写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

電波時計

2006年07月29日 | 生活・ニュース
 20年前にマイホームを作った。その折、親戚・知人からいろいろな新築祝いの品物を頂いた。

 その中で、今でも毎日お世話になっているものがある。ダイニングルームの壁に掛けてあるクオーツの時計だ。

 厚さがわずか15mmくらいの四角い形で、当時としては斬新でおしゃれなデザインである。時計を見る時、もらった人の顔を思い出すこともある。

 先日、義妹の家のリフォームが終わった。見に行ってみると、台所・風呂・洗面所の水周りが見違えるように明るく一新されていた。

 ここ20年の建築調度品の進歩は著しい。まるで住宅展示場のモデルハウスを見ているように素敵にリフォームがなされていた。

 このリフォームされたダイニングルームにふさわしいお祝いを考えてみた。ハットひらめいたのが、おしゃれな掛け時計である。

 広島のデパートを巡ってみた。あった。縦長の楕円形で、「電波時計」と書いてある。そんなものがあることは知ってはいるが、良くは知らない。

 次のようなことが説明書に書いてある。
「電波時計とは、標準電波を受信して時刻を自動修正する時計です。

 10万年に1秒の誤差といわれるセシウム原子時計をもとに、日本に2箇所ある電波送信所から標準電波が送信されます。

 その電波を電波時計が1時間に2回受信し、情報を処理して、常に正しい時刻を表示します」

 割と正確だといわれるクオーツ時計でも、時々は時刻合わせの必要があるが、この「電波時計は」電池さえ入れておけば時刻はいつも正確だという。

 早速買い求め、義妹の家に持って行き電池を入れてみると、あら不思議。10時10分をさしていた長短の針が自動的に回転し始め、現在時刻でぴたりと止まった。

 狐につままれたような気持ちで、一同顔を見合わせて思わず笑顔で手を叩いた。お見事の1語に尽きた。

 何もかも、時の流れと共に、時代は進んでいる。進化は、人の手を煩わせることがない方向に向っているような気がする。

 そのものとの関係が、疎遠になって行く。良いことか、はたまた悪いことか。そんなことよりも、こんなものはまだないのだろうか。

 とある電波送信所から、電波が送られてくる。私の心に埋め込まれた受信機がそれを受信する。

 その途端、私の邪悪な心が少年時代の純な心に修正される。10年に1度で良いから、こんな電波が飛んできませんかねぇ。
(写真は、20年前の今なお健在な「クオーツ掛け時計」)

かんビール

2006年07月28日 | 食事・食べ物・飲み物
 「今日は外で焼肉にしましょう」。長い長い梅雨が明けた日の夕、夕食の支度をし始めた妻が言う。

 肉といえば、大きなものは嫌い、厚い肉はいや、鶏肉はだめ、噛み切れない固い肉は食べないと、どちらかというと私は肉は得意ではない。

 しかし、うだるような暑い日、陽が落ちてから外のデッキに出てビールを飲みながら食べる焼肉は、時にはいい。

 私の好みをよく知った妻は、薄くスライスした肉を少量買ってきて、焼肉の準備を進めている。

 「さあ、おとうさ~ん、焼き始めてくださ~い」の声で、デッキに出た。ガスコンロの真ん中を境として妻と私の肉を並べ、各々が責任を持って自分の肉を焼く。

 表面にじわり汗をかいた缶ビールが置いてある。渇いた喉に、1度ゴクリとつばを飲み込んだあと、プルタブを開けた。

 普段ならジュワーと泡が出てくるところが、どうしたことだろう、黄みを帯びたシャーベットのようなものが、ゆっくりと盛り上がって出てきた。

 缶をコップに傾けるが、ビールがスムーズに出てこない。よく見ると、シャーベットでふさがれている。

 「おいおい、どうなっているんだ」缶にひとりごとを言いながら妻を見た。「急いで冷やそうと思って、冷凍庫に入れておいたのよ」と言う。

 渇いた喉はもう待ちきれない。どうしよう。苦肉の策を考えた。そばで肉を焼いているガスコンロの隅に、ふたを開けた缶ビールを乗せた。

 1分も経ったころ、開口部に盛りあがっていたシャーベットが缶の中に沈み始めた。ころあいだ。

 待ちに待った缶ビールをグラスに傾けると、いつもの見慣れた液体が細かい泡と共に注がれる。グラスを持ってみると飲み頃の丁度良い冷たさだ。

 「お待ちどうさん」。グィグィグィ、何の抵抗もなくビールは喉を素通りしていった。

 この暑い夏、私に対しての妻の深い愛は、なんと缶ビールを凍らせてしまったが、缶ビールを燗ビールにすることで、何とか夫婦の危機を乗り越えることの出来た夏の夕の物語であった。
  (写真は、冷やしすぎの「冷凍缶ビール」) 

