霊能力覚醒以前から、私には自身でいう”神社欲”がありました。
単に神社の参拝欲求なのですが、道を走っていて自身の感性と合う社を見つければすぐに参拝してしまうほどの強さです。
願掛けはしません。
ただ参拝して感謝をするのみです。
このような美しき社ありきの歴史紡ぎし営み、神籬(ひもろぎ)全てが有難いという気持ちを神前に捧げるのです。
それだけです。
多くの日本人は、”それだけでは神社に行く意味が無い”と不満気な目になるでしょう。
私には分かります。
利益が無いからです。
試験に受かりたい、異性が欲しい、出世をしたい、病気を治したい、家族に長生きをさせたい、不幸を避けたい、これらは皆欲望です。
何故神社が参拝客の欲望を満たす事になるのでしょうか。
今や神社側も祈願の申込書には様々な祈願項目欄があり、申し込みを誘うかのようです。
断言します。
そもそも神社の神は人間の欲望に仕える存在ではないのです。
日本人は間違っているのです。
愚かなのです。
仮に日本人が新年参賀の日からあらゆる欲得祈願を止めたなら、日本は教育、文化、政治、経済の順で劇的な飛躍を遂げる事でしょう。
目的を達しようという人間自身の意志が輝き出し、社の神への祈願による霊的疲労が無くなるからです。
皮肉な事に、一人一人の欲望が国全体に齎される幸福感を奪っているのです。
しかし、これも今の日本人が至ってしまった、言わば自らの自由意思で選択してしまった結末として神々は見ておられます。
何故、二礼二拍手一礼の仕草と心中の依頼で自身の人生が向上していくのでしょうか。
何故、試験に受かるのでしょうか。
何故、異性の接近を得られるのでしょうか。
何故、出世出来るのでしょうか。
何故、病気が治るのでしょうか。
現実的にはそんな奇跡現象は期待出来ません。
この物理次元の摂理に従った努力を蓄積すべきです。
勉強をするなり、自身の形象を鋭らしめるなり、上司にへつらうなり、良い病院を探すなりすれば良いのです。
ところで欲得祈願をする大勢の日本人は、社に坐す神の存在を信じていません。
しかし、霊的存在はいるのです。
科学で関知出来ません。
神社の境内を科学で感知しようとした試みは不可知の妨害に見舞われ続けました。
警告を無視した学者は死亡です。
意思の発信源の政治家の運命は失脚、事故、病気、不幸、自身や周囲の精神疾患、忌まわしい偶然の連続で破滅に至りました。
このような祟りを一般的日本人は知りません。
そして、欲得祈願はするのです。
神の存在はおぼろげ、祟りは知らない、しかし祈願はする。
一体何なのでしょうか。
要するに自己満足です。
”試験に受かりますように。”
こんな事を神前で願う事で自身は力を放棄し、存在を信じていない他者への依存でか細い心理的安息を得ているのです。
私の霊的分析では、このような行為は自身の人生を弱くします。
手を合わせれば自身の学力が増すという、手前勝手な不思議な力場に既に逃げているからです。
机の前に座っての現実的努力の時間をその分捨てています。
そして社の神を使役せんとする人間如きの殊勝な心意気で尚更神から遠ざかります。
社の霊域は欲望の霊的波動で穢れます。
それによって神霊は疲労されます。
受かったらどうでしょうか。
あの神社のご利益は素晴らしい、という記憶回路が出来、類似、同程度の人生困難に際し、それが以下のように暗示してきます。
”お前は大学合格のために、自身の力を求める意志を神社往復の時間分投げ出し、何もない空間にうやうやしく振舞ったのに成功を得た人間だ。
故に、今度も潜在意識で良く分からない不可知の力場に逃げ込み、安息を得る振りをして成功を求める自分を一程度許すのだ。
許す程度は前回お前が投げ出した時間分ほどだ。
自己陶酔的に怠けろ。
前回のようにきっと成功するぞ。
