写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

木犬(もっけん)

2010年04月29日 | 生活・ニュース
 先日、知人宅を訪ねた。門の前の駐車場に車を止めて降りた時、フェンスの向こうに、目のくりくりとした子犬が嬉しそうに立ち上がっているのが見えた。
 あたかも歓迎してくれっているかのように見え、思わず「おおっ、かわいい」と声が出た。近づいてみると、何ということか犬ではない。犬によく似た植え木の幹であった。
 「植え木の幹が、まさか犬に見えるとは。目が悪いんじゃないの?」そんな声が聞こえてくるのは当然だが、しかしまずはこの写真を見てほしい。口を開け、つぶらな瞳。その瞳の真ん中は光を反射して白く輝いている。どう見ても子犬にしか見えない。
 これこそ木の犬、「木犬」である。「木鶏」とは時に聞く言葉である。荘子に収められている故事に由来する言葉で「われ、いまだ木鶏たりえず」などと言い、木彫りの鶏のように全く動じることがない。闘鶏における最強の状態をさす言葉だ。
 では木犬とは? 何事にも動じない精神的に最強の犬といえばよいのか。ハートリーに見せてやりたいような木犬である。私も時には「われ、いまだ木鶏たりえず」くらい言ってみたいが、こんなことが言えるほど精進しているものを持ち合わせていない。もっけの幸いなどとしゃれている場合でもない。ところで♪この木、何の木? 気になる木ではある。
  (写真は、びっくりさせられた「木犬」)

妹背の滝

2010年04月28日 | 旅・スポット・行事
 この3ヶ月間、車を運転して何度となく広島に通った。それがひと段落つくことになった最後の日、奥さんを乗せ、いつものように国道を家に向かって走っていた。大野浦駅の近くまで来た時、「妹背の滝」と書いた看板が目に入った。
 ここに小さな滝があることは昔から知っていた。今から50年前、学生時代のことだった。男女3人ずつが、岩国から妹背の滝へ弁当を持ってサイクリングしたことがある。古いアルバムを開くと、その時の写真がまだ貼ってあるはずだ。
 その滝を急に見たくなってハンドルを右に切った。1㎞も走ると山裾に大きな大頭神社の鳥居が見える。滝は神社の境内にある。入り口の広場に車を止めて参道に入ると、ザザーと、大きな水の音が聞こえてくる。すぐに落差50mの雌滝が見える。見上げるがけの上から、直滑降のように岩に沿って一幅の水の帯が真下に流れ落ちている。水量は多いが優しさを感じる滝である。
 もう少し進んでいくと、今度はガード下で聞く轟音のようにドドドゥと大きな音が聞こえてきた。30m落差の雄滝である。幅が20mあろうか、幅が広いばかりか、驚くばかりの水量と勢いがあり荒々しい。圧倒されてただただ驚くばかりであった。
 昔見た時にはこんな感動はなかった。何が違っているのだろう。水量か。そういえば数日前から雨がよく降っていた。それに違いない。こんな名所がこんな近くにある。新発見であった。
 数日後、知人を連れてまた行ってみた。「ナイアガラより素晴らしいわ」。ナイアガラ瀑布に行ったことのある人の感想であった。
 妹背の滝、行ったことのない方はぜひ行ってみてください。それも適当に雨の降った翌日がお勧めです。ナイアガラとはいかなくても、行った「かいがあらぁ」というものです。あなたも是非どうぞ。
 (写真は、妹背の滝の「雄滝」)

