つむじ風

世の中のこと、あれこれ考えてみます。提案とかビジョンとか、そんな高尚なものではありません。

原発再稼働

2012-05-31 18:19:31 | Weblog

 現在停止している「関西電力・大飯原発の3号機と4号機」について、どうやら再稼働を目論んでいるらしい。「地元の福井県などの了解」を得た上でということだが、論点は3つ。

1.立地自治体(福井県・西川一誠知事)の了解を得ること。 この夏14.9%(445万キロワット)の電力不足とされているが節電はやはり無理?、それともあてにしていた補助金の停止による地方自治体の生活苦か。福井県知事が原発の安全性を確認することが出来たとはどうしても思えない。「県知事の了解」とは、どのようなポテンシャルにあるのだろう。やはり補償金が目当てなのか。それとも業界団体の要望(圧力)か?。

2.最終的には4大臣会合でしっかり議論する。 「4大臣会合」とは野田佳彦(総理)、細野豪志(原発担当)、枝野幸男(経産)、藤村修(官房長官)の4人のことである。こと原発に関して、ズブのド素人が集まって「議論」することに何の意味があるのか、まったく理解できない。「高度な政治判断」という言葉がよく使われるが、「原発」に関して「高度な政治判断」は何等安全性に寄与するわけでもなく、地震や活断層を抑制できるわけでもない。実のところ何の意味も持たない。

3.最終的には総理大臣である私(野田)の責任で判断する。 あっけなく交替する「総理大臣」の責任とは、これまたどの程度の「責任」なのかが判らない。「総理大臣=政府の責任=政権与党の責任」となると、ほぼ無責任に等しい。大袈裟な話しでなく、実際に福島原発を推進したはずの当時の政府責任者(自民)からは何等反省の弁もない。結局「国民が自分で自らを補償する」ことになることに他ならない。

 安全性を蔑ろにしてこれだけの事故を起こし、その対処さえ目処が立たない中で、推進した時の政府も実行した企業も、誰も刑事責任を取らない。どんな些細な事故であっても、必ずその原因や管理責任、実行責任の追及がなされ、結果に見合った刑事責任が問われるというのは法治国家の基本であろう。本人に自覚が無く、例え「想定外」であったとしても「過失」として責任を問われるというのが日本における条理であろう。にも関わらず、誰も何の責任も問われないというのは本当に摩訶不思議なことだ。

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中吊り小説

2012-05-30 12:17:54 | Review

 吉本バナナ・他/新潮文庫
 どんな小説かと思えば、本物の電車の「中吊り小説」。だいたい15分、20分もあれば1つの作品を読み終える。最近は電車に乗らないので今でも「中吊り小説」があるかどうか判らないが、電車通勤をしていた頃は、確かに雑誌広告の合間にぶら下がっていた記憶がある。今は、バス通勤なのだが、残念ながらバスの中では「中吊り小説」を見たことがない。
 著者は吉本バナナを筆頭に19名の作家が名を連ねる。その部分だけ見たら、なかり豪華な気もするが、何しろ作品は超短編だから、著者の文体や作品の雰囲気を味わう間も無く終わってしまう。

 思うに、これは作家の「広告」のような気もする。最近、電子本でも最初の数ページだけ見せて、以降は「買ってください」というスタイルが定着しつつあるが、あの導入部分に相当するようなものだ。早い話が「チョイ見せ」というやつだな。

 使われているイラストも結構楽しい。文庫本のイラストは、通常極めて少ない。ほとんど無いに等しい。しかしこの「中吊り小説」集(?)には、たくさんのイラストが使用されている。これまた著者が自分で作成したものもあれば、コピーライターが作成したものもある。特にルールは無いようだが、かなり個性的なものだ。イラストを見ているだけでも楽しくなってくるから不思議なものだ。

 どの作品が一番楽しかったか。このような質問にはちょっと向かないような気がする。何故かというと、各々の作品は甲乙付けがたくなかなか面白いからである。更には、やはりそこまで行かないうちに話しが終わってしまうから、という理由もあるのだが、これはやはり「味見」というやつで、「お好み」のソースを探すということが本来の目的(「中吊り小説」の面白さ)なのかもしれない。では、「お好み」のソースはあったのか、といわれるとこれがまた難しい。

