のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

邂逅展に向けて(龍の創造)

2017-10-29 | 展覧会

今までの のしてんてん作品

 

新春の邂逅展まで、いよいよあと2か月となりました。

のしてんてん龍は、まだ道半ばですが、少しずつ進んでいる実感はあります。

邂逅展に向けて(一歩進みました)

で闇と龍が空間をつくるという理解を得ましたが、登らねばならないステップは常にその上にあります。

今私がひっかかっている問題は、今までの のしてんてん絵画から跳び出して龍を描きだしたことそれ自体にあります。

今までの絵は、表題の作品のように「私の心象風景」であって、どんなものを描いても比較するものは何もないのですから、オンリーワンであり得ました。

ところが龍はそういう訳にはいかないということが段々に分かってきたのです。

ご存じのとおり龍は想像上の生き物で形に決まったものはありませんから、好きな姿を思いうかべればいいようなものですが、それが案外難しいということが今更ながら分かってきたといえばいいでしょうか。

想像上の生き物でありながら、人間の頭脳に生まれた歴史は長く、そのイメージはもはやゆるぎない実存と言っていいでしょう。

そしてそれは、いかに人は(自分は)既成概念のかたまりだったのかという自虐的な驚きとつながります。

進むにつれて、今までのように心に思い浮かんだ龍を描けばいいと思っていた安易さが見えるようになりました。

つまり、恥ずかしい話ですが、

心のままに描いた龍は、のしてんてん龍ではないことに気付かされたのです。

それはかつてどこかで見た誰かの描いた龍の記憶の残片でしかないということの発見でした。

これは今までに体験したことのない創作上の大きな壁だったのです。

眼、爪、鱗、・・・・

ぼーっとして描けば、それはかつてどこかで見た龍の模倣となってしまう。恐ろしい世界だとあらためて気づかされたわけですね。

逆に言えば、すでに得た龍の姿で満足して深く考えないうわべだけの龍を描いているということです。

描く以上は、この世に二つとない龍でなければ意味はないわけですね。

既成概念を捨て、真っ白な自分に還って龍を描く。

方法はそれしかないのですが、

既成概念は、手袋をてれこに使うことに気付くだけで5年もかかる思い込みの心だと理解して、これではいけないと心の芯にようやく火がともったように思います。

まずは己の欠点を知ったことを進歩と考えて、次なる作品の習作を描いてみました。

真実をつかまえようと身構える伏し龍。

規則正しい魚のような鱗を捨てようと描いたものです。

(サムホール)

 

少し自由になったと喜んだ次の日、

オイオイ、待てよ、このウロコ、この姿勢、狩野信政の天井画じゃないの?!

明らかに、信政の模倣ですよね。

あの世で笑う信政の顔が見えるようです。(どんな顔か知りませんが、面白いもので頭脳は勝手にそんな顔も創り出すのです。)

のしてんてん龍の道は厳しい・・・・というお話でした。。

 

 

 

 

新年の正月初詣、今年は奈良にいらっしゃいませんか。

ついでに邂逅展というスケジュールをお勧めします。

一度に11人の個展を楽しむことが出来ま^す^。^

 

邂逅展に向けて(龍の創造2)

 

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草引き一週間の記録(当ブログより)

2017-10-27 | 人間力

 2012年のマーブルビーチ

 

手袋の話をしたら、5年前どんな記事を書いていたのか気になって当時の記事を探してみました。

バックナンバーで検索できる機能を使うと、2012年5月で簡単に出てきました。すっかり忘れていましたが、初日から一月あまりにわたって草引き日記をかいている過去の私に出遭逢いました。こんな記事を書いていたのかと当時を思い出しながら読んでみました。

自分でいうのもなんですが、初日から一週間の記事がなかなか面白い。もしかしたらこれから何かを始めようとしている人の後押しになるかもしれない。

そんなことを想ったものですから、その七日分の記事を転載します。

馬鹿らしいことを、ライフワークのように続けて行く。そんな心が出来ていく課程を少しばかり見ることが出来るように思えますので、よかったら読んでみてください。

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

2012年5月25日

朝の散歩を始めた。

  海岸に伸びる1.5キロの直線歩道

  白い石を敷き詰めた浜辺

  そこに雑草が点在して目立っている

  毎日1本づつ草取りをしたらいつかきれいな浜辺に戻る。

  そんなことをふと思った。

  浜辺に下りて、白い石の隙間から生えている雑草を引き抜いてみたら心が決まった。

 

 

2012年5月26日

目覚めたのが5時

  もう外は明るい。

  少しずつランニングを入れながら、息が切れない程度に浜辺まで、最高の気分。

  今日ははっきり目標がある。

  白い浜辺にはびこる雑草を取る。

  敷き詰められた握りこぶしほどの白い石。その隙間をぬって生えたススキの株が点在する。

  それを散歩の途中に一株引き抜く。1日一株の雑草取り。

  昨日はうまく行かなかったが、

  今日はそのコツをつかんだ。私の体力がわずかに勝ってススキが抜ける

  心の汚れがひとつ落とせた気分だ。

 

2012年5月27日

決心して3日目の朝、目が覚めたら3時前、

  1時間ほど床にいて起きだす。

  未明の空気が次第に光を持ち始める、その中を歩くのは最高。

  雑草の浜を見て、景色の要にある草の株に向う。

  株の間に挟まっている白い石をひとつずつ取り除き、株を両手で束ねて左右に揺らしながら引き抜く。雑草と体力が拮抗して、やがてブチブチと根の切れる音がして株が抜ける。

  下が砂地だけに、大きなススキの株でも、そんな風に取り除けるのが分かった。

  雑念だらけの心も

  やがて真っ白な砂浜となるだろう。

  一日一株のはずが、5株ひいた。

  一抱えもありそうなオレンジの太陽が昇ってくる。

 