自然セラピー

2010年04月23日 | 生活・ニュース
 1日、ひと月、1年。時の過ごし方にはいろいろある。長い間生きていると、つい惰性で時間を費やしていることが多い。昨日と一昨日、先週と先々週の出来ごとに差がなく、すべてが単なる同じ過去というひとくくりの中に埋没していくように感じることがある。
 しかし一旦ことが起きると、1日1日がかけがいのない大切な時に思えてくる。先行きの大きな不安を目の前にすると、生きている毎日が急に愛おしくなってくる。
 ここ3カ月、こんな状況に置かれた時を過ごした。桜の便りが聞かれ、天気の良い日であるにもかかわらず出て歩く気にならず、じっと家の中で過ごすことが多かった。
 4月初めの土曜日の朝、こんな毎日ではいけないと思い、9時、急に思い立って遠出することにした。目的地は九州・阿蘇。ハートリーとの3人連れで高速道路に乗った。425㎞、4時間。小休止しながら昼をすぎて草千里に降りた。
 阿蘇は瀬戸内と比べると、とにかく空が広い、平野が広い。外輪山のど真ん中にある草千里からは、ぐるりとまさに雄大な景色が遥かかなたまで広がって見える。中岳からは湯気とも煙とも見分けのつかない白煙が、ゆっくりと立ち昇り、上空の雲と渾然となって流れていく。
 そんな風景を眺めていると、滅入っていたものが煙と共に昇華していったように感じた。何の計画性もなく無鉄砲に車を走らせてきたが来てよかった。大自然は、攻められて狭苦しくなっている気持ちをどっと解き放してくれたように感じた。
 広大な自然を眺めることはセラピー効果があるのか。きっとあるに違いない。いいことを経験した。苦しくなった時、これからはこの療法を採用しよう。このことが、1日で往復800km走った収穫であった。
 (写真は、久しぶりに訪れた「草千里からの阿蘇」)
 
 

陽 光

2010年04月21日 | 生活・ニュース
 今朝、新聞を取りに出たとき、玄関の前に植えてある株立ちのシャラの木に目をやった。22年前、家を新築した時に植えた我が家の記念樹である。
 産毛が生えたような薄緑色の若葉がまっすぐ天に向かって伸び始めている。いつの間にかすっかり春めいていることに気がついた。そういえば今年の春は、満足な花見も出来なかった。
 日頃は、なんでもないような毎日を漫然と過ごしている。変化のない日をだらだらと過ごし、そればかりか不平不満を言って不満足そうな顔をしていることも多い。
 しかし、そんなことが出来るのも生きているからこそである。ここ3ヶ月間定かに見えなかったものが「見てよ、見てよ」と言わんばかりに目に飛び込んでくる。庭では、じっとその時を待ってくれていたかのように紅白の花水木が、大きく咲き始めた。春真っ盛りの明るい陽光が今朝はひときわまぶしい。
 生きるってことは大変だ。金もいる。仕事も辛い。わずらわしい人間関係もある。責任もある。でもねえ、どれもこれも生きているからである。そんなこと、小さい小さい。これが今の実感である。
 禍福は糾(あざな)える縄の如しというではないか。今度はいいことがある番だ。またエッセイもどきも書いてみよう。
  (写真は、開き始めた我が家の「花水木」)

弾正糸桜

2010年04月07日 | 季節・自然・植物
 7日朝、毎日新聞を開いた。山口県東部版にライトアップされたしだれ桜の大きなカラー写真が載っていた。「樹齢約350年、『弾正(だんじょう)糸桜』見ごろ」との見出しが書いてある。
 周南市の鹿野総合支所に面して立つしだれ桜で、戦国時代に鹿野を治めていた江良弾正忠賢宣の居館跡にある。高さは約8m、幹回りは約2.7mで、しだれ桜としては県内最大級という。今が満開だとも書いてある。
 この記事を読むと、無性に行ってみたくなった。昨日と一昨日は、弁当を持って2日続けて錦帯橋の桜を見に出かけた。春の突風に吹かれて散る花吹雪も趣があった。これとは一味違う、たった1本の巨樹・しだれ桜を見るために今日は鹿野に向かって出かけた。
 
 岩国から60km、信号の少ない田舎道の快適なドライブで昼前に到着した。精進料理で有名な臨済宗南禅寺派・漢陽寺のすぐ近くに立っていた。県内最大級というだけあって風格と品格がある。
 2年前、山陰益田市の医光寺にある樹齢450年のしだれ桜を見に行ったが、鹿野のしだれ桜の方が一回り大きいように見えた。すぐそばに立ち見上げると、巨大な傘を差したように枝が覆いかぶさる。人間の寿命をはるかに超えた歳月を生き抜いてきたものだけに、見上げていると圧倒され後ずさりさせられそうな強い力を感じる。私がたたずんでいる間、今が見ごろというのに多くの人が押しかけるわけでもなく、隠れた静かな名所である。
 帰り道、水量豊かな川に沿って走るところがあった。そういえば鹿野は県内最大の河川である錦川の上流端にあたる町である。あながち他人とは思えない親しみを感じながらこの町をあとにした。
(写真は、鹿野の「弾正糸桜」)