つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

あれから

2019年10月30日 13時48分06秒 | Review

矢口敦子/幻冬舎文庫

 2011年10月15日初版。この作品は「償い」と「赦し」の間に書かれたもので、登場人物の関連性は無い。お題(あれから)が何となく気に入って、つい手に取ってしまった。
「痴漢」の問題は、非常に微妙な問題だ。被害者と加害者がはっきりしていたら何も問題はない。法に定めた通りの処理を進めるだけだ。しかし、被害者と加害者の関係がはっきりしない場合、とんでもないことになってしまう。「あれから」は、その現実を背景にしたミステリアスな作品だった。

 父、周一を信じ、冤罪を証明しようと姉妹が立ち上がり、捜査を開始。しかし本のPageはまだ中程である。冤罪を証明してHappy Endではあまりにも単純すぎる。
案の定、話は被害者の野中瑞江の方へシフトしていった。本人の軽率さもあるのだが、それを中学生に求めるのは難しい。やはり運の悪さ、不幸の連続だった。どうして、こうもうまくいかないのかと思うくらい。人生は小さな選択の積み重ねだし、その小さな選択がその後を大きく左右することも稀ではない。そしてそれは、その時の自分だけの問題ではないことが悲劇をより一層深くしてしまう。おそらく、殺人や痴漢の加害者はその最たるものだろう。同時にその冤罪被害者も全く同じであることに世の中の矛盾、不条理を感じないわけにはいかない。

 最後に主人公の千幸が怒りに任せてC型肝炎ウィルスを感染させようとしたが、実行することは出来なかった。そのことは何故かホッとする。やはり、ここで初めてHappy Endの兆しが見えてくる。このような場合、現実の社会的制裁は実に厳しいものがある。例えそれが冤罪であっても、一度下された裁定は元に戻すことは出来ない。この先、父、周一の名誉回復はあるのだろうか。



赦し

2019年10月27日 12時14分41秒 | Review

矢口敦子/幻冬舎文庫

 2012年9月20日初版。著者の作品は初めてお目に掛かる。この作品「赦し」は「償い(つぐない)」の続編になるものらしい。「償い」はおよそ10年前に書かれたものだが、続編が10年後というのは、その間の構想(葛藤)は如何ばかりかと思う。そのくらい「赦し」には緻密さがある。

 この作品は、二つの話しの流れから、両方に関わる主人公が、自信が抱え込んでいる問題との関係性問う。一つは「貴風莊」の大家の石岡(黒木)華子のこと、もう一つは低血糖の息子を抱えた若い母親の沼田一美のことだ。最後、主人公は意識が薄れていく中で妻の広恵、息子の大輔と話しながら、「赦し」を得ることが出来たのだろうか。「人の罪を赦せないと思うことが赦されるような、高潔な人間ではなかった」はずなのに。「死んでしまった人間よりも、生きている人間の方が大事」と、華子にMRSAを故意に感染させたはずの、しかも主人公を殺そうと後を付けて来た石岡元成は言う。

 ホームレス、道路土木工事、建設作業員などで5年、人の心の中には深い闇があるというけれど、それと同じくらい救い難い罪悪感、罪の意識があることも確かだ。著者のテーマはこの辺にあるようだ。
 著者は函館出身ということで、同郷の宇江佐さんを思い出す。著作の素材やテーマは全く異なるけれど、同じ空間でこの作品が書かれていることを思うと何とも妙な気がしてくる。

 主人公の家族に対する無慈悲、頑迷さ、仕事への矜持といったものが瓦解して、全てを投げ出してホームレスになったのは解る気がする。良く持ち応えたものだとさえ思う。妻子を護れなかった情けなさ、自分の傲慢さに対する後悔、医者としての立場の無さ、主人公は再び医者として立ち直ることが出来るのだろうか。周囲のミステリアスな背景に関わりながら、なかなか意味深長な作品だった。