2012年5月28日

 地平線に赤みを帯びたオレンジの太陽が

  神秘と懐かしさと感じさせてくれる

  浜まで2キロの道程。空気が静かだ。

  白い浜辺に雑草がはびこっている。

  歩きながら目立つ株を物色し、今日のターゲットを選ぶ。

  遠目の黒い点が、近づくと一抱えほどの株になる。

  ヨモギの株は一本づつひくことが出来るが時間がかかる。

  丁寧に株を一掃して、余力で横のススキの株に手を伸ばす。

  雑草を抱えて歩道に戻り、脇の草むらに捨てる。

  毎日見る顔が通り過ぎる。

  夜遊びの花火の燃えカスが散乱している。

 

2012年5月29日

三時に目覚めると、遠くの方で雷鳴が聞こえた。

  外に出ると海のほうから稲妻が空を照らし出した。

  浜まで行くとそれが激しくなって、大粒の雨が落ちてきた。

  公園のトイレで雨宿りしているうちに空が白みはじめ、雨脚も遠のいた。

  雨で地面が緩んだら抜きやすいだろうと、ススキの大株を選んだが、砂が粘土のようになって根にこびりつきかえって体力を使いすぎた。

  雨で誰もいない浜辺、気を良くして1日で5日分の草引きをした。

  明日はあそこ、

  少しずつきれいになるのがうれしくなる。

 

2012年5月30日

 5時05分起床

  約30分で浜に着く。

  草を一本ひいても、風景は何の変化も起こさない。

  ばからしいという思いがないこともない。

  面白さがなかったら続かない。

  ススキの株の間に挟まっている石ころを取り除きながら、これは魔法を学ぶための修行だと思った。

  丁寧に石を取り除く。おにぎりのような石ころは私を成長させてくれるエネルギーだ。

  すっかり株がむき出しになると、両手で株を束ねて引っ張る。

  株が抜けるたびに魔法を習得する。

  さて何の魔法と問いかける。

  ・・・・つまらないものに最高の価値を与える魔法・・・

  そうだ!!

  私は一人で納得して、その瞬間幸せの中にいる自分に気付く。

 

2012年5月31日

7日続いた。

  なにやら両脇が痛い。

  今までにない運動をしているために身が入っているのだと気付く。

  これを乗り越えると締まってくるのだろう。

  体が喜んでいるのが分かる。

  一週間続けて、楽しいことをいくつも発見した。

  石ころを取り除くのさえ楽しい。

  心を決めると

  楽しさが生まれる。苦しいことさえ喜びに変る。

  明日に残した雑草を

  引きたくて、待ち遠しい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

その後この草引き日記は一か月余り続いています。もし興味ありましたら、当ブログのバックナンバー2012年6月を選んで頂ければ読むことが出来ます。

 

おかげさまで今は、早朝草引きがいつも変わらぬ新鮮な思索の場であり祈りの場になっております。

今思えば、まさに・・・・つまらないものに最高の価値を与える魔法・・・であったと思えるのです。

 

何でもいい、つまらないことを続けてみると、そこに必ず自分との対話が生まれます。身近にあるものにたまらなく貴重な価値を見つけられます^よ^

地球の爆弾すべて花火となれ!

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思い込みがいかに強いかについて

2017-10-24 | 地球の爆弾すべて花火となれ!

写真は、私が毎朝使用している草引き用の手袋です。

 

つい最近のことですが、自分の愚かさに笑ってしまいました。そのいきさつを、思い込み(既成概念)がいかに強く愚かしいかという自己観察結果として報告します。

これは一つのクオリアの歴史だと見て、しばしお付き合いください。

 

 

 

私がマーブルビーチの草引きを始めたのは2012年のことでした。それから今までの手袋の歴史をクオリアの観点から見るとこうなります。

ここを毎日、ひとにぎりの草を引き続けたら一人の力でもきっときれいになる。そう確信したことが発端となりました。

最初、それは素手で始まりました。

ところがそれでは2~3日でギブアップ。マーブルの石ころをつかむ指先がすれて血が滲み始めたのです。

そこで身近にあった軍手着用という意識が生まれたのです。

ところが、軍手は1週間持たず指先に穴が開いてしまいます。

もっと強い手袋は無いのかと探し始めます。クオリアは手袋の世界に意識をひろげ思考錯誤して今のものにたどり着きました。摩擦に強く1か月ぐらいでは穴は開きません。

しかしまたしても欠点が。それは気密性が高いため手袋の中が蒸れて、手に悪臭が染みつき家じゅうの非難の的となり、さらに工夫を重ね、その中にもう一枚、薄い綿の手袋をはめることでそれを乗り切りました。現在の私のクオリアの中にある草引きの姿の誕生です。

ここからが本題となるのですが、

私の場合草引きは左手で行い、右手はその草を握って束にしていくのが両手のそれどれの役割なのです。それを一か月も続けていますと、どうしても草や石をつまむ左手袋の方に先に穴が開いてきます。

