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護衛空母「ガンビア・ベイ」~ "THE LITTLE GIANTS"

2015-05-02 | 軍艦

昔、当ブログを開設した年にアップしたこんなエントリがあります。

駆逐艦「藤波」のこと

サマール沖海戦で重巡「利根」に撃沈された米海軍の護衛空母、

ガンビア・ベイ(USS Gambier Bay, AVG/ACV/CVE-73)

の海に漂う乗員に対し、無用の攻撃をせず甲板から彼らに敬礼を送り、
そのあと撃沈されて全員が戦死した駆逐艦「藤波」のことを、
「ガンビア・ベイ」の生存者が

私は世界の人々、とりわけ日本の人たちに駆逐艦「藤波」の乗組員のことを知ってもらいたいのです。
これら乗組員たちの、見事な行為を知ってほしいのです。

という手紙を日本に送ってきたということを取り上げたものでした。
このとき、偶然記事を目にした遺族の方が二人コメント欄に連絡を下さったことで
(一人は『藤波』が収容していた『鳥海』の乗員の関係者)わたし自身大変感激したものです。

今日はこの「ガンビア・ベイ」と護衛空母(Escort carrier )について、
例によって、空母「ホーネット」艦内の資料展示の写真を挙げつつお話ししたいと思います。 

まず冒頭写真の、地獄絵のような「ガンビア・ベイ」の総員退艦の様子をご覧ください。
艦腹に無数に降ろされた救助ロープを伝って、前の者と間も分かたず海面に逃れる乗員たち。


所々に高く上がる水しぶきは、ロープが間に合わず甲板から飛び込んだ身体があげたものか、
あるいはこの間も続いている日本軍の攻撃によるものでしょうか。

すでに左舷に向かって傾いている艦体の後部からは劫火のような炎が黒煙と共に噴き上がり、

この瞬間にも、爆発が構造物の何かの破片を空中に四散させています。
艦内は一つのハッチを通じて、すでにその中は火炎が燃え盛り、内部にはもう既に
手のつけようもない状態になっていることが窺い知れます。

海面に逃れたものは次々と救命ボートに泳ぎ着くのですが、
すでにあふれんばかりになってしまったボートの上に上がるすべもなく、
ただ呆然と、その縁に手をかけてしがみついている様子です。


当ブログのエントリで取り上げた「鳥海」の黛治夫艦長の戦後の証言によると、
「ガンビア・ベイ」乗員は「鳥海」の攻撃によって総員退艦となったとき、
「冷静に縄梯子を下りる順番を待っていた」そうですが、確かにこの様子からは少なくとも混乱は見られません。

ただ、

無用の殺傷を避けるために船体の中央を狙った」

という証言と、この絵の様子とは少し違うようにも思われます。

黛艦長の言い方だと、ひとところから脱出していたように取れますが、
実際には中央からも続々と将兵たちが海面に降りていますね。

実際に「ガンビアベイ」の致命傷になったのは右舷後部への着弾で、
艦隊の最後尾にいて栗田艦隊の集中攻撃を浴びた「ガンビア・ベイ」には、
雨あられのように砲弾が向かってきたそうですから。



こちら絵の全体像。
右手向こうの水平線に見えるのは栗田艦隊の艦でしょうか。
海面に逃れる乗組員たちの傍でも容赦なく砲弾が炸裂しています。
絵の題名は

”REEDOM'S COST ”(自由への代償) 

 

アメリカ人らしいといえばこんなアメリカ人らしい言葉もありますまい。
彼らにとって戦争とはアメリカの自由を守るものであり、そのためには
血を流すことが義務であるというわかりやすい信念を、アメリカという国は
その建国の成り立ちからDNAに刻み込んできたのです。

アメリカ人のいう「フリーダム」には、「自由」というそのものの意味とともに
「独立」という理想がイコールと言っていいほど色濃く含まれます。
いかなる他国にも侵害されない権利、自主独立の権利。
自身が独立戦争によって血を流し建国したが故にこの信念を高く掲げ続けてきたのがアメリカです。

そのアメリカが、日本に勝ったあと、日本から「自主独立の権利」を奪ったということに、
わたしは多くの日本人がそう思う以上に、米国の日本に対する「精神支配」をみるものです。

何が言いたいかちうと(笑)、 つまりアメリカは日本から

「血を流して得られる独立」

 

を選ぶ権利を奪ったということなのです。
それが尊いと自ら信じている行為を、日本から"は"剥奪したということなのです。 

こちらは血を流さずともアメリカが守ってくれるって言ってるんだからラッキー!
とか言っている人は、血を流す権利すら剥奪されていることの本当の意味から
目をそらされているに過ぎない、とわたしは思っています。

