きのうの朝日新聞に張本勲さんの被爆体験が載っていました。「姉のうめき声 今も耳に」という見出しです。
ご本人は小高い山のかげにお家があったこととお母様が上から覆いかぶさってくれ
たことで助かったらしいですが、勤労奉仕に行っていた6歳年上のお姉さまは数日後、全身ケロイド状態は運ばれてきたそうです。
・・・ここから一部引用・・・・
(前略)
お袋は娘がじわじわと死んでいくのを見ることしかできない。生き地獄です。いつ亡くなったのか、お袋は言わなかった。ですが、ある明け方、ものすごい声で泣いていたそうです。
広島の平和記念資料館には、2年前まで入れませんでした。2回ほど前まで行ったのですが、入れない。背中を押してくれたのは、勇気を出して資料館を見た、という小学生の手紙でした。
(後略)
・・・・・ここまで・・・・
張本さんの話は「どこに原爆を落ちたのかさえ知らない若者がいた。語らない自分が間違っていた。来年70歳です」と締めくくられていました。
語れない記憶を語れるようになるまで(語らなければならないと思えるまで)60年以上の歳月が必要だったのですね・・・
シリーズで続くそうです。
(きょうは映画監督の新藤兼人さんでした。)
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
コナシ
ご本人は小高い山のかげにお家があったこととお母様が上から覆いかぶさってくれ
たことで助かったらしいですが、勤労奉仕に行っていた6歳年上のお姉さまは数日後、全身ケロイド状態は運ばれてきたそうです。
・・・ここから一部引用・・・・
(前略)
お袋は娘がじわじわと死んでいくのを見ることしかできない。生き地獄です。いつ亡くなったのか、お袋は言わなかった。ですが、ある明け方、ものすごい声で泣いていたそうです。
広島の平和記念資料館には、2年前まで入れませんでした。2回ほど前まで行ったのですが、入れない。背中を押してくれたのは、勇気を出して資料館を見た、という小学生の手紙でした。
(後略)
・・・・・ここまで・・・・
張本さんの話は「どこに原爆を落ちたのかさえ知らない若者がいた。語らない自分が間違っていた。来年70歳です」と締めくくられていました。
語れない記憶を語れるようになるまで(語らなければならないと思えるまで)60年以上の歳月が必要だったのですね・・・
シリーズで続くそうです。
(きょうは映画監督の新藤兼人さんでした。)
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
コナシ