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市谷・防衛省ツアー~スディルマン将軍像

2013-03-08 | 日本のこと

「外に駐機してあるヘリを観るだけ」と教えていただいたので、
ヘリ見学を含む午前コースを最初は選択していなかったのですが、
時間の都合でこちらに参加することになりました。

しかしこの選択によって、わたしはある需要な事実を再確認することができました。

「日本のおかげでわれわれは独立した」と東南アジアの国が思ってくれているらしい、
その一つのあらわれをそこに見ることになったからです。



このヘリが駐機している部分は、昔の歩兵第一連隊の門の部分を
再現した塀に囲まれています。
この、まるで漫画に出てくる「お城」みたいな作りの門柱ですね。

・・・しかし、その写真を撮り忘れました。 ○| ̄|_

とにかく、そんなものを見ながら駐機していあるゾーンに向かいます。



展示ヘリは「ひよどり」。
OH-1H、多用途ヘリで、今ではUH-1Jに置き換えられ引退が進んでいます。



ヘリの片側にはプラットホームが備えられているので、見学者は簡単に
内部に乗り込んで写真を撮ったり操縦席に座ったりすることができます。



操縦席には座りませんでしたが、後ろから写真を撮ってみました。
操縦桿は動きます。



年代を感じさせるシートベルトとドリンクホルダー。
これが金属でできているのがまた時代を感じさせます。

 

一般シートの部分はまわりが緩衝材で覆われています。



当たり前ですが、ヘリは垂直に着地するので、
操縦者が自分の足元を見ることができる作りになっています。
この写真はパイロットのフットレバー部分を横から写したもの。

「こんな飛行機はいやだ」というシリーズに
「床がガラス張りの飛行機」というのがありましたが、
ヘリの操縦部分は「床がガラス張り」が標準です。

ちなみに余談ですがわたしがいやだと思う飛行機は、

「タービュランスのときコクピットから小さな叫び声が聞こえる」
「FAがジャンプシートでさりげなく数珠をまさぐっている」
「『お客様の中で操縦資格のある方はおられませんか』とアナウンスがある」
「周りの客がみんなコーランを一心に読んでいる」
「ビューティフル・ランディングをキメた操縦士がコクピットから出てきて
降機する乗客を満面の笑みとともに一人一人握手してお見送りする」





相変わらず自衛隊機のボディにはわかりやすい日本語が書かれています。
「手かけ」「足かけ」。
手かけはともかく、足かけは展示の際に外してしまったようですね。



わかりやすい表示その2。
「消火器はこの内側にある」「回す」「ひく」



はい。



珍しく英語ですが、パイロットなら一目瞭然なのでしょう。



おすな。

おすなと書いてあるのに明らかに手形があるように見えるのは気のせいか。



にもかかわらず機体を押す人。

まあ、この「おすな」はこの機が現役のときに
「ここを押したら飛行に悪影響がある」ということで書かれたもので、
今となっては押そうが引こうが構わないのかもしれませんが。



ところで、このヘリの駐機ゾーンに、銅像がありました。
皆このように「なんだろう」と眺めながら歩いていくのですが、
ツアーガイドは何もこれについてコメントしないので、
皆もほとんど無関心で通り過ぎてしまいます。



このブロンズ像、非常に新しいように見えますが、それもそのはず、
これはまだこの場所に建てられて2年くらいしか経っていません。

これはインドネシアの初代国軍最高司令官、スディルマン将軍像。

1945年に独立宣言後、オランダと独立戦争を戦った英雄です。
2011年1月、国防相のプルノモ氏が、防衛相会談のため来日した際、
インドネシアは、両国友好の象徴として、この銅像を日本に寄贈しました。

・・・・え?そんな話今初めて聴いたぞ?
そもそもインドネシアの英雄の像がなぜ日本の防衛省にあるの?

そう思われた方、ごもっともです。
かく言うわたくしも、このツアーに参加しなければおそらく一生知らなかったでしょう。

今回、このニュースを検索しても、出てくるのは

1、防衛ホーム新聞の記事
2、当時の副総理(笑)安住淳のHPの「活動報告」でこれに出席したという記事
3、産経新聞のコラム(現在閲覧不可)

