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万永元年のアイスクリーム~横須賀歴史ウォーク

2016-05-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、横須賀市観光協会内にあるNPO法人横須賀シティガイドによる
横須賀ウォークツァーで見たものをお話ししています。



砲台山と別名を持つ中央公園(なんてつまらない名前をつけたことか。
地元の人が砲台山と呼んでいるのだから、砲台山公園でよかったのに)
の高台から、小原台の方角を指差しながらガイドが
「あそこに防衛大学校があって」
などと説明していた時のことです。

誰も指摘しないのですが、いやでも皆の目につくところにこれがありました。
最初に電線に縛った靴紐の部分を引っ掛けているのを見たのは、
スタンフォード大学の近くの住宅地であったと記憶します。

その後、ちょくちょくこれを見たのですが、「選挙運動に関係している」
という話を聞いただけで、真偽はわからぬままになっていました。

これ、ちゃんと名前がついていて”Shoefiti”(シューフィティ)とか
"Shoe tossing"(靴投げ)とか呼ばれるものです。

単にいじめであるとか、ここで麻薬を取引しているというサインであるとか、
わたしが聞いたように政治的主張であるとか、退役する軍人の通過儀礼とか、
とにかくその真の理由は定かにはされていません。

おそらく、ここでやっているおそらくアメリカ人も、意味なくやったか、
「足跡を残す」という意味で日本を去る時にここに靴を投げて行ったのか。

だれも靴のことに触れずに次に進もうとしたら、砲台の説明の時に

「一発も当たらなかったんじゃないか」

といったおじさんが

「あそこに靴が干してある」

と大きな声で言いましたが、だれも反応しませんでした。



ちょうどそのときお昼になりました。
わたしたちのグループは自然・人文博物館で昼食をとることにしました。
これは博物館の真向かいにある年代のいっていそうな石垣。

きっと砲台があった時代からのものでしょう。

一行はガイドについて博物館に入っていきます。
日本の博物館にはめずらしく入館料は無料の模様。



入ってすぐナウマン象の化石複製がありました。
横須賀とナウマンの関係について以前一度書いたことがあります。
ナウマン象と名付けたのは日本人科学者の槇山二郎博士でした。

象の化石を最初に発見したのは明治政府の「お雇い外国人」だった
ドイツの地質学者エドムント・ナウマンですが、ナウマンの帰国後、
浜松で発見された象の化石に自分の名前でなくナウマン博士の名前をつけた
のは槇山博士の「義挙」ではなかったか、と書いたものです。



その向こうにホルマリン漬けになっている魚類は・・・。

ミツクリザメ。 

あちこち縛られて実に不細工になってしまいましたが、
実物はこんなシェイプではないようです。
相模湾で発見され、発見者の一人箕作佳吉博士の名前が付けられました。

リアルエイリアン!
顎ごと飛び出して噛みつくモンスター ゴブリン・シャーク
(和名:ミツクリザメ、東京海底谷に多く生息)


写真は怖いけど、あまり強くなさそう。
それと、エラのところから向こうが丸見えなんですけど、これは・・。


さて、こんな展示を横目で見ながらわたしたちは休憩所に案内されました。
ここでお弁当を食べて40分後にロビー集合、ということです。
わたしはまず人文の展示場を駆け回って写真を撮りまくりました。
皆さん疲れておられるのか、走り回っているのはわたしだけでした。

ツァーの案内には「お弁当持参」とあったのですが、わたしは2時までだったら
最悪ソイジョイ1本で持ちこたえる自信があったので何も持っていませんでした。
が、博物館に入る時、向かいの市民会館ホールにレストランがあるのを
目ざとく見つけ、残り30分で駆け込んで昼食を注文することに成功。



お昼時なのに客は施設の従業員らしき人が二人、
そしてどうやらツァーの参加者らしき夫婦が二人。
空いていたおかげですぐに注文が出てきました。



さて、この博物館の人文コーナーに入ると、横須賀の歴史において
忘れてはならないこの三人の胸像がお出迎えしてくれます。

右から日本の造船、製鉄の技術の父というべきレオンス・ヴェルニー、
横須賀製鉄所の建設に貢献した勘定奉行小栗上野介忠順、そして
一番左は・・・・これ誰?

