千代田印刷機製造(旧千代田活字)。千代田区猿楽町1-6。1987(昭和62)年1月4日
写真右端は錦華公園の北側を山の上ホテルへ登っていく坂道への三叉路になる。背後のアパートは東京国税局神田寮。看板は「千代田印刷機製造株式会社/活字販売部」で、住宅地図では活字販売部の向かい(猿楽町1-5)にも千代田印刷機製造と記されているからそちらが本社ビルにでもなっていたのだろうか。
屋上の構造物がなければどうということもない建物で、たぶん写真も撮らなかっただろう。屋上への出入り口にしては大きすぎるし、ドイツ表現派なんかも想起される。とにかく建物本体と屋上の構造物とがマッチしてない。
歴史的建築総目録DBでは『千代田マシナリー第一別館(旧千代田活字)、昭和初期、鉄筋コンクリート造3、設計=竹田組』。
廃景録>消えた近代建築の記述からも建物自体がかなり改装されているのだろう。
建築散歩ARCH TEKU TEKU というサイトの「15/お茶の水~駿河台」に、2004年春、解体中の建物を撮影した写真が載っている。古い建物を入れておいた箱を取り去った感じで、半円形の張り出しが下まであったことが分かる。ネットで見ることができる唯一の竣工時に近い千代田活字の写真ではないかと思う。
千代田活字。1985(昭和60)年7月21日
1枚目の写真とは逆方向から撮った写真。3階の部分が少し見える。半円形の屋根から煙突のようなものが突き出ている。
千代田マシナリーという会社は2002年10月に倒産したらしい。BFnews No.268 2002.11 の記事には『同社は大正11年に設立され、活字販売や印刷機製造をしていたが、昭和30年代に商事部を新設、全国に営業拠点12ヵ所を置き、河本精文社など他のディーラーが経営不振になった部分などを次々に吸収、拡大路線を進み、小森やミヤコシ、松下の電子組版機、その他の機械や材料販売を進め、印刷機・資材の総合商社としてピーク時の1998年1月期には 225億円の年商を上げ、連続22年間にわたって高額所得法人の常連となっていた。』とある。
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今度は千代田活字ですか!
よくぞ撮っていてくれました。
リンク先の解体途中の写真はすごいですね。
まさかこんなモノが隠れていようとは!
私も直にこの現場を見たかった・・・。
その建築散歩の作成者へリンクしたことをメールしたのですが、折り返し当ブログを褒めていただきました。
以上、自慢してみました。
昭和初期のモダニズムの雰囲気が濃厚な建物ですね。
それから曲面の部分と道路側の部分はそれぞれ別々の時期に建ったようにも見えますね。
既に無い建物も、せめてこうして写真記録を残して頂いたていたことに感謝です。
改装されたらしい2階建ての箱型の部分を3階にしていたら、屋上部分は隠れてしまって、誰にも見取られることなく消えていったという事態になったかも知れません。
建物の所有者が屋上の特異な造形を隠すに忍びなかった、と考えておきます。
河本精文社がいま経営していますか。
私の友達が18年前にその会社から機械を買いました。
でも,最近,機械のアクセサリーが壊れたから,河本精文社に連絡したいんです。
おねがいします。
ほかの手段で探索なさるようにお願いします。
河本精文社は関西の印刷機器の材料商でした。東京には後楽園の近くに支点があり、手広くあきないをしていましたが、1970年代に倒産して、残存部門は千代田マシナリーげ継承しましたので、なにも残っていません。
【勝手なお願い】
タイポグラフィ・ブログロール「花筏」で、「平野富二と活字」と題する連載を投稿中です。東京築地活版製造所の大正期のビルは、一度だけ取り壊しまえにみましたが、当時はカメラも気軽ではなく、撮影記録は持っておりません。
取り壊し前でしたが、ドイツ神秘主義の影響があるのか、とても不気味な建物でした。資料をお持ちでしたらご紹介いただけると幸甚です。
貴ブログの写真を見ると大正期のビルにしては先鋭的なデザインだったようですね。昔の地図で場所を確認すると、万年橋の北の祝橋に正面を向けてL字形の平面のビルになっています。
「千代田印刷機製造」の写真は塔屋の奥が写っていて興味深いものでした。
タイポグラフィ(初めて聞く言葉のような気がします)の研究に、会社の建物にまで興味を伸ばしておれられるのに驚嘆したしだいです。
まもなく『平野富二伝』(古谷昌二)が発行されますので、その全貌が明らかになると存じます。
タイポグラフィは、「活版印刷術」と訳されていますが、デジタルタイプをふくむ文字活字を中心とした造形のことを指すようです。
今後ともご教示のほどお願いいたします。