ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オタクは検閲を超える

2012-02-22 | 海軍

         

「不思議な検閲写真」という項で、戦時中の出版物に対する軍検閲の概要について
実例を挙げつつお話しました。

例えば、海軍軍艦の公表写真などでは、山を消したり、時には描き加えたりして
背景の景色が修正し、地形が全く分からないように工作してありました。
戦時中の国民はこのような写真ばかり見せられていたわけですが、それでも人間のすること、
たまに「不思議な」検閲写真が人前にさらされたりすることもあった、という内容です。

不思議な検閲写真には、検閲官の知識の無さからだけではなく、
検閲すべき写真があまりに多すぎて、仕事が雑になったという作品?
もかなり多かったようです。

隼などの戦闘機の写真などは、カウリングの上にある機関銃口を、
最初は綺麗に修正して、何もないようにして発表していたのですが、
だんだん写真が多くなってくると、
ただ銃口を真っ黒に墨で消しただけという写真が出回っていたそうで、
つまり「ここに銃口があります」とかえって強調する結果になってしまっていたということです。

機械的に消すことだけして、それが何のためなのか考えることもしない、
「マニュアル人間」は往時にも健在であったと言うべきでしょうか。
しない方がましな検閲の例と言えましょう。

そこで冒頭写真ですが、これは、ある方の個人的な所蔵写真。
写ってはいけない部分が写っているのにもかかわらず、戦時検閲を逃れた貴重なもの。

しかし残念ながら、軍検閲の無い、平和な世になっても、
今度は倫理道徳的諸事情により世間に公表できません。
然し航空機マニアが見れば垂涎の「お宝写真」(らしい)です。

肝心のところを消してしまったので、何が何だかさっぱり分からなくなってしまいましたね。
あー残念だ―(棒)。

先日「軍艦の甲板上で乗員が行進をしている写真の甲板部分がぼかされていた」
という話を「始業始め」という項でお話したのを覚えておられますか?
この写真が撮られた艦には写真現像室があったそうで、
基本的には従軍カメラマンしか使用できないことになっていたようですが、
当時カメラを趣味にする士官は多かったので、中にはカメラマンと仲良くして現像してもらったり、
現像室を使わせてもらった人もいたそうです。

その後知ったところによると、お上のみならず、軍関係者が艦や飛行機を撮った場合、
当然のこととしてアンテナなど機密にかかわる部分は「自主規制」したようです。
しかし、自主規制してもしなくても、例えば軍艦勤務の士官の持ちこんだカメラが、
艦の沈没によって海の底に潰えてしまい、それらの写真も陽の目を見ずに終わった、
というようなことは、それこそ星の数ほどあったのでしょう。

ところで、ある艦隊勤務の士官は、離艦直後に自分のフネが被弾したのを見て、
まず思ったのが

「しまった!部屋にカメラ忘れてきた!」

だったそうです。
この非常時に、実に不思議なことを人間は考えるものです。
しかしこれもまた戦争の真実かもしれません。
カメラが時として「家一軒買える」ような貴重品であったことも大きな理由かもしれませんが、
戦っていたのもまた「一人の人間」であると妙に納得してしまう逸話です。

話がそれました。

「オタク」という人種がいます。マニアと言う人もいます。
かの士官が「カメラオタク」というレベルだったのかどうかは聞き洩らしましたが、
「てっちゃん」「飛行機オタク」「カー××」(←検閲対象?)・・・。
乗り物に萌える層は昔も今も一定数変わらずいるものです。

カメラがまだ庶民にとって高根の花であった戦時中、
「てっちゃん」、しかも中学生、となると、写真を撮る代わりに何をするかというと、
なんと「サイズを測ったりする」のです。
巻き尺を持って、こっそり機関庫に忍び込んだりするそうです。
何のために?
それを疑問に思うようではあなたはオタク道失格です。
オタクとはそういうものなのです。
そして憲兵に逮捕される可能性があってもやってしまう、それがオタクの気概というものです。

そういやつい先日列車を止めてニュースになってたオタクがいましたっけ。
これは今調べて知ったのですが、鉄男ではなく、駅の写真を撮っていた

75歳の

男性だったそうです。
カメラマニアだったわけですね。
これだけの騒ぎを起こせば彼も我が道を逝く行くマニアとしてもって瞑すべし、
と言いたいところですが・・・・。
この男性、書類送検されたそうです。合掌。


