つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

時と永遠

2022年01月31日 16時49分37秒 | Review

波多野精一/岩波書店

 1943年6月25日初版、1972年8月15日改定初版、1975年5月30日改定第三版。この本は45年ほど前にいつか読んでやろうと購入したもので、本棚の隅にずっと鎮座していた。大学の宗教哲学の教科書でもあった。少し読み始めたこともあったかと思うが、あまりにも哲学的でしかも旧文体、旧仮名遣いで挫折してしまったように思う。ここで突然読み始めたのは他に適当な本が見当たらなかったからである。

 「時」は人間の生にとって避けることの出来ない絶対的な有限と認識されるものだが、ここに認識論の限界のようなものがある。この限界を宗教(信仰)的展開によって克服し、永遠性を得ることを試みたのが本書の趣旨と言えるだろう。生の一線を画す「死」というものの認識は、宗教をもってしても簡単に説明し切れるものではないが、過去があり、現在があり、将来があるとしたら、永遠も無いとは言えないだろう。宗教(信仰)は、その永遠の方向を示す道案内としての役割を果たせるものであるという。そして目的達成(永遠に達する)と同時に、この道案内は不要となる。ここに、単なる宗教ではなく、哲学的論理性があるのだが、いかんせんその展開は、著者も述べるように「あらゆる理論的探究の超越」なのであって、現実に生きる主体(自己)にとっては、やはり理解し難いものがある。

 本書によれば、現実に生きる主体(自己)はこの現実に踏み止まる限り、生ずるはいつも滅び、来るは常に去る。絶え間なき流動推移、この時間性を克服することはできない。主体は自己の存在を所有はするが、その所有は直ちに喪失であり、いつまでも確保に至らない、のだという。
 宗教的な展開で「信ずるものは救われる」などというケチなことは言わないが、凡人にとって、その一歩を踏み出すことは容易なことではない。

 自然的生(主体はその都度の現在に生きつつ、その現在がその都度滅びゆくを体験するのみ。死はあらゆる時を包括する現在の消滅を意味する)に甘んじ、これから逃れようとも思わない。逃れることが出来るとも思わないが「生のみを思って死を思わぬ点においては未開人も大思想家スピノザと同じ」と言われてしまっては身の置き所も無い。しかし「死」の認識と「永遠」は深く関わることは解るような気もする。

 本書は「人間に対する性善説的な願望」に徹して(人間性を信じて)永遠を解釈したものであるが、著者が洗礼を受けたこととの関係は決して浅くはないだろう。




長いお別れ

2022年01月24日 15時07分36秒 | Review

Raymond Chandler、清水俊二訳/ハヤカワ文庫

 1976年4月30日初版、2013年4月10日第78刷。ミステリー作品として、よく引き合いに出されるもので、これもいつか読みたいと思っていた一冊である。70年近く前の1953年に発表された長編の作品で、舞台は花のハリウッドである。主人公は独身の私立探偵(フィリップ・マーロウ)だ。
 この頃「私立探偵」の設定はひとつの流行りであったかもしれないが、日常的な生活の中からサスペンスが湧き出す厭世的リアリズム、この手法が新しい「ミステリー」の先駆け、新しいスタイルの作品だったのかもしれない。言葉のやり取りはいささか古いが、今読んでも十分に面白い。

 最後の最後、どんでん返しはこの手の作品に付き物だが、最初テリーと出会ったとき、状況説明の中で「整形」が登場したことで、これがKeyになるな、という予感はあった。顔や指紋を変えるというのはミステリーには不可欠的要素なのだが、それがこの結果かと納得する。

 主人公のフィリップ・マーロウはほかの作品にも登場するようで、シリーズとしても読めるものになっているらしい。機会があれば、「さらば愛しき女よ」や「さようなら、愛しい人/村上春樹訳」も読んでみたい作品だ。




手仕事の日本

2022年01月12日 17時25分20秒 | Review

柳 宗悦/講談社学術文庫

 2015年6月10日初版、2020年10月6日第三刷。これまた以前から気になっていた、読んでみたい本の一冊である。著書の後記は1943年正月となっている。何と80年も昔の話である。一種の「文化論」或いは「芸術論」であろうか。「美」とは何か、という一つの見識でもあると思う。それにしても、日本はこうもあまねく隅から隅まで「紙」の文化であり「織」の文化であり「焼」の文化であったのかと思い知る。そして悲しいことだが、伝統文化であっても流行り廃れがあり、時代の流れに抗して真に「美」を維持し続けることの難しさがあった。「美」を見失い細に過ぎて崩れていくのを見るのは忍びないが、復活もあるのだから捨てたものではない。

 著者の持論は「有用であり、健康であり、単純である」中にこそ「手仕事」の真の「美」があるというもの。だからこそ、素朴でありながら力強く、勢いがあり生き生きとしているという。健康であることは無事であり、尋常であるということ。もっとも自然な状態にあること。

 「日々の生活こそ全てのものの中心であり文化の根元」である。そして「生活をより深いものにするためには「美」と結ばれねばならない」という。そしてそれを仲立ちするのが器物であるという。「作品」と言わず「器物」というのは署名の無い実用のモノだからである。

 一見「いろいろな制約、束縛、不自由さ」がありながら、実用であること、用途に敵うこと、必然の要求に応じることで、確かさを受け取ることが出来る。余計なものが削ぎ落された単純で「健康な美しさ以上に、この世に幸福をもたらすものは決してない」と言い切る。