「回天」の島2

2006年07月27日 | 生活・ニュース
 炎暑のある日、一度訪ねてみたいと思っていた周防灘の大津島に行った。周南市の10km沖に浮かぶ「回天」の島である。

 回天とは、小さな潜水艦に爆薬を搭載して人が乗り、自らが操縦して敵艦に体当たりするという海の有人魚雷のことである。

 太平洋戦争末期の戦況不利な情勢下、「天を回らし、戦況を逆転させる」という切なる願いを込めて誕生したという。

 大津島はその隊員訓練の基地であり、また、ここから多くの若い命が大命を受け、回天と共に戦地へ赴いて行った。

 馬島港に着きフェリーから降りると、「ようこそ回天の島大津島へ」との大きな看板がまず眼に入る。

 小さな小学校と漁港、それに数件の民家が点在するごく普通の瀬戸内の小島に見える。

 しかし、今は平和な島を突き抜けて掘られた長いトンネルの向こうには、魚雷調整工場・発射場・危険物貯蔵庫など、回天の風化しかけた多くの遺跡があった。

 訓練を受けていた隊員の平均年齢は二十一歳だったという。

 最後に立ち寄った海を見下ろす小高い丘の上の記念館には、若すぎる特攻隊員の数々の遺書・遺品が展示してある。

 そのひとつに「自分たちが礎となって日本は立派になるのです。自分たちの死は決して無駄ではありません」と、墨で力強くしたためてある。

 どこかの国から怪しげなものが突然宙に放たれると、痛ましい過去を忘れて、先手の敵基地攻撃を声高に言う輩も出始めた。

 60年後の今を生きている我々は、この国を果たして「立派な国」にしてきたのだろうかと、ガラスケースに収められた無言の遺書を前に、私はふと立ち止まって考えてみた。
   (写真は、回天記念館前の石碑)

顧客の視点

2006年07月25日 | 生活・ニュース
 昨夜テレビの特番で、北海道旭川市にある、大人気の旭山動物園のことをやっていた。

 人気を築いた秘密は、園長さんの新発想である。決して珍しくはない動物たちが人気者になれたのは、独自の「見せ方」の工夫があったからだという。

 動物の姿形を見せる従来の「形態展示」に対して、「行動展示」といって動物本来の行動や能力を見せる手法をとったことだ。

 さらに、できるだけ自然に近い状態で見せようという「生態展示」の要素も併せ持つ施設にしている。

 次々と整備される斬新な展示施設は話題を呼び、入園者数も年々増加し、いまや全国でもトップの入場者数を誇る動物園になった。

 どうやって生き物の自然の姿を伝えていくか。そのために、動物たちが本当にやりたいことは何かを考え、スタッフが知恵を絞ったという。

 10年1日のごとく、「動物園とはこんなもんだ」という固定観念にとらわれていたのでは、このような変革は起こらない。

 決して若くない園長が、従来の考え方を根底から見直し、発想を転換して取り組み実行したからこそこうなった。

 では発想の転換とは何だったのか。それは動物園への見方・視点を変えたことである。動物を飼育している人は、飼育しているだけで楽しいという。

 その動物を来園者に見せる。それだけでは限界があった。来園者が見たい・知りたいと思っている姿を見せよう。そう思ったという。

 動物により近づき、見るだけでなく観察ができる。平面的にただ上から見るだけでなく、下から見る、水中から見る、自然の生態を見るなどいろいろできる。

 往々にして、サービスは提供する側の視点からのみ考えて行動を起こすことは多い。サービスを受ける側の視点から見れば違うものが見えてくる。

 何か困ったことにぶち当たった時でも、相手の視点に立って考えてみると良い答えが見つかることがある。旭山動物園はそのいい例だと思う。

 人間関係でも同じことが言える。相手の立場に立って考えてみる。こんな簡単なことが、気が立っている時にはなかなか思いつかないでいた頃もあった。

 さあ、今から私もハートリーの視点に立って、今夕の散歩道のルートを考えてみよう。
 (写真は、はしたなくも無邪気なハートリーの「生態展示」)   

エッセイの極意

2006年07月24日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画
 毎日新聞の山口版に、「はがき随筆」という250字のエッセイの読者投稿欄がある。2年前より、数ヶ月おきに投稿してきて、今まで何篇か掲載していただいた。

 投稿掲載の楽しみを、ほかの人にも味わってもらいたいと思い「岩国エッセイサロン」という同好会を、今年の初めに開設した。

 開設以来、13人の会員がこの「はがき随筆」をはじめ、各人が購読している新聞に投稿した結果、この半年間で19篇ものエッセイが新聞に掲載された。

 光市には、「はがき随筆光同好会」という発足して8年めの会がある。7月23日に、その8周年記念大会が開かれることを新聞で知った。

 誰が参加しても良いという。「はがき随筆」の3人の選者のひとりである毎日新聞山口支局長の講演もあると聞き、われらの会員4人が参加した。

 支局長が、エッセイの書き方・極意について話をされた。聴きとめたポイントは次のようなことである。

 1.驚き・感動したことで、書きたい・訴えたいと強く思うことを書く。
 2.感性を磨く;本を読む・映画を観る。
 3.人の心を動かせる表現を。
 4.平易で分かりやすい文章を書く。漢字を少なく。
 5.書いた後に、声を出して読んでみる。スムーズに読めること。

 来月の定例会で、このことをわれら会員にもよく伝え、これからの暑い真夏の夜にあっても、汗をかきかき感動のエッセイに挑戦してみたい。

 しかし問題は、一体何に驚き何に感動すればいいのか。身近に起きている些細な出来事に、驚き感動するだけの感性を持ち合わせているかということであろう。

 見えども観えず、聞けども聴こえず、触れども感ぜずではいけない。持って生まれたものだからと諦めず、感性を磨くことをこれからも心がけていきたい。
   (写真は、翌日掲載された「記念大会の新聞記事」)