の三件だけ。
大手新聞やマスコミは当時全くこの寄贈に付いて記事にしなかったようです。

その理由はといいますと、インドネシアがこの像を日本に贈った意図というのが、

「我々の国の独立の英雄は、日本軍の軍事指導を受けていた」

という、特に当時の政権与党であった民主党にとってははなはだどうでもいい、
というかむしろ黙殺したい史実に基づき、即ち

「我が国の独立は日本のおかげで(も)ある」

というインドネシアからの感謝を表すものだったからにほかなりません。

インドネシアであろうがフィリピンであろうが、日本軍がそこでしたのは
侵略であり、虐殺、略奪だけであった、と断罪し続ける人たちがいます。
彼らは、たとえば以前当ブログでアップした映画「ムルデカ17805」に対しても
「アジア侵略を美化する映画」などと史実を何も知ることなく決めつける人々です。

そういう「反日本」的な勢力やマスコミを味方に付けて政権を取った民主党にすれば
このインドネシアが何に感謝しているかはむしろ「不都合な真実」に属し、さらには
「独立への感謝と友好の印」など、全くはた迷惑としか思わなかったに違いありません。

それが証拠に、防衛相は当時この除幕式についてほとんど広報しませんでしたし、
この像がここにある経緯、なぜインドネシアがこの像を日本に贈ったのか、
こういうことに関しても、このおざなりな展示からは何も読み取ることができません。


1945年、日本が敗戦でインドネシアを去って2日後、スカルノは独立宣言を読み上げました。
日本はその年の10月にインドネシアに独立を約束しており、
そのために「ムルデカ」でも描かれた日本軍の将校などが軍事訓練を施していましたが、
敗戦により撤退を余儀なくされ、独立は自然発生的に早まったのです。

しかし、彼らにはその後、独立を勝ち取るための戦争が待ち受けていました。

300年続く支配中、たった3日で日本軍にインドネシアから駆逐されたオランダが
日本の敗戦後、再びインドネシアを植民地にするために帰ってきたのです。
連合軍の尻馬に乗り、戦勝国気取りで。

オランダの論理によれば、この独立宣言は日本のお膳立てによるものであり、
日本が敗戦したからには全く無効で、この地は再び我々が占有すべきだというのです。
通常、ある国の独立宣言は、世界に認められてはじめて成立しますが、
この時のスカルノによる宣言は世界には全く無視されました。

日本軍は敗戦とともに連合国側の支配下に入ったので、その命令に従い、
インドネシアの要請にもかかわらずに武器を渡すことを拒否しました。
これを奪おうとするインドネシア人が武装解除した日本軍を襲い、
終戦後に2000人の日本人が殺害されたと言われています。
ちなみに、この人数は1942年に日本がインドネシア攻略をしたときの
インドネシア人の死者を数倍上回っているそうです。

日本軍は、そういう事件があってもインドネシアを支援しようとしました。
「古くて使えない」という名目で、武器をそのままわかりやすい場所に捨て、
インドネシア人にわざと拾わせたりもしたのだそうです。
「ムルデカ」にも描かれたように独立軍を指揮した日本軍人もいました。

(ただし、映画「ムルデカ」はジョグジャカルタの戦いにいなかった日本人が
戦ったという創作をしたため、インドネシア人には不評だったとか)

このスディルマン将軍は、日本が組織したPETA(郷土防衛軍)の大団長となり、
(日本側と対立することもあったそうですが)武器の調達の交渉などを始め、
国軍を率いてこれを勝利に導きます。
そしてインドネシアの独立宣言が正式に発効した一か月後にわずか38歳、
病気のため亡くなりました。

そういえば独立のために戦い、38歳で病に倒れた、というのは、
やはりオランダと戦って勝った台湾の中興の祖といわれる鄭成功と全く同じです。
この偶然の一致にたった今わたしは気づいて驚いてしまったのですが・・・・
この話はともかく。


それにしても、現代の日本においてインドネシアと日本の、
このような因縁を知る者は、日本の近代史にかなり興味を持ってでもいなければ
ほとんどいないと言っていいのではないでしょうか。 

戦後の自虐史観にこの部分はかなり「都合が悪かった」ため、
塗りつぶされてしまい、日本人が知る機会に無かったということもあるでしょう。

インドネシアの防衛省がスディルマンの銅像を贈ります、と言ってきたとき、
反日売国政党の民主党の面々は勿論のこと、防衛相の担当者も、
両国のこのようなかかわりの歴史を知らず、スディルマンというのが誰だか
わかっていない人間ばかりだったかもというのは想像に難くありません。

ですからそれがためにインドネシアの関係者に対し、日本が礼を失した対応、たとえば

「なんでこの人の銅像をくれるのかさっぱりわからない」

といった「有難迷惑」な態度を露骨に取って気を悪くさせたのでなければいいが、と
わたしはこの除幕式の時の寒々とした写真を見ながら願わずにいられませんでした。








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7 Comments

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市ヶ谷ツァー パンの缶詰 ()
2013-03-09 06:42:04
一般の見学者は、厚生館の1階でしか買い物ができないのを忘れていました。
何せ、私が勤務していたのは○年前なもので。。。。