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男の作法

2012-05-27 23:10:45 | Review

 池波 正太郎/新潮文庫
 著名な作家なのだが、私は実際にその作品を読んだことがない。
1923年の浅草生まれで、1990年、67歳という意外な若さで亡くなった。「男の作法」というから、どんな作法かと思えば、池波流の「幸福論」である。大方の行動(食事や旅行、仕事、人間関係、生死観等々)について言及している。

 心構えとして「基本は、人間は死ぬ」というこの簡単な事実を若いうちから意識せよ、ということだ。これを意識するとしないでは、人生おおいに異なってくる。「1回切りの自分の人生ならば他人の人生もまた同じ」その大切さに変わりはない。だから、自分の思いと同じように相手への配慮が必要なのだ。1つのことをやりながら常に他のことにも気を配る。(同じ時間に2つのことをやれ)結論として、結局のところ「もっと周りに気を遣え!」ということだった。いや、耳の痛いこと。

 「男をみがく」という言葉があるが、仕事、時間、カネ、家庭、人間関係、衣食住にいたるまで万事がその気になれば「男のみがき砂」として役に立たないものはない。それと、大事なことは、どんなことにも「楽しみ」を見いだすことだ。これがなければ何事も長続きはしないし、次の段階への道も見えてこない。

 ただ、今の社会について、確かに貧富や身分の格差が無くなったように見える。つまり「平等な社会になった」のかもしれない。しかし、人生に多彩さ(ドラマ)がなくなった。自由主義といいながら実は大変な共産主義だという。個性にしても、能力にしても違いがあることが大切なのに、「平等」を求めるあまり、何もかもが平均化してつまらない世の中になったというのである。現代の渦中にあっては判らないが、池波 正太郎が見てきた時代と比較すると、かなり明らかな現象のようだ。

 また、「人間、自分のことは判らないが、その代わり他人のことはよく判る」。故に(なかなか難しいことだが)他人が言ってくれたことは素直に聞け!というのである。池波 正太郎にとっての「旅」とは、他人が自分をどう見ているかの再確認であるという。「旅」の目的を、こんな風に考える人がいるとは驚いた。確かに、諸々のものを観光するということと同時に、人との関わりの中で「どう見られているか」を認識するという池波流(同じ時間に2つのことをやる)の極意なのだ。「旅の恥はかき捨て」なんてとんでもない。

 「男の作法/ごま書房」は1981年の出版で、すでに30年も経っている。しかし「道具へのこだわり=男の武器」の話しは全く同感で、楽しい限りの話しだった。これは「物作りニッポン」の言葉もあるように、日本文化に基づく日本人の習性だったりして。

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細川ガラシャ夫人(下)

2012-05-24 00:40:29 | Review

細川ガラシャ夫人(下)
 三浦 綾子/新潮文庫

 著者の名前はよく聞く。というより本がよほど売れていたせいか、名前だけは知っていた。ただ、その作品を読んだことは多分一度もないと思う。従って、どのような作風でどんな作品があるのかその辺のところも全く知るよしもない。あまり高名な方の作品はどうも近づきがたいような気もしていたのかもしれない。ところが、ひょんなことから「細川ガラシャ夫人(下)」を読むことになった。例の職場の何でも有りのランダム図書館にこの本がやってきたのである。勿論、(上)を先に読みたい等というリクエストが出来ようはずもない。とにかく「来るモノは拒まず」の精神で読むほかはない。

 細川ガラシャ夫人は著者が53歳の時の作品で、歴史小説は初めてだというようなことが解説に記されているが、内容としてはなかなか現代的なものである。というよりこの時代背景にあって、細川ガラシャ夫人は妙に現代的なのである。著者も30歳のとき洗礼を受けているが、やはりその信仰に対する思いが玉子を通して表現されているのではないだろうか。

 ゆるゆるとした話しの流れは、いかにも玉子の心情の変化にふさわしい。徐々にキリスト信仰に傾倒していく玉子の心情は充分に表現されているように思う。ただ、こんな時代であればこそ玉子の心情そのものは全く時代にそぐわない。無礼者!の一言で人を殺傷するこの時代、どうしてもこのような女性の存在が信じられないのである。よくある後で付け加えた創作ヒロインなのでは、と。
 何といっても信長を倒した光秀の娘であること、そして夫忠興がどうしても「隠しておきたい」ほどの美人であり、大名の妻でありながら洗礼を受けた聡明なキリシタンだというのである。それはあまりにもシンボリックなことなのではないだろうか。

