「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 長谷川毅 (中央公論新社、2006)。
「太平洋戦争の終結を、アメリカ、日本、ソ連の三国間の複雑な関係を詳しく検討
して、国際的な観点から描き出すことを目的としている。」
そして① 対日戦遂行についての米ソの複雑な駆け引き、② ソ連の講和仲介を望んだ
日ソ関係のもつれ、③ 日本国内の講和派と継戦派の角逐、という3つのサブプロット
を立てています。
私が特に興味深かったのは、対日戦における原爆投下とソ連参戦の駆け引きです。
トルーマンは原爆実験が成功したとき、ソ連の参戦前に日本を降伏させるために
原爆使用を決意した。ソ連はヤルタ密約に基づき、それが保障した満州の権益と
千島などの領有を確保するために日本降伏前に参戦したかった。日本は、国体
つまり天皇の地位の確保を唯一の降伏条件としており、それが確認されないうち
に降伏することはきわめて困難だった。日本は、ポツダム宣言にスターリンが
署名していないことに注目し、日ソ中立条約の廃棄を通告してきた当のソ連の
仲介を、原爆投下後ですら藁にもすがる思いで期待した。
こうして広島原爆、ソ連参戦、長崎原爆という終戦直前の悲劇が生じました。これが
避けられた可能性は、天皇制の維持の確約がされることでした。しかしトルーマンは
無条件降伏に固執してバーンズ回答でも天皇制維持を明確にせず、またスターリンが
ポツダム宣言にもし参加するとすれば、「立憲君主制の約束は、ソ連が参戦する前に
日本が降伏を認めてしまう危険性があった。」 (501p) から、当然それに反対したと
考えられるわけです。
原爆投下とソ連参戦がなかったら、日本はオリンピック作戦 (九州上陸作戦) 開始
予定日の11月1日までに降伏したかどうか。
「アメリカ戦略爆撃調査報告」 は降伏したと結論しており、よく引用されています。
しかし著者は原爆の権威バーンシュテイン氏の分析による近衛、豊田、木戸、鈴木総理、
平沼、迫水氏らの証言から、この調査報告は信頼できず、簡単に降伏を受け入れな
かったであろう (504p)、としています。
では原爆とソ連参戦と、どちらが降伏の決定的な要因だったのか。著者は、原爆投下
がなくともソ連参戦だけで降伏を受け入れたと見ています。
ソ連の中立は日本の本土決戦計画 「決号」 作戦の前提であり、参戦のショックは甚大
だった。ソ連のほうが天皇制に対してアメリカより厳しいことは当然予想できることで、
国体護持を唯一の条件とする最高指導部にとってまさに恐るべき事態だった。
一方原爆は、「阿南が (8月9日の) 閣議で、アメリカは百発の原爆を保有し、次の標的
は東京かもしれないというショッキングな発言をしたが、この阿南発言は閣僚の意見
にまったく影響を与えなかった。」 (507p) し、「8月9日から10日の御前会議で、参加者
(鈴木、東郷、米内、豊田、阿南、迫水、保科) の回想録あるいは記録類には、天皇が
原爆に言及したということが一切記されていない。」(508p)
終戦の大詔には原爆が特筆されているが、「8月17日の『陸海軍人にたいする勅語』に
おいては、原爆には触れておらず、ソ連参戦だけが言及されている。」(508p)
著者はこう結論します。「広島と長崎に投下された二発の原爆だけでは日本を降伏
させることはなかったであろうと推測することができる。その莫大な破壊力にもかか
わらず、原爆は日本の外交に根本的な変化をもたらすことがなかった。ソ連参戦こそ
がこの変化をもたらした。」 (510p)
したがって、原爆が日本を降伏させた決定的な一撃であったというのは、「アメリカ人
の後ろめたい意識を取り除く」 神話に過ぎず、克服されなければならない、と論じま
す。(511p)
綿密な考証に基づいた、説得力のある結論です。
私の憶測では、終戦の大詔に原爆の悲惨を書いたのは、慈愛あふれる天皇を演出する
ためだったのではないでしょうか。帝都の3分の1を焼失し、10万人といわれる犠牲者
を出した3月10日の東京大空襲を視察していながら何の感想もない昭和天皇は、原爆に
対してもこころを傷めることはなかった、と思われます。
また詔書にソ連参戦を明記しなかったのは、それがポツダム宣言受諾の真実の原因で
ありながら、天皇制維持にたいへん不都合であるから講和したという印象を薄める
意図があったのではないか、と感じます。
(わが家で 2014年4月24日)
「太平洋戦争の終結を、アメリカ、日本、ソ連の三国間の複雑な関係を詳しく検討
して、国際的な観点から描き出すことを目的としている。」