成功したい気持ちがある段階に強まったなら、また不可知の力場に逃げ込み、自己陶酔的に怠けろ。
そうすれば前回のようにきっと成功するぞ。
得た安心で怠けろ。”
そしてこのような暗示が乱反射している潜在意識は就職面接対策の情報収集において足枷となります。
一般的精神論をからももちろんそう推測出来ますが、私は霊的側面から言います。
人間の潜在意識は全宇宙と繋がっているのです。
この点は私が遠隔会話能力を発揮したり、子供の超能力者が分厚い電話帳を素手で破ったりする現象で推測的にご理解下さい。
弱々しい潜在意識は、何と本当に自身の運命を病弱にするのです。
運命とは、この世界の出来事の海を潜在意識が泳いで出来る水紋のようなものです。
潜在意識が運命にとって重要なのです。
因縁という仏教用語があります。
これを降ろしたのは異星人です。
潜在意識と全宇宙幾京本もの紐との綾しまりの状態をいいます。
因縁は運命に大きく作用します。
泥棒因縁があると、刑務所の運命の紐が自分に垂れてきます。
そういう事です。
欲得祈願で神に命令しようとしたり、社の霊域を霊的欲望波動で穢したり、神前で力を求める意志の放棄を謳って満足していたりすると、良い因縁は消えてしまうのです。
上のような潜在意識内における暗示の乱反射現象があるからです。
情報や人間との出会いの機会が何と消えてしまうのです。
私は人間の運命の破滅についての知識を持っています。
例えば、人間の振る舞いに関するものです。
そのような振る舞いをすれば、人間の因縁が壊滅的に破壊されてしまうのです。
しかし明かせません。
もし明かせば、その行為を避ける人間が出てきてしまい、摂理が更新されてしまうだけなのです。
ちらりと触れましょう。
ある方法で得た金を、あるところに流す、というものです。
これを行う人間に残されているのは人生の破滅のみです。
これは単に、この行為を着想してしまい、実行してしまうような人間はもうこの世には要らないという自動的現象を単に知識と言っているだけです。
しかし、もしそれを知ってしまい、人にしろしめてしまえば、この世にはもう要らない人間の代替的破滅方法を摂理が自動的に探し出します。
そして、救世主気取りで他者に知識をしろしめた人間は、運命の摂理の破壊者として履歴を残し、その者にも応じた破滅が訪れるのです。
何せ因縁という禁断の法則を知っておきながら、人間如きが摂理を更新し、精神の高揚や経済的利益を得て自身の因縁を変えたのです。
並の破滅は訪れません。
そして人間には避けられないのです。
権力の奥の院の政治家、財閥の総帥、異星人、霊能力者、皆が屈するのです。
更に言いますと霊的存在ですらもです。
このような禁断の知識群は密教寺院の蔵に数多く隠されています。
恐ろしいものです。
そもそも人間が触れてはならないのです。
知らなくて良いのです。
神が禁止している知識群なのです。
人間の魂の成長のためにならないからです。
地球に降ろしてきたのは異星人、ファッスァゥ星人、フラフスルァルァーング星人、ヴァルァググァース星人達です。
密教の伝達には複数の異星人が関わりましたが、殆どが滅びております。
摂理を舐めたのです。
利益だけをせしめて人間が逃げられると思っていたのです。
無理なのです。
話が逸れました。
試験に受からなければどうでしょうか。
蒙昧な空間に身を置き、力を求める意志と時間を一程度そこで放棄し、合格の可能性を低め、潜在意識を弱めました。
受かるものが受からなくなってしまったのかもしれません。
そして放った霊的欲望波動で霊域を穢した履歴が自身の運命の足枷となります。
霊的波動は類似の霊的波動を吸着する性質があります。
恋人が欲しい想念波動は、類似の欲望、渇望、不安波動をかき集めてしまうのです。
明治神宮の清正の井戸なるハエ取り飴は愚か者のパイセ場です。