三浦按針(ウィリアム・アダムス)

イングランドから漂流して日本に流れ着き、そのまま家康に重用されて
船を作ったり外交顧問をしたり、横須賀の逸見を領地として与えられたり。
つまり、元祖「青い目のサムライ」だったのです。

興味深いのは、三浦按針らが漂流してきた時、しつこく処刑するようにと
要請してきたのは、イエズス会の宣教師たちだったということです。
なんか自分たちの地位が脅かされるとでも思ったんでしょうか。

家康がそんな外部の声に耳を貸すこともなく、というか面白がって(?)
按針を重用したので、彼らは面白くなかったでしょう。



冒頭画像はマシュー・カーブレイス・ペリーの立像。
というか、ペリーのファーストネームなんて(ミドルネームも)
今初めて知ったような気がします。
それくらい「ペリー」は日本人にとって「一般名詞」化してるってことですね。

当時ペリーを見た人物は、身長が192~4センチだったと書いており、
当時の日本人からは巨人のように見えたであろうと想像されます。
しかし、実際に身長測定したわけではないので、実際は
せいぜい180センチを越すくらいなのをそう思いこんだという説も捨てられません。

この椅子は、ペリーが座ったもので、後ろに使用中の図があります。

アメリカが最初に日本に寄越したのは実はペリーではありません。
ペリーの7年前にジェームズ・ビッドルという海軍の司令官を
(米英戦争ではワスプとホーネットに乗っていた模様)全権として
日本に送ってきているのですが、通訳の手違いで護衛の侍がビッドルを殴り、
刀を抜くなどという騒ぎになったうえ、ビッドルは本国から「決して日本を刺激せず」
と命令を受けていたため、そこで引き下がってしまいました。

ペリーはビッドルの失敗の轍を踏まぬよう、今度は黒船を率いて「砲艦外交」
によって日本を開国させることに成功したのでした。

ちなみにアメリカが日本を開国させたがった理由の一つに

「捕鯨船の寄港地を求めていた」

というのがあります。
メルヴィルの「白鯨」の舞台が実は日本海であったということは
あまり知られてはいませんが、そういうことだったんですね。



1858年、日本はアメリカと日米通商条約を結びます。
そこでその2年後、万永元年に、全権団をアメリカに派遣しました。
この派遣団の目付け役として乗り込んでいたのが、オグリンこと小栗忠順です。
この写真では右から前列の右から2番目がオグリンです。
小栗はどうも頭を右に傾ける癖があったらしく、写っている写真が
二つとも全く同じ角度で傾いています。

小栗の左の遠目にもイケメンなサムライは、正使、新見正興(しんみまさおき)。



気のせいかと思ったら本当にイケメンでした。
さらにびっくりしたのはこの人、あの美貌の歌人柳原白蓮
(花子とアンで仲間由紀恵が演じた模様)おじいちゃまだったんですねー。
道理で。

この時に全権はアメリカ海軍の艦船でアメリカに渡りましたが、護衛として
あの咸臨丸がそれに付き添って行っています。
咸臨丸に乗っていたのが、おなじみ勝海舟、通訳にジョン万次郎、そして
軍艦奉行の従者として福沢諭吉などの超豪華メンバー(今日的に)。