アメリカがそれを日本に与えたのは、決して日本人の命を重んじたからではなく、
国ごと日本を「別の何か」に作り変えたかったからだと思っています。
それは少なくとも自分たちの目指しているような独立国家とは別の違う国に。

さて、というような話はここまでにして(笑) 



この日、ガンビア・ベイのマストにあった星条旗。
沈みゆく巨艦から 脱出した乗組員によって持ち出されました。



この展示室にあった巨大な「ガンビア・ベイ」の模型。
ガンビア・ベイは当初 AVG-73 (航空機搭載護衛艦)として計画されましたが、
1942年、 ACV-73 (補助空母)に、翌年再び CVE-73 (護衛空母)へと、
1943年の就役までに運用状況に応じて何度も分類が変更されました。


例年このカイザー造船所は16隻の船を海軍に納入していましたが、1943年の目標を
海軍が2隻引き上げて18隻にしたため、造船所側は起工からわずか171日という
記録的な日数で「ガンビア・ベイ」を就役させてしまいました。

このため、「ガンビア・ベイ」は目標の18隻を上回る19隻目の艦となり、
彼女は造船所の「ボーナス・ベイビー」と呼ばれたそうです。



このときのカイザー造船所にはこんな目標が与えられたそうです。

「目標、18隻かそれ以上、44隻まで」

目標より少しでも多く、だ。
なぜ44隻なのかなんて野暮なことはいいっこなしだぜ。(って感じ?)

就役後「ガンビア・ベイ」はマーシャル諸島で「エンタープライズ」に航空機を
輸送する任務に就き、1944年6月にはサイパン島、テニアン島攻略に参加し、
その間に呂-36を撃沈するなどしています。




アルバート・ロスは沈没した「ガンビア・ベイ」の航空整備員でした。
総員退艦の後、ロスは44時間漂流して命を救われ、その後は「ホーネット」
(今この展示がされているまさにその)に勤務した後、戦後はコロラド大学で
メカニカルエンジニアリングの学位を取得しています。

ここにある模型はロス氏が製作し、ここに寄贈したものです。

しかしロスさん、若い時は超イケメンですなあ。



1944年10月25日、サマールに展開していた第77任務部隊第4群第3集団の一艦として、
最後尾を航行していた「ガンビア・ベイ」が、「大和」を旗艦とする栗田艦隊と遭遇、

集中的に攻撃を受けたのは朝8時10分のことでした。

この写真は護衛空母「キトカン・ベイ」から撮られたもので、やはり護衛空母群の

「ホワイト・プレインズ」(CVE/CVU-66)とともに航行している時で、
「ファンショウ・ベイ」(USS Fanshaw Bay, CVE-70)がバックに写っています。




この写真は今しも「ガンビア・ベイ」を攻撃した4発が巨大な水柱が上げた瞬間を

やはり「キトカン・ベイ」艦橋から撮ったもので、
甲板の上の「キトカン・ベイ」乗員が呆然といった感じで、攻撃される僚艦を見つめています。

レイテ湾の戦いは、第二次世界大戦最後の大規模な海戦となり、
このときに戦った日米豪海軍艦艇は282隻、投入された人員は200万人に及びました。

しかし、アメリカの軍艦で砲戦によって沈没したのは、「ガンビア・ベイ」ただ一隻だけです。



なんだなんだ、いきなり「サッチウィーブ」かい?

とわかってしまったあなた、今更ですがすみません。
なんかここにいきなり現れたんですよ。サッチウィーブが。

Thach Weave」は米海軍のジョン・サッチ中佐が編み出した対零戦対策の戦法で、
ペアで一組となり零戦に相対する場合、サッチウィーブは、機織り(ウィーブ)のように
互いにクロスするようにS字の旋回を繰り返すことで、
たとえ駆動性に優れた零戦に後方を取られても、僚機がその敵機のさらに後ろに付き、
効率的に戦闘ができるというやり方でした。



ジョン・サッチ中佐(たぶん)。
この絵のクォリティといい、ここにわざわざ解説があることといい、激しく謎です。
どなたか「ガンビア・ベイ」とサッチ中佐の関係をご存知ないですか。



立派な金属の銘板には、金文字で

「アメリカ合衆国海軍護衛空母で救助に当たった男たちに捧ぐ」

という表題の後、なかなか詩的な?碑文が続きます。

彼らはアメリカの隅々からやってきた
草原から、産地から、大都市から、海辺の町から、北から南から西から東から
彼らは季節雇いの船員などではなく、最初から遠くに航海する護衛空母の男になった

