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時には昔の話を~台南空の五人

2011-07-13 | 海軍

「大空のサムライ」ファンならずとも、海軍や海軍搭乗員に興味をお持ちの方ならよくご存知の写真です。
昭和一七年の五月から八月までの間に、ラバウル台南空の基地で撮られた五人の写真。

これは英語で書かれたマーティン・ケイデン著「サムライ!」にも掲載され、そのキャプションにはこうあります。

一九四二年、ラエ飛行場、私(坂井)たちが配属されたころの日本の「リーディング・エース」たち。
(後列左より)高塚、笹井、そして私、(前列左より)太田、西沢。
全員が終戦までに戦死、しかし西沢は103機を撃墜しその後日本のトップエースとなった。

いろいろと知ってしまった今となっては突っ込みがいのあるキャプションではありますが、
それはともかく。
戦後戦闘機パイロットを語る上でこの五人を知らない人はいないというくらい有名になったのはひとえに
坂井三郎著「大空のサムライ」の功績でしょう。

今日はあらためてこの五人について語ってみます。

さて、後列左の高塚寅一少尉は、中国戦線からのベテランで、このとき二十七歳。
二十七歳にしては老けていないか、とちらっと思わないでもありません。
高塚少尉は昭和15年、シナ事変における十二空零戦隊の重慶攻撃メンバーでもあります。
中国戦線の航空隊の写真を見ていると、どこにでもと言ってもいいほど、この髭の高塚さんがいます。
明らかに若い時からこの顔です。
おそらく「産まれたときからこういう顔の人」だったのでしょう。

高塚飛曹長にまつわるエピソードは、本当にありません。
どんなパイロットだったのか、どんな性格だったのか、結婚していたのか。
たったひとつ、笹井中尉戦死の日に
「笹井中尉はもう飯を食わんと言ったぞ」
「笹井中尉の箸箱はオレが使うぞ」
と言ったことになっています。
誰かがこう言ったのを聴いたのはカメラマンの吉田一氏。
しかし、それが高塚飛曹長であったということは吉田氏の著書には全く書かれていないのです。

この部分は大変僭越ながら、戦記小説「非情の空」を書く際、作者の高城肇氏によって創作された、
とエリス中尉は踏んでいます。
この写真が有名になったので、高城氏が話を創作上「結び付けた」のではないでしょうか。

昭和17年9月13日戦死。

真ん中はこのブログに来る方なら御存じ、笹井醇一少佐(最終)。

兵学校では熱烈な戦闘機志望で、35期飛行学生の間では飛行技術においてはその飛行技術や
「一見派手だが実は繊細」(同級生談)なパイロットの資質を認められていました。
御存じのように初陣に出てから坂井さんの指南によりその才能を実戦で開花させたというわけです。

従軍画家の林唯一氏は、ラバウル従軍直後、他の従軍記者などからすでに笹井中尉が頭抜けた撃墜記録を持っていることを聴かされており、現地では「海軍航空隊の至宝」とまで呼ばれていたらしいことを書き遺しています。

同級生の回想録によると、彼ら海軍兵学校67期の同級生はそのころ戦地から伝わってくる「軍鶏」(笹井中尉のあだ名)華々しい活躍を称賛し、羨望しそして奮い立ったということです。

昭和8月26日、戦死。享年24歳。

後列右は坂井三郎中尉最終)。
海兵団からの海軍生活を始め、高塚少尉と同じく操縦練習生の38期を首席で卒業。
笹井中尉より2歳上の26歳で、勿論このころはベテランというべき飛行歴です。 
戦後大空のサムライの著者になったことから彼一人が敵機を撃墜したかのようにヒーロー視され、
これも当然のことながら反感も買ったようですが、もしそういうことがなかったとしても
坂井中尉が優秀なパイロットであったことは疑いようもない事実でしょう。
ガダルカナル攻撃の際敵機との交戦に傷ついて長路単独で生還を果たしたことも、
この強靭な精神にしてとことん強運の坂井氏だからこそ可能であったわけです。

