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佐藤理髪店。中央区新富1-6。1982(昭和57)年
新富町は空襲での焼失を免れているので、バブルの前には戦前の木造の建物もかなりの数が残っていた。有名なのは植村邸の銅版の看板建築で、江戸東京たてもの園に移されて今でも見ることができる。佐藤理髪店は『建築探偵の冒険』(藤森照信著、筑摩書房、1986年刊)や、『乱歩と東京』(松山巖著、PARCO出版局、1984年刊)が、豪華な店内の写真を載せているので、けっこう知られていたのではないかと思う。
場所は新富橋から新大橋通りに出る新富町のメーンストリートの新富橋の近くにあった。「森永牛乳」の左の家が今でも健在である。その右は宮堅医院だった家。
佐藤理髪店の建物で目を引くのは2階壁面の縞模様である。床屋だから赤青白に塗り分けて建物全体を看板にしてしまったとも考えられる。年月を経て写真のように退色したのかも知れない。しかしそんなものすごい建物では内部の造作と合わない。床屋の右に続く4軒の建物もカラーリングを施しているが、色調に統一がとれている。まるでテーマパークの町のようにも見えてくるが、実際にあった街並みなのだ。以前にトミー・リーアル・アドバイザーを掲載したが、そのファサードのデザインが佐藤理髪店と同じである。どうも町ぐるみでなにかたくらんだ気配がしないだろうか?
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新富町の懐かしい写真に出会えて感激しております。新富町の写真は書籍類に残っているものが少なく大変貴重な資料だと思います。住民も自分たちが住んでいた建物というのは、以外に写真に残していないようです。
この理髪店は噺家の橘家円蔵さんの親戚(?)関係のお店で、師匠が時々いらっしゃっていました。
何年頃から写真を撮り始められたのでしょうか?
電車通(今の平成通)の方の建築物もお撮りになっていらっしゃいましたら、今後ぜひ掲載していただけたらと期待しております。
私が古い建物を意識して撮りだすのは1985(昭和60)年くらいからで、当ブログで発表している写真も1986-1992年くらいが中心になります。佐藤理髪店の写真は例外的にそれ以前で、偶然写してしまった、といっていいようなもので、「お宝画像」の部類になります。
1件の記事で2・3枚の写真を載せていますが、この調子で新富町に関しては全部で30件くらいの記事にまとまるかと思います。
したまっちこさんは地元の方のようにお見受けしますが、「橘家円蔵」のような話題や間違いの指摘などをしていただければ幸いです。今後ともよろしくお願いします。
この近辺の建物は、銅板葺きやモルタルで簡易な装飾を施した看板建築ではなく、色彩も豊かでとても楽しいく独特のデザインの建物が多かったことが分かりました。
流一さんのコレクションは、まさにお宝画像の宝庫だと思います。
写真懐かしく拝見しました。
子供心にも立派な鏡、大理石の柱などの店内と、急な階段を昇っての二階、三階は探検しがいがありました。
風呂は無く銭湯に行っていました。電話も最期まで引かず、
通りの向かいの電気屋さんに呼び出しをお願いしていました。
建て替わった「ロイヤルプラザ新富町」は1983.4築ですので、佐藤理髪店の写真は取り壊し直前の姿のようです。
住所が「新富1-5」となっていましたが「新富1-6」の間違いでした。
祖父は退去まで現役で床屋を営んでおりました。おかげで孫としては中学生でも刈り上げ以外許されず、長髪なんてもっての外という被害?を受けていました。
店舗はかなり頑張って建てたことを聞かされていす。江戸っ子で金の使い方はキレイな人でしたので、世間から見れば分不相応だったかと思いますが、昭和の終わりでも安っぽい化粧直しなど不要の、しっかり作られた良いものを長く、大切に使うという昔の日本人が持っていた合理性とも言えそうです。
だんだんお馴染みさんが減ってきたこともありますが、店舗の土地は借地だったようでもうそろそろ?と肩を叩かれたのと、息子(私の叔父)が住んでいる松戸の団地に棟違いで空き部屋が出たのが閉店の理由です。
エピソードとして男はつらいよのタコ社長、太宰久雄さんが福島民報のテレビコマーシャルで店を使い、床屋役として祖父が抜擢されたこともありました。
娘(私の母)は亡くなり、倅(私の叔父)も昔を懐かしむ年齢になった時、有難い写真を拝見できました。
ありがとうございました。