ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

スミソニアンが選ぶ第二次世界大戦のエース(連合国編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-19 | 飛行家列伝

スミソニアンの「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
当博物館がセレクトした戦闘機エースのその頂点となるトップエースを
ご紹介していますが、前回英米編をお送りしたので、今日はその流れで
連合国軍のエースと参りたいと思います。   

ソビエト連邦(ソ連)国歌 歌詞の意味・和訳ソビエト連邦

戦後冷戦でアメリカ世界の勢力図を二分したソ連が、
第二次世界大戦の時には連合国側だったというのが不思議な気がします。

ソ連が連合国側に加わったのは、1941年のソ連侵攻、つまり
独ソ戦が始まったときということになります。

というわけで、最初に紹介する冒頭の目が怖い搭乗員は、ソビエト空軍のみならず、
連合国軍全ての戦闘機搭乗員のトップに君臨するエースであるこの人です。

【連合空軍のトップエース】

イヴァン・ミキートヴィッチ・コジェドゥーブ ソ連人民空軍元帥

Msl. Ivan Nikitovich Kozhedub  Иван Hикитович Кожедуб
( 8 June 1920 – 8 August 1991)

BBC CCCP(ソ連空軍)

62機撃墜

飛行クラブで航空への第一歩を踏み出した彼は、1940年初頭に赤軍に入隊し、
軍パイロットとしてのキャリアを始めます。

戦闘機パイロットとしての初陣で彼は メッサーシュミット109と交戦しますが、
機体を損傷し、なんとか帰還したものの彼にとって完全な敗北戦となりました。

その後、ユンカースJu-87爆撃機2機とBf-109戦闘機2機を皮切りに、
たちどころに20機を撃墜し、トップエースに躍り出ます。

終戦まで彼はLa-7による330回の出撃、120回の空戦で62機の敵機を撃墜しました。

その内訳は、

Ju-87→17機、
爆撃機Ju-88→2機
He-111→2機
Bf-109→16機
Fw-190→21機、
攻撃機Hs-129→3機、
ジェット戦闘機Me-262→1機

というものです。
Me-262を撃墜したのはソ連空軍では初めてですが、史上3番目
(前年にアメリカ軍のクロイとマイヤーズが1機ずつ撃墜)です。

彼は機体を撃破されても必ず機体を帰還させ、生還しました。
28歳の時にはMiG-15ジェットの操縦もマスターしています。

戦時中は下士官だった彼は、1956年に36歳で陸軍士官学校を卒業し、
最終的には空軍元帥にまで昇り詰めました。

【味方を撃墜した理由】

アレクサンドル・イワノビッチ・ポクリシュキン ソ連空軍元帥

Gds. Col. A. I. Pokrysyhkin(21 February 1913 – 13 November 1985)

BBC CCCP

59機〜90機撃墜

Маршал авиации А. И. Покрышкин最終型。勲章塗れ

ポクリシュキンは、連合国軍中、前述のコジェドゥーブに続く
2番目の撃墜数をあげて成功した戦闘機パイロットです。

12歳の時に初めて飛行機が飛ぶのを見て、航空に興味を持った彼は、
赤軍入隊後、こっそり民間人パイロットクラブに通ってプログラムを終了し、
軍航空学校を卒業してパイロットになる夢を叶えます。

第二次世界大戦の参加のことをロシアでは「大祖国戦争」といいますが、
その大祖国戦争に少尉として参加したポクリーシュキンは、
早々に大失敗をしてしまいます。

邀撃戦でいきなり間違えて同僚、しかも爆撃隊飛行隊長機を撃墜したのです。

彼の言い訳?によると、空中に見たことのないタイプの航空機を見つけ、
攻撃して撃墜してしまってから、翼にソ連の赤い星が付いていることに気がついたと。
しかもそのSu-2軽爆撃機にはソ連の第211爆撃機航空連隊長の乗っていました。
なぜ彼が誤解したかというと、ソ連軍内にも秘密にされていた新型機だったからです。

深く反省した(たぶん)彼は、翌日Bf109を撃墜しました。

のちにこの味方撃墜が国民的英雄である彼の仕業と聞いた同僚が、彼に

「冗談だろ、サーシャ」

というと、彼はこういいました。

「冗談じゃない、戦争が始まった頃、本当にSu-2を撃墜したんだ。
スホーイは戦争直前に登場したんだが、とても珍しい形をしていたので、
てっきりぼくはファシスト(の機)だと思ってしまったんだよ」

その後彼は190回の出撃を行い、公式には59機、非公式には
90機とも言われるドイツ機を撃墜し、連合国第二位のエースになりました。

🇵🇱 ポーランド

1939年のドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まったのですから、
当然ですがポーランドは「最初の連合国」?ということになります。

【祖国からの告発ー死刑囚から准将へ】

スタニスワフ・スカルスキ 空軍准将

BG Stanisław Skalski DSO DFC & Two Bars
 (27 November 1915 – 12 November 2004)

PAF・ RAF

22機撃墜 

この人のことについて以前当ブログで取り上げたことがあります。

第二次世界大戦中、ポーランド空軍とイギリス空軍に所属し、
戦争が始まってまもなく、一回の出撃で6機のドイツ機を撃墜したことから、
第二次大戦最初の連合国側の戦闘機エースということになります。

