5月3日は、大日本帝国憲法の改正という形式を踏んでの日本国憲法が誕生(施行)してから、65回目の記念日である。
世俗を引き合いにするとは不遜、とのお言葉もあろうかとは思うが、長寿化など喫緊の諸課題を前にして論じられる、定年等就労環境の見直しの一案にも比肩する「65年」である。「憲法よ、長いこと有難う」のねぎらいの一言に心ばかりの花束も添えて、これからも益々お達者でと申したい気分でいる。
あの戦争が終ってから、もう67年。これからは、立ち昇る戦火に汚されることも、爆弾の雨を降らす爆撃機とも無縁、と見上げた8月15日の青い空。幸いなことに、二度とあの時の感慨を経験する者を生むことなしに、時は流れ続けている。
それを守っているのは、言うまでもなく、「日本国憲法」である。
「憲法」とは、霊験あらたかな護符でも呪文でもない。人々の心に浸み込んだ「生き方の指針」である。浅学の故でもあろうか、この憲法が公布・施行された直後以来この方、「新憲法」と呼ばれこそすれ「改正明治憲法」とか、それに類する呼ばれ方をされたのを、知らぬ。それは、押し付けとか非自主とかの声に左右されることなくそれらを排し、国内外に示す「日本人の生き方の指針」として、大多数の心に受け入れられ、継承・護持されてきた「そもそも」なのではなかろうか。
世に生を受けた人々は、様々な分野において身の丈に応じた他者への貢献をし、それによって我が生を保つ。その一分野に「学問」という分野があり、それはまた、様々に枝分かれして世の繁栄・安寧に力を尽くす。それが「曲学阿世」の類であってはならぬことは、年端の往かない幼子でも分かる道理と言うべきであろうか。
しかし、悲しいことながら、我が田に水を引かんがため、あるいは下心を持ってそれを助けんがため、道理を捨てて真っ当づら(面)する手合いが後を絶たぬ。その国・国民の大本を規定する憲法の分野においても、それは例外ではない。
日本国憲法の真骨頂は、その「前文」にあると思う。これには、当然のことながら、条文も規定もない。しかし、ここ込められた「精神」こそがすべてを規定する。永遠である。これを飛び越えてする一条・一句の解釈・注釈などに、何ほどの価値があると言うのだろうか。木を見て森を見ず、森を見て山を見ずの議論は、捨て去るべきものの筆頭に上げなければならぬ。
野猿と変わらぬ日常から久しい時を経て、人類は今日に立つ。だが、随所に脱ぎ捨てるべき抜け殻を保身の術として抱きかかえる姿を見る。例え脇役どまりであったとしても、「草」の如く絶えることなく歴史を紡ぎ、伝え来た名もない人々。「時」は、その人々に多くの試練を与え、結果としていま「主役」の座を与えるに至りつつある。<脇道に逸れるが、「草」と自らを卑下するはともかく、「民草」などの言を、今なお用いるの「時代遅れ」には、怒るより呆れ返るしかない。>
これに照らせば、「民主主義・主権在民」は当然の到達点であり、その定めは、明文憲法によってより確かに、より堅固なものとされるべきことに、多言は要しまい。
さらには、社会構成員個々人の共通の願いとして、国内外を問わぬ「平和希求」を国是とし、争いを遠ざけて安んじさせるは、この「星」に並び立つ各国全ての願い・勤めでなければならぬ。これを受けての「9条」に、何の「抜け道まがい」の「解釈」を飾り立てる必要があろうか。
「曲学阿世」と両断したは、そのかみ(上)、保守政党の「ワンマン宰相」と称された人ではあったが、この言葉だけは、いつの世にも通用させたい「戒めの言葉」である。
「集団自衛」とか「動的防衛」とか、仮想敵国がなければ成り立たない分野に屯する人たち・組織と、そこから垂れ流れる注文(税金!)に群れる業界という分野。歴史の歯車を逆転させようとする人々とそれに力を貸そうとする学究が集う分野。
これらが地上から消え去る日は、何時のことになるのでしょうか。
「護憲+BBS」「コラムの感想」より