そして① 対日戦遂行についての米ソの複雑な駆け引き、② ソ連の講和仲介を望んだ
日ソ関係のもつれ、③ 日本国内の講和派と継戦派の角逐、という3つのサブプロット
を立てています。
私が特に興味深かったのは、対日戦における原爆投下とソ連参戦の駆け引きです。
トルーマンは原爆実験が成功したとき、ソ連の参戦前に日本を降伏させるために
原爆使用を決意した。ソ連はヤルタ密約に基づき、それが保障した満州の権益と
千島などの領有を確保するために日本降伏前に参戦したかった。日本は、国体
つまり天皇の地位の確保を唯一の降伏条件としており、それが確認されないうち
に降伏することはきわめて困難だった。日本は、ポツダム宣言にスターリンが
署名していないことに注目し、日ソ中立条約の廃棄を通告してきた当のソ連の
仲介を、原爆投下後ですら藁にもすがる思いで期待した。
こうして広島原爆、ソ連参戦、長崎原爆という終戦直前の悲劇が生じました。これが
避けられた可能性は、天皇制の維持の確約がされることでした。しかしトルーマンは
無条件降伏に固執してバーンズ回答でも天皇制維持を明確にせず、またスターリンが
ポツダム宣言にもし参加するとすれば、「立憲君主制の約束は、ソ連が参戦する前に
日本が降伏を認めてしまう危険性があった。」 (501p) から、当然それに反対したと
考えられるわけです。
原爆投下とソ連参戦がなかったら、日本はオリンピック作戦 (九州上陸作戦) 開始
予定日の11月1日までに降伏したかどうか。
「アメリカ戦略爆撃調査報告」 は降伏したと結論しており、よく引用されています。
しかし著者は原爆の権威バーンシュテイン氏の分析による近衛、豊田、木戸、鈴木総理、
平沼、迫水氏らの証言から、この調査報告は信頼できず、簡単に降伏を受け入れな
かったであろう (504p)、としています。
では原爆とソ連参戦と、どちらが降伏の決定的な要因だったのか。著者は、原爆投下
がなくともソ連参戦だけで降伏を受け入れたと見ています。
ソ連の中立は日本の本土決戦計画 「決号」 作戦の前提であり、参戦のショックは甚大
だった。ソ連のほうが天皇制に対してアメリカより厳しいことは当然予想できることで、
国体護持を唯一の条件とする最高指導部にとってまさに恐るべき事態だった。
一方原爆は、「阿南が (8月9日の) 閣議で、アメリカは百発の原爆を保有し、次の標的
は東京かもしれないというショッキングな発言をしたが、この阿南発言は閣僚の意見
にまったく影響を与えなかった。」 (507p) し、「8月9日から10日の御前会議で、参加者
(鈴木、東郷、米内、豊田、阿南、迫水、保科) の回想録あるいは記録類には、天皇が
原爆に言及したということが一切記されていない。」(508p)
終戦の大詔には原爆が特筆されているが、「8月17日の『陸海軍人にたいする勅語』に
おいては、原爆には触れておらず、ソ連参戦だけが言及されている。」(508p)
著者はこう結論します。「広島と長崎に投下された二発の原爆だけでは日本を降伏
させることはなかったであろうと推測することができる。その莫大な破壊力にもかか
わらず、原爆は日本の外交に根本的な変化をもたらすことがなかった。ソ連参戦こそ
がこの変化をもたらした。」 (510p)
したがって、原爆が日本を降伏させた決定的な一撃であったというのは、「アメリカ人
の後ろめたい意識を取り除く」 神話に過ぎず、克服されなければならない、と論じま
す。(511p)
綿密な考証に基づいた、説得力のある結論です。
私の憶測では、終戦の大詔に原爆の悲惨を書いたのは、慈愛あふれる天皇を演出する
ためだったのではないでしょうか。帝都の3分の1を焼失し、10万人といわれる犠牲者
を出した3月10日の東京大空襲を視察していながら何の感想もない昭和天皇は、原爆に
対してもこころを傷めることはなかった、と思われます。
また詔書にソ連参戦を明記しなかったのは、それがポツダム宣言受諾の真実の原因で
ありながら、天皇制維持にたいへん不都合であるから講和したという印象を薄める
意図があったのではないか、と感じます。
(わが家で 2014年4月24日)
一昨日、県立熊谷図書館で貴著 「太平洋戦争開戦過程の研究」 を借出してきました。史料批判により従来の定説を覆す安井様の手さばきに感嘆しています。読み終えましたらまた感想をアップしたいと思います。
かえって催促をする形になり、すみませんでした。前著も現時点で見ると既成概念にとりつかれ、間違いもあり、お恥ずかしい限りで、先学の方々をとやかく言えませんでした。ご所感、楽しみにしております。
素晴しい内容と感じています。アップはまだ先になりそうです。