写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

ファーム

2013年09月28日 | スポーツ・山登り・釣り・遊び

 広島カープは今シーズン16年ぶりのAクラスが決まり、クライマックス・シリーズ(CS)へ出場することになった。そんなカープのユニフォームが見たくなり、翌日、由宇町にある練習場で行われたファームの試合を1年ぶりに見に出かけた。その日の対戦相手は福岡ソフトバンクで、今シーズン最後の公式戦であった。

 文句ない秋日和だったが、平日とあれば観客は少ない。ざっと見て150人程度か。12時半に試合開始。スターティングメンバーの場内放送とともに、センターボードに選手の名前が表示される。1軍の試合に出ていた選手の名前があった。4番・ルイス、5番・栗原。途中出場では安部、中東、天谷、白濱、河内などである。

 若い選手が多い中、ベテランが故障や不調などの理由でファーム暮らしをしている。試合は1対0でカープがずっとリードしていたが、9回表に2点取られて逆転負け。試合としてはヒットの数も少なく、おもしろくはなかったが、勝敗とは別な視点で終わりまで観戦した。

 ファームの選手の目標は、当然のことながら1軍に上がって活躍することであろう。1軍登録選手枠は28人だという。1、2軍あわせて70人まで選手登録出来るというから、2軍選手は最大が42人となる。カープの2軍選手が全員グラウンドに出てきたときに数えてみると、ざっと25人ばかりであった。

 各人それぞれの守備位置で何人かの競争相手がいる。2軍の選手の中でたとえ1番になったとしても、現在活躍中の1軍の選手がいる。その選手以上の力を備えて初めて1軍からお呼びがかかる。「実力の世界」とはいいながら実力が感覚としてではなく、数字として誰の目にもはっきりと分かる世界に生きることは、想像できないほど肉体的はいうに及ばず精神的に過酷な職業ではないか。

 それに引き換え私が生きてきたサラリーマンの現場はどうだ。営業職のように、業績が歴然と数字に出るような仕事ではなかった。任された仕事をある時期までに完遂すれば人並みの評価が得られた。ファームの選手は、自分が好きで入った道とはいいながら、サラリーマンとは雲泥の差がある厳しい競争の世界で毎日を生きている。

 カクテル光線を浴びている1軍選手の陰で、虎視眈眈と爪を研いでいる活きのいい若鯉が、カープをもっと強くするに違いない。頑張れ、ファーマー! 今度はカクテル光線の下で会えるのを待っている。


慣用句の誤用

2013年09月25日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 今朝(25日)の日経新聞に「慣用表現の誤答目立つ」と題して、次のような記事が出ていた。「文化庁は、2012年度の国語に関する世論調査の結果を公表した。慣用句で、誤った回答が本来の意味を示した回答を上回ったものもあった」と書いてある。

 今回の調査は、全国の16歳以上の約2100人からの回答を分析した結果だという。私は気の向くままに、こうして素人エッセイを書いているが、過去に書いたものを読みかえしたりしているとき、慣用句の間違った使い方に気がついたり、また読んだ人から間違いを指摘されたようなことはたびたび経験している。

 言葉は、文字も読めない幼少のころから話し始めている。目で覚えることよりも、ずっと早くから耳で覚えて使ってきている。単語や熟語や慣用句だけでなく、文法すらも理屈抜きで身につけてきた。ということは、言葉というものは、間違った使い方をする人から聞けば、聞いた本人は素直に間違ったまま覚えてしまうものだろう。

 初めて聞いた言葉だからといって、家に帰りいちいち辞書で確認するほど言葉に関心を持つ人は多くはない。間違った用法を身につけたまま、それをまた他の人との会話で使っていく。こうして間違いは間違いを呼び、最も影響力のあるテレビの出演者にまで及んで、多くの人が間違った使い方をしていくのだろう。