彼はその後他のポーランド人パイロットとともにルーマニア亡命し、
イギリス王立空軍に加わってバトル・オブ・ブリテンに参戦しています。

その後RAFでHe 111爆撃機、メッサーシュミットBf 109などを撃墜し、
RAFのNo.317(ポーランド)飛行隊の指揮官を務めました。

彼の指揮した部隊は「Cyrk Skalskiego」(スカルスキー・サーカス)と呼ばれていた、
ということもこのブログに以前書いたかと思います。

その後彼はRAFのNo.133ポーランド戦闘機航空団の司令官に任命され、
マスタングMkIIIを使用していました。


🇺🇸製マスタング、🇬🇧空軍仕様に乗る🇵🇱人の図

順調だった彼のキャリアは戦後暗転することになります。
帰国した彼を待っていたのは、共産党当局によるイギリスのスパイという汚名でした。

逮捕勾留中には拷問を受け、1950年、見せしめの裁判で死刑を宣告されるのです。

心労が髪に・・・

死刑判決を受けてから3年間を牢屋で過ごす間、彼の母親は必死で運動し、
大統領にまで働きかけた結果、まず無期懲役に減刑されました。

それからさらに3年後、1956年に裁判所は前回の判決を覆しました。

「ポーランドの10月」でスターリン主義が終焉を迎えた後、
1956年、8年ぶりに解放された彼はポーランド軍に復帰し、
そしてポーランドの共産主義崩壊を目前にした1988年、准将に昇格しました。


【三カ国空軍で戦った男】

ヴィトルト・ウルバノヴィッチ空軍大将

Witold Urbanowicz (30 March 1908 – 17 August 1996)

LWP RAF  USAAF 

20機撃墜

彼が88歳でその生涯を終えたのはニューヨークでした。
ポーランドの農家に生まれ、イギリス軍で少佐になり、中国大陸で日本軍と戦った男は、
その余生をアメリカで過ごしたということになります。

ポーランドの空軍士官候補生学校に入学し、24歳で少尉任官した彼は、
夜間爆撃隊を経て戦闘機乗りの道を歩み始めます。

教官となった彼は、どういう理由でか「コブラ」というあだ名をつけられました。
第二次世界大戦で活躍した多くのパイロットが、彼の指導のもとで最初の訓練を受けています。

航空学校の演習が行われていた時、ドイツ機が襲来し、これが彼にとって
最初の空戦の実戦となったわけですが、1機も撃墜することはできませんでした。

それどころか地上の愛機が撃破され、次の飛行機も到着しなかったため、
彼は自国軍に見切りをつけたのか、王立飛行隊の招待を受けて英国に移りました。

このときRAFはポーランド軍の搭乗員全般をスカウトしており、
ウルバノヴィッチの他にもそれに応じたパイロットは何人もいたのです。

のちにRAFに「ポーランド飛行隊」が結成されたのもこういう下地があったからです。

ウルバノビッチはRAF145戦闘機隊のパイロットとして、
8月4日にバトル・オブ・ブリテンに参加し、このとき
メッサーシュミットBf109を2機撃墜していますが、公式統計には含まれていません。

9月15日はバトル・オブ・ブリテンの勝敗が決まったと言われる日ですが、
この日、彼はドイツ軍の60機の爆撃機を援護する戦闘機隊との交戦を指揮し、
バトル・オブ・ブリテンの間だけで、

Do-17 3機
ハインケルHe111 1機
Ju88 2機、
Bf109 4機
Bf110 1機

という撃墜記録を残しています。

その後彼はポーランド軍戦闘機隊の指揮官になったのですが、
どういう理由かポーランドでは彼は評判が悪く、任務から外されてしまいました。

そもそも、この人は最初から何かと物議を醸すたちだったようで、
「妥協しない」(融通が効かない)「非外交的」などと言われていました。

ポーランド語による彼のバイオグラフィによると、かれは

「ポーランド軍の格納庫付近でスパイ活動をしていた
ヴィリー・メッサーシュミットへの厳しい仕打ちを行った」

つまり「そういう(酷い)人だった」とされているようですが、
そもそもメッサーシュミットがポーランドでスパイ活動をしていた、
という話は他に聞いたことも見たこともありません。

彼の人望のなさはわかりましたが、メッサーシュミットのスパイの件、
本当だったのかどうか。
どなたかご存知でしたらぜひ教えていただきたく存じます。

アメリカへ

ポーランド軍の指揮官を外された彼は、アメリカに渡りました。
アメリカのポーランド系コミュニティに向けて、軍の志願者を募るため、
講演会を開くという名目でした。

その後、駐在武官としてワシントンにとどまっていたウルバノビッチは、
1943年、中国戦線で戦うアメリカの第14空挺部隊に(ゲストとして)志願します。

そして「フライングタイガース」として有名な、第23航空群第75戦闘飛行隊に配属されました。

(おそらく)シェンノートと話すウルヴァノビッチ。

この部隊のパイロットとしてP-40Nキティホークに乗り、
彼は爆撃機や輸送機を護衛しながら、12月11日、南昌飛行場上空で、
日本軍機2機(公式記録)]おそらく中島キ44型機を撃墜しています。

これにより、彼は三ヶ国の空軍のために飛んだパイロットとなり、
史上たった一人、日本軍と交戦したポーランド人パイロットになりました。

 

除隊後はアメリカに残り、航空関係の会社の統計担当者として、
その後はニューヨークのキリスト教男子青年同盟の理事会事務局長として働きました。

彼はYMCAの代表として、ポーランドに滞在した際、公安省の職員に
4回も拘束されながら、なんとか刑務所を免れて海外に逃れたと告白しています。

運が悪ければ祖国の裏切り者として、スカルスキのような目に遭ったのかもしれませんが、
その後ポーランド政府からは亡命中にも関わらず大佐に任命され、さらにその後、
レフ・ワレサ大統領は彼に准将の階級を与えました。

かつて日本を敵として戦った彼ですが、航空業界のコンサルタントであった1991年6月、
彼はオファーを受けて、初めての来日を果たしています。

バブル時代のきらびやかな日本の姿に、彼は目を見張ったかもしれません。

 

 

続く。