のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

感情の秘密(6)

2016-02-29 | 5次元宇宙に生きる(心)

(寒そうな風景にも春の兆し)

 

五回に分けて感情についてみてきましたが、(おいおい、まだだろう)という突っ込みを意識しながらこれを書いています。

そうそう、まだ一つ残っていましたよね。

つまり、感情は、「よい」・「わるい」・「ふつう」・「わからない」という4つの評価に対する心の色合いのことでした。

話が「わからない」で終わってホットしたら、抜け落ちてるよと、ご指摘です。

実は最も厄介な、しかも最も人間的な感情を最後に残しておいたのです。「ふつう」という評価によって現れる感情ですね。

上の表、感情をつかさどるバベルの塔(私はひそかにそう呼んでいます)をもう一度見てください。欲望がつくりだす塔を、人間は自然に登っていきます。それは最初から組み込まれた定めのようなものでしょう。何の障害もなく向上心が働いて行けば、やがて人はその頂上に行き着くでしょうし、そうなれば名誉と人望を得るひとにぎりの指導者として人間の頂点に立つわけですね。

しかし理論上、頂上にはひとり分の立ち位置しかないわけで、99%の人はその下でピラミッドを作るのです。

よい見方をすれば、「ふつう」という感情は人間の必然的な機能だということですね。「ふつう」という感覚がなかったら、人類は常に戦国時代で世を終えるしかなくなるでしょう。

しかし、それだけのコメントで終わらないのが「ふつう」の感情なのです。で、今日は「ふつう」の良い面だけをとらえてみたいと思います。(でなければ1時間ほどでは書き切れません)

「ふつう」という評価が出てくるのはどこでしょうか、あえて上の表の中に書き込むとしたら、どんな場所に位置づけられると思いますか?

身体的「快・不快」が支配する場所では、案外わかりやすいですね。それはきっと、「快感」のすぐ上、つまり、満腹して眠気がやってくるころから、そろそろお腹がすいてきて、次の食欲が現れてくるまでの間にある感情だと分かります。

空腹で食欲(欲望)がわきます。食事をとって満足します。いつの間にか満足感も消えて「食」に関する意識は消えてしまいます。再び食欲が現れ、満足して、消えます。欲望⇒充足⇒安定というながれが見えてきますね。

これは生命の螺旋と呼んでもいいかもしれません。いのちはこのように感情を回転させながら螺旋を描いていのちをつないでいるのです。

もし、「ふつう」という感情がなかったら、人は永遠に食べ続けることになってしまいますね。

「ふつう」という感覚は、つまり、欲望を消す働きをしているわけです。しかしそれは消すことを目的としているわけではありません。常に新しい欲望を生み出すためにこの身体を浄化させていると考えるが自然でしょう。

あるいは、生まれた命を活動させるための装置とも言えますね。車で言えば、ガソリンを入れられて、走りまわっている状態です。その間は、燃料がなくなる心配もなく本来の能力を発揮することが出来る。これが「ふつう」という心の状態なのです。

知識が生まれ、精神的「快・不快」を持つようになると、「ふつう」の感情は、心を冷静に保って、人間本来の活動を支えてくれるわけです。

バベルの塔を目指すのは人間の運命みたいなものかもしれませんが、「ふつう」の感情が簡単に私たちを途中下車させてくれるのです。

当ブログ感情の秘密(3)で触れましたが、パンを得て喜んでいる者も、名誉を得て喜んでいる者も、喜びの量は同じですから、「ふつう」の感情が途中下車によって損なわれることはありません。

余談ですが、バベルの塔の高みにいる人が、たとえばどこかの社長が倒産してパンを食べても同じしあわせを感じないというのは、社会常識かもしれません。

しかしそれは、その社長が、いまだに当時の欲望を消せないからです。架空の欲望に身を焦がしている人を救うのは、出発点に戻ることだけでしょう。

瞑想して、己の空間に目を向ければ、パンがどれほど素晴らしい幸福をもたらしてくれていたかに気付きます。そこに再び「ふつう」がやってくるのです。

「ふつう」の感情は、その意味で、無条件に起こるいのちへの肯定なのです。

 

 

 

 

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感情の秘密(5)

2016-02-28 | 5次元宇宙に生きる(心)

(闇を通り抜ける 白川郷にて


「よい」・「わるい」・「ふつう」・「わからない」

感情は、ものごとを評価して、この4つの区分に分類することで起こる「感じ」でした。

「よい」・・・うれしい感じ

「わるい」・・・嫌な感じ

「ふつう」・・・安定した感じ

「わからない」・・・不安の感じ

そして、この感じというのは、だれもが毎日経験している心の雰囲気とでもいえばいいのでしょうか。

なかなかつかみどころのないものですが、この空気のようなものが、実は私たちの正体なのです。

「気」という言葉で指すもの、

「気分」という心の状態・・・・・、

たとえば今、眼を閉じて自分を感じてみてください。

何が感じられますか?