 しかし、記事の最後に聞き捨てならないことが書いてあった。「文化庁は慣用句の誤用が目立つことについて『言葉は時代により変化するため、間違いとは言い切れない』」とある。なになに? 時代による間違った変化を、手をこまねいて容認しているではないか。ここは何とか、伝統ある言葉の使い方を守る活動をするのが文化庁の役目ではないのか。

 外来語やカタカナや省略語など、およそ日本語とは思えない最近の若者言葉の氾濫に、大きな抵抗を感じているが、もともとある慣用句くらいは正しく使う努力はしていきたい。ちなみによく間違う使い方をされている慣用句は次のようなものであったという。みなさん、正しく使っていますか。

 文字の間違えは「怒り心頭に達する」「天下の宝刀」「的を得る」、意味の間違えは「噴飯もの」「流れに掉さす」「役不足」「気が置けない」などである。


ひょうたんからタネ

2013年09月23日 | 季節・自然・植物

 時遊塾の塾生が立ち寄り、珍しいものを持ってきくれた。「これを加工してみてください」と手を広げて見せる。身の丈が7、8cmくらいの小さなひょうたんであった。上下が丸く真ん中がくびれたごく普通の形をしている。

 わが家の飾り棚には、以前誰かが持ってきてくれたひょうたんが大小2個ある。いずれも加工してあるもので乾燥していて、手に持つと何も持っていないように感じるほど軽い。このたび持ってきてもらったものは「なま物」というのだろうか、加工されておらず実が詰まっているものである。

 「どうすれば実を取り出せるか、やってみて下さい」といって帰って行った。こんなときにはインターネットに頼るしかない。「ひょうたんの加工」と打ちこんで検索すると、多くの知恵者が加工方法を写真入りで解説してくれている。

 「まずは、ひょうたんの口を切りおとす。細長い棒などを使って実をかき出す。ある程度出したところで、重しをして水に沈ませる。2週間くらい経つと実は腐って液状になるり、容易に取り出すことができる。殻を乾燥させれば、ひょうたんの出来上がり」というようなことが書いてある。

 早速、やってみた。2週間後に水の中から取りだすと、その臭いことといったら臭いこと。どう書けばいいやら分からないほど臭い。といえば少し大げさになるが、まあ臭い。口を逆さまにして上下に振ると実は液状になって出てきたが、いくら振っても「カラカラ、グシュグシュ」という音が残り、音の主が出てこない。その内、白い小さいかけらが1個出てきた。見ると細長く薄っぺらなタネであった。口が小さいので太いものは出てこない。

 難問だ。タネの取りだし方法をしばらく考えた。口に入る大きさの耳かきのようなものを使い、根気よく一粒ずつかき出すが、これがなかなか難しい。かき出してもかき出してもいくらでも出てくる。一体、この小さなひょうたんの中に何個のタネが詰まっているのかと思うほど出てくる。暇だからやっているが、忙しい人には、こんなことはとてもできないと思いながら続けた。

 30分もやっただろうか、やっとカラカラという音がしなくなった。出てきたタネを数えてみると57個もあった。殻を水で洗い1日干すと、やっとひょうたんが出来上がった。苦労して加工したが、何一つ使い道が思いつかない。徒労というなかれ、立派に暇つぶしをすることができたが、夜になってもまだ両手が臭い。


素人指南

2013年09月22日 | パソコン

 10年前、パソコンに関して私は全くの初心者であったが、パソコンを買い手当たり次第に本を読んだり、人に聞いたりしながら、今は何とか義務教育を終えたくらいのパソコン知識を習得し、基本的な取り扱いが出来るレベルになっている。

 そんな中、「パソコンのことで、ちょっと教えてもらいたいことがあるんだけど……」と、朝早く民生のボランティア仲間だったやや先輩の男性から電話がかかってきた。デジカメで撮った写真をプリンターで印刷するとき、以前は出来ていたのに、撮影した日付を写真に入れることが出来なくなったという。