 いろいろな資料に基づき小説家されたとは思うが、どこまでが本当で、どこが創作なのか知るよしもない。それは、宗教の範疇に収まらない現代的ヒューマニズムなのではないだろうか。(その辺が、小説ならではのところなのだが)信長没後の最も不安定なこの時代、常に明日は我が身、何が起こるか判らない極度の緊張と政治的バランス感覚が問われる時代にあって、忠興の心情もうまく表現されている。脈々と盛衰を繰り返す歴史の中で、ひときわ目立つ「ガラシャ夫人」だった。

 ちなみに、洗礼名ガラシャは現代でもグラーチアとして使われている。英語読みではグレースで、かの有名なグレース・ケリーのグレースである。日本語訳では「恩寵(おんちょう)」というようだが、「上品、優雅、優美、美しさ、洗練」などの意味もある。玉子はこの洗礼名が随分気に入っていたらしい。

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疑装

2012-05-13 16:27:59 | Review

 疑装
 −刑事・鳴沢 了−
 堂場 瞬一/中公文庫

 俗に言う「警察小説」である。文庫本としては決して薄くはない436pageの大作で、「刑事・鳴沢 了」はシリーズものらしい。読んでみると事件の展開は遅々として進まず、半分程読んでも皆目見当も付かない。どうなることかと思っていたら、意外にももっともらしい終わり方を迎えた。つまり、著者は、この手の小説にありがちな特殊能力を持ち出すような展開や奇想天外な結末ではなく、地道な現実的な展開を目指す。スーパーヒーローが登場しないことで逆にそれが妙にリアリティがあって面白いのである。この辺が人気の源泉になっているのかもしれない。

 登場人物の心理描写や行動について、かなりの時間を掛けて書いている。このような「脚本」のような書き方は、ともすれば話しが平坦で、無意味にダラダラと長くなるようなイメージを作り出してしまう恐れがある。また、どうしても盛り上がりに欠けるような展開もあるだろう。このような場合、それをさせないようにするのが作家の仕事だ。それが小説としての「味」になっているのかも知れない。その意味では結構うまく出来ていると思う。

 本文を読んでも、それが続き物かどうかは判らないが、最後のページで、やっとこれが続き物であることを示唆している。西八王子署の面々がまたまた活躍することになるのだろうか。

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もののけ本所深川事件帖

2012-05-03 09:24:56 | Review

オサキ江戸へ−もののけ本所深川事件帖−
 高橋 由太/宝島社文庫
 これを出すまでの苦節、変遷はあったものの、デビュー作とのことである。新人作家とは思えないなめらかな話しの展開に、ついつい時間を忘れて読んでしまう。作風は同系の時代小説家「宮部みゆき」などと似たような印象があるが、ひと味違う。

 2009年、「このミス大賞」の受賞作でなくて落選作。と言ってもその中の宝島社賞(隠し球)という部類に属するらしいが、その後時代小説シリーズとなってかなり売れたらしい。著者が37歳のときのことである。どうせ、(奇異な)有り得ないことを書くのなら、この際は徹底して面白く書いてやろうという著者の魂胆が判るような気がする。そう思えばこそ、どんな奇想天外なこと、ばからしいことでもいちいち説明は不要で気軽に書けるというものだ。

 巻末の参考資料によれば、社会人類学的考察(吉田禎吾)や鬼の研究(馬場あき子)、憑霊信仰(小松和彦)、妖怪談議(柳田國男)他、宮部みゆき、中江克三、杉浦日向子、岡本堂、谷崎潤一郎まで多数の著書を参考にしたとのこと、いや作家業というのは好きでやっていることとは言え、大変なものだ。

 周吉、オサキのコンビはボケとツッコミのようだが、そこにお琴が花を添える。でも、やはり気に入ったのは(柳生新陰流)蜘蛛ノ介の登場だ。(著者が意識したかどうかは別にして)彼の存在こそがこの物語に筋を通しているような気がしてならない。

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アランの幸福論

2012-04-29 10:34:26 | Review

 三大幸福論と言えば、アランの幸福論もその1つ。これを読んだのは私が24歳のとき、遙か昔のことだ。カフカの人生論は散文をテーマに沿って編集して読みやすくしたもの。明らかに人生論を意識した編集だと思う。私が持っているのは「アランの人生論集/串田 孫一編/白水社」というもので、立派な箱入りハードカバーの本である。アランの人生論は「人間について、情念について、教育について、宗教について」そして本題の「幸福について」を一冊にしたものである。「アランの幸福論」とは(他のテーマも決して無関係ではないのだが)この最後の「幸福について」を指しているものと思われる。

