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五次元という考え方について (認識論)1

2023-04-02 | 5次元宇宙に生きる(心)

のしてんてん甘すぎるかりんとう(キャンバスに鉛筆)

 

今回から9回に分けて、私の認識論「五次元(新たな認識能力)について」を掲載いたします。

これは私が五次元を提唱するに至った経過を、認識論としての可否を問う意味で書いたものです。

もしこの認識が正しいのなら、人間は四次元の世界観をひっくり返すような世界観を常態化する可能性を持っていると言えるのです。

ぜひその可否を考えてみていただきたいのです。

 

五次元(新たな認識能力)について

第一章、スケールの概念発見の発端

 

大きさとは何だろう。ふと疑問に思ったことがある。

それは湯船に浮かんでいる自分の体を眺めた時だった。

大きな浴槽に自分の体がずいぶん小さく感じられた。

足を折らなければ入れない家風呂と違うのは当たり前のことなのだが、

なぜこんな風に違うのかと思ったのである。

 

しかし私が驚いたのは、目を閉じたときなのである。

視界が消えたとたん、私の体が巨大に変身したのだ。

私はあたかも世界そのものが自分であるかのような感覚の中にいた。

 

湯船の中の小さな自分と、今のこの感覚のどこに違いがあるのだろう。

そう思ったとき、

私は自分の本当の大きさは何だろう?どうしたら知れるのだろうと思ったのである。

自分の体は、身長160センチ。椅子より大きく、ベッドより小さい。

普段それで納得しているのだが、果たしてそれで自分の大きさを知っていると言えるのか。

そもそも大きさとは何なのか。

確かにベッドより小さい。しかしそのベッドの大きさは何で知る?

それは私の体を基準にしているだけではないか。

つまり互いに対比して大きさを認識しているだけなのである。

 

そうすると、世界にベッドと私しかなかったら、比率は分かっても、真の大きさは分からないではないか。

(もちろん周りにどんなものがいくつあっても変わりはない)

この二つの大きさの比率は、素粒子レベルの大きさであってっも、銀河レベルの大きさであっても成り立つ。

つまり私は自分の大きさを知る手がかりを持たないのである。

つまり私たちは、大きさについて何一つ知りえないということである。

知っているのは、他のものとの対比によってのみなのだ!!

大きさはどんなに考えても知り得ない。

それは驚きであった。

 

結果大きさとは実在ではなく、単に比較による認識以外のなにものでもない。

つまりそれは比較の概念であって、実在の大きさではないのである。

だからもし、周りに比較するものが何もなかったら、

自分の大きさが素粒子なのかヒトなのか、あるいは地球の大きさなのか分からないことになる。

 

大きさを知るというのは、五感による実在の認識ではなく、

認識能力そのものの働きである。

つまり大きさとは、世界の秩序を認識するための概念に過ぎなかった。

 

そこで私はこれをスケールの概念と名付けたのである。

 

 

 

 

次回予告、

(第二章、これまでの認識のかたち)

主に四次元による時間認識について語ります

 


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