 30分後、パソコンと高級一眼レフのデジカメを持ってやってきた。まだ朝の9時半だ。朝早くからデジカメ教室の開催となった。私は今まで写真に日付を入れたことはない。パソコンを開き、写真を取り込むソフトを開いてみた。写真を画面に出し、周辺に表示してある機能を一つ一つ確認していると、日付を入れる機能を見つけ出すことができた。「こんなところに隠れていますよ」と、画面を指して教えてあげる。

 「おかしいな~。以前はこんな画面からやるんではなかったけどな~」といいながら、手順を手帳にメモしている。何かの拍子に、いつもとは違う画面に代わったのだろう。こんなことは私もよく経験している。

 「パソコンは、キーボードで少々のことをやっても壊れたりすることはないので、いろいろやってみたらトラブルも解決できますよ」と、無責任のようだが偉そうに私の体験談を話す。こうして問題は無事解決した。パソコンの初級者が、同じく初級者に毛が生えたくらいの者を頼りにトラブルを持ち込んでくる。素人が素人に指南しているという光景だ。

 他の世界でもこんなことはあるかもしれない。一日でも早く入門した者は先輩と呼ばれるが、後輩との差はほとんどない。パソコンもしかり。おっと、所属しているエッセイサロンの同好会もまたしかりか。私の住んでいる世界は、いずこもがメダカの学校だ。「だ~れが生徒か先生か」が判りにくいが、少しずつは前に進んでいる。これでいい。これがいい。


自費出版コンサルタント

2013年09月20日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 2週間前のことである。知り合いの女性Mさんから電話がかかってきた。「長い間書きためてきた短歌やエッセイを冊子にしてみたいのですが、パソコンを使って私でも作ることが出来るでしょうか」という。「やる気があれば必ずできます。手助けしますから是非やってください」といって電話を置いた。

 私は今まで3冊のエッセイ集を自費出版したり、エッセイの同好会の同人誌の編集もやってきた。その経験から、何人かの人に本の作り方についての相談に乗って上げたこともある。そんなこともあって、Mさんからの協力依頼を快く引き受けることにした。

 数日後、パソコンと原稿を抱えてMさんがやってきた。話を聞いてみると、若いころから作ってきた短歌は数百首にも及ぶという。同人誌にも掲載されたといい、その数冊も持ってきている。まずは作ろうとしている冊子の大きさから始まり、1ページに載せる短歌の数や、空白の大きさなどを決めて、冊子のイメージを固めた。

 Mさんは世でいう高齢者。2年前に初めてパソコンを買い求めたが、あまり熱心に触ってきてはいない。無用の長物になりかねない頃になって、冊子作りに挑戦することを決心したようだ。その意気込みを聞いて是が非でも、短歌集を作りたいというので一肌脱ぐことにした。

 いつどこで覚えたのか知らないが、ローマ字入力はお手のもののようである。それなら話は早い。文字の打ち込みや漢字変換も直ぐにできた。「お上手、お上手。文字さえ打ちこんでおけば編集はあとからどうにでもなりますから、頑張ってやってみてください」といい、その日のレッスンを終えた。

 それから2週間が経った。また電話がかかってきた。「大分打ち込んでみました。見てもらいたいのですが」といって、その翌日パソコンを持ってやってきた。短歌が80首、きれいに打ちこんである。数行空白があったり、何も記入していないページはあるものの、文字はきちんと打ち込まれている。「こうすれば、この空白はなくなりますから」といいながら、編集の仕方も少し教える。

 「文字を打ちこんでさえ置けば、あとはどうにでもなる」ということがやっと分かったようであった。「何ごとも始めれば いつかは完成する」という言葉がある。逆にいえば「何ごとも 始めなければ完成しない」ということだ。「やれるだろうか? できるだろうか?」と一人悩むのではなく、「1歩を踏み出す強い意思があれば、必ずできますよ」と励ます。

 自分自身高齢化した子が、より高齢化した親を介護することを老々介護というが、我が家での自費出版教室は、まさに老々コンサルティング。それでも1歩1歩前に進んでいる。半年後が楽しみとなった。