アラン(Alain)
本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ(Emile-Auguste Chartier)1868年3月3日、フランスはノルマンディのモンターニュ生まれ。65歳の定年まで教師生活をしながら、1951年6月1日、83歳の天寿を全うするまで執筆活動を続けた。 

 アランは1868年〜1951年、カフカは1883年〜1924年というから、ほぼ同年代。カフカが有名になったのは亡くなってからのことらしいが、アランはカフカの著作を読んだことがあっただろうか。「アランの幸福論」で使用される比喩や言葉はちょっと古めかしいが、今更ながら人間理解の深さには驚く。つまり、100年以上を経ても人の心情は何も変わらないということだ。人は今も相変わらず「幸福」求め続けている。

 そんな中に、「幸福の公式」というものがある。「最初に強制が必要、絶えず困難も必要、規則正しい努力と勝利に次ぐ勝利すること」こそ至福の極みである。そうでなくても「人は自由な行動の中でこそ幸福なのだ。自ら与えた規則によってこそ人は幸福になれる」。つまり「幸福とは、褒美を求めなかった人達のところへ来る褒美なのだ」と言っている。

 人にとって「幸福」というものはあるものではないのです。あるのは「幸福」であろうとする意志と活動と責務だけなのです。

 結局、「幸福」とは、「自分の幸福を欲し、それをつくらなければならない」という義務であって、「幸福たらんと欲しなければ、絶対に幸福にはなれぬ」というのである。それゆえ、「はじめにどんなに奇妙に見えようと、幸福たることを誓わねばならぬ」のだ。注意すべきは「何事をも重大視する。それは不幸の鍵である」と。

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新・幸福論

2012-04-26 16:32:55 | Review

新・幸福論
 五木寛之/ポプラ社
 現代に至っては幸福を論じるのは「いささか気恥ずかしい」主題なのかもしれないが、五木さんはそれを承知でこのテーマを一冊に総括してみた。現代にあって「幸福」とは何だろう。

 文章は至って読みやすく、親しく個人的な対談でもしているような雰囲気で話しは進む。結論から言うと、「三大幸福論」の後、今までにない「新しい幸福観」というものが生まれつつあるではないか、ということである。副題の−青い鳥の去ったあと−の意味はその辺にあるらしい。

 現状分析からすれば、ぼんやりした不安、逢魔が時、微妙なゾーン=この漠然とした不安感というのは、実に厄介なもの。
金子 みすゞ「こだまでしょうか」のこと。
人はすべて、何某かのうしろめたさを抱いて生きざるをえない。
極端に言えば「自らの幸福は、他人の不幸に依存する」のではないか。

持って生まれた性格や気質は変わらない(変えられない)。だから、
「変わらない自分をはっきりと見定めるしかない」のではないか。
いろいろな疑問が湧いてくる。

長寿地獄のこと、そして生を支えるものとは。
アウシュヴィッツの「収容所音楽隊」の話し。
自分が幸福だと感じること(小さな幸福感)をもっと大事にする必要性。

 誰だったか、とにかく人間を含めた地上の動物の中で、人間ほど病気ばかりする動物は居ない。人間以外の動物は、圧倒的に病気が少ない。何故、人間だけが病気ばかりするのだろう、という疑問を持ったという話しがある。
「知ること、気づくこと、感じること、それはひょっとして幸福の反対側にある世界なのか」もしれない。

 結局、混沌としたカオス的現状(漠然とした不安感)の中で、一般的な幸福というものはない。人の数だけそれぞれの幸福があるということだが、自分の幸福だけは手探りで探すしかない。それを試みる自由がある(という)ことが「幸福」なのではないか、と。

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フィクション8

2012-04-22 10:37:24 | Review

その後、読書は更に進む。

魔笛
 野沢 尚/講談社文庫
 主人公は鳴尾良輔か、照屋礼子か。とにかく照屋礼子の手記という形で物語は始まる。背景の舞台装置はオーム真理教であることは明らかだが、分かり切っていても簡単に想定内にはさせない。テレビの画面(シーン)が切り替わるようにストーリーが切り替わる。というより、複数のストーリーが同時に進行し立体的な構造で展開する。クライマックスの真杉とC3の格闘、照屋礼子と鳴尾良輔の格闘、そして知場ますみと安住藤子の格闘の展開は息をのまずには居られない。この辺は著者の特技らしいが「野沢サスペンス」と異名を取るのもうなずける。サスペンス小説は数あれど、ここまで面白いのはなかなかお目にかかれない。読み応えのある作品だった。

