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あなたは行進曲軍艦を「完璧に」歌えるか

2011-10-15 | 海軍

歌えるか?


と聞かれて「もちろん歌詞さえ知ってたら歌えるさ、何度も聴いて覚えてしまっているから」
と胸を張って言える人の方が、現代には多いのではないかと思います。

現在の日本に溢れる数多の音楽はリズムもメロディも複雑になって、たとえば以前このブログ中で説明した
映画「パイレーツオブカリビアン」の「彼こそは海賊」にしても
二拍三連のリズム(カウントの仕方は4拍子)の曲の中間部で「三拍子に聞こえる部分」がでてくるなど、
音楽的には非常に高度なリズムを皆何の違和感もなく受け入れているわけです。

11歳の息子は今チェロでこの曲を全曲演奏することができますが、彼の場合問題になるのは常に演奏技法であり、そのリズムについては完璧に理解できているほどです。
(ちょっと親バカしてみました)

しかし。


この曲ができた114年前、当時の日本人は今とは全く違うリズムの上に生きていました。
日本人の基本は畑で鍬をふるう「おいちに、おいちに」あるいは「えんやーとっと」の2拍子であり、
決して騎馬民族の「ぱからっぱからっ」という二拍三連ではなかったのです。


民謡や軍歌のほとんどは、頭に強拍のくる二拍子であり、日本人に拍子を取らせると必ず
一拍目に拍手が来る。

あたりまえだって?
これは日本人やアジア地域の民族に見られる傾向です。
欧米の、特にアメリカ人の集団に拍子を取らせると、まず間違いなく「頭」ではなく「後打ち」つまり
「ん パッ ん パッ」
という打ち方をします。
ロシア民謡でも「カリンカ」や、コザックダンスの音楽は皆「んパっんパッ」ですね。

日本人には三拍子という概念もありませんでした。
たとえば「芸者ワルツ」という曲にお年寄りが拍子を取ったら、頭から一拍ずつ打っていくため

あな た  リー  に  田  ゆれ 

(下線で拍手、拍の頭は太字)

ってなことになってしまうんですね。

え?例がマニアックすぎるって?


前置きが長くなりましたが、この名曲「軍艦」が当時画期的であったことにこのリズムの
「汎世界的」な使い方にあります。
本日冒頭で示した後半のこの部分、赤で囲んだ部分をシンコペーションといいます。
一行目にもありますね。
ようするにリズムを拍頭で切らずに「引っ掛ける」という技法です。
音楽の時間に習いましたね。覚えてますか?

このシンコぺートはたとえばcouldn'tのように省略することを言いますが、実音を「省略」しているわけです。

西洋音楽では当たり前の技術ですが、そもそも西洋音楽そのものが先取的だったころ。
当時の日本人は受け入れはしてもこれらの西洋のリズムをなかなか歌いこなせなかった、と言われています。
「陸軍分列行進曲」の「抜刀隊」部分を当時の日本人は唄うのが大変だったという話を書きましたが、
この場合は音程の複雑さと転調という観念が当時の日本人の「体内」に無かったためです。

つまり、海軍はリズム、陸軍は音程で日本人の音楽概念をこのとき超越したわけです。
おおげさすぎるって?



ぶっちゃけていうと、当時この曲を「いきなり完璧に歌える一般人はあまりいなかった」と言うことです。

204空附きの軍医大尉で、音楽家でもあった小林勝郎氏の著書にあった話です。
氏が砲術学校で(軍医として)訓練中、週一回の軍楽隊員による軍歌指導がありました。
軍楽兵がトランペットを吹き、下士官が自ら歌いながらある日この軍艦を指導したそうです。

ところが、皆ここの楽譜の「シンコペーション部分」が正確に歌えない。
小林氏がつい「ここはシンコペーションという特別な技法が使われていて」
と口を出したら、
「軍医中尉はよくご存知で!」
と称賛のまなざしで軍楽隊員から見られてしまったというのです。
まあ・・・実は特別な技法ってほどでもないんですけどね。
著書によると軍医は東京でシェーンベルグの無調音楽なんかも鑑賞していたわけですから、
あくまでも一般レベルで語ったのでしょうが。

その後小林軍医中尉のあだ名は『シンコペーション』になりました。


飛行予備学生14期の方の回想です。
筑波颪が吹きすさぶ土浦の学生舎南の日だまりである日分隊士の寺田中尉がこんなことを言いだしました。

海軍士官たらんとするお前たちは軍艦行進曲を正確に歌えなければいけない。
我と思わんものはこの号令台の上で一人で歌ってみよ」


なんでそうなるねん、などと言ってはいけません。
軍歌行進が兵学校始め軍隊教育の基本であったように、軍歌をきちんと歌い心を合わせるということは
軍隊の統率と精神的な統一を図る上で大変重要な訓育法であったわけですから。

とにかく、それを受けて我こそはと何人かの学生が次々にチャレンジしますが、
皆歌詞は覚えていても曲のどこかで必ず微妙なミスを犯してしまうのです。


そのミスの大半がこの「シンコペーション部分」であったことは疑うべくもないでしょう。
審査員の寺田中尉は完璧に歌うことができ、自信もあったに違いありません。
いざ歌いだしても、最初に間違ったところで出されるその寺田中尉の「やめ!」の声に
次々とたおれていきます。

「こんなに難しい歌だったのか・・・・」

何気なく歌い聴いてきたこの歌の難しさに皆があらためて驚くような気持を持つうちに
コンテストは終わりました。


このとき完璧に最後まで歌いきり、みごと優勝したのは
九州の炭鉱財閥の一門の子息で、紅顔の慶応ボーイであった幾島達雄学生でした。
その後彼は昭和20年4月6日、神風八幡護皇隊員として特攻散華したということです。

 

ところで、アップしてから冒頭の譜面にミスがあるのに気付きました。
直すのが面倒なので(おいっ)クイズにしてしまいます。
どの部分が間違いでしょうか?
正解は巻末に。・・・二行後ですが。


いやー、こんなに書くのも難しい曲だったとは・・・・(←嘘)




(後ろから二小節目のファは符点四分音符、ソが八分音符)





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