孤道

2019年10月24日 10時57分46秒 | Review

内田康夫/講談社文庫

 2019年3月15日初版。「孤道」         内田康夫
 2019年3月15日初版。「孤道」―金色の眠り―  内田康夫・和久井清水

 浅見光彦シリーズ最後のNo.116。著者はこの作品の完成半ばで倒れ、作品の流れを継いだのが和久井清水さんということらしい。多少の筆致の違いは感じるが、気にするほどのことはない。
 今回の作品の面白いところは、やはり「鈴木義麿」の手記ではないだろうか。この手記の中には多くの人間ドラマが含まれている。手記の中の当時の人々と現在に生きる人々の対比が実にリアルな感じで描かれている。それを感じるのは浅見光彦と読者だけだ。今までも力作は勿論あったけれども、シリーズ最後を飾るにふさわしい作品だった。著者(内田さん)はいつも「愚にも付かないミステリーなど」と自虐的に言っていたが、「完結編」を自ら確認することなく行ってしまった。これを自作あとがきで何と評したか、是非聞きたかった。

 著者の作品の多くは、「旅」は水平軸で地域や場所の広がりを、「歴史」は縦軸で、二世代三世代まで時間を遡り、更には度々記紀まで至る。この縦横の軸によって立体的に話を盛り上げている。多くの作家の小説創作の手法は大方この方法なのだが、著者は「旅と歴史」を宣言した時点で、これをシリーズの構成原型にしているようだ。

 考えてみれば、時代の変遷もあるが、同時に人生も何と変化の激しいことか。思い描いたとおりに生きて来た人など皆無に等しいようだ。こうして見ると人間、誰しも明日の事は判らない。
 熊野詣でによって、新たに見えて来るものがあるのだろうか。「人生の来し方を反芻し、行く末を案じる」ことから解放されることはあるのだろうか。「今生で犯した罪を」少しでも軽減することは出来るのだろうか。浅見でさえ、牛馬童子像のある所まで中辺路を歩こうというのだから、熊野の古道は人を惹きつける何かがあるのだろう。




逃走

2019年10月20日 12時25分29秒 | Review

―新米女刑事―
南 英男/文芸社文庫

 2019年8月15日初版。著者の作品は今まで「密命警部」「潜入刑事 覆面捜査」「抹殺者」等を読んでいるが、いずれも警察モノ。今回の「逃走」も副題にあるように新米女刑事が主人公の警察モノだ。主な事件としては「最中に仕込まれた毒物による殺人事件」と「新米女刑事が抱える友人の行方不明」。これが、どのような形で結び付くのかというのが話のキモか。

 自分が住み暮らしている街が話の舞台と言うのはどうも気恥ずかしいような気がして独特である。「まほろば駅前便利軒/三浦しをん」も同様だが、そう感じるのは作品に原因があるのではないように思われる。明らかに他の街が背景になっているのとは異なり、街の中をある程度具体的に知っているだけに、それをどのようにどこまで書き込むかということにも実に興味が湧いてしまうものだ。所謂ご当地モノというやつで、その意味では面白い作品だった。これを狙うのは著者ばかりではない。かの浅見光彦もまた同様であると、その著者内田康夫は自前の「あとがき」で語っている。

 著者の警察モノはあまり派手な取り込み、暴力的なシーンは極めて少なく、この手の作品によく見かける殺人と言うショッキングなことも滅多に起こらない。その分、インパクトに欠けるかもしれない。それはそれとして、話の構成として五味隼人の登場は、ちょっと唐突だったように思う。その父親が共犯と言うのも違和感が残る。このような事案は一見現実離れしているように思うが、幼女誘拐、或いは少女誘拐は、1990年の新潟県三条市の少女監誘拐禁事件も9年間の監禁の後の発覚だった。2014年の埼玉県朝霞市の少女監誘拐禁事件では2年間の監禁の後の発覚だった。海外でも似たような事件が少なからず起こっている。人知れず事件は起こり、ある日突然これが発覚するようだ。現実に起こった事件を考えれば創作というよりは現実をモデルにした話だと言える。

 小説として、その意味ではもっと五味隼人の異常性を掘り下げてもよかったのではないかと思う。あまり掘り下げて、話の流れがホラーになってしまうのは著者の本意ではないかもしれないが。しかし、言うのは簡単だが、書くのは難しい。



