つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
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小説家という商売

2013年01月23日 17時29分37秒 | Weblog
 世の中広しと言えども小説家という商売ほど面白いものはない。先ず必要な道具と言えばペンだけで、それも鉛筆でも万年筆でもボールペンでも何でも構わない。パソコンを使うならばペンすら必要としない。昔は原稿用紙を使用していたかもしれないが、今はその紙すら必需品という訳でもない。ただ頭の中に浮かんだ妄想を思うがままに書き綴ることで商売になっている訳だから不思議と言うより他にない。これほど単純で元手も、材料も、肥料も必要としない商売は他には見当たらない。塚原卜伝もあきれるほどの無手勝流なのである。

 しかも、本屋さんに並んだものは手に取ってパラパラ見ただけでは本当の価値(面白さ)は判らないと来ている。通常、モノを購入するに当たっては形や色にこだわり、触れてみたり眺めてみたり試食したりもする。しかし、本はこれが出来ない。勿論外見は大事である。いわゆる装丁というものだが、これが中身を反映した(果物よろしく)いかにも風なもので誠に良くできているものが多い。その意味では小説の「お題」と良く似ている。この2つで手に取るかどうかが決まるのであれば、中身(正味)とは関係なくリキが入るというものだ。その意味では単行本は確かに一冊の本として中身、外観共にそれなりの完成度が求められる。但し、相変わらず中身を読んでみなければその価値は判らないのである。

 世の中、中身(内容)と外見(説明)が異なることで、詐欺という行為がある。しかし、何故か本にはそれがない。いかに中身が無い、面白くも何ともない本を立派で魅惑的な装丁に惑わされて買ってしまったとしても、それを詐欺だと言う人は聞いたことがないのである。言い方を替えれば、これほど正々堂々と詐欺を働いている商売はないのでる。

 そもそも最初から、頭の中の荒唐無稽をもっともらしい文章にして書き連ね、さも自分が目の当たりにしてきたかのように語り、読者を煙に巻いてうやむやの内に結論を先延ばしする。終いには書いている本人も何が何だか判らなくなっている。そんなものを活字にして立派な装丁をしつらえて人に売り付けのだから、本来詐欺と言わずして何と言えば良いのだろう。考えてみれば、人間が発明した商売の中でもこれほど不思議な商売はないのではないだろうか。

 しかし、それを知りながら買って読むのがこれまた有り難い読者なのである。早い話が詐欺に遭うのを楽しむようなものである。読者は、それがあらん限りの怒りとか憎悪であっても、或いは最悪な絶望であっても、とにかく「他人が何を考えているか」知りたいのである。実の所「他人が何を考えているか」も気になるが、読者は自分自身においても知りたがっているのである。そんなことを考えるのは自分だけではないだろうか、といった不安、或いは表現しがたい焦燥感、無力感、ある種の不満といったものを小説の中で見つけて、主人公とともに解決するのは何と楽しいことか、思わず共感し、安心し、感動さえしてしまうのである。

 小説家の神髄は、読者の「知りたがり」をいかに満足させるかに掛かっている。例えそれが荒唐無稽と言われようが妄想と言われようが。



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