「日本兵の兵役生活」
BSで、インパール作戦の再放送があった。権威に胡坐をかいた組織。その中で権力を持った人間の腐敗堕落は、結局その組織で生きている多くの人間を悲劇に陥れる。その事を、如実に示したのが、インパール作戦の教訓である。
わたしの生家の隣に「インパール作戦」の生き残りのおじさんがいた。夏、半そでシャツになると、そのおじさんの腕に大きな弾痕の跡が見えた。渡河作戦の最中に撃たれたそうだ。わたしの戦争の記憶の原点におじさんの腕に残る傷跡がある。
もう一つ幼い時の戦争の記憶がある。母親の弟(叔父)が戦死しているのだが、その葬儀の記憶が鮮明に残っている。冬の凍てつくような寒さの中で行われた野辺送りの行列の中で、叔父の奥さんの悲しみ方が尋常ではなかった。母親から聞いたその理由は、遺骨だと手渡された箱には石が一つ入っていたそうだ。夫の骨すら帰ってこなかった事に耐えられなかったという話だ。
後年、蔵原惟繕監督の【執炎】という映画を見た時、この時の野辺送りの光景と重なり、胸がふさがれる思いをしたことを鮮明に覚えている。浅丘ルリ子主演。
※ 執炎 https://www.nikkatsu.com/movie/20829.html
えぐられたような傷跡、野辺送りの葬列。わたしにとって戦争の具体的記憶は、この二つに集約される。
わたしの生家は田舎の雑貨屋で、当時は近所のおじさん連中がよく出入りしていた。特に、煙草の葉を専売公社に納入する時期(備中葉として有名)は一年で一番の繁忙期だった。その時は、おじさん連中が親父とよく戦争中の話を店先でしていた。
一番多かったのが、軍隊の話だった。「あの軍曹が偉そうだった」。あの若い少尉が生意気だったので、「ふけ飯をくわしてやった」とか、「後先考えずに突撃、突撃と命令するので、皆が白けていたら、そいつが自分で行かざるを得なくなり、突撃と言いながら真っ先に突進して戦死した」などの話を良くしていた。
ちなみに「ふけ飯」とは、上級士官のご飯の上に頭のふけをかきむしってかけて食わせると言う事。偉そうで生意気な士官の多くは、この「ふけ飯」の洗礼を受けていた。
そして一番印象的だったのは、あの将校は「名誉の戦死」と言う事になっているが、あれは後ろから弾が飛んできて死んだんだ、と言う話だった。兵隊たちに憎まれている上級士官は、突撃している時、兵の誰かが後ろから士官を撃つケースがよくあったそうだ。
戦場では弾が飛び乱れているのだから、誰が撃ったか、どこから撃ったか分からない。戦死者から弾丸を取り出して鑑定にかけるなどという芸当ができるわけもない。結局、死んだら全て【名誉の戦死】になるというわけである。中には、風呂場で名誉の戦死を遂げた将校もかなりいたそうだ。
長々と兵士の話を書いたのには訳がある。軍隊という組織は、将校だけでは動かない。兵士がきちんと任務を果たして初めて軍隊として機能する。前線では、将校と兵士は文字通り「運命共同体」になる。
現在でもそうだが、会社の中で少し出世をすると異様に張り切ったり、威張ったり、パワハラまがいのいじめをしたりする人間がいる。面白いもので、少し出世をすると自分を「万能の神」のように錯覚するのであろう。
特に若い連中ほどその傾向が強い。年功序列制度が壊れた現在の会社制度では、出世しそこなった年配の連中は、自らの居場所をどう見つけるかで苦労しているだろう。
会社なら何とか自分を落ち着かせる場所を探せるかもわからないが、【軍隊】ではそうはいかない。【軍隊】は完全な階級社会。星一つ違えば、完全服従。そうしなければ、秩序は保たれない。上官は、文字通り「全能の神」になる。
このような組織になると、上官の人間性しだいで、部下の運命は左右される。上官が暴力的で問答無用の理不尽な性格の場合は最悪。その時々の気分次第で、訓練が異常にきつくなったり、些細な事でぶん殴られたり、部下は踏んだり蹴ったりの目にあわされる。
まあ、現在でも若い連中には、軍隊教育が必要だとのたまう連中の多くは、有無を言わさず「絶対服従」させる快感を夢見ている。そういう連中は、自分が有無を言わさず「服従」することは、大嫌いな人間が多い。人間「得手勝手」の典型である。
日本軍を考えるとき、上のような上官と兵の関係を基本に考えなければ、認識を間違う。
日本軍隊内部の実態を描いた小説では、野間宏の「真空地帯」が有名だが、軍隊経験者(将校ではなく兵士)の大半が、野間の書いた事を肯定するだろう。
吉田裕氏は、このような、アジア・太平洋戦争中の軍隊における兵士の実態を、数値に基づき、客観的な研究にまとめ上げている。
※吉田 裕(よしだ・ゆたか)
一橋大学大学院特任教授
専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。主な著書に『昭和天皇の終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など
その中に衝撃的な数値があるので、紹介しておく。
・・・
支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち (中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』)・・・・