風の盆幻想

2019年10月17日 19時05分23秒 | Review

内田康夫/文春文庫

 2017年8月10日初版。シリーズNo.97。八尾という富山の小さな町で起きたある事件を追って、今回は浅見と内田先生が出動する。二人とも事件には妙に深入りするタイプだから途中で投げ出したり諦めたりするということはない。性格の不一致から反目しながらも鋭く事件に切り込んでいく。
今回のテーマは「交換結婚」と「越中おわら節」の舞い。終わってみれば事件自体はさほどのことはない。身の丈以上に望んだために足を踏み外してしまった人間が起こした事件だった。

 しかし、「交換結婚」はそれほど簡単なことではない。作中では、これで20年も周りを欺いてきたという話しになっているが、世の中には実際こんなこともあるのかも知れない。松本清張の「砂の器」は確かにリアリティがあるけれども、「交換結婚」とて、あり得ない話ではないような気がしてくる。

「旅と歴史」という点では、八尾の「おわら」の情景描写は情緒豊かで素晴らしかった。自分も祭りに参加しているような、目の前を「おわら」の集団が踊りながら通り過ぎるのを見ているかのような場面が何度もあった。さも今見て来たかのような気分である。これだから小説は恐ろしい。

 「おわら節」には胡弓が使用されるらしい。確かに日本の民俗的な音源には笛、太鼓、鐘は見慣れたものであるが、胡弓は珍しい。「おわら節」自体は多くの民謡がそうであるように7775の26文字形式を採用している。Netで検索すると動画がたくさん載せられていて、作中の情景が蘇って来た。

 あまり重くならないように、p226
光彦「まあまあ、そう即断しないで、・・・でないと、
   本丸どころかおマルに飛び込みかねません」
先生「汚い比喩だな」
   等と言う会話を織り交ぜながら、楽しめる一冊だった。



歌枕殺人事件

2019年10月16日 11時19分52秒 | Review

内田康夫/角川文庫

 1996年4月25日初版、2019年1月30日第23刷。シリーズNo.40。今回の旅は宮城県多賀城市、かつて大和朝廷の陸奥国府があったとされる小さな町らしい。そして宮廷文化の象徴的な短歌を背景にして殺人事件が起きる。今回は珍しく4年前、12年前の迷宮入り寸前殺人事件の真相追求である。

 カルタ会の話しも面白かった。「チラシ」「源平」などの遊び方があるとは知らなかった。昔は日本中でこのカルタ会が流行っていたものらしい。私の田舎(北海道)でも子供の頃盛んに行われていた。

未だ電気も水道も無い頃だったように思う。近所、親戚が夜な夜な集まって、薄暗い石油ランプの下で二列に並び札取りに熱中していた。遊び方はもっぱら下の句のみの読み上げで、緊張と共に出だしの一文字で手が伸びてくる。読み札は厚紙で出来ているが、取り札は4~5mm厚くらいの木製であった。真剣の度合いが増してくると、この札が飛んでくるのである。正月前に張り替えたばかりの障子に穴が開くこともあったくらいだから凄まじい。

 カルタ取りに熱中していたからと言って「末の松山」が歌枕と言われる名所を指していることなど知る由も無いことだが、今回その意図するところがよく判った。しかし、行ったことがある、見たことがある、という事実に関係なく歌に詠まれるということが不思議である。「末の松山」という言葉のイメージが先行するのだろうか。それとも単なるゴロのよさ、言葉遊びなのだろうか。或いは波にかかる「末の松山」は、奈良にかかる「あおによし」と同じなのだろうか・・深堀はやめておこう。

 最後、不義理の親子関係が知られることとなり、決着は自身でつけるという「武士の情け」を浅見は阻まない。著者はこの「不義理の親子関係」を作中でかなり多用している。人間の悲哀の根源である。同時に決着を自らに促す「武士の情け」も多用している終幕の形式である。