戦火に憤り怒れる大波に翻弄されて、彼らはすぐさま、戦時のセイラーになったことを知る

敵艦と対峙してそして勝ち、世界中の海で敵の潜水艦と戦iい、神風特攻の猛攻に苦しみ、
アフリカの北や沖縄の揚陸を支援し、航空機を運び航空機を供給して、
彼らの誰もが聞いたこともない太平洋の嵐や大西洋の強風と戦った

彼らは決して尻込みしなかった
彼らの国を救うためにやってきて、そして二度と海から故郷へ戻ることのない者もいた
これらの艦上の男たちの何人もが、誇り高き救助を行いそして帰って来なかかった
 
リスカム・ベイ(11/24/43) ガンビア・ベイ(10/25/44)  ブロック・アイランド(5/29/44)

オマンシー・ベイ(1/4/45) セント・ロー (10/25/44) ビスマルク・シー(2/21/45)

これらの男たち、これらの艦が、名誉、勇気、忠誠、そして無私の奉公によって
アメリカ合衆国を救ったことをもって、彼らを尊敬すべき愛国者として列する

彼らの偉業は後世にわたって記憶されん


こんな感じでしょうか。
ここに挙がっている6隻の艦はいずれも戦没した護衛空母ばかりです。
 
護衛空母とは、帝国海軍でいうと「大鷹」「雲鷹」「海鷹」「神鷹」「冲鷹」
(冲鷹は移管前に戦没)の「鷹」シリーズ、「あきつ丸」「熊野丸」などで、
いずれも商船を改造して造ったものでした。

アメリカでも目的は船団護衛、航空機輸送を目的としたもので、小型・低速の空母を
「護衛空母」(escort carrier)として艦種を分類していました。
 アメリカ海軍における護衛空母の艦種コードは「CVE」です。
これは空母を表すCVに護衛(Escort)の頭文字を付加したものなのですが、

燃え易い(Combustible)
壊れ易い(Vulnerable)
消耗品(Expendable)

と案の定中の人たちからは自嘲されていたようです。
また「ジープ空母」、「赤ちゃん空母」などとも呼ばれていましたが、いずれにしても
簡単な改造で多数送り出された商船改造空母を揶揄した響きには違いありませんでした。



護衛空母かく戦えり、といったところです。
この文章にもありますが、アメリカの艦艇があの戦争をいかに戦ったかを語るとき、
必ずそこには「カミカゼ」と「潜水艦」という文字があるのに気づきます。
いずれも戦後、過小評価しようとする一派によって不当にその戦果を貶められる存在ですが、
当のアメリカがいかにこのどちらもを恐れていたかはこのような文章にも表れています。

過小評価といえば、「ガンビア・ベイ」を沈めた時の栗田艦隊の砲撃についてもそうでした。
 
相手が正規の空母ではなく、さらには正規の機動部隊でなかったことから、

戦後、戦史研究家を自任する一部「有識者」が、日本海軍の砲術技量そのものにまで、
底意地の悪い疑いの目を向け”
(都竹卓郎)

たり、あるいは敵艦隊の目撃者から「われわれより劣る」「不正確であった」
などといういわば悔し紛れの評価がそのものにたいする印象となったりしたことです。

しかし、Wikipediaにも、例えば「利根」が408発の主砲弾のうち7発命中させた、
つまり全力で避弾運動をしている艦に対する1.7%の命中率は高いものである、とあるように、
この時の海軍艦の砲術技量は決して劣ったものではなかったことが証明されています。




ところで今回のエントリのために一連の関係資料を見ていて、思わず「そうだったのか」
と気づいたことがありました。
栗田艦隊謎の反転の始まりとなった事象は、敵機動部隊が栗田艦隊から北100kmの地点、
「ヤキ1カ」に存在するという電文が届いたことでした。

この「ヤキ1カ」という言葉。


ああああ・・・いや、昔、「ヤキ1カの偽作電」さんというIDネームの方がおられましてね。
そのときには何のことだか全く見当がつかず、お尋ねしてみたのですが、
栗田艦隊のくの字もおっしゃらなかったので、以前謎のままだったのです。

今日になって初めてその意味がわかりました。
「ヤキ1カの偽作電」さん、その節は無知ゆえ失礼をいたしました。
謹んでお詫びを申し上げます。

って「ガンビア・ベイ」と何も関係ないし(笑)