ここで注目しなければならない数字。全戦没者の約76%⇒敗戦前1年に集中。その中、戦病死者数⇒約73%。⇒戦闘ではなく、日々の生活の中で死亡した。「名誉の戦死」という美名のもとで行われていた醜悪な真実である。
これは、もはや軍隊ではない。【軍隊】とは、戦う集団。その戦う集団が、日々の生活の中で7割強死亡している。この数字は、軍隊内での「医療施設・人員・食料・水・日常品など」が如何に欠乏していたか、そういう「兵站」に対する意識が如何に欠落していたかを示している。
吉田氏は、戦病死の中でもっとも多かったのが【飢餓】だと指摘している。
・・・日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』)*:諸説あり・・・・・
・・・ 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。・・・・
・・・彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他 部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』)・・・
◎“心頭滅却すれば 火もまた涼し”
『織田勢に武田が攻め滅ぼされた時、禅僧快川が、火をかけられた甲斐の恵林寺山門上で、端坐焼死しようとする際に発した偈。また、唐の杜荀鶴の「夏日題悟空上人院」の詩中に同意の句がある。
無念無想の境地に至れば火さえ涼しく感じられる。どんな苦難に遇っても、その境涯を超越して心頭にとどめなければ、苦難を感じない意。』(広辞苑)
日本軍は、この種の「精神主義」で突っ走ったため、人間「腹が減ると獣になる」という簡単な摂理すら分かっていなかったようだ。人間の生存本能が他の動物と違うはずがない。生きるためには何でもするのが本能というもの。
「衣食足りて礼節を知る」と言う諺がある。【軍規】は、食べる事、飲むこと、住むところ、着るもの、を保証して初めて守らせることができる。上の状況を考えれば、特に戦争末期における日本軍の「軍規」の乱れは、相当ひどいものだと想像がつく。
慰安婦の問題にしろ、戦争中の日本兵の蛮行にしろ、真偽の論議が盛んだが、上記のような慢性的飢餓情況に置かれた兵士たちが、正常な精神状況を保つことができた、と考える方が、どうかしている。わたしは何が行われていたとしても驚かない。
人間死んでしまえば終わり。生きるためには何でもする。まして、軍というある種の「治外法権社会」に生きている連中である。平和な社会の倫理観や常識が通用するはずがない。何事もそこから考えなければ、真実を見誤る。
◎負傷者は自殺を強要される
・・・(前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。
・・・・その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)
視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。
当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり (中略)
単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配する。 これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。
(『ガダルカナル作戦の考察(1)』)・・・
つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』)
・・・・・・
◎「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」(戦陣訓)
1941年に東条英機が軍人に軍規を徹底させるために示達した一節。⇒この結果、日本軍の間で捕虜になる事を拒否する思想が広まったとされる。これが後に沖縄戦などで民間人を巻き込んだ集団自決をする一因になったとされる。
もう忘れ去られているが、小沢一郎は、民主党の党首になった時、A級戦犯をどう思うか、という毎日新聞のインタビューに答えて以下のように答えた。
・・・「A級戦犯については「日本人に対し、捕虜になるなら死ねと言ったのに、自分たちは生きて捕虜になった。筋道が通らない。戦死者でもなく、靖国神社に祭られる資格がない」との認識を明らかにした。・・・・
ガダルカナル以降、どれほど多くの負傷者が自殺を強要されたか。特に、インパール作戦の死者の多くも自殺者である。
兵士たちには自殺を強要し、おのれはぬくぬくと生き残る。「徴兵制」で、行きたくもない軍隊に行かされ、家族と無理やり引き離され、生きたいのに死ぬことを強要される。こんな経験をした兵士たちが、そんなに簡単に戦争指導者を許せるはずがない。
小沢一郎の発言は、戦争で無惨に散った兵士たちの語れぬ思いを代弁している。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