津軽殺人事件

2019年10月13日 11時07分54秒 | Review

内田康夫/光文社文庫

 2012年6月20日初版。シリーズNo.26。太宰 治を介して東北人(津軽人)の人間性に迫る渾身の一作、というほどでもないかもしれないが、著者から見て津軽人に内包された生活観、人生観、価値観を機会あるごとに分析しながら、殺人事件を解決するという長編ミステリー。

 316p津軽人、東北人の人間性、中央への不信、結束の固さ、反面の偏狭さ。喜びや誇りの裏に、含羞と自責の念、成功したことを恥じる気持ち。著者自身も幼い頃は東北の育ちではあるが、日本中を駆け回って取材した中で触れ合った人々が比較の対象になっているのかもしれない。それは民俗学的考察でもあるように思う。

 津軽人を決して否定はしないけれども、犯人(加部)をして、「もはや津軽人ではない」、と断じるところは、さすがに著者の中の東北人の矜持がそれを許さなかったのかもしれない。

 日本の原子力政策を支えている青森県であるが、その背景には福島とはまた別の、また沖縄とは異なる厳しい自然環境と津軽人の止むに止まれぬ決断があった。

 「~殺人事件」について
 あとがきで、ミステリーのお題の「~殺人事件」多用について、それは「無印・良品」だという屁理屈が述べられている。以前に、「火サス」「土ワイ」等で毎週々々「殺人事件」ばかり登場するのはいかがなものか、そんなに毎週々々殺人事件ばかりあってたまるか、というクレームを書いたことがある。しかし、著者が言うには、商品の中身をそれと判るように訴えるには、これが今の所最も適切であり、他に適当なものが見当たらないということらしい。確かにそう思わないでもないが、それを作家が言うのはちょっとどうかと思う。



我が闘争

2019年10月11日 12時45分21秒 | Review

堀江貴文/幻冬舎文庫

 2016年12月10日初版。別段好んで読んでみようと思ったわけではないが、とにかく目の前にあったので手に取ってみた。著者と言えば「ライブドアの社長」ということで、それはあまりにも有名で、知らない人は居ないくらいの人である。お題は随分いかめしく、何か殴られそうな雰囲気であるが、中身はそんなことはない。幼少の頃から始まって、刑務所を出るまでの間の紆余曲折の自叙伝である。
そもそも著者は幼少の頃から人並み外れた能力の持ち主で、それがために、周囲の同級生や両親さえも理解し難い疎外感を抱き続け、しかし持ち前の合理的な性格の元、頑張り続けて来たのだということがよく判る。人並みの凡人には理解し難いことだとも思う。

 そんな中で、小学一年の頃、曽祖父が亡くなった。このとき「死の恐怖」を知る。人はいずれ死んでしまうという現実、人生は有限であるという現実、そして「死」はある日突然やってくるという体験によってパニックに陥る。昨日まで話をしていた人間が、いきなり物言わぬ物体と化してしまうことに、誰しも戸惑い悲しみを抱くことはあるだろう。著者も確かにそうだったのだが、その合理的な性格の為か、おそらく人並みの感覚では推し量れない「時間」というものを知ったのだと思う。それゆえに、設定した目的に向かってあらゆる方法を駆使して合理的に猛進し続ける。そこには一瞬たりとも無駄にできないという(脅迫観念的)時間感覚がある。またそれ故に、目的に関連のないあらゆるものは不要なものとして即決排除されるのだ。

 小学生時代、周りの同級生達が「なぜ、それが解らないのかが解らなかった」という下りがある。
著者のように東大入試を6か月で準備できる人はやはり稀なのであって、大方は同じことを何度も繰り返して、どうにか理解するというのが大多数なのだと思う。

 人間、基本的にはグータラである。
著者は「僕は放っておけばいつまでもウジウジとネガティブな思考を転がしてしまう人間なのだ。だからこそ、無理矢理、目の前に集中すべき案件を掲げ続け、そこにハマる状態になるように努力していたのだ」と打ち明けている。並の人間とどこが違うのかよくわかる部分である。

