ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

市谷・防衛省見学ツアー参加記

2013-03-05 | 自衛隊

東京裁判における海軍大将、嶋田繁太郎について
「嶋田大将最後の戦い」という稿を昔書いたことがあります。
そのログに対し、最近になって「東京裁判の行われた市谷法廷が見学できる」
と言うツアーの存在を教えていただきました。

それを聞いた実行の人エリス中尉はすぐ、ブレーンに内容を確認し(笑)、
市谷ツアーの申し込みをすることにしました。

HPによると午前ツアーと午後ツアーでは内容が違うとのこと。
午前ツアーは自衛隊の広報展示室、午後ツアーは、ヘリ見学と、
メモリアルゾーン(慰霊ゾーン)見学が含まれます。

自衛隊の広報展示室の方を推薦していただき、最初はそのつもりだったのですが、
ふと気づけは午後ツアーの終了が3時半。
このツアーは一旦参加したら途中でやめて帰ることが許されないので、
息子を学校まで迎えに行く時に遅れるのが少し心配です。
というわけで午後ツアーはいつか時間に余裕のある時の楽しみに取っておくことにして、
今回は午前ツアーに参加することにしました。

というか、ヘリ見学はともかく慰霊ゾーンには最初に行くのがいいかとも思いまして。

このツアーはHPから見学の申し込みができ、
空きがあれば二日前なら受け付けてもらえます。
しかし、申し込みの後になぜかメールが来て

「登録無料アカウントのメールでは申し込めない」

という意味不明なお返事。
というか、世の中のほとんどの人が無料アカウントでメールしていると思っていた
わたしには結構びっくりでした。
そこであらためて電話で申し込みしたところ、まるでデパートの交換手のような女性が
懇切丁寧、しかも感じよく受付をしてくれました。


浅田次郎著、市谷の自衛隊員の青春を描いた「歩兵の本領」には、
高度成長期で世間の若者がヒッピーだのフーテンだの、はたまた学生運動だの、
そんなことにうつつを抜かしている中でわざわざよりによって

「自衛隊に来てしまった」、あるいは
「自衛隊に来るしかなかった」

こんなはみだし青年たちの悲哀すら漂う青春群像が描かれていて私の大好きな一冊。
この頃の社会の自衛隊(とくに陸自)に対するイメージというのは
おおむねこの小説に描かれたようなネガティブなものであったようです。

ところが今回、申し込みのために防衛省に電話したところ、
無愛想な窓際自衛隊員どころか、明るい声の女性が懇切丁寧に応対し、
まるで三越のツアーデスクに電話して見学を申し込んでいるような錯覚に陥りました。
ツアーによる内部公開を、国民に対する防衛の理解を深めるために積極的に行う
オープンな姿勢、そしてこのソフトな対応。
「歩兵の本領」に書かれたことがリアルなら隔世の感を禁じえません。

最近はこのイメージアップと「公務員の堅実さ」、加えて空自などのスマートなイメージで
「婚活市場」でも自衛隊員は人気急上昇。
自衛隊員限定の合コンは盛況で、参加は「順番待ち」という噂もあるくらいですから。



というわけで行ってまいりました。市谷ツアー。
最初にお断りしておきますが、相変わらずいったん見学したら
あれこれとこだわってしまうのがエリス中尉のブログ。
とても一日ではお伝えすることができません。
今日明日は、自衛隊広報に成り代わったつもりで、
とりあえず現在行われているツアーの概要をお伝えすることにいたしましょう。

ついでにちょっと文句も言ってしまうのだった。

周りに車を停める場所があるかどうかわからなかったので、
とりあえずいつも停めている靖国神社の駐車場に車を入れ、
ここまではタクシーに乗りました。
おりしも防衛省は通勤時間真っ最中。
右側は職員専用通路ですが、車の出入りもこの時間は頻繁です。
これに対応する職員だけでもこの人数。

車が一台入ってきたら、皆でピーピー笛を吹きまくり必ず停めてチェック。
あたり前ですが、関係者でなければトランクも皆チェックされます。

そういえば三島由紀夫と楯の会のメンバーはここを「顔パス」で入ったんですよね。
それからこんなにセキュリティが厳重になった、ってことは無いのかしら。



そんな中、ツアー参加者が三々五々集まり始めています。
実はエリス中尉このツアーを申し込むときに
「もし誰もいなくてわたしだけだったりしたらどうなるんだろう」
などと心配していたのですが、そんな心配は杞憂に過ぎず、
いまどきの防衛に対する国民の関心の高さを反映してか
結構毎日ツアー申込者は多いようで、実は電話で日取りを決めるときにも
「その日はもう満員です」と何回か言われたくらいです。
ブログなどの感想には会社の研修で申し込んで行ったという容なものが散見され、
団体では一か月以上前から申し込んだりするのだそうです。