 真の「手仕事」は街の中心から少し離れた「雑貨、荒物、雑器」屋にあるらしい。正常の美、「渋さの美」は単純な姿を離れては存在しないという、今も変わらない「モノの見方」つまり「美」について、改めて教えてくれる一冊だった。




遠野物語

2022年01月08日 18時10分11秒 | Review

柳田国男(佐藤誠輔訳)/河出文庫

 2014年7月20日初版、2021月10月30日第11版。(1992年7月初版の改訂版)何かに付けて登場する柳田国男の「口語訳・遠野物語」、いつかは読みたいと思っていた一冊である。

 明治42年(1909年)佐々木鏡石さんから聞いた話し、ということで物語は始まる。明治42年といえば、もう113年も昔の話しである。更に43年前は徳川慶喜によって大政奉還が行われた時代である。「口語訳」が必要な程古い話しなのだが、はたして「都会人を心底からこわがらせ、目ざめさせる」ことができるのだろうか。

 遠野は花巻から釜石を結ぶ東西「釜石街道」の中ほどにある山深い所である。北に延びるR340もあって、交通の要所でもあったのだろう。
「遠野物語」は、とても短い、数行から数十行の「話し」で、119遍が収録されている。いわゆる「昔話し」なのだが、では「日本昔話し」とどこが違うのか。御伽噺的なものも数点含まれているが、話しの多くは「体験談」であり、内容はともかく一応「現実」である。例えば、99話の「大津波」は明治29(1896)年6月15日の現実(三陸大津波)であり、実体験なのである。遠野と言う山深き里にあって、八百万の神々と共に、野や山、森や岩、川や淵に思いを馳せる人々とその体験を通して、ここから民族性、精神性を問うということなのかもしれない。

 それとは別に、柳田国男自身が、遠野の話を舞台にして「言葉を厳選し、誇張や創作を避け」、その「民族性、精神性」に厳密に配慮しながらまとめたことが歴史的にも文学的にも重要だった。話しの多くは「生と死が地続きで往還している」、その境を「結界」として認識する死生観である。視点を変えて様々な考察がなされる「遠野物語」である。

 「原文・遠野物語」は、1910年、自費出版ということだったらしい。これは古文書を紐解くようで難しいだろう。そこで登場するのが「注釈・遠野物語/遠野常民大学」である。そして、これに対を成すのが「口語訳・遠野物語/佐藤誠輔訳」であるという。「口語訳」は現代に於ける「遠野物語」の入門書になるのかもしれない。もう少し理解を深めるとすれば「原文」は難しいとしても「注釈」は読むべきなのかもしれない。



泥濘

2022年01月04日 15時06分47秒 | Review

黒川博行/文春文庫

 2021年6月10日初版。今回は「病院の診療報酬詐欺」、珍しく桑原が持ち込んで来たヤマだ。分厚い。578pもある。何だか得したような気分で読み始めた。桑原は嶋田が代を継いだのを機に二蝶会と復縁、若頭補佐になったらしい。

 桑原は、診療報酬詐欺の本当の被害額は2億だという。カネの匂いを嗅ぎつけ、起訴猶予された奴(小沼光男、岸上 篤、他)から剥ぎ取る気でいるらしい。調べているうちにオレ詐欺という別件が浮かんでくる。診療報酬詐欺同様事件の背後にいるのは警察OBの「警慈会」メンバーだった。
 普通なら適当な所で切り上げるとかするのだが、イケイケの桑原は意地でも引かない。これはエライことになったと思っていたら、案の定撃たれてしまった。主人公の片方が死んでしまっては話が続かない。しかしかなりの重傷である。

 まあ、話の筋は本を読んでいただくとして、ヤ印さえ怒る社会悪というか、悪が悪を制すというか、この辺が著者の「社会派的」作品の一面でもある。また、犬猿の仲であるはずの中川刑事が桑原の求めに応じて情報を流し、ある意味助けるのだから面白い。しかし、全面的に相互信頼するような甘い関係ではないのだが、何だか「気の置けない同族意識」のようなものが漂っている。その微妙な駆け引きは、それを見ている二宮も似たようなものだ。この辺の微妙なズレ、歪んだ関係が実に面白い。これも「大阪人のサービス精神」なのであろうか。

 最後に「悪党どもが一網打尽」となって(小説なんだけど)何となく安心した。




雨に殺せば

2022年01月02日 13時58分20秒 | Review

黒川博行/角川文庫

 2018年4月25日初版、2018年8月5日第三版。(2003年11月、創元推理文庫、初版)この作品は先日読んだ「二度のお別れ」の続編ということになっているらしい。黒まめコンビは黒田がいつのまにか黒木になっているが、亀やんは同じ。他、上司も同様の人物配置になっている。黒田が黒木になったのは「あとがき」にその理由が記されているが、決して誤記ではない。

 読み所は、著者が「あとがき」に記しているように、305p「大阪人のサービス精神あふれる思考形態、ある種下品なユーモア、バイタリティー、少しばかり怠慢志向のキャラクターを愉しんで」と言っている通りなのだが、読んでいて思ったことは「ボケとツッコミ」付の「刑事コロンボ」だった。それと「亀やん」の閃きが気になった。この手の話はどうしても理詰めで展開するのだが、そのきっかけは「閃き」である。まあ、「超能力」が出てこないだけマシなのだが、お好み焼きといい、ソーサーといい、この「閃き」だけが合理性に欠けるように思えてしまうのがちょっと残念。いや「閃き」とは、そうしたものかもしれないのだが。

 これがやがて「二宮と桑原」のあの微妙な人間関係に発展するのかと思うと、実に興味深いのだが、それを筆で描き分けること自体、驚嘆してしまう。