 あの超積極的で合理的でアグレッシブな人間が、独房の生活の中で、差し入れられた切り花に対する思い、フカフカの布団の有難さ、色紙の寄せ書きに号泣してしまう。
 しかし、刑務所に入ったからといって、何も変わらない。ほんの少し人間が丸くなったかもしれない。それは「刑務所に入ったから」ではなく、ただそれなりに年齢を重ねたからなのかもしれない。著者も今は46歳。がむしゃらに走り続けた20代、30代とは違う。ものぐさで何事にもやる気の起きないグータラな自分と比べて、今日も「目の前のやるべきこと」に全力集中して熱くなっている、そんな著者が羨ましい。しかし、そんなことを言っていると「せからしか!」と叱られそうだ。


任侠書房

2019年10月09日 12時56分08秒 | Review

今野 敏/中公文庫

 2007年11月25日初版、2015年9月25日改版。著者の作品は2015年の「義闘」から始まって「山嵐」「欠落」「遊撃捜査」「パラレル」「熱波」「隠蔽捜査」「陽炎」「初陣」「去就」と続く。特に選んで読んできたわけではないが、やはり警察モノ、そして武闘モノというイメージがある。そんな中で今回の作品は、お題からしてやはり武闘モノかと期待した。しかし、読み進んでみるとちょっと違う。
今までの著者のイメージを覆す、随分ソフトな武闘モノだった。

 ローカルな昔気質の小さな組が、「企業再建」に乗り出すというもの。ただし、引き受けた仕事の流れや組長の気まぐれで極めて消極的に仕方なく、である。何かしら計画がある訳でもなく、ひたすら目の前の困ったことに真剣に対応することで道が開けてゆく。こんな風にうまくいくことは現実的ではないし、夢のような話であるが、そこは小説だ。

 最終的には、いい方向に向かったところで、やはりヤクザは撤退するのだが、そこは納得。そのまま企業を再建し業績を向上させて継続できるのなら、何もヤクザを続ける必要はない。それが出来ない所にヤクザがある。それに、この作品に登場するヤクザには偽悪というものがない。本来、もっと狡猾で弱きを挫き、付け込んで搾り取り更に底に突き落とすのがヤクザのやり方だと思うから。
唯一の武闘シーンは所轄の刑事と若衆・志村真吉のやりとりくらいではないだろうか。極め付け、刑事の息子が放火犯というのも、あまりにもストーリーが出来過ぎていて、こんなに調子よく展開してしまってもいいものだろうかと思わず感嘆してしまった。


教室の亡霊

2019年10月06日 13時36分35秒 | Review

内田康夫/中央公論新社

 2010年2月10日初版。シリーズNo.107。著者としては珍しく、今回は「教育界」の不正を背景にした話である。不正の成り立ちは、やはり「教員採用試験」に関わるもので、民間以上に情実やコネがまかり通る世界である。そこに県議会議員が介在すれば、更に不明瞭な采配が行われることは明らかである。このような事実が発覚するたびに、教職の「神聖」は失われて来たというのが現実である。

クレーマーというのも、そんな背景があっての出現なのかもしれないが、そもそも教職或いは教育委員会等に携わる人間だけが「神聖」であるはずもなく、正義の警察に冤罪や不正があるのと同じように、教育もそれ以上に閉鎖的な職域の一つであることは確かだ。

 しかし、こと「教職」だからといって、どんな試験をしてもどんなコネを採用しても不実な人間が紛れ込むことは避けられない。それが人間社会の現実である。そこに不正を織り込めば尚の事、歪んだ世界を作り出してしまう。一旦開かれた「口添え」が「物品」になり「実弾」になることは目に見えて明らかである。田舎の学校で、父母が自分の子供が世話になっているからといって独身の担任に菜っ葉や大根、人参を手土産にする無償の感謝とは訳が違う。

 事件はそんな教育界の問題もあるが、今回はどちらかというと、もっと個人的な「怨恨」に近い動機がある。個人的であるが故に、何故かホッとするものがある。それは、これ以上「聖域」を貶めたくないという(希望的)心境があるからかもしれない。