ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





綱町三井倶楽部。港区三田2-3
2011(平成23)年9月13日(他も)

設計=ジョサイア・コンドル、施工=不詳、建築年=大正2(1913)年12月、構造=レンガ造2階建て地下1階。三井財閥の貴賓接待所として建てらた。コンドルの晩年の代表作である。明治43(1910)年に着工して完成まで4年を要した。当初は「三井別邸」と呼ばれた。
鹿鳴館があるようにコンドルは倶楽部建築を得意としたという。綱町三井倶楽部はルネサンス様式を基本に、庭に面したベランダなどにバロック的デザインも取り入れている。外見は石造りのように見え、構造のレンガは見えない。外壁は白色タイル貼りに隅石積み、また、コンドルの新しい試みとして小屋組みには鉄骨が用いられている。日本人建築家ではとても到達できない質の高さを至る所に見ることができる(『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)。
建物の南側には広い庭園が広がっている。本館と同じ台地上にある純英国風の西洋庭園もコンドルの設計。本館が完成後、その隣接地を取得して1919(大正8)年に着工、1922(大正11)年完成(三井広報委員会>三井の迎賓館・綱町三井倶楽部)。

内部の様子は『アクトデザイン凛太郎のブログ>綱町三井倶楽部』に、6回にわたる詳細なレポートがある。




明治末から大正にかけては三井財閥が飛躍的に発展した時期である。明治41年には三池港が開港し三池炭鉱の石炭の輸出量が増大。明治42年には「三井合名会社」(三井銀行、三井物産、三井鉱山などを束ねる持株会社)を設立、「三井慈善病院」を開院。三井合名会社の社長に三井総領家(北家)第10代当主・三井高棟(たかみね)、参事に團琢磨、顧問に益田孝というのがトップの布陣。この背景で綱町三井倶楽部の建設も出てきた。
三井高棟は明治43年に、團琢磨同行で7か月の欧米歴訪をしている。そこで高棟は三井家の迎賓館の必要性を感じた、という話がある。高棟はそもそも建築が趣味で、あちこちに日本建築の別邸を造っている。
大正3年のシーメンス事件、それに関連した「金剛事件」で三井物産の幹部が有罪判決を受けると、再度組織の変更を強いられ、益田が後退し、高棟と團の「名コンビ」の体制で三井財閥は大正期の繁栄に向かう(三井広報委員会>高棟・團の名コンビ誕生)。



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