この例に見られるように?マニアの熱意は時として則(のり)をも超えるもの。
当時の飛行機好きにとっては、軍の厳しい検閲があっても、いやあったればこそ、
その秘密のヴェールの下を垣間知りたいという情熱はますます燃えるばかりでした。

基地の近く住んでいると、実際軍用機を目にするわけですが、
オタクはそのようなものも、ただ漫然と見るのではなく、

「浜名湖上空で引き込み脚の九三双軽の試作機が脚の出し入れのテストをしている」

などと観察し、その後

「双発引き込み脚の重爆が飛んでいる」
などという情報を交わし、その後新聞で
九七重が発表になれば、

「二年前の開発段階から、俺ら実は知ってたもんね!」

とワクワクして、誰にともなく得意になってみたりするもの(らしい)です。

よく零戦のことを「ゼロセン」と呼ぶ一般人はいなかったという説を目にするのですが、
実際はそうではなかったようです。
ミッドウェーの敗戦も、全く報じられないのに田舎の中学生が知っていた、と言う話を
渡部昇一氏がしていたことがありますが、いかに秘匿しても、
「人の口に戸は立てられない」(これも渡部氏談)のです。
ゼロセン、という呼称は、人づてに伝わって、その名を耳にした「オタク」は数多くいました。

漫画家の岡部冬彦氏もその一人で、氏は

「中島製の重爆『深山』の性能が軍の要求を満たせないので試作だけに終わったようだ」
などという話を始め、
「水兵さんから聞いたのだが」
という、当時のオタク・ネットワークにより、ゼロセンという呼称をすでに聞き知っていたようです。

そして、「ゼロセンと言うからには、昭和15年に制式になった戦闘機だろう」
ということまで予想していたそうです。

ご存じかとは思いますが今一度解説しておくと、昭和になってから制式になった兵器は
皇紀何年の下ひとけたか二けたをとって名付けられています。つまり

「皇紀年号下2桁」+式+機種名 例 九一式魚雷 九六式陸上攻撃機

この名称は皇紀2589年の89式(1925年)に始まり、2602年の二式(1942年)
まで採用されました。
このセオリーを知っているので、昭和15年、つまり皇紀2600年の制式であることも、
オタクとして当然予測されることだったわけですね。

この制式の名称についてはまた日を改めますが、
とにかくこのように機密事項もなんのその、創造力と漏れ聴く情報をつなぎ合わせ、
その推測も、結構正しかったりするから、オタクは侮れません。

零戦については、横須賀在住の者などが

「最近見る単発低翼引込脚のスマートな戦闘機がどうやらそのゼロセンらしい」

という具合に得た情報を、はがきで全国にバラまいたりしていたようです。
まだこの頃ははがきの検閲などもあまり厳しくなかったようですね。
つまり、いくら秘匿してもオタクの情報収集力の前には軍の機密も堅牢たりえなかった、
ということでしょうか。

さて、戦前の軍艦オタクは、18インチ砲九門6万トン、世界一の戦艦「大和」「武蔵」
の噂を、当然ながらアツーくその口の端に乗せておりました。

今でもそうですが、まるでまだ見ぬ恋人を語るように、それがどんなものか思いめぐらせ・・。
今のオタクと違ったのは、彼らが、それらの戦艦がいつ発表になるのだろうと
ドキドキワクワク、心待ちにしていたことでしょう。

しかし、眼を凝らせば飛行機は空を飛んでいるし、いくら検閲しても修正できないニュース写真の、
一瞬画面に映る機体を目の底に焼き付けて、あーだこーだと分析するオタクたちを以てしても、
この「海軍関係者にすら秘匿された」戦艦については、さすがに情報は噂の域を出ず。


とうとう、その姿を見ぬうちに戦争は終わってしまいました。
そして、彼らは、終戦後になって「大和」「武蔵」の存在と、その戦いと、そしてその最後を、
同時に知ることになってしまったのです。

「あの噂はやっぱり本当だったのだ・・・・」

戦前からの「大和」「武蔵」オタクたちは、逢えぬまま往ってしまった恋人の、その実像を
少しでも知るために、戦後、あらゆる資料から彼女らの在りし日の姿を追い求め、
本で、絵画で、映画で、それを何とか再現せんと情熱を傾けます。

今現在、この日本にいる熱烈な大和武蔵ファンの源流がここにあると言えましょう。

ところで・・・冒頭の写真ですが、よもやまさか、この翼の断片と引き込み脚の形状から、
この機体がなんであるかわかっちゃう、なんて人・・・・


・・・・いませんよね?(ドキドキ)