なんだかわからないけれど、空間のようなものが広がっているかもしれませんし、耳鳴りを感じたり、点滅するような光が見えたり、ふと、なにか別の思考が働き始めると、空間がその思考を包むように動きます。

具体的な形がないために、心の中に広がる「気」の様子を描こうとすると、こんな感じになってしまいます。

今回描いた私の絵は、「気」をテーマにして描いたものです。解説はしません(というより出来ません)が、私のイメージで絵を描くとこんな感じになるわけです。

実は今回、このシリーズを始めた初めの頃に、1月9日付け物質と空間(身体と意識)の記事を書きました。その内容は、私達存在の本体は物質の方ではなく、空間なのだという、新しい見方を紹介したものでした。

この図は5次元による人間の姿を現したものでしたね。原子(黒い点)が集まって肉体があるのですが、黒い部分を背景にして、白い部分(空間)に意識を向けると、私たちの認識は180度変わってしまいます。

この写真で、壺があるのではなく、闇があると考えたら(空間のほうに意識を向けたら)、壺は背景に消えて向かい合うふたりの顔が見えてきますね。

同じように、自分自身についても、物質ではなく、それを取り巻く空間に意識を向けたら、肉体は背景になって、空間が主人公となるのです。

つまり、何を言いたいのかといえば、まさにこの空間こそ感情なのだということなのです。

空間はエネルギーだといいましたが、つまり感情はエネルギーそのものであって、無限にありそうな感情も、実は一つのエネルギーなのだと考えられるのです。とらえどころのないのは、感情が、心の状態に感応して変化する色のようなものだからでしょう。

感情をそのように理解すると、つまり感情は自分の本体だと認識できれば、不安の感情に対しても、ちょっと髪の毛の色が変わったくらいの感覚で不安と対応できるかもしれないのです。

さらに、この「わからない」という評価は、時間の概念から生まれたものです。つまり、分からない未来が怖いのです。

そうだとすると、5次元の概念を習得すれば、時間から解放されます。つまり「わからない」という評価そのものが出てこないことになりますので、私たちはこの厄介な感情から解放されて、今という時間の中で至福を得る可能性があるわけでね。

5次元はいのちそのものをみつめる思想となる可能性は十分にあります。人類の英知を積み重ねれば、四次元から、五次元に文明を発展させることも出来るかもしれないのです。



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感情の秘密(4)

2016-02-27 | 5次元宇宙に生きる(心)

(のしてんてん絵画最新作)


感情について、どうしても避けて通れない問題があります。それが「わからない」という評価から来る感情です。

「わからない」というのは、言うまでもなく、良し悪しの判断が出来ない状態にあらわれる感情なのですが、一般に不安感が伴います。

先日見てきた良し悪しの感情は、自らの欲望をコントロールすることで幸福を手に入れることは難しいことではないかもしれません。

しかしこの「わからない」という評価はそう簡単に行きません。なぜならそれは、私たちの存在そのもの、その根幹にかかわってくるものだからです。

私たちがつくりだす欲望に対する「わからない」は、いずれ「よしあし」の判断の後に消えてなくなる感情ですが、この「わからない」は、私たちが存在する根本原因にまで及んでいくのです。そして、この根本原因は、私たちが逆立ちしたってわからないことですから、「わからない」という評価から来る感情は永遠に消せないということになります。

つまり、不安は欲望をコントロールするだけではなくならない訳ですね。

では、どうすればいいのでしょうか。

私たちは今、心の一番深いところに来ているのかもしれません。普段考えもしないことですが、私たちに現れる感情の、その根っこは、私たち自身の存在する根本原因と直接つながっているわけですね。

そうだとすると、この「わからない」は当然のことだと考えるしかありません。つまり「わからない」を胸を張って受け入れるということですね。

「わからない」を神という言葉に仕舞い込んで救いを求めるのが宗教的思考だとすると、「わからない」をそのままエネルギーに変えて世界を創造しようとするのが芸術的思考だと私は思うのです。

人は、「わからない」を受け入れることで、初めて不安の感情から解放されるのかもしれません。

手前味噌になりますが、これは私の最新作。今日仕上げた作品です。

「わからない」を生きる。実生活ではなかなか難しいことですが、芸術の世界ではそれができるのです。様々なジャンルの中で、人は己の個性の中で「わからない」を生きることが出来ると信じたいのです。


 

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感情の秘密(3)

2016-02-26 | 5次元宇宙に生きる(心)