穴の開いたものは捨てていきますので、結果右手袋がいつも残ってきます。

穴の開いていない手袋は捨てるのがもったいない。何度か思っているうちに無理やり右手袋を左にはめて使って見ようと考え付きました。そしてそれはうまく行ったのです。

発想の転換と、思いついたことに少しいい気分でした。

そんなわけで、その発見から長いあいだ左手袋に穴が開けば、余っている右手袋を使用してきたのです。

今思えばそこには強固な思い込みがあったのです。右手用、左手用というメーカーの指定した用途(概念)を私は5年間も持ち続けていたのです。

それはつまりこういうことです。

せっかく左手に右の手袋を使うという発想が生まれましたのに、いい考えを思いついたという自己満足から、それ以上考えることをやめて5年も経過しました。

つまり、よく破れる左手のことばかりに意識が行ってしまって、破れない右手に左手袋を使うという意識はその間まったく生まれてこなかったということです。

つい最近それに気づいたらなんでもありません、一対の手袋をそのまま左右入れ替えて使えば、穴が開いてきた左手袋を右手にはめて、右手袋を左にはめればいい訳です。右手は草を握るだけですから少々穴が開いていても使えます。

そうすると常に一対の手袋を最後まで使い切ることが出来るではありませんか。

その発見は目からウロコでしたが、同時に、思い込み(既成概念)にとらわれた行為がいかに滑稽かという自作自演のドラマを観た思いでした。

こんな簡単なことが、長年の思い込みによって気付かない。

これは良き教訓であり学習でした。

クオリアには強固な思い込みがきっとたくさんあるはず。

急に視野をひろげますが、科学や宗教などにもあるでしょうし、国と国の間にもあるでしょう。

なぜなら、クオリアというのは実のところ思い込みそのものなのです。正しい、正しくないという判断そのものが思い込みで成り立っていることを私たちは認識しなければならない。私たちは思い込みによって安心していられるのですね。

私たちの安心は思い込み(信じること)によって得られているということです。

たとえば神様がすべてを引き受けて下さり、私たちはその愛の元で守られているという宗教があったとしましょう。信仰はそれを思い込むということですね。

思い込むことの出来る人はそれで安心を得ますが、そう思い込めない人は自分で自分を救わなければならなくなって心穏やかではないという訳ですね。

つまり私のいいたいことは、よきに付け悪しきに付け、私たちは思い込みの世界に棲んでいる。つまりクオリアとは思い込みが作りだしたものなのです。

ですから大切なことは、常にその思い込みより良い道はないのかと問いかけてみることが大切だということですね。

 

そんな教訓をひきだしてくれた

手袋のドラマ。

私は面白いと、思わず身を乗り出して観劇(感激)いたしましたが、皆様はいかがでしたでしょうか。

 

 

地球の爆弾すべて花火となれ!

の想いも、そんな馬鹿なという思い込みを捨てたとき本当に実現するかもしれません。

 

 

 

 

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「クオリア」との出遭い

2017-10-22 | 心の旅

心を「質」として理解する最新の脳科学

この卵を見ているあなたは今いる自分に気付いていますよね。思考が働いたり、何も考えず見ていたり、何かを期待していたり、・・・今この瞬間、あなたは何かを感じているに違いありません。それは眠りによって中断しますけれど、

この感じは、次の眠りにつくまでの間、ずっと続いていますね。この意識が続いている感じを「心の質感」というとらえ方をして「クオリア」という概念をつくり出したのが、脳科学者茂木健一郎先生です。

今まで、喜怒哀楽を一つのものとして考える概念がありませんでした。個人個人すべて違う表情を見せる感情は科学の対象外でした。それをあえて研究するための概念、つまりすべての感情や心をひとつのテーブルの上にのせて考えることが出来る、そんなテーブル(概念)をクオリアと名付けたのです。

 

私が「クオリア」に出遭ったのは、たまたま行った図書館の大活字本コーナーでした。

そこで本を物色するうちに、「脳と仮想」という背表紙に目が留まり、手に取ったのが茂木健一郎先生の著作でした。

読んでみると、心の問題を脳科学の立場から説いたもので、実に読みやすく私の提唱する五次元宇宙論と相性が良くて、まるで歌うように読み通しました。文体が論文というより文学的だったのも読みやすい理由でしたが。

自分の手元に置きたい本でしたので、早速ネット購入しました。

 脳と仮想

そこでクオリアという概念に出遭ったのですが、それを詳しく説明する文書を別の本から見つけましたので転載します。

 

ネガティブ脳とポジティブ脳によって人の行動は大きく変わってくる。しかしこれらはあくまで気持の問題であって、科学的に解き明かす土壌がなかった。

そこで1997年「クオリア」という概念を発表した。

という意味の説明があって、次の文です。

***

「クオリア」とは、もともとは「質」を意味するラテン語です。私たちが心の中で感じる、さまざまな質感。それらすべてを、脳科学の世界で「クオリア」であると位置づけたのです。

たとえばチョコレートを舌にのせた時のまろやかで甘い感覚。トーストをかんだ時のサクッとした感覚。こういう感覚を「クオリア」と称します。また味覚だけでなく、初めて入ったレストランのワクワクした感じ。昔の友人を思い出すことで感じる懐かしさ。これもまた「クオリア」なのです。

そしてこの「クオリア」は、実際の数値で表すことは出来ません。重さや速さといったものとはまったく異なるのです。たとえば甘さについても、果実には糖度というものがあります。同じリンゴでも糖度が高いほうが甘いわけです。

