脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

This is our virtue.

2017-09-06 | Weblog

日本のスポーツの世界はダメだけど、社会自体は非常に高度だと思っている。まず話し合いで解決できると言うのは日本ぐらいだ。日本人は共通してこう言うことをしてはいけない、こんなことをしたら迷惑がかかるとか、和を尊ぶ考え方があるので、お互いが話し合って納得のいくように話し合いができる。しかし一方、欧米は人種の坩堝でそれぞれ文化や考え方が違うので、ひとつにまとまること自体が不可能なことだ。それゆえにお互いの文化や考え方を受け入れなくてはならない、そういうバックボーンがあるから争い事がたえないので、話し合ってこういうことにしましょうという契約と言う概念が存在するのだが、考え方や文化が違うからそれをまとめていくために必要な契約は欧米の基本的な概念で、一方日本人は人を信用してかわす約束のほうを重要視するが、その日本人にとって契約と言う概念は希薄であると思う。

もともと移民が言うのも何だが、日本のような国が移民政策を受け入れるとまず道徳がこわれはじめる。移民の犯罪は格差や貧困からおこるものであるが、しかし日本の場合は特殊で、道徳そのものが侵害されると社会の秩序がみだれ、さらに犯罪が欧米化され治安がわるくなると思う。日本は島国ではあるがその島国であるからこそ培われてきた。和を尊び他人に迷惑をかけないと言う道徳心はある意味日本人の美徳であり、それを無理にグローバルとか言う言葉で強引に他の文化を融合させていくような考え方は、日本人そのもののアイデンティティクライシスになりかねないであろう。

和辻哲郎の哲学に「間柄的存在」と言うのがある。これは日本人の人間観をあらわしたものであり、個人は社会がないと成立しないし、社会は個人がないと成立しない。人間はその間柄的関係によって自己の個性を発揮しなくてはならないが、しかし時としてそれをおさえ否定しなければならないこともある。その自己の肯定と否定が真の人間性をつくりあげると言う考え方だ。はたして欧米社会がこのような考え方を受け入れて行けるかどうかは疑問であるが、私はこの和辻の考え方こそが日本人の和と尊ぶ精神をあらわした考え方で、共同体のとらえ方であると思う。

うちのクラブは雰囲気がいいと言われるが、しかしそれは決してノリがいいと言うことではなく、うちのクラブの相互関係がまさにその「間柄的存在」かかわりがあるからだ。うちには中年の会員が多いが、それらの人たちはもちろん社会経験もあって、それなりに責任をもった仕事をしている人たちも少なくはない。そういう社会生活や立場、教育などのバックボーンがあるから、自然と譲り合いや思いやりの精神がでてくるのだと思っているが、まじめな中年の人たちが多いとこういうアドバンテージがある。

日本語の「おかげさまで」と言う言葉はまさにこの「間柄的存在」をあらわした言葉であるが、この言葉は英語にはない。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする