きのう80年目の終戦記念日。
靖国神社を参拝する大臣や議員も少なくないが、世の中の行方が気になります。マスコミでは日本の悲惨な被害が語られることが多いのですが、加害者としての立場を正しく認識する論調はきわめて弱い。いつまでも謝罪を続けるのはおかしいとか、特攻隊や戦死者の皆さんの貴重な犠牲が今日の礎になったとか、あの戦争を肯定しようとする人たちが増えてきているようです。
原爆についても、その悲惨さを語り継ぐのは大切ですが、なぜ原爆がヒロシマとナガサキに投下されたのかについて、もっと歴史を掘り下げてその真相を解明すべきです。
当時既に日本はズタズタになっていて、ソ連に講和の仲介を依頼していました。その情報をアメリカは十分把握していて、原爆投下は日本の降伏のためには必要なかった。ソ連はアメリカの要請に応じて対日参戦を確約していて、アメリカが領土などの獲得を了解していたこともあり、もはや日本の降伏は確実でした。
しかしトルーマン大統領はあえて原爆を投下させた。それは原爆の威力を確認するための人体実験でした。2つ目のナガサキは別のタイプの原爆の実験でした。まったく許されない戦争犯罪そのものです。3月10日の東京大空襲や、すっかり一般的になった都市爆撃もそうです。
アメリカでは、総力戦で市民も戦争に協力しているのだから、軍人も市民も同じであると考えたようですが、それが戦争の恐ろしさです。そこには敵である日本人への人種的な蔑視があったでしょう。それは日本人が中国人、朝鮮人を蔑視したと同じことでした。
「過ちは繰り返しませぬから」の過ちとは、こうした戦争を繰り返してしまう「人類全体の過ち」だと理解できるのです。
日本はなぜそうなるまで戦い続けたのか、そもそもなぜ中国を侵略しアメリカと対立していったのか。なぜ米・ルーズベルト政権の挑発にうかうかと乗ってしまったのか。そうした根本を考えないで単に敗戦の悲惨を語っても、負けたから悪かったという無意味な論理になってしまいかねない。
靖国神社は戦意高揚のための仕組みであり、そういう墓地は世界各国にあります。それでも、従軍して戦死した兵士と無謀な戦いを強要した指導者が一緒にまつられるのは、やはり許しがたい。
こんなことを言っていると、そのうち非国民と罵倒されるようになるのか。そうならないように発言していきたいと思います。