しかし、同じ糖度のリンゴでも、食べる人によって甘さは変わってくるでしょう。甘いと感じる人もいれば、すっぱいと感じる人もいる。また同じ人が食べたとしても、その時の気分や体調で味は変わってきます。恋人と一緒に楽しく食べれば、どんなリンゴも甘く感じるかもしれません。この、数値で表すことのできない不思議な感覚すべてが「クオリア」なのです。そしてこの「クオリア」こそが、現代の脳科学における最大のミステリーでもあるのです。

感動する脳 PHP文庫  茂木健一郎 「イメージトレーニングとクオリア」より

 

****

要するに、「クオリア」とは、私たちが心と呼んでいる感覚をひとつのものとみなして考えるということですね。

これは学者でない私たち一般人にとっても画期的な概念だと思います。1997年と言いますから、20年も前に提唱されていて気付かなかったのが残念ですが、それより出遭わせていただいた図書館に感謝いたしましょう。何よりこの1997年は「のしてんてん系宇宙」を自費出版した年というのも面白い偶然です。

クオリアは、夢を見ない完全な眠り以外の私たちの意識の世界を表す言葉なのですね。いえ眠りの無でさえ、クオリアと位置付けることが出来るでしょう。

ここから真っ先に理解できることがあります。

それは一瞬たりとも途切れないで私たちに寄り添い存在するものだということです。

するとこういうことがはっきり認識できるのです。

たとえば苦悩があります。

悲しみがあって、しかしその次はに喜びがやってくる。

この時悲しみと喜びはクオリアですが、その悲しみと喜びの間も同じクオリアであって、その間にクオリアが悲しみから喜びに変化しているのですね。まさに波のように。

つまり私たちの心は、クオリアであって、様々な感情は別々に生まれているのではなく一つのクオリアが変化しているだけなのです。

 

そうすると、心とは何かという問題は、クオリアとは何かという問題として考えられるわけで、個人の中で好き勝手に生まれている心であっても、クオリアを研究することで心を科学することが出来るという訳ですね。

 

何より驚いたのは、クオリアとは、のしてんてん系宇宙そのものではないのかと思えることです。のしてんてん系宇宙の世界が科学として語られる時が来るのかもしれません。

 

 台風の影響で雨がひどくなってきました。大きな被害がありませんように。

 

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黄泉の国より(目次とご案内)

2017-10-16 | 地球の爆弾すべて花火となれ!

「黄泉の国より」は2014年に当ブログに90回にわたって連載した私の唯一のファンタジー小説です。しかしブログの機能上順を追って読むのが大変で完全にうずもれていました。

ところで真鹿子さんの詩「地球の爆弾すべて花火となれ!世界平和花火大会をしよう!」に出逢い、「黄泉の国より」もこの願いにささやかでも添ってくれるのではないかと思うようになりました。

なんとかいい方法はないものかと思っていたら、ひらめきがあってさっそく改良いたしました。

以下の目次のどこからでも開いていただくことが出来、しかも順を追って読めるように工夫いたしました。その都度クリックが必要ですがこれなら長文を好きな時に読んでいただけるという名案です。

「黄泉・・・」は音楽が世界を救うというお話。「地球の爆弾すべて花火となれ!」を願いつつお届けいたします。

お試しくださいませ

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黄泉の国より 

第一部 

一、夢 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

〇  旅立ち

 ヅウワン 

〇 黄泉のセブズー

〇 わが家

二、セブ王の噴水ーーーーーーーーーーーーー

〇 目覚め一

〇 目覚め二

〇   アモイ探偵団

〇   序 章

〇   奇妙な依頼

〇  セブ王の噴水

三、ユング司書 ーーーーーーーーーーーーーー

〇 王立図書館        

〇 雑貨屋ジル            

〇 ユングの死

四、ユングの手紙ーーーーーーーーーーーーー

〇 女司書   

〇  書庫の鍵             

〇  ユングの贈り物              

〇 作戦会議                 

五、失われた辞書ーーーーーーーーーーーーー

〇   密室          

〇  仕事場                   

〇 ヴェゴジュ王立図書館長        

〇   約 束                        

〇  連 行                       

六、悲しい事故ーーーーーーーーーーーーーー

〇 コンサート    (私のおすすめ)               

〇  計画実行の                  

〇  取り調べ室    

〇 ヅウワンの死

                       

 第二部

 一、レクイエムーーーーーーーーーーーーー

惜 別                         

セブ十七世                  

セブ十六世                

計 画                         

 二、噴水の秘密ーーーーーーーーーーーーー

アモイ探偵団            

建国祭         

 もう一つの建国祭            

 三、エミー ーーーーーーーーーーーーーー

おふだ                     

父と娘        

 馬車の中                

エミーの部屋                 

四、古文書館ーーーーーーーーーーーーーーー

閉ざされた書庫

 

 夜の山道

 魔 性

 五、依頼主ーーーーーーーーーーーーーーー

眠らされた歴史 

カラス                  

ゲッペル将軍

並木道

パルマとパルガ

六、新月の夜ーーーーーーーーーーーーーーー

歌の力

 王 宮  

王の寝室

準 備                       

カルパコ                  

地下牢    

新月の夜        

黄泉の国へ  

 

 第三部

一、黄泉の国ーーーーーーーーーーーーーー

無のトンネル

黄泉の光

二、それぞれの戦いーーーーーーーーーーーー

地下牢    

セブズー市街

王の間

三、市街戦ーーーーーーーーーーーーーーー

隠れ家     

女 牢               

ゲッペル対ゲッペル

赤い玉 

四、救い主ーーーーーーーーーーーーーーー

ジ ル   

反 乱        

地下道       

ジルの処刑

生けにえーーーーーーーーーーーーーーー

王子とカルパコ

革 命        

儀 式       

大合唱          

青い玉   

最後の戦い

終 章

ーーーーーーーーーーーーーーーー 

地球の爆弾すべて花火になれ!