果つる底なき
 池井戸 潤/講談社文庫
 なかなか読み応えのあるサスペンスだった。読みながら、ここまで書ける作家は銀行関係者以外にないと確信した。後書きで、やはり「元銀行員」であることを知って、妙に納得した。奇策を打つ訳でもなくエロティックな描写でごまかす訳でもない。淡々と話しは進むが、何故か緊張感が持続する。さりげなくクライマックスをキチンと最終章に持ってくるあたりはぬかりがない。1998年、この作品は第44回江戸川乱歩賞を受賞しているらしい。

 「果つる底なき」はちょっと変わったタイトルだと思うが、ちなみにそれは「果つる底なき暗澹たるもの」という一文として306ページに出て来るものだった。

 銀行と言うのはどうもサスペンスには事欠かない仕事らしく、今まで読んだ中でも度々話しの舞台となっている。考えてみれば、人間界において限りなく欲望と権力が渦巻く奈落の世界、カネの持つ魔力の故に違いない。言っては何だが、こんな心理的汚れ仕事は他にない。そんな中で、己を見失うことなく毅然として理想を求め続けることのこだわりの難しさは判るような気もしないでもない。その辺が作品を作る上での作家の「思い」に違いない。

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カフカの人生論

2012-04-19 12:50:42 | Review

 頭木 弘樹 編訳/飛鳥新社

 最近、本屋さんを覗いたら、「幸福」に関するものが並んでいた。いわゆる「幸福論」というもので、何年かすると流行る昔からのテーマである。「幸福論」と言えば、随分前からヒルティ、アラン、ラッセルが有名で、「三大幸福論」などと言われているが、これを意識しながら現代に復活するのが「幸福論」なのだ。私の本棚には、なぜかヒルティとアランの「幸福論」がある。

 今回本屋さんで発見したのが五木寛之さんの「新・幸福論」とカフカの「(絶望の名人)カフカの人生論」である。「幸福」と「絶望」は、裏腹のもので「絶望」を知ることで、逆に「幸福」へ理解が深まる、より深く納得できるのではないか、という単純な考えから「(絶望の名人)カフカの人生論」に興味が湧いてきて、読んでみることにした。

 カフカノ「変身」という作品は、はるか昔に読んだような気がするが、定かではない。他の作品も読んだかどうかさえ記憶にない。たぶん、「変わった作品だな」と思いながら何の違和感もなく読み過ぎ去ったのだろうと思う。それは、カフカがどんな人物かということを知らなかったから。

フランツ・カフカ(Franz Kafka)
 1883年7月3日生まれ、チェコはプラハのユダヤ人。
 1924年6月3日、もうすぐ41歳という若さで両親より先に亡くなった。
 作品にには「変身」、未完の長編「審判」、「城」、「失踪者」などがあり、20世紀を代表する作家と言われている。

 裕福な商人の家に生まれ、なに不自由ない環境で大学まで出て、何が不満なのか、という気もする。それはあくまでも余裕ある人の贅沢な「心のあそび」ではないのか、とも思う。しかし、彼は生真面目で真剣で、人が普通に出来ることが「出来ない」ことに、本気で悩んでしまった。

 その絶望ぶりは、確かに普通ではない。終いには、肺結核を疾病利得(ものは考えようとは言うけれど。しかしこれには参ったね)にしてしまう。 そんなあらゆる絶望の中にあっても、「幸福」はあるものなのだ。カフカの生活は「おそろしくいじけたものになり、いじけることをやめない」けれども、「人は絶望からも、何かを生み出せる」ものなのだと信じている。

 税込み¥1,500円で単行本スタイルだが、中身は1ページが数行で終わるため、あっという間に読み進んでしまう。勿体なくて、砂糖を小さじで舐めるようにして、少しづつ行きつ戻りつ味わいながらの読書になった。どうやら私の本棚には、ヒルティとアランの「幸福論」の隣に絶望の名人カフカの「人生論」が並ぶことになりそうだ。

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