ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




タイル張り総三階建ての家。西神田3-6。1986(昭和61)年9月23日

堀留橋の通りにあった一見ビル風の家。スクラッチタイルが貼られている。写真中央の家の左側のガラス戸に「筆美」の字がある。Print ShopのFudemiだ。



1枚目と同じ家の玄関。1988(昭和63)8月15日。この構えはおそらくテーラーだったと思える。



五軒長屋。西神田3-6。1988(昭和63)年1月15日

すでに看板がなくなってどんな店が入っていたのか判らないが、住宅地図ではこの商店長屋に「木村製本」「ローライ堂」があった。この日、奥から2軒目の家の玄関前に着物姿の老婦人が椅子だか箱に腰掛けて水道橋西通りの方を見ていた。もしかして最後の住人?


2008.02.13追記
五軒長屋
1988(昭和63)年8月15日

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コメント
 
 
 
懐かしいです (シュンジ)
2009-02-12 22:16:26
本当に懐かしいです。
テーラーは神保さんといいます。
5件長屋の一番左がローライ堂さん
真ん中が木村製本さん
その間のほっそいのが私の住んでいた家です。

長屋の隣の3階建てが大家さん。
奥の牛乳屋さんでは調理パンも売っていました。

ちなみに私の本籍はまだ西神田3-6です(苦笑

有難うございました。
 
 
 
>シュンジ様 (流一)
2009-02-13 18:18:09
当ブログへの訪問とコメントをありがとうございます。
シュンジさんのブログを拝見しました。少年時代の約10年間を西神田で過ごしたわけですね。人生で最も思い出に残る時期だと思いますが、その頃を都心の神田で過ごすというのはどんなものだったのでしょうか。東京では子供の頃に見たものがなくなるのは当たり前で、町ぐるみで変わってしまうのも例がないわけではない……。と割り切れるわけはないですね。
当の長屋の写真がもう1枚あったので追加しました。
 
 
 
その方は (シュンジ)
2009-02-14 12:09:35
横山さんのおばあちゃんです。
旦那さんは大工の棟梁でした。
確か葛西の方に息子さん後夫婦と転居されたと聞きました。昭和60年の時に80歳くらいでしたから今御存命だと相当のお年だと思います。

西神田小学校から一橋中学という時期を過ごしたのですが長屋の裏手は舗装されていない道でした。
私は自称「神田最後の世代」と名乗っています。
 
 
 
懐かしいですに懐かしいです (ヒデ)
2010-08-17 16:28:15
昭和の33年から2年間ほどローライ堂(一番左)の隣に住んだ辻野です。ローライ堂は近西さん、うちの隣が萱岡さんそれに鈴木さんですか?木村製本さんに大家のタバコ屋さんでした。私は西神田幼稚園から小学1年生になった時、父の申し込んだ千葉の団地が当たり35年にここを出ました。中学に入って神保町に戻りましたが、そののち地上げがあり今はこの通りも、ななめ前の水勝(八百屋)さんもなくなりました。人情味のある大変暖かい街でした。
 
 
 
行水もできました (ヒデ)
2010-08-17 16:43:45
長屋の裏には路地があり真ん中には井戸、真夏の暑い盛り行水をした記憶があります。道幅は1.5m位だったでしょうか?
 
 
 
>ヒデ様 (流一)
2010-08-18 11:09:09
コメントをありがとうございます。以前コメントを頂いたシュンジさんと同じ家に住んでいられたようですね。どうも驚きました。小学校に上がったときに長屋を出られたということは、4・5歳の時の記憶で書いていられるのでしょうか?
改めて『あの日の神田・神保町』(武揚堂、2008年)の火保図(昭和27・8年頃)を見てみました。ヒデさんの住んだ時代の5年ほど前の地図になるでしょうか。長屋には「近西製本、磯田、木村、山崎、菅国」そして「岡野タバコ」。水道橋駅に至る大通りとの角は「土屋薬局」と「村上小間物店」。長屋の向かいは、大通りのほうから「八百ヤ、須藤、飯島、製本、岡田」という記載でした。
 
 
 
流一様 (ヒデ)
2011-02-03 17:55:15
家の前で祭があったときに撮った写真の記憶があります。探してみます、あれば提供できそうです。私も後数年で60になります、実家にあればいいのですが・・・近西さんはおばあちゃんが製本をされていたんでしょう、息子さんの時代に写真館になりさらにそのせがれと友達になりました。
弟の同級生が萱岡さんでした。
 
 
 
>ヒデ様 (流一)
2011-02-04 14:16:09
昔は自分が住んでいる家の写真などあまり撮る人はいなかったようです。私は今の家で4軒目になりますが、昔の3軒の家は全景を撮った写真は残っていません。
ローライ堂は写真館だったのですか? 店名に由来などがあるのでしょうか?
 
 
 
ローライ堂さんの由来 (シュンジ)
2011-02-12 22:53:02
お久しぶりです。ローライ堂さんの店主は、文字通りRolleiの二眼レフで証明写真を撮影されていたそうです。私の小さい頃はポラロイドでの撮影になっていました。

ヒデ様
私がローライ堂さんの隣に引っ越してきたのが昭和51年ですから先輩ですね。私の前に居住されていた方にネットで知り合えたのも感慨無量です。
私は西神田小学校から一橋中学をこの長屋から通いました。水勝さんも江戸川区に移動されたと聞きました。
 
 
 
>シュンジ様 (流一)
2011-02-13 14:07:47
「ローライフレックス」の名前は聞いたことがあります。二眼レフは昭和30年代にはやって、我が家にもありました。ローライのコピーの日本製でしたが。
そういえば昔はちょっとした写真屋さんなら証明写真の撮影もやっていましたね。今は街の写真屋さん自体がなくなりました。
 
