脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

サルトルではないが

2013-05-13 | Weblog
うちのまわりには中学を受験する子がたくさんいるが、ここ何年か中学受験はかなり難しくなってきているそうである。
名門ともなれば高い倍率で、そのために中学受験専門の塾も増えてきているそうで、塾の授業料も決して安くはなく、夏期講習になると1か月10万円以上の授業料がかかるので、レヴェルの高い中学に入れるにはかなりお金がかかるようである。
ただかなり問題だなあと思っているのは、教える方も合格させなくてはいけないと言う焦りから来るのかどうかわからないが、塾によっては子供をののしったりするような塾もあるそうで、実際うちの子供の友達の子供は前の塾の講師ががあまりにも暴言をはくので、いやになったそうで、今はそこをやめてうちの子供と同じ塾に行っているそうだ。

金曜日NHKでソウル白熱教室と言う番組がやっていた。残念ながら途中からしか見れなかったのだが、この番組はソウル大学教授のキムナンド教授(教授様と言った方がいいのか)がソウル大学の学生に向けて就職問題などを通して人生の価値観を伝えたレクチャーであるが、聞いてて非常にためになったと思う。
韓国は学歴社会で自分がどの大学に入るかによって将来がきまると言ってもいい社会で、最近ではその就職もかなり難しくなってきているので、大学を出ても自分の希望する就職を希望するならば、より多くのスペックをもたねくてはならずに、TOEICや留学経験、そしてボランティア活動など経験が問われるようである(クラブ経験はあまり意味がないようだが)。
そのレクチャーの中でキム教授も言っていたが、韓国社会は短距離レースのようである。
どういう道に進めるかはどの大学に行くか次第でだいたいの進路が決まってしまうので、子供の頃からそれに向けて猛烈に勉強させらるのだが、友達の話によるとたいていの子供は英語など最低でも3つ以上はしているそうで、子供の教育費にかける負担はかなりのものだそうである。
余談であるがむこうはかなり格差が激しいらしい。これは友人が言っていたのだが、ある大手の企業の社長室はかなりひろいらしく、そいつが真顔で言っていたが、小さい保育園ぐらいならば運動会ができるらしい。
なぜここまで社長室を大きくするのかは理解できないが、しかし向こうでは上になればなるほど、その恩恵にあずかることができるのだが、事実そういった日本では考えられないぐらいの格差というものがあって、それは自分たちがどの大学にはいるかによって決まってしまう、だから韓国では小学生から猛勉強をするそうだ。

そういう閉塞した社会であるから、母国から飛び出して外国に行く人が増えているそうであるが、むこうでも自分探しとか言ってワーキングヴィザをとってオーストラリアなどに行く人間も少なくはないそうである。
しかしよくわからないのは自分探しという言葉である。最近の若い人は自分探しと言ってあてもなく外国に行くのだが、もともと自分と言うものは探すものではない、なるものではないのだろうか。
自分探しというものが外国に行って刺激をうけてこうなりたいとかこうありたいという刺激をうけたらそれはそれでいいのだろうが、しかしいつまでたっても受け身だと同じことを繰り返すだけ、いい年をして外国にぶらぶら行って放浪すると言うのはまさにそうである。
刺激をうけてそれが自分のためになる刺激になるためには、まず自分のアンテナを磨きキャパを広げなくてはならない。
刺激をうけてもそのキャパがせまければ成長はない。
率直に言えばそのアンテナを磨きキャパを広げるためにはいろいろなことを勉強することが大事なことで、人間は学ぶことでいろいろな刺激を受け、自分のキャパを広げて行くことができるのだと信じているが、外国に行って何かを学ぶと言うのもそのひとつであると思っている。
サルトルいわく人間は何かになれる存在であり、その存在の違いが物や他の動物と人間との違いである。
自分探しなんて言うのは所詮流されてしまうことのはじまりに過ぎない、自分が流されるのをおそれて学歴社会で決まったレールにのるもそれは一つの価値観であろうが、しかしサルトルではないが人間は存在価値があり、あるものになる可能性を持っているのだから、多くのことを学んでたくさんの刺激を受けて、特に若い人たちは成長を重ねて、その存在意義と言うものを深めて行ってほしいと思っている。

今日購入したキムナンドの「つらいから青春だ」と言う本がとどいた。
原書はつらいではなく、いたいからと言う言葉が使われているが、この言葉のように若い時代は心が傷ついたりして痛い思いをするからこそ成長する。それが若さの特権である。
最近サンデルなどの哲学者の講義をまとめて本にしたものがはやっているが、サンデルは少し古典的なことや哲学的な複雑な考えがわかっていないと読めないが、しかしこの本は日本人のもつ道徳的な基準や観点から見て理解できるので、読みやすいと思う。
人間はサルトルではないがあるものへとなることができる存在だ、そしてそのあるものへとなるためには悩み時には傷つき、そして考え方を深めていく必要がある。
アウフヘーベン的な考え方であると。人間が悩んだり傷ついたりするのは、自分を成長させるためである。
雨が降って大地がめちゃくちゃになっても、その大地から木の目がでて成長すると言った自然の恩恵があるように、悩んだり傷ついたりするということもある意味自分を成長させる恩恵にあずかっている。そうして自分たちは成長しあるものになっていくのではないだろうか。






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