクトは世界の研究機関が注目するところだ。ちなみに、「生物が大量絶滅」した時のCO2濃度は0.09(%)であったと推定されており、現状のまま人類がCO2を出し続けると最悪2100年には0.09(%)に達するとされている。これのどの点を取って「気分で言っている」のか理解に苦しむ。単に勉強不足で「無頓着」なだけではないだろうか。

 「CO2は植物の食料」というのは、正しい表現かどうか判らないが、CO2の濃度が植物にとって重要な環境要素であることは確かだ。植物は光合成の元でCO2を取り込んで生長「=炭化」する。つまり、植物はCO2を吸収するというのが通常の環境下での営み。確かにCO2濃度を上げると植物の成長は促進され、一部の農産物にこの性質が応用されている。逆にCO2濃度が下がると、生長が遅くなるだけでなくCO2を放出する植物もあることはあまり知られていない。海洋でも同じような事が言える。海洋のpH(水素イオン濃度指数)が、8.2から下がると生物の成長が遅れ、上がると生長が促進される。つまり自然は、空気で言うと二酸化炭素0.028(%)、海水で言うとpH8.2で何千年もの間、均衡を保ってきた。その均衡が今や崩れ掛かっているという認識であり、人間にとって都合の良い面だけを捉えても何の意味もない。

              
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地球温暖化否定論1

2010年02月10日 17時39分52秒 | Weblog
 地球温暖化の否定論について、以下のような考え方がある。

「世界の多くの科学者は、「地球が人為的理由で温暖化している」とか「その原因はCO2だ」と言っていることは、ばかばかしいことだと言っています。日本ではこうしたことは報道されません。これは物理の問題ですので、多数が思っていることが正しいわけではないのですが、いったんCO2と言われて、その方向に進むと精神論に転化しまうのですね。精神論に転化するとそれを否定することが難しくなってきます。できることからやるという気持ちになっている人に、「温暖化防止」に対しては無駄だと言っても、その人は、一生懸命なだけに、自分が否定されたかのように感じてしまうのですね。」

 自分の主張に都合の良いデータを並べて、持論を展開するのは確かに科学者の自由だ。そして地球温暖化の原因が「人為的ではない」或いは「CO2ではない」と主張するのも理解出来なくもない。また、多くの人が同じように判断したからと言って、それが正しいとは限らないのは無条件で納得できる。要はあまりに大規模過ぎて、予測が難しくなかなか確信が持てない現象であることは事実だと思う。

 温室効果ガスには各種あるのだが、その中でも「CO2」がターゲットになっているのには、それなりの理由がある。また、その変化が、自然の「ゆらぎ」現象ではなく人為的なものだとしたら、これほど情けなくアホなことはないと思う。そして「温暖化防止は無駄なあがき」だと、何もせずに「傍観する人」はいつの時代にも居ることは確かだ。いや、実を言えば私も本当に「無駄なあがき」かもしれないと思っている1人だ。これは「精神論に転化」でも何でもない。そして、あまりにも大規模であるが故に後日に具体的な事実となっても、その時は既に手遅れだと思っている。いや、今既に「もしかしたら手遅れかもしれない」と思っている。

 かつて地球は(2億年前の三畳紀と白亜紀の間に起きた)生物の大量絶滅を経験している。化石の研究によれば、何らかのきっかけで大気中の二酸化炭素濃度が増して、急速に温暖化したことが原因ではないかと言われている。海洋には大量の二酸化炭素が貯蔵されているが、これが火山活動或いは地震などで、大気中に放出されたのかもしれない。原因はともかく、この温暖化で多くの生命体が絶滅してしまったとされている。そしてもとの状態に戻るまでには100万年という長い年月を待たなければならなかったというのである。この時の温暖化の原因は、確かに人為的なものではない。しかし、現状の地球温暖化の原因が「人為的ではない」という根拠には少しの助けにもならない。

           
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食物連鎖が切れたとき

2010年02月05日 18時24分20秒 | Weblog
 今回の国立環境研究所他グループの研究は珊瑚を使ったものだが、何も目新しいことではない。既に海水の酸性化によってサンゴの劣悪化、炭酸カルシウムの硬い組織をもつあらゆる生物に波及する可能性は、かなり以前から多方面で指摘されており、逆に「何をいまさら」の観もある。
 2005/06/30 イギリス王立協会の科学者グループ
 2008/12/14 米国環境保護団体オシアナの研究グループ
 2009/02/03 オーストラリアの研究チーム

 ただ、今回の研究は「その結果が極めて高精度」であることが評価できる点かと思う。過去に予測された問題が、具体的に証明されたようなものだ。
 今回の実験結果から、ちょっとしたグラフを作成してみた。



 産業革命前(赤丸)は海水pH8.2で、この時の空気中のCO2濃度は280(ppm)くらいだった、とされている。この点を成長率100%としたとき、現在のCO2濃度380(ppm)下で海水はpH8.1となり、既に8%くらい成長率が減少していると言うことになる。珊瑚が白化し、海にも砂漠化が進んでいるらしい。漁獲高減少の原因は乱獲だけではないのかもしれない。