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苦を食って(真鹿子さんの詩より)

2017-10-15 | 地球の爆弾すべて花火となれ!

空となって殻はいのちを全うし
涙目は潤いを与える

大地に若草ありて集う真鹿子の群れ

稲穂にときありて
かわずもまた龍となりぬ

 

私の拙歌に対していただいた真鹿子さんの返歌に触発されて

命を頂く コメント欄より)

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苦を食って

強く生きる楽天蛙

苦を苦とも思わない蛙

まさに無一物中無尽蔵の

苦エネルギーどん底躍進底力で

いつしか蛙龍になっているのにも気付かないで

苦を食って平和に尽くす蛙龍

蛙飛び飛翔でうねり渦巻き

宇宙平和に夢中

苦を食って苦を昇華する

宇宙エネルギー楽天蛙龍だ!



真鹿子(まかこ)

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苦を食らう
そうありたいと思います。

四苦八苦と言いますが、様々な苦悩はあるものの、その根は一つ。心が苦しくなるということです。

どういう理由であれ、苦悩は心が痛くて苦しいのです。それが苦悩の実体ですね。


ところが心とはどこにあるのでしょう。この肉体のどこにもそんなものはありませんよね。

なんとなく胸が痛む。心臓が締め付けられるような圧迫感。かといって胸に心という臓器があるなどと考える人はいないと思います。

つまり苦悩とは、単なる思考の働きであって、私達の身体の一部ではないということです。

ですから、苦を食うというのは、自分を食うというのではなく、自分を苦しめるほどの大きなエネルギーを頂くということなのですね。頂くというのは、負を正に昇華(消化)するという意味です。


誰しもしあわせを望みます。

その一例が成功の幸せですね、その幸せに目を奪われているときには気付かないですけれど、ある日ふと、そのしあわせはひとにぎりしかないという気付きがやってきます。全員が金持ちにはなれないのですから。

しあわせの足元に、山となった不幸せがあるのですね。つまり苦を食らうものの方が圧倒的多数だということです。

それなら、

苦を食らうことにしあわせを見つけたら、人は人類としてしあわせになれるのではないか。そう思ったのですね。

苦を食らうと、人は空と出逢うことが出来る。そこに静かな幸せが広がっている。

そう信じたいのです^ね^


ところでそんなことは可能なのでしょうか。

苦を食って苦を昇華させることは出来るのか。

出来ます。

なぜなら、エネルギーに色はないからです。それは色即是空。空なのですね。

 

試してみてください。何らかの苦悩に直面したら、嫌という思いを止めてその痛みに目を向けて御覧なさい。真っ黒に渦巻いていた負のエネルギーがやがて静まってきます。

そしてそれは必ず、無色透明の空間となります。

そこに真鹿子さんの詩にある「楽天龍」がいるのです。

心のエネルギーに無色透明を感じたら、あなたはその瞬間色即是空を体験したのです。そこから己の命に向って目を転じて見たら分かります。

命は宇宙そのものだったという、深い実感が蘇ってきます。己のたった一つの呼吸でさえ、黄金に代えがたいというあたりまえの事実に気付くのです。

苦を食らう幸せは、人類のすべてが同時に平等に持つことの出来るしあわせなのですね。

「不本意に死にたくない。殺したくない。与えられた命を全うしたい。」

この想いは、それゆえ私達人類が一つになれる可能性を含んだ願いなのです。

 

今人類が直面している様々な紛争の危機は、殺人技術がたかまったゆえに危機的ですね。

しかし以前コメントでもいただきましたように、兵器が悪いのではありませんし、兵器が怖いのでもありません。

問題はただ一つ、

人間の欲望なのですね。

地球の爆弾すべて花火となれ! 

でも書きましたが国を人に例えると、地球に200人の国が棲んでいることになりますが、この200人が成功の夢を抱いて、しあわせの奪い合いをしている。

これが私たちの恐れなければならない悪魔であり、地球に渦巻く色の付けられたエネルギーの反乱なのです。

苦を食おうではありませんか。

私たち一人ひとりが、苦を食って、色付けられたエネルギーを透明に浄化するのです。

国から言えば、私たちは一個の細胞でしかありませんが、全細胞が、苦を食らう龍となって黒い嵐を透明の風に昇華(消化)する。

そこに人類の未来があるのではないでしょうか。

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邂逅展に向けて(一歩進みました)

2017-10-14 | 展覧会

やっと踏み出した一歩(のしてんてん龍)

 

狩野信政の龍と私の絵の違いを見ることはこの上ない教示となりました。

心に衝撃を受け、その筆致を辿るうちに、私の絵にないものが見えてきたと思いました。(邂逅展に向けて(八方睨みの龍)

その思いが本物かどうか

それは絵が答えを出してくれる。

何万語言葉を尽くしても意味はありません。百聞は一筆に如かずですね。

 