 
 
Unknown (妻が)
2012-03-11 16:33:17
こちらの家に住んでいたようです。
懐かしく驚いています。
当時の記憶はあまり覚えていない様ですが。

ありがとうございました。
何かブラタモリです☆

ちなみに今はビルになってますが向かいのモスバーガーから
コメント打たせてもらってます。

 
 
 
>「妻が」様 (流一)
2012-03-12 14:47:37
「向かいのモスバーガーから」というと、五軒長屋のようですね。とすると、住んでいられたとコメントされてきた方は3人になります。どうも驚きました。奥様がまだ幼い頃のことだったようですが、いつ頃になるのでしょうか? 奥様のご両親にも当ブログを見ていただきたいですね。
 
 
 
写真がありませんでした (ヒデ)
2012-05-22 17:37:27
実家で散々当時の写真を探しましたが出てきませんでした。ローライ堂のおやじさんには中学から高校にかけて将棋を教わりました。礼儀正しい人で長男とは友人でしたので大学を出て結婚するまでここには出入りをしました。私と同級になるお姉さんがいました。ご健在であれば59です。
 
 
 
私も・・・・ (ヒデ)
2012-05-22 17:42:04
シュンジさん 
私も昭和35年に千葉に越してから6年生の時に神保町に戻り西神田小学校、一ツ橋中学というコースでした。しばらく近西さん、萱岡さんと講道館に通っていました。
 
 
 
>ヒデ様 (流一)
2012-05-24 11:09:55
写真の件は残念でしたね。資料はどんなものでも整理しておかないと取り出すのが大変です。
一度出てしまった五軒長屋とまたつながりが出来るというのは、なんだか不思議ですね。ローライ堂の息子さんとは小学校で再開したのだと思いますが、顔で分かりましたか?
 
 
 
テーラーではなく (土屋薬局)
2018-12-07 23:46:27
この写真の端に写っている土屋薬局の者です。
このガラス張りの店はテーラーではなく、チカニシ写真館でした。
チカニシの漢字がなんであったか思い出せないのですが。
懐かしい画像を見せて下さってありがとうございます。
土屋薬局の画像もあったら嬉しいのですが、ございませんか?
 
 
 
間違いでした (土屋薬局)
2018-12-08 01:03:47
先程、コメントしましたが、誤った内容でした。
すみません。
他の方のコメントを拝見し、『そうだった!』と思い再度投稿させて頂きました。
長屋の一番手前にかろうじて我が家のトタン壁が写ってます。
一番奥の牛乳屋さんの方と同級生でした。
懐かし写真をありがとうございます。
 
 
 
>土屋薬局様 (流一)
2018-12-09 12:01:46
残念ながら土屋薬局を撮った写真はないようです。再開発ですっかり変わってしまった地区、もう少し細かく写真を撮っておけばよかったです。
1枚目写真の建物を古い地図で見ると、左の3階建ての家が「テーラー ソメヤ」、中央の瓦の見える3階建てが「神保洋服店」。専修大学の学生が社会人になるときに注文にきたのでしょうか。右に電柱の間に見えている看板は「田島印刷」、その右、西神田交差点角に「シェル石油のスタンド」でしたね。
 
 
 
取り壊された時 (シュンジ)
2019-04-29 09:44:28
もう20年位になりますが、長屋が壊される時、通りかかりました。
昨年生まれ育って40年以上過ごした東京を去り福岡市に移住しました。もう東京には戻らないでしょう。
でもこのブログを拝見すると懐かしい思いがこみ上げてきます。

このブログは、文化的価値が凄いと思っています。是非サーバだけでなく現実の文化的資料として後世に残してもらえたらありがたいです。
 
 
 
>シュンジ様 (流一)
2019-05-01 11:27:50
福岡市へ移られるのはやはり仕事の関係でしょうね。九州は観光で何度か行っていますが、ツアーで回るので有名な観光地へ直交してしまい、まだ博多や門司に行ったことがありません。
当ブログを別の方法で記録できないか、と言っていただきましたが、難しいでしょうね。「文化的価値」というのは少し大げさのようにも思いますが。
 
 
 
Unknown (妻がさんの義兄)
2019-08-23 15:20:22
今さらですが、妻がさんの義兄です。
昔、ここに住んでいました。
妻がさんの言っている妻は私の妹になります。
懐かしいです。家の全景写真はないので驚きました。
昭和62年までこの家で暮らし、この辺りの開発のために立ち退くことになりました。
ちなみに別写真に写っている自転車の子供は私のいとこで、たまたま遊びに来ているときのものですね(笑)
 
 
 
>義兄様 (流一)
2019-08-24 12:20:02
古い住宅地図で見ると「神保洋服店」ですね。あるいは「テーラー神保」といったのでしょうか? 義兄さんも撮影時では、写っているいとこの方とあまり違わない年齢かと思います。「西神田3丁目6-2」という住所などは覚えているのでしょうね。
建物ですが、スクラッチタイルが貼られていることなどから、昭和初期に建てられた木造3階建てかと思われます。店の造りは戦後のテーラーによく見られた様式なのですが、こういう造りが昭和初期からのものなのか気になります。なにかご存知でしょうか?
 
 
 
Unknown (妻がさんの義兄)
2019-08-25 08:12:44
コメント返信ありがとうございます。
母に確認したところ家が建てられたのは関東大震災の直後とのことなので大正12,3年頃らしいです。
店の名前はテーラー神保です。
 
 
 
Unknown (妻がさんの義兄)
2019-08-25 08:41:09
少し訂正します。
家が建てられたのは関東大震災後なのは間違いないですが、家が建つまでの時間的には震災から数年後らしいので昭和初頭のようです。
 
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