左、ニューヨークのメトロポリタンホテルで行われた歓迎会。
彼らはアメリカ人に熱狂的に歓迎を受けました。

右は、日本まで帰国する全権を乗せてきたナイアガラ号。
品川沖に投錨し、全権が下船するのを総員が登舷礼で見送りました。



CHIEF INTERPRETER(通訳)MORYAMO YENOSKI
AND TAKO JURO INTERPRETER

とあります。
版画ですが、すごくリアルで、写真をもとに製作したのかもしれません。
で、この通訳の名前ですが、

森山家之助?と田高十郎、という感じでしょうか。
アメリカ人が日本人の名前を聞こえたそのまま書くとこうなる、
という感じですね。

余談ですが、今遅まきながらわたし寝る前にちょっとずつテレビドラマ
「ヒーローズ」を見ています。
ご存知かと思いますが、主人公の一人が日本人(ヒロ・ナカムラ)という設定なので、
彼が親友やや父親、時々はアメリカ人とも日本語で会話するのですが、
この会話がことごとく日本語でおkの世界なんですよ・・。
東京のシーンもあるのでおまわりさんとか会社の人も、みな日本語でおk。
びっくりするのが、ヒロの父親であるカイト・ナカムラに、あのスタートレックの
ジョージ・タケイが扮しているのですが、この人も日本語でおk。
武井 穂郷という日本名のあるれっきとした二世なのに、日本語喋れないんですわ。
まあ、わたしが話したことのある唯一のハリウッドスター、パット・モリタも
日本語全然喋れないって本人が言っていたし、(でも英語もなまってた)
アメリカで暮らしているとこうなるのかもしれませんねえ。

それはともかく、このドラマの日本、設定された名前がみななんかおかしい。
親友はアンドウ・マサハシというのですが、アンドウがファーストネーム。
つまり、真佐橋安堂、なんていうお坊さんみたいな名前なわけ。
彼の父親がやっている会社も「ヤマガト工業」で、山雅戸、とか山賀戸とか?
なんか万永元年からアメリカ人の日本に対する理解ってある意味あまり進歩しとらんなー、
と思ってしまったりします。


さて、このときに渡米した77人のサムライたちは、アメリカに熱狂的な歓迎とともに
ちょっとした日本ブームのきっかけを作ったようです。
この分厚い辞典のような本も、それがきっかけに出版された
日本を知るための本だったに違いありません。
左に日本の家紋についての記述がうっすらと見えていますが、
この中にうちの実家の家紋があるー!
 
ところで、こんなページを見つけてしまいました。

 万延元年遣米使節子孫の会

このときの使節団の子孫が、会を作って交流しているのです。
おそらくこのなかにログインすれば、 MORYAMO YENOSKIさんや
TAKO JUROさんの子孫がおられて、実はどんな漢字を書くのかもわかるのでしょう。



当時の大統領フィルモアがペリーに全権を与えた委任状。
手書きの

five Full Powers in blank to Mattehew C.Perry

の部分の意味がよくわかりません。
もしかしたら、全権を与えるに当たって、「星5つ」つまり
元帥位をペリーに付するという意味だったのか・・・・?

どなたかこの部分おわかりの方おられますか?

さて、タイトルにしてしまったので余談ですが、この万永元年の使節団、
アメリカ滞在のときに酪農場に行ってアイスクリームを食べ、
おそらく初めてアイスクリームを食べた日本人となりました。

彼らは上の図にもある晩餐会でもデザートのアイスクリームに舌鼓を打ち、
これは(・∀・)イイ!!ということになったのでしょう。

そのときのメンバーの一人出島松蔵がのちに横浜の馬車道通りに
「氷水屋」を開き「あいすくりん」という名称で売り出しましたが。
一人前は現在の約8000円くらいと高く、当時の日本人は「獣くさい」といって
牛乳を嫌ったため(ソースは手塚治虫の陽だまりの樹)なかなか浸透しなかったそうです。

出島はその後明治天皇に富士の氷穴及び函館の天然氷を用いて製造した
「あいすくりん」を献上していますが、本格的に日本に広まるのは
1899年(明治32年)7月、東京銀座の資生堂主人、福原有信が売り出し、
大正になって工業生産されるようになってからのことです。


続く。