BSで、インパール作戦の再放送があった。権威に胡坐をかいた組織。その中で権力を持った人間の腐敗堕落は、結局その組織で生きている多くの人間を悲劇に陥れる。その事を、如実に示したのが、インパール作戦の教訓である。
わたしの生家の隣に「インパール作戦」の生き残りのおじさんがいた。夏、半そでシャツになると、そのおじさんの腕に大きな弾痕の跡が見えた。渡河作戦の最中に撃たれたそうだ。わたしの戦争の記憶の原点におじさんの腕に残る傷跡がある。
もう一つ幼い時の戦争の記憶がある。母親の弟(叔父)が戦死しているのだが、その葬儀の記憶が鮮明に残っている。冬の凍てつくような寒さの中で行われた野辺送りの行列の中で、叔父の奥さんの悲しみ方が尋常ではなかった。母親から聞いたその理由は、遺骨だと手渡された箱には石が一つ入っていたそうだ。夫の骨すら帰ってこなかった事に耐えられなかったという話だ。
後年、蔵原惟繕監督の【執炎】という映画を見た時、この時の野辺送りの光景と重なり、胸がふさがれる思いをしたことを鮮明に覚えている。浅丘ルリ子主演。
※ 執炎 https://www.nikkatsu.com/movie/20829.html
えぐられたような傷跡、野辺送りの葬列。わたしにとって戦争の具体的記憶は、この二つに集約される。
わたしの生家は田舎の雑貨屋で、当時は近所のおじさん連中がよく出入りしていた。特に、煙草の葉を専売公社に納入する時期(備中葉として有名)は一年で一番の繁忙期だった。その時は、おじさん連中が親父とよく戦争中の話を店先でしていた。
一番多かったのが、軍隊の話だった。「あの軍曹が偉そうだった」。あの若い少尉が生意気だったので、「ふけ飯をくわしてやった」とか、「後先考えずに突撃、突撃と命令するので、皆が白けていたら、そいつが自分で行かざるを得なくなり、突撃と言いながら真っ先に突進して戦死した」などの話を良くしていた。
ちなみに「ふけ飯」とは、上級士官のご飯の上に頭のふけをかきむしってかけて食わせると言う事。偉そうで生意気な士官の多くは、この「ふけ飯」の洗礼を受けていた。
そして一番印象的だったのは、あの将校は「名誉の戦死」と言う事になっているが、あれは後ろから弾が飛んできて死んだんだ、と言う話だった。兵隊たちに憎まれている上級士官は、突撃している時、兵の誰かが後ろから士官を撃つケースがよくあったそうだ。
戦場では弾が飛び乱れているのだから、誰が撃ったか、どこから撃ったか分からない。戦死者から弾丸を取り出して鑑定にかけるなどという芸当ができるわけもない。結局、死んだら全て【名誉の戦死】になるというわけである。中には、風呂場で名誉の戦死を遂げた将校もかなりいたそうだ。
長々と兵士の話を書いたのには訳がある。軍隊という組織は、将校だけでは動かない。兵士がきちんと任務を果たして初めて軍隊として機能する。前線では、将校と兵士は文字通り「運命共同体」になる。
現在でもそうだが、会社の中で少し出世をすると異様に張り切ったり、威張ったり、パワハラまがいのいじめをしたりする人間がいる。面白いもので、少し出世をすると自分を「万能の神」のように錯覚するのであろう。
特に若い連中ほどその傾向が強い。年功序列制度が壊れた現在の会社制度では、出世しそこなった年配の連中は、自らの居場所をどう見つけるかで苦労しているだろう。
会社なら何とか自分を落ち着かせる場所を探せるかもわからないが、【軍隊】ではそうはいかない。【軍隊】は完全な階級社会。星一つ違えば、完全服従。そうしなければ、秩序は保たれない。上官は、文字通り「全能の神」になる。
このような組織になると、上官の人間性しだいで、部下の運命は左右される。上官が暴力的で問答無用の理不尽な性格の場合は最悪。その時々の気分次第で、訓練が異常にきつくなったり、些細な事でぶん殴られたり、部下は踏んだり蹴ったりの目にあわされる。
まあ、現在でも若い連中には、軍隊教育が必要だとのたまう連中の多くは、有無を言わさず「絶対服従」させる快感を夢見ている。そういう連中は、自分が有無を言わさず「服従」することは、大嫌いな人間が多い。人間「得手勝手」の典型である。
日本軍を考えるとき、上のような上官と兵の関係を基本に考えなければ、認識を間違う。
日本軍隊内部の実態を描いた小説では、野間宏の「真空地帯」が有名だが、軍隊経験者(将校ではなく兵士)の大半が、野間の書いた事を肯定するだろう。
吉田裕氏は、このような、アジア・太平洋戦争中の軍隊における兵士の実態を、数値に基づき、客観的な研究にまとめ上げている。
※吉田 裕(よしだ・ゆたか)
一橋大学大学院特任教授
専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。主な著書に『昭和天皇の終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など
その中に衝撃的な数値があるので、紹介しておく。
・・・
支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち (中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』)・・・・