信政の龍は雲と龍。その線は完全に二つを結び付けている。そこにこの絵の大きさがある。

そんな私の理解を、自分の絵に再現出来るのか、

のしてんてん龍は闇と龍 ↑。

信政の雲が私の場合鉛筆の闇なのですね。闇と龍が分離している。ただ龍を描きましたというだけの絵。

意味が解らずただ不満だけがくすぶっていたのですが、信政のおかげでそれが今はよく分かります。

時を越えてお礼を言わねばなりません。

目標が定まると、行き詰っていた絵が一気に進み始めました。

闇と龍を一つにする。空間の中に龍を溶け込ませ、龍の中から空間を生み出す。そんな感覚で描き始めると、指向性を持つ光が生まれてきました。

そして初めて、自分の求めていた風景はこれだったのだという思いに至りました。

 

行き詰っていた絵と見比べて、あらためて思いました。

それはまるでストロボを炊いて撮影した写真だったということです。

行き詰っていた絵はまさにそれでした。

光にさらされて、消された闇がいかに大切な真実を持っていたのかが分かりました。

ストロボとは、私の絵の場合、理屈。思考の絵ということで、つまり思考にさらされた絵だったという訳です。

 

さて、これは自己満足だけなのかどうか、こればかりは私自身の目で見ることは出来ません。

これをごらんになっている皆様の眼に頼るしかありません。皆様にはどう写っているのでしょうか。

元の絵の方がいいと思われる方もおられるでしょうし、両方とも気に入らないという思いもあるでしょう。

どんな感想が生まれているのでしょうか。

 

差支えなければ是非、忌憚のないご意見を聞かせて頂けないでしょうか。

皆様の声を糧にして

さらに深く潜む龍を見てみたい。

 

そんな思いが今しきりに動いています。

 

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邂逅展に向けて(八方睨みの龍)

2017-10-11 | 展覧会

堺市 龍興山南宗寺 仏殿天井画

 

龍を描く。

それは己の心と宇宙との接点を探る旅と位置付けて制作中ですが、自分の欠点が少しずつ見えてきます。

このマイナス面をプラスに変えようと思いながらも行き詰っておりました。

 

ちょうどその時大家氏の個展案内が届き、出かけたギャラリーで、オーナー様から堺にも龍がいますよと紹介してもらったのが、龍興山南宗寺でした。

 

私は何か予感めいたものをかんじて 、その場ですぐに行きたいと申しましたら、地図を渡してくれ、親切に寺の様子なども教えてくれました。

道は迷いようもなく、この通り直線の道路。自転車を使いますかというオーナーの親切を断って歩きましたが、なぜ自転車を勧めてくれたのか途中でよく分かりました。

訳1キロの直線を歩いてようやくついたのが

龍興山 南宗寺

建立400年を越える千利休一門の墓もある臨済宗の寺。

その仏殿にある天井画、八方睨みの龍。残念ながら撮影禁止のため、掲示板の写真を転載します。

 仏殿の天井を見て私は一瞬で心奪われました。

この心のインパクトが私の絵にはないのです!!なぜ??

言葉より先に心が没入する絵。

もちろんそんな思いはずっと後からわいてきたもので、その一瞬から私は完全に八方睨み龍の世界の中にいました。

参拝者がまばらでしたので仏殿の土間に坐り込み、やがて寝転がって龍と向かいあいました。

私の絵はせいぜいこんな程度↑で、小さくまとまったおもちゃのような龍。そこから抜け出せないでいた私に、八方睨みの龍(狩野信政)が誘ってくれた気がいたしました。

写真では分かりませんが、筆遣いの細部にわたってはっきりと観ることが出来ます。

小一時間、ただ眺めるだけでした。そのうち心の中で狩野信政の筆遣いをなぞり始めたのです。信政の心を想像しながら龍を描いてゆくと自然に見えてくるものがありました。そして決定的な違いを見つけたのです。

いえ、これは教えていただいたというべきかもしれません。

筆の線と、0.5ミリの鉛筆ではおのずと線の力は違いますが、そんな物理的なものではなく、私は狩野信政の筆の意味がようやく見えてきたのです。

それはこういうことです。

龍を描いた筆の線、それは実は龍を描いたというのではないということなのです。

それは境界線ではないのです。こちらから向こうは龍、反対側は雲というそんな線ではないということが見えてきました。

それは龍であると同時に、龍を包む空間を表していたのです。線の濃淡が鱗と身体を空間と混然一体に描写する力となっているのです。

中動態の絵、私の頭にそんな言葉が浮かびました。

空間から龍をとりだそうとしているのではない。空間に龍を見出そうとしている絵なんだと分かったのです。

 

私の絵のことを言えば、鉛筆の線は細い変化のない線です。私はその線をいつの間にか境界という意識しか持っていませんでした。龍を描く線は龍であって、そこに空間の意識がなかった。

線に目的が課せられ、この線は龍なのか空間なのかという思考が働いていて、つまりそれが私の絵の弱さだと気付かされたのです、

龍でも空間でもない、あるいはどちらでもあるというような線。普段私がいい続けている心の線が私の絵にはなかったというべきかもしれません。

 

一本の線に意味を考える受動態、意味に向って線を引こうとする能動態。私の絵はそんなものから成り立っていた訳です。

頭が思い描く意味など小さなものであることは自分でよく分かっているはずなのに、そのことに気付かずにいた私に、八方睨みの龍は実に温かく教えてくれたのです。

能動態・受動態では絵は原寸大の己をさらすしかないのです。(恥ずかしい限り)

絵を描こうという意志が、中動態とつながって初めて、龍は空間の中で生き始める。これ以上の教えは無いように思えました。絵に向かって合掌するばかりです。

土間に寝転がったままいつまでも立てませんでしたが、そのうち参拝者の足音がして我に返って起き上がりました。

 