こちらの出入り口からも職員が出勤するので、
見学者が貯まってくると邪魔にならないよう左のスペースにまとめられます。




見学希望者はこのようなリストに名前が載せられ、
身分証明書の提示を求められたうえチェックします。
空いていても前日に申し込めないのはこのリストがあるからです。

なんとこの赤いコートのお姉さん方は「ツアーガイド」。
一日二度、二時間半のツアーのための専門ガイドさんがいます。
防衛省、わざわざこの役職のために制服まで(しかも何種類も)作りました。
この赤色は非常に良く考えられていて、こういうツアーに参加する人々は
主にダークな色調の集団でぞろぞろ歩き回るのですが、目を引くこの赤は
いったん解散してから再集合するときなどに見つけやすいのです。

ツアーを率いない、解説専門のガイドさんの制服の色は



こういったブルーだったりします。


さて、いよいよツアー開始。
今日午前ツアーの参加者は25人というところでしょうか。
必ず構内に入るときには「参加者」のタグを首から下げます。



ガイドさんの基本姿勢。
というか、ガイドさんはなぜ手を上げるのか。
「こちらにお進みくださーい」



それにしても、全体的にここ、ものすごく新しく見えませんか?
今見えているのは防衛省の庁舎ですが、これが六本木から移転してきたのは
2000年。(鷲さんはこちらに勤務されたんですよね?)
もう13年経ちますが、まだまだ出来立ての風情があります。
ちなみにこの建築を請け負ったのがエリス中尉の知り合いである

「元陸軍士官学校卒(ぎりぎり)少尉」

である超大御所建築家で、ここは地下5階まであると教えていただいたことがあります。
勿論有事の際の安全を確保するための仕掛けはそれこそてんこ盛り。(噂)



ここは幕末の頃、徳川御三家のひとつ、
尾張徳川家第二代光友が徳川家綱から5万坪を拝領。
ここ市谷台に上邸を築いていました。
これがその頃の写真。
屋敷っていうか、どう見てもこれは学校ですね。



明治維新になって返上されたこの地には、明治七年、
京都兵学寮が開かれ、その後昭和12年には
陸軍士官学校がここで座間と朝霞に移転するまでの間ありました。
これはその頃の写真。
細い板を渡る競技をしていますね。

ちょっと楽しそう・・・・?

士官学校の後はご存知のようにここに陸軍参謀本部が、
そして終戦後はここで極東軍事裁判が行われたのです。



市谷「台」と言うくらいで高低差が大きいこの土地、
こういった庁舎を建てる際に屋外にもエスカレーターを敷設しました。



横には大きな階段があり、職員は割と普通にそちらを歩いていました。
われわれは見学組なので、このエスカレーターも見学のために乗ります。



ここがA棟で、防衛大臣を補佐sる内部部局、統合幕僚幹部、
および陸海空の幕僚監部など、防衛の中枢機関があります。

ここが占拠されたら日本の防衛はもう終わりなので(たぶん)
ツアーの身元証明は非常に厳重なのです。あたりまえですが。

向こうに見えているのは通信鉄塔のあるB庁舎。
陸、海、空各自衛隊の通信部隊が使用する通信庁舎です。

ここが万が一占拠されたら日本の防衛通信はもう終わりなので(略)



クリスマスシーズンにLEDライトを取り付ければさぞかし・・・(自重)



儀仗広場に到着。
ここで内外の要人が儀仗礼を受けます。
この国旗掲揚台横の生垣向こうにはスペースがあります。

 

そこに二つほど顔を出している石灯籠。
おおさすがに日本の施設、
陸軍参謀本部の昔から、和の風景を大切に・・・・・・

え、違うんですか?