不確かな情報をコメントしてしまったことを、先ずはお詫びします。

エリス中尉が買い物をされた1階ではなく、地下1階には、かなり大きな「ファミリーマート」が出店しておりまして、私が現役の頃には、昼食の弁当やら、日常品の購入等に重宝しておりました。
で、先のコメントでお知らせしたのは、その「ファミマ」の情報だったのですが、とんだ勘違いで申し訳ありませんでした_(._.)_

さて、スディルマン将軍像のことは私の退職後のことなので、今回初めて知ることができました。

ブログ記事にしてくださったことに感謝申し上げます。

現役時代、ある機会でインドネシアに制服着用で訪れた際、他の国では感じられない「何か違う!尊敬の眼差し」のような視線を感じたを感じたことを思い出しました。

いつもながらの素晴らしいエントリーに、ただただ感じ入っております。
返信する
インドネシア (エリス中尉)
2013-03-12 23:57:45
ファミリーマートにはパンの缶詰ないでしょうねー。
そもそもあれは自衛隊員向けじゃなくて、「自衛隊でしか買えない」ということが売りなので。


ところでこちらこそ本物の軍人さんからしか聞けないお話しを聞かせていただき感激です。

昔「笹井中尉がモテモテだった話」で、
インドネシアでは落下傘部隊がオランダを駆逐するということが大昔から予言されていた話と、
だから日本軍の将兵は現地の人たちにモテモテだった、
という話を、坂井三郎の著書から書いてみました。

「オランダを追い払う」

ということは現地の人たちにとって神様のようなことで、
さらに戦後は独立のために手を貸してくれたわけですから、
民間のみならず軍関係者の日本に対する感謝はいまだにすごいのだと思われます。

ちなみにインドネシアには(いかれたのでしたらご存知かもしれませんが)
スディルマン通り、スディルマン大学なんて風に名前が残っており、
このスディルマンは故国の「軍祖」とでもいう人なんですね。

その軍祖は日本軍の指導を受けているわけですから、
そりゃインドネシア軍の皆さんが日本軍の末裔たる(ってかいまでも向こう的には『日本軍』自衛隊に
敬意を払わないはずはないとわたしは力いっぱい思います。

しかし、そういう憧れと尊敬の目で見られているわけを、ほとんどの日本人が知らないわけですよね・・。

自衛隊の人たちだけでなく、普通の日本人も。


それを誇る必要はないけど、せめて向こうが感謝してくれてることくらい認めようよ!
なにがアジアに深い悲しみを与え、だよ!

そろそろ日本は素晴らしい国だったんだ、って知ろうよ。
だってみんなそう言ってくれてるんだから。


そう思います。
返信する
はじめまして (朱雀)
2013-08-24 14:24:41
『祖国と青年』という雑誌の記事にスディルマン将軍について書こうとしている者ですが、もし許可が頂けるようなら、ここに掲載されているスディルマン将軍の像の写真を使わせていただきたいと存じます。唐突なお願いで恐縮ですが、ご検討いただけませんでしょうか?
こちらのアドレス(↓)にメールをお送りいただければ、自己紹介させていただきます。よろしくお願いいたします。
t_hasegawa3
@
yahoo.co.jp
返信する
どうぞお使いください (エリス中尉)
2013-08-24 14:52:32
今空港のラウンジなのでメールを送る時間がないのですが、
取りあえず写真はご自由にお使いください。
興味を持っていただいて大変光栄です。
取り急ぎ。
返信する
ありがとうございます。 (朱雀)
2013-08-25 14:27:44
ご厚意に感謝申し上げます。
返信する
スラバヤの思い出 (フリーマン大佐)
2020-12-23 21:12:14
市ヶ谷のツアーに参加したにも関わらず、スディルマン将軍像には気が付きませんでした。解説ありがとうございます。
インドネシア独立関連では「独立記念碑の年号は皇紀で書かれている。」といくつかの書物で読みました。スラバヤ訪問の際、ここにも独立記念碑があり、確かに年号は皇紀、なるほどと歴史に思いを巡らせたのが、インドネシアの思い出です。
返信する
献花します (Unknown)
2020-12-24 10:24:20
海上自衛隊が東南アジアを訪問すると、必ず現地の独立のために戦った日本人のお墓に献花します。インドネシアだとジャカルタかスラバヤですね。結構立派なので、日本では忘れられていても、現地では大事にされていると思います。
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