百山
世俗を引き合いにするとは不遜、とのお言葉もあろうかとは思うが、長寿化など喫緊の諸課題を前にして論じられる、定年等就労環境の見直しの一案にも比肩する「65年」である。「憲法よ、長いこと有難う」のねぎらいの一言に心ばかりの花束も添えて、これからも益々お達者でと申したい気分でいる。
あの戦争が終ってから、もう67年。これからは、立ち昇る戦火に汚されることも、爆弾の雨を降らす爆撃機とも無縁、と見上げた8月15日の青い空。幸いなことに、二度とあの時の感慨を経験する者を生むことなしに、時は流れ続けている。
それを守っているのは、言うまでもなく、「日本国憲法」である。
「憲法」とは、霊験あらたかな護符でも呪文でもない。人々の心に浸み込んだ「生き方の指針」である。浅学の故でもあろうか、この憲法が公布・施行された直後以来この方、「新憲法」と呼ばれこそすれ「改正明治憲法」とか、それに類する呼ばれ方をされたのを、知らぬ。それは、押し付けとか非自主とかの声に左右されることなくそれらを排し、国内外に示す「日本人の生き方の指針」として、大多数の心に受け入れられ、継承・護持されてきた「そもそも」なのではなかろうか。
世に生を受けた人々は、様々な分野において身の丈に応じた他者への貢献をし、それによって我が生を保つ。その一分野に「学問」という分野があり、それはまた、様々に枝分かれして世の繁栄・安寧に力を尽くす。それが「曲学阿世」の類であってはならぬことは、年端の往かない幼子でも分かる道理と言うべきであろうか。
しかし、悲しいことながら、我が田に水を引かんがため、あるいは下心を持ってそれを助けんがため、道理を捨てて真っ当づら(面)する手合いが後を絶たぬ。その国・国民の大本を規定する憲法の分野においても、それは例外ではない。
日本国憲法の真骨頂は、その「前文」にあると思う。これには、当然のことながら、条文も規定もない。しかし、ここ込められた「精神」こそがすべてを規定する。永遠である。これを飛び越えてする一条・一句の解釈・注釈などに、何ほどの価値があると言うのだろうか。木を見て森を見ず、森を見て山を見ずの議論は、捨て去るべきものの筆頭に上げなければならぬ。
野猿と変わらぬ日常から久しい時を経て、人類は今日に立つ。だが、随所に脱ぎ捨てるべき抜け殻を保身の術として抱きかかえる姿を見る。例え脇役どまりであったとしても、「草」の如く絶えることなく歴史を紡ぎ、伝え来た名もない人々。「時」は、その人々に多くの試練を与え、結果としていま「主役」の座を与えるに至りつつある。<脇道に逸れるが、「草」と自らを卑下するはともかく、「民草」などの言を、今なお用いるの「時代遅れ」には、怒るより呆れ返るしかない。>
これに照らせば、「民主主義・主権在民」は当然の到達点であり、その定めは、明文憲法によってより確かに、より堅固なものとされるべきことに、多言は要しまい。
さらには、社会構成員個々人の共通の願いとして、国内外を問わぬ「平和希求」を国是とし、争いを遠ざけて安んじさせるは、この「星」に並び立つ各国全ての願い・勤めでなければならぬ。これを受けての「9条」に、何の「抜け道まがい」の「解釈」を飾り立てる必要があろうか。
「曲学阿世」と両断したは、そのかみ(上)、保守政党の「ワンマン宰相」と称された人ではあったが、この言葉だけは、いつの世にも通用させたい「戒めの言葉」である。
「集団自衛」とか「動的防衛」とか、仮想敵国がなければ成り立たない分野に屯する人たち・組織と、そこから垂れ流れる注文(税金!)に群れる業界という分野。歴史の歯車を逆転させようとする人々とそれに力を貸そうとする学究が集う分野。
これらが地上から消え去る日は、何時のことになるのでしょうか。
「護憲+BBS」「コラムの感想」より
百山
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