これは実は灯篭は「目隠し」。
この灯篭の立っている下には地下壕があり、
これは通風孔が上空から見つからないように立てたものだったのですね。
今なら庁舎が地下5階のちょっとしたシェルターになっているわけですが、
この頃はお偉方がここに避難するための地下壕には換気孔が必要でした。

米軍がここを接収したとき、この仕掛けを見て
「うはww通風孔の目隠しに灯篭wやっぱ日本人は日本人だわ」
とちょっとウケたのではないか、と想像します。



やっぱりガイドさんの赤いコートが目立っていてわかりやすい。



途中で何台か公用車を見ましたが、どの車もノーズに
桜の花のマークが入っています。



というわけで本日のメイン、市谷法廷跡。
実はこの大講堂は元からここにあったのではありません。
2000年の大移転の際、先ほどのA庁舎があった場所にこれはありました。
A庁舎を作るためにこの歴史的な建物は保存を目的としてここに移転したのです。

その移築の様子なども、中で観ることができる映画では説明されていましたが、
これが「元の場所にあったものではなく、新しく作った部分が多い」
と知ったとたん、なんだかがっかりしてしまったのはわたしだけでしょうか。



おかげでこのエントランスなども、こぎれい感が漂ってしまい、
いくらドアが本物でも感興が殺がれることはなはだしい。

とはいえ市谷台ツアー30万人達成、おめでとうございます。



さすがに床材、玉座の床や壁、
照明器具もそっくり持ってきたこの大講堂に入ったときには感動するのですが、
江田島の旧兵学校の大講堂に入ったときに感じる、あの「匂い」が無い。

「まさに、この建物で、この場所で」
といった「時を経て今そこに立っているという興奮」が湧いてこないのは否めません。

ここまでこだわるわたしは異常ですか?

見学者は、皆ここで市谷の歴史についての映画を観ます。
映画は著作権の関係で撮影禁止。


ところで。
大講堂の歴史を語るうえで皆が最も興味を持つと思われるのが、

「ここで極東軍事裁判が行われた」
「三島由紀夫が切腹した」

という二点であると思われるのですが、しかしながらこれは
どちらも防衛省にすれば「黒歴史」の範疇の出来事なんですね。

軍事裁判の頃は戦争に負けて占領されていたからまあ他人事みたいなもんですが、
三島事件に関しては完璧に「触れられたくない過去」なのか、
見学者の興味に全くお答えすることなく、映画で紹介された写真はごくわずか。
そういう事件があった、ということを伝えるにとどまりました。



映画を観終わって玉座に畏れ多くも近づきました。
写真はその一段お高いところから望む講堂内。



玉座には専用の階段がありますが、この階段に付いて「秘密がある」
と鷲さんに教えていただきました。
今日は概要ですのでこの種明かしはまたいずれ。(引っ張ります)
でも、この写真からでも少し何かお分かりいただけますか?

ヒントは

「天皇陛下専用の階段」
「気配り」



この後、下の展示物を観る自由時間があります。
ここで観たものについてもまたいずれ。(引っ張ります)
そして集合して皆で二階に上がり・・・



陸軍大臣室だったところや便殿の間を見学。
そう、ここがあの「三島切腹の場」ですね。
しかしながらここも当然ながらすべての内装を取り替えてしまっているので、
「ここで三島が・・・」
という臨場性はここでも全く感じることができません。

三島事件の頃のままに家具を配置しておいてほしかった、
とまでは言いませんが、なにしろあの切腹の場に




よりによってこんな模型のガラスケースをでーんとおいてますからね。
わざとか?わざとなのか?

やっぱりあの事件は防衛省にとって「触れられたくない」汚点だったのでしょうか。
さて、刀傷や、あと少し気が付いたことはまた後日お話しするとして
(引っ張ります)、大講堂のツアーはこれでおしまい。
即されて皆で外に出ます。



昔の時計は今は飾られているのみ。
平成9年に解体された一号館のシンボルでした。



この桜も。
というか、どうしてこれどちらも使わないんです?
陸上自衛隊東部方面総監部のシンボルだったというのに。

防衛省が省と自衛隊に対して理解を深めるために
このようなツアーを大々的に企画し、イメージを良くするための
広報活動としているのは大変結構ですが、なんだか、
全てがピカピカで、移築された市谷法廷と言い、ほとんど触れない「三島事件」といい、
「はい、これですよ」と防衛省の差し出すものに、わずかではありますが

「それじゃない感」

がうっすらと感じられたのは、わたしの期待しすぎというものでしょうか。



しばらくこのツアーについて岡山や鹿児島の旅行記を挟みつつお話しします。
どうぞお付き合いください。




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