参拝者とガイドさんがやって来て、絵の説明をしています。八方睨みの意味を話す声が耳に届きました。

 

一団が過ぎて一人になってから私はあらためて、龍を眺めながらお堂を一周して見ました。龍の目が私についてくる。どこまで行っても私を睨んでいるのです。

 

さて、そんな絵が描けるのか。

あとはお前さん次第。龍にそう言われている気がして仏殿を後にしました。

 

合掌

 

 

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邂逅展の仲間たち(紹介)

2017-10-09 | 展覧会

大家 勝 個展

 ステンドグラス(Painting With Light)

10月6日~10月18日(12日休廊)ギャラリーいろはに


新年に開催する邂逅展に参加される大家勝氏より個展の案内を頂きましたので行ってきました。

ギャラリーいろはに」は堺市にあるきれいなギャラリーです。


大家氏とは、第一回の打ち合わせでお会いして、今日で二度目。作品に出逢うのは初めてでした。

ステンドグラス作家とお聞きしていましたので、窓にはめられた絵のようなイメージを持っ持っていたのですが、いきなりそのイメージは崩れ、それは見事な光の彫刻だったのです。

冒頭の写真もそうですが、いきなりその立体作品に引き込まれてしまいました。

↑これは秋の風景だそうです。

ゆっくり話すことが出来まして、驚いたことに大家氏は美術を学んだわけではなく、様々な仕事をやってきたそうです。銭湯を経営したり、ユニークな酒場を立ち上げたり、心の満足を求めて、成功した会社も意に沿わなくなると惜しげもなく捨てて来たそうです。

その心がステンドグラスに向いたとき、たまたま奥様がステンドグラスの教室に通っておられて、自然にその世界に入っていったとはなされていました。

もはやステンドグラスというジャンルから飛び出して、ガラスを使った立体造形ですね。

パステル画のような柔らかでかわいい小品もたくさんありました。

これから何か物語が始まりそうですね。

ギャラリーいろはとてもきれいな空間です。

創作ランプ。窓の向こうは山之口商店街のメイン通路。

 

この地図に描かれた直線の道路。誇張ではなく本当にほぼすべての道路が直線で、平坦な広さを感じる堺の街です。

ギャラリーのオーナー様から、龍の天井画のある南宗寺のお話を聞き、ギャラリーからひたすらまっすぐ歩いて訪れましたが、その驚きは次回のお楽しみ。


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光と影(ものの形が現れるとき)

2017-10-05 | 私の絵画論

 光と影

 

きれいな白い箱と白い卵がたまたま出逢いました。

どちらもほとんど同じのマット状の白い肌が心に沁み込むような感じがします。

※ 文末に私の気付きと感じた思いを追記しました。

 

 

たまごを紙の上に置くと、とても幻想的で、光と影だけの世界が何とも言えない美しさと、不思議な存在感を見せてくれます。

 

たまごかけご飯を頂いた後、ほとんど時を忘れて遊んでしまいました。

ごらんください。

たまごが一回転するだけでこんなに変化が見られます。↓

 

 

 

 

 たまごのまわりを光が回るとこんなふうに見えます↓(上と同じ写真を並べ替えただけです)

      

色がないと、光と影の世界。これ天然色写真(古~ぅ)なんです^よ^

ピンボケが残念ですが、そこは想像でおぎなって下さいね。

どこにでもある風景に私はいつも神秘と感動を頂きます。

のしてんてんソワカ

 

※自分で書いて、あとで気付くことが多いのですが、今回もこんな発見がありました。

最初の連続写真は影に注目(位置を定めた)もの、次の連続写真はたまごに注目(位置を定めた)もの。そう思うと人生に似ていると気付いたのです。

たまごが真実、影は虚構(思考)と考えてください。

影を本物と思ってしまうと、真実(たまご)は回転して定まりませんが、たまごに目を定めると、動かないたまごの周りを影がめぐりますね。

何かとても大切なことを教えてくれているように思えてなりません。


名月や たまごに教わる 影今宵

  (のしてんてんソワカ)




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地球の爆弾すべて花火となれ!(2)

2017-10-04 | 地球の爆弾すべて花火となれ!

 「地球の爆弾すべて花火となれ」

このことばは理屈ではなく直接感性に訴えかける力がありますね。

 

こどもから大人まで。

自由主義者から共産主義者まで。

様々な宗教者から無宗教者まで

70億の違いを持つ人間の中心にある、共通する願い

「この命を全うしたい」という純粋な願いを

私達の感性に訴えかけてくれる言葉です。

 

この真鹿子さんの詩を紹介した前回の記事「地球の爆弾すべて花火になれ!」は、当ブログ始まって以来の反響を頂きましたが、驚くべきことに、公開した翌日には折師様が真鹿子さんの詩を全文翻訳してくれたのです。

 

まずはそれを感謝しながら、紹介させていただきます。

 

真鹿子さんの詩に直接英訳をつけていただきました。

心の詩が一夜にして2倍に膨れ上がった瞬間です ↓

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地球の爆弾すべて花火となれ地球平和花火大会をしよう!

                 (真鹿子):(折師)

 

地球の爆弾すべて花火となれ
Every bombs change fireworks!


地球平和花火大会をしよう!
Let’s hold “Earth Fireworks Festival”!!


空想でもいい(※現実を超えた想像と解釈しFantasyに)
Is it a fantasy?


馬鹿じゃないの?でもいい
Am I a fool?


もともとわたしは馬鹿だけど
Yeah,I’m a fool. But…!