恋人が欲しいなら自身を高しめればいいのです。
人生の学びの機会を自ら捨てている連中なのです。
自らの意思で清正の井戸曼荼羅に坐し、ドス黒く大量の人生変革欲望波動を喰らいつつ、更に自身も力場を太しめているのです。
“ファーゥグ”
吸着した霊的波動は自身の潜在意識に介入してきます。
これまた同様に、自身の運命の重りとなり運命を弱くしてしまうのです。
神社で願掛けをする人間が、結果がどうあれ運命が弱くなってしまうのは要するに摂理なのです。
そういう人間はそういう風になって良いのです。
回復には現実的努力かもしくは感謝です。
では、感謝をすると決めていれば、願掛けは許容されると考える人が出てくるとします。
それはそれで、そのような人間を自動的に処理する摂理が作動していくのです。
その人間は、感謝を利益行為の軸に置いてしまっています。
”帰りの交通費分までがっつり遊んで、家に帰るために見知らぬ人に車に乗せてもらう時はきちんとありがとうと言う予定で行こう。”
こんな愚か者には常識侮蔑因縁、他者使役因縁、感謝価値下落因縁が発動していき、きちんと困難が訪れてきます。
私は霊能力で人間の運命が読めます。
上のような人間は、触れてはならない人間の価値、例えば祖先崇拝や愛国心を濡れ手で扱う狂ったベンチャー企業に元気良く就職し、退職を希望しなくなる年齢までに転職活動の時間を意図的に奪うような、困難且ついかがわしい仕事を押し付けられる事になります。
自身の潜在意識が導いてしまうのです。
そして実際には潜在意識内の様々な指向の力が働き、最小公倍数的な就職先に愚かな魂が着床する事になります。
とにかく、神社という人間の精神的価値を高しめる場所で、就職や異性との出会いという多分に現実的な欲望を持ってくるのがそもそもの誤りなのです。
日本で願掛けを広めたのは仏教の愚かな坊主です。
動機は功名心でした。
私はいつも思います。
願掛けで一体どれだけ日本人の霊性、精神的成長が損なわれただろうか、と。
そもそも神社とは、まだ満たされていない欲望を満たしてくれと願う場所ではなかったのです。
既にある神の恵みが、有ることが難い事であった、つまり有難い(ありがたい)事だったと、思いやる場所なのです。
人間には素手で以下の事が実現できますでしょうか。
雨を降らせる、野菜を成長させる、地球を自転させる、水を沸かせる、食べ物を発酵させる、物を燃焼させる。
無理なのです。
神々のお働きなのです。
神道信仰の原型は縄文時代に遡ります。
縄文人は畏れ多い神々に対し、立派に自然の恵みについて感謝を捧げてきました。
人知らざる不可知の力に満ち満ちていた世界を統べる自然こそ彼らにとって豊穣と死を統べる絶対的存在、神でした。
困難な世界に生きる彼らにとって恵みは有り難いものだと知っていたのです。
彼らは何と、恵みに皆が感謝を捧げなければ、共同体の紐帯が緩んでいってしまうと見抜いていました。
食べ物をどこの誰が持ってきたと主張的な風潮が横溢してしまう前に、畏れ多い神の前に全員がかしづくのです。
こうする事で、生と死を統べる不可視の自然神の前に平等に立ち並び、死への諦観と生への協調を確認していたのです。
では、私はこのような投稿を衆目に晒し、因縁の摂理を更新してしまう事になるのでしょうか。
私が行っているのは適正化の試みです。
神社での願掛け、修法、いわゆるパワースポット巡りの姿勢、問題が多いのです。
願掛けを広めた数百年前の坊主がいて、調整者の私がいるのです。
願掛けによって発生した霊的環境の歪みを霊能力で直そうとしているのです。
神社を穢す連中や振る舞いへの憎悪はどうにか隠し通すつもりです。
お陰で神は弱くなったのです。
魔物が跋扈し出したのです。
そして凶悪犯罪の発生として現実に転写して来たのです。
因縁
四千六百七十三青字