ここで注目しなければならない数字。全戦没者の約76%⇒敗戦前1年に集中。その中、戦病死者数⇒約73%。⇒戦闘ではなく、日々の生活の中で死亡した。「名誉の戦死」という美名のもとで行われていた醜悪な真実である。
これは、もはや軍隊ではない。【軍隊】とは、戦う集団。その戦う集団が、日々の生活の中で7割強死亡している。この数字は、軍隊内での「医療施設・人員・食料・水・日常品など」が如何に欠乏していたか、そういう「兵站」に対する意識が如何に欠落していたかを示している。
吉田氏は、戦病死の中でもっとも多かったのが【飢餓】だと指摘している。
・・・日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』)*:諸説あり・・・・・
・・・ 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。・・・・
・・・彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他 部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』)・・・
◎“心頭滅却すれば 火もまた涼し”
『織田勢に武田が攻め滅ぼされた時、禅僧快川が、火をかけられた甲斐の恵林寺山門上で、端坐焼死しようとする際に発した偈。また、唐の杜荀鶴の「夏日題悟空上人院」の詩中に同意の句がある。
無念無想の境地に至れば火さえ涼しく感じられる。どんな苦難に遇っても、その境涯を超越して心頭にとどめなければ、苦難を感じない意。』(広辞苑)
日本軍は、この種の「精神主義」で突っ走ったため、人間「腹が減ると獣になる」という簡単な摂理すら分かっていなかったようだ。人間の生存本能が他の動物と違うはずがない。生きるためには何でもするのが本能というもの。
「衣食足りて礼節を知る」と言う諺がある。【軍規】は、食べる事、飲むこと、住むところ、着るもの、を保証して初めて守らせることができる。上の状況を考えれば、特に戦争末期における日本軍の「軍規」の乱れは、相当ひどいものだと想像がつく。
慰安婦の問題にしろ、戦争中の日本兵の蛮行にしろ、真偽の論議が盛んだが、上記のような慢性的飢餓情況に置かれた兵士たちが、正常な精神状況を保つことができた、と考える方が、どうかしている。わたしは何が行われていたとしても驚かない。
人間死んでしまえば終わり。生きるためには何でもする。まして、軍というある種の「治外法権社会」に生きている連中である。平和な社会の倫理観や常識が通用するはずがない。何事もそこから考えなければ、真実を見誤る。
◎負傷者は自殺を強要される
・・・(前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。
・・・・その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)
視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。
当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり (中略)
単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配する。 これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。
(『ガダルカナル作戦の考察(1)』)・・・
つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』)
・・・・・・
◎「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」(戦陣訓)
1941年に東条英機が軍人に軍規を徹底させるために示達した一節。⇒この結果、日本軍の間で捕虜になる事を拒否する思想が広まったとされる。これが後に沖縄戦などで民間人を巻き込んだ集団自決をする一因になったとされる。
もう忘れ去られているが、小沢一郎は、民主党の党首になった時、A級戦犯をどう思うか、という毎日新聞のインタビューに答えて以下のように答えた。
・・・「A級戦犯については「日本人に対し、捕虜になるなら死ねと言ったのに、自分たちは生きて捕虜になった。筋道が通らない。戦死者でもなく、靖国神社に祭られる資格がない」との認識を明らかにした。・・・・
ガダルカナル以降、どれほど多くの負傷者が自殺を強要されたか。特に、インパール作戦の死者の多くも自殺者である。
兵士たちには自殺を強要し、おのれはぬくぬくと生き残る。「徴兵制」で、行きたくもない軍隊に行かされ、家族と無理やり引き離され、生きたいのに死ぬことを強要される。こんな経験をした兵士たちが、そんなに簡単に戦争指導者を許せるはずがない。
小沢一郎の発言は、戦争で無惨に散った兵士たちの語れぬ思いを代弁している。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水