 そもそも、本当にこのままCO2濃度は700も800(ppm)も上昇するのだろうか。しかし、海は空気中のCO2の25%を吸収していることは疑いのない事実である。その結果、海水がpH7.9、或いは7.7となった時、海洋全体の環境変化としてどのようなことになるのだろうか。絶妙なバランスで成り立つ海の食物連鎖が切れた時、到底このような緩やかで直線的な変化で収まるとは思えない。一部の生物の実験だけで、その全体像をつかむのは難しいと思うけれども、決してHappyな結果でないことは確かである。

             
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ポリプと海

2010年02月03日 17時17分07秒 | Weblog

 pH(power of Hydrogen)は「水素イオン指数」又は「水素イオン濃度指数」と呼ばれ、酸性、アルカリ性を示す数値の記号である。難しい化学式や計算式はさておき、このpHが「=7」であるとき中性という状態にある。25℃の純水はほぼ中性であるとされている。χ<7の時は酸性、7<χの時はアルカリ性である。pHの値は通常0~14の範囲にあるが、測定可能な範囲は0~12位までとされており、酸性度、アルカリ度が増すと誤差が発生しやすくなり正確な測定はなかなか難しいらしい。そこでこの問題を解決しようと、カッコよく登場するのが国立環境研究所が作ったAICALなる装置だ。(お値段は聞かない方がよさそうだが)この装置は「海水のpHと石灰化生物の関係」について、かなり正確にシミュレーションできるものらしい。

 ところで、海水のpHはどのくらいの値なのかと言えば、現在「8.1」の弱アルカリ性を示している。と、言うより「~示していた」が正しいかもしれない。海水pHの値は2,000万年もの間「8.2」だったのだが、200年ほど前から酸性化の方へ変化し始めて現状では「8.1」というのが定説となっている。ナニ、「0.1」の話しかい、と思うかも知れないが、これがよくよく聞いてみると「どえりぇー話し」なのだ。2009年9月17日に「海水の酸性化」ということで、ちょこっと書いたけれども、あの時は未だ「0.1」の凄まじさを実感していた訳ではなく、ただ漠然と不安な気持ちがあっただけだった。

 今回(2010/02/01)、国立環境研究所、琉球大学、京都大学、産業技術総合研究所、東北区水産研究所などが、AICAL装置を使っていろいろと調べた結果が公表された。簡単に説明すると、先ずAとBの2つの環境モデルを作った。
A.200年前(産業革命前)の海水(大気中のCO2は280ppm)
B.現状の海水(大気中のCO2は380ppm)
 それぞれの環境で、沖縄の海に生息する珊瑚の赤ん坊(ポリプ)を飼育して、その違いを比較したのである。そして現状の海水で育てたポリプの骨格の重さは200年前の海に比べて1割減(人間で言えば骨粗鬆症)となってしまったのだ。ポリプの生長は、かなり早いのかもしれない。しかし飼育期間はたったの10日、そんな短期間であってもその違いは歴然で、研究員もさぞかし驚いたことだろうと思う。


             

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スパコン開発

2010年02月02日 10時29分50秒 | Weblog
 2010年1月23日の新聞に「スパコン」の記事が載っていた。「世界2位じゃ、ダメなのか」という話とは別次元の話しだが、早い話が「世界一スパコン開発」は、2009年4月段階で、すでに困難な状況と分析予測されていたにも関わらず、文科省の勝手な思い入れで100億の予算を計上したというのである。

 2009年04月、計画を評価する委員会は「世界一奪取は困難」との結論。
 2009年05月、NEC、HITACHIがプロジェクトから撤退を表明。
         残るはFujitsuだけとなった。
 2009年12月、100億の予算計上で事業仕訳の対象となる。

 文科省の官僚達は、スパコンのことなど何も知らないくせに、100億円のシステム開発予算を計画、しかも更に(スパコン)製造には別途100億の追加経費が必要だと試算したのである。Fujitsuに何て言われたか知らないが、大バカ野郎も甚だしい。
大体、スパコン開発は経産省でもなく総務省でもなく、何故文科省なのか。
こと「スパコン開発に関して」最も専門知識の乏しい、しかも関係の薄いところで、どうしてこのような計画を策定するのか理解に苦しむ。

 文科省のするべきことは、2009年11月、「スパコンのノーベル賞」とも呼ばれるゴードン・ベル賞を受賞する前に、NECが8年前に開発したスーパーコンピュータ「地球シミュレータ」の演算速度を超えた時点で、率先して長崎大学工学部の浜田先生とそのグループに100億円を給付することではなかったのか。(いや、そのような見識があれば、こんな事態にはなっていないのだが)

 2002年に完成の「地球シミュレータ」には600億円が投じられたそうだが、当時としては確かに最新のモデルだった。しかし、この業界の8年はとても大きく、今や当時のような開発スタイルは、某省庁の「ハコモノ」行政と同じ状況にある。
浜田先生のスパコンは3,800万円だ。文科省の官僚はこの驚異的な値段とアイデアを無視して、身内で勝手な既得権益確保の計画を作り上げ予算を要求するとは厚顔無恥も甚だしいというものだ。
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