想像は創造と連動(※必要は発明の母…の英語に掛けて、この単語並びにしました。)
Fantasy is the mother of creation.


想像出来ることは創造出来ること(意訳:どんな空想もいつか創造できる)
All fantasy can create someday.


極微力でも、
Only a very small step,


先ずは、祈ろう(意訳:その歩みを信じ、そして祈ろう)
We believe it and pray.


あきらめない!どん底力!(意訳:諦めるな、ここから始まるのだ)
Never give up! Start from here!


わたしの場合、死んでもあきらめない(意訳:肉体を超え、魂を超え。※体が無くなっても、そして不屈の魂を持って…の意味を込めて)
Over my body. Over my soul.


絶対にあきらめない
Never,never give up!


地球の爆弾すべて花火となれ
Every bombs change fireworks!


地球平和花火大会をしよう!
Let’s hold “Earth Fireworks Festival”!!


詩:真鹿子  訳:人生の素人:折師

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ところで、この詩と翻訳に対して、お二人から興味あるコメントもいただいております。

私が心ひかれた部分をここに抜粋しますね。


(真鹿子さんから)

じつは、
地球の爆弾すべて花火となれ
地球平和花火大会をしよう!は、
私を超えている言葉。


宇宙同根多種多様万物一体の
宇宙潜在極域通底の宇宙意識から
潜在意識を通って訪れました言葉。
意味は宇宙生命体共有の意味である言葉です。


ですから、すでに、
地球生命体のすべて、
人類すべてのこころ、潜在意識に、
打ち上がっている願望の花火
祈りの花火だと思いますが、
この世界平和への花火の音が鮮明になりますよう、
しっかりと共有、現実化されますよう☆
 
極微ながら地道に精進させて頂きますので
よろしくお願いいたします。

渾身の気魂、気爆を籠めまして、 
地球の爆弾すべて花火となれ
地球平和花火大会をしよう
で^す^!

(この詩は赤字で示したように、自分の思考を越えたところからやってきたと言っているのですね。のしてんてん)


(そして以下は折師さんからのメッセージです)

対応の速さに関しては…実は「相当なめぐり合わせ」でした。この日は14時出社だったので、ちょうど昼ごろが一番時間がありました…。
 真鹿子様の英訳の速さも…ちょうど休日かつ心身がノっていたタイミングでもありました
 …また、単語選びや意訳は…本当に自然と言葉があふれました。

 …絵本の方はまだ形が見えていませんが
(ここは私、のしてんてんがこの詩を絵本にできないかとこぼした言葉に対応した折師さんの返信です)、もしかしたらこの詩の持つ”チカラ”とのしてんてん様が発案した”アイデア”に触れた人で

 「自然と体と心が動く方がいらっしゃる」かもしれません。

 もっと多く、そして広く…伝わっていっていただきたいアイデア…ですね!


赤文字は私(のしてんてん)の工夫ですが、私の心ひかれた言葉は、赤字のように、期せずしてお二人は同じことを言っておられるのです。

真鹿子さんは潜在意識から、折師さんは自然と言葉があふれて来た。それは思考を越えたところから来た言葉だというのですね。

 

地球上に棲む200人の頭脳(政府)はまさに思考のかたまりだということを考えると、このお二人のコラボレーションは、思考の外にある命という真実からやってきたものに他なりませんね。

この力は私達にとって政府という頭脳を涅槃に導くばかりではなく、私達自身一人ひとりの頭脳に支配された心を救ってくれるものだと私は信じるのです。

 

「無為自然」という有名な老子の言葉がありますが、それは思考が為さなければ自然がすべてを治めてくれるという意味だと受け止めておりますが、このコラボはまさに無為自然の現れと言えるのではないでしょうか。

 

そして折師さんの最後のことば

この次には、「自然と体と心が動く方がいらっしゃる」という声明に私は涙いたしました。

私はまさにそれを信じております。


人間は大した生きものなのです。発展途上で愚かなのは頭脳だけです。頭脳(イデオロギー)で汚されない自然体と心を信じて、私たちはこの命を全うさせようではありませんか。


真鹿子さんと折師さんにあらためて御礼申し上げます。

共に人類を覚醒させるという大風呂敷を広げて、取るに足らないこの命(反語)を全うさせましょう^ね^

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命を頂く

2017-10-01 | 心の旅

感じるままにこんな画像を並べてみました。

 

何かを

 

感じて

 

頂ければ

幸いです。

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 まかこさんからこんな詩を頂きました^よ^

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コケコッコー殻も恵みの玉子かな 
殻も空も恵みの実


涙眼で地球の空見る手水鉢

悲しい鳥が飛んでいる

地獄の爆弾背負わされて


のどかなる草食む鹿の安らぎが
広がりますよう若草山から


真鹿子(まかこ)

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いつもありがとうございます。

上の写真は、

① 我が家で食したたまごの殻 たまごを描く

② 奈良公園で見かけた手水鉢 自分を好きになる

③ 若草山 奈良に行ってきました

④ 近所の秋 今はもう秋(一つの驚き)

⑤ お墓詣り 第一回「邂逅」展に向けて

の、それぞれの記事で使用した写真でした。

つなげてみると、新しい意味が生まれてくるのですね。

私も返歌を書かなくっちゃ。^ね^


という訳で、返歌出来ました


空となって殻はいのちを全うし
涙目は潤いを与える

大地に若草ありて集う真鹿子の群れ

稲穂にときありて
かわずもまた龍となりぬ

のしてんてんソワカ




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