前列左、太田敏夫飛曹長(最終)は、46期操練卒。
この操練は、戦争末期に予科練習生の「丙」に組み入れられました。 
操練といえばもともと難関を経たベテランパイロットであるはずなのに、「甲乙丙」の「丙」とは、と彼らには
かなり面白くない改名だったのかもしれません。

坂井氏はその太田飛曹長の飛行技術の巧みだったことを著書で語りながら、一方では
「撃墜王との対談」で光人社の高木肇氏に
「太田はまだまだダッシュなしのAクラスくらいだった」
と語っています。

坂井氏には戦後様々な毀誉褒貶があり、それに対する個人的な反発も逆に驕りもあったでしょうし、
何と言っても一般人ですから、その発言一言一句に歴史的な責任を持たせるのも酷と言う気がしますが、
だからといって戦死してしまった者の飛行技術をこんな形で論評するという坂井氏の発言は、
実に稚気じみているという気がします。

まあ、この「稚気」と言うことを念頭に置いたうえで、太田兵曹長が「誰と比べて」だめだったのか、
「誰と比して」まだまだだったのか、という「坂井氏の言いたいことの真意」に思いをはせると、
言ったことをあたかも「歴史の特ダネ」みたいに捕える必要もないと思うんですけどね。

さて、その太田さん、「報国号」の前で小さな女の子と並んで立っている写真を遺しています。
たとえ坂井氏の著書による「好青年な彼」を語る言葉がなかったとしても、
この立ち姿からはその温厚で人に好かれるその性格は透けて見えます。
この一枚の写真だけで、太田敏夫という人間が分かってしまう気がする、そんな写真です。

昭和17年10月21日、戦死。享年23。

そして前列右、西沢広義中尉(最終)。
以前アメリカで買った「Aces high」(同タイトルのマーチもありますね)
という「アメリカのエース本」でも、かなり大きくスペースを割いて紹介されていました。
日米間における両軍を通じて、米側からはトップ・エースと今でも認識されているためです。
撃墜したとされる敵機数は全く確定できないものの、かれが天才的な戦闘機パイロットであることは
疑いようもないことだったようです。

その「エーセズ・ハイ」によると、ラバウル上空での連合軍にとっての彼らはまさに
「悪魔」(西沢廣義のあだ名。しかし、これも戦後になってつけられたと思われる)でした。
彼らが戦死し、あるいは一線を離れた昭和17年暮れからは、ラバウルでの日本軍は
彼らにとってすでに脅威ではなくなっていた、という記述がそこには見られます。


昭和19年10月26日、輸送機で移動中撃墜され、戦死。享年24。

 


ところで、この五人の写真ですが、どういういきさつで撮られたんでしょうね。

カメラマンが斎藤司令か小園副長に
「台南空精鋭の荒鷲、っていう写真が欲しいんですよ、お願いします」
(笹井中尉に向かって)「じゃ、分隊士、先任と西沢と、そうだな、あと二人くらいで撮ってもらえ」
なんて?命じて、集めさせたのでしょうか。


エリス中尉が台南空の五人を初めて知ったのは、
というより、こうやって海軍そのものにどっぷりと興味を持つきっかけになったのは、
何を隠そう「大空のサムライ」というタイトルのyou tubeを見てからです。

そのころは下士官と士官の違いですら分かっていなかったという(遠い目)

「大空のサムライ」から抜粋した文章でこの五人の紹介をしたにすぎない内容でしたが、
まず、坂井氏を除く全員のあまりの戦死時のの若さに胸をえぐられたような衝撃を受けました。

このyou tubeには加藤登紀子の「時には昔の話を」が使用されていました。
そう、映画「紅の豚」のエンドタイトルに使われた、あの曲です。
飛行機を愛し、空の戦いに身を投じ、あたら若い命を散らして行った搭乗員たちに捧げる
あの映画のエンディングがこの写真の五人の笑顔に重なり、二度目の再生のときには
涙を流していました。

爾来。
この写真を見ると、自動的に脳裏にはこの「時には昔の話を」の再生が始まってしまうのです。

 

ところでこのyou tubeなのですが・・・・。
歌詞の髭面の男は 君だね のところにくると高塚少尉の写真になります。
・・・わざとかな?