(水車ならぬ水杵。水が杵をつくこの自然とのつながり方にほろり)

 

感情は、ものごとに対して、自ら下す評価のことだと前回申しました。

「よい」・「わるい」・「ふつう」・「わからない」

この4つの区分の中で、複合的に重なり合って感情は複雑に動いて行きます。自分のことでありながら、自分ではどうすることもできないと思えるほど、感情に押し流されてしまう日々も経験されるのではないでしょうか。

しかし、その仕組みを知れば、感情の波に翻弄されずに済むのではないか。そう思うのです。

朝目覚めた時、気持ちが乗らなかったら、自分の中に「よい」と思えるものを探してみる。それだけでも心は明るい方向に動き出す。「わるい」という評価が自分の中に現れたら、それを優しく包み込んでさりげなく、「よい」と評価できる考えを探してみる。

それだけでも心は随分変わってくるはずです。

 

さて、感情は自分自身が下す評価だといいましたが、「評価」という以上、そこには評価基準となるものが必要になってきますね。

何を基準にして、私たちは「よい」「わるい」を判断しているのでしょうか。自分を評価するということは、必ず、評価するための基準があることを意味しているのです。

それはいったい何なのでしょうか。

それを示したのが下の図です。

「のしてんてん系宇宙 第三部」で使用した図ですが、これは、宇宙から生まれた身体が心を成長させて行く過程を図式化したものです。

最下部に生まれたままの身体の状態を表し、上に向かって成長していく様を表現しましたが、その最下層には、身体的「快・不快」があります。いうまでもなく感情はこの「快・不快」が原型となっているのです。

図の右に感情を表し、その手前には感情が現れる具体的な状態を書きました。見ていただきたいのは、その感情が、経験を通して成長していく様子です。この例では、「食欲」から始まった感情の流れを単純化したもので、感情の区分である「ふつう」という評価はこの場合わざと抜いています。

この流れを観ると、評価の基準とは何かという答えはすぐわかりますね。

そうです。それは私たちの中に生まれてくる欲望なのです。

欲望は最初、生きるために必要な身体の欲求だけでした。この例では食欲ですね。そこではまだ精神的「快・不快」は現われておらず、身体の実感だけが感情であったわけです。快感か不快感か、その感じを受けて生命活動が始めるのです。

しかし人はそこから、知識を身に着けます。精神的「快・不快」が感情に変わると、評価基準である欲望はどんどん変わっていくのです。

「食べる」欲望をパンで満たした経験が、「パンがほしい」という欲望に変わる。

その欲望を満たした「よい」という経験が、今度は「パンが得られる金がほしい」というように、次々と欲望を膨らませていくのです。それぞれの欲望が基準となって、その「よしあし」の評価が感情となって現われてくる訳ですね。

この欲望は際限なく膨らみます。なぜなら感情は常に快感を求めるからです。もちろん人はどこかで折れ合いを付けます。挫折、諦め、達観、転換・・・人それぞれの方法でこの欲望の塔に見切りをつけるでしょう。

しかし大事なことは、どこでこの欲望の塔に登るのをやめるかではありません。どこでやめてもしあわせは同じだという事実に気付くことなのです。

感情は、欲望をどこまで膨らませても得る量は同じなのです。つまり「よい」か「わるい」かだということを忘れてはなりません。

欲望はただの基準であって、幸せそのものではないということを私たちは知る必要があるのです。

幸せは欲望にあるのではなく、まさにこの感情をつかさどる命の素晴らしさを知ることなのではないでしょうか。

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感情の秘密(2)

2016-02-25 | 5次元宇宙に生きる(心)

(あしなが・・・足の長いのは憧れですが、これだけ長いと不便そう)


感情を表す言葉の一覧です。

すでにお気付きの方もいると思いますが、この表の中に、感情の正体が隠れているのです。

感情について、あらためて考えてみると、言葉の数だけ感情があると分かってきます。それは実は言葉に限りませんね。それこそ、言葉に表せないほど感情は私たちの心の中にあふれているのです。

この瞬間、私たちは呼吸をしながら、何らかの感情の中にいます。そしてそれはとどまることなく動き続けています。今日うれしくても、明日は悲しい。今不幸でも、次の瞬間には幸福を感じる。感情とはそういうものであって、永遠に不動の感情など存在しませんね。

ですから、どんな感情があるかと、数を上げてもきりがないわけです。しかし重要なことは数ではありません。無限にありそうな感情の量ですが、それらはすべて、表に示した区分に納めてしまうことが出来るのです。

「よい」、「わるい」、「ふつう」、「わからない」。

やってくる感情はすべて、この区分のどこかに入ります。というより、そのほかに考えようがありませんね。

これはどういうことを意味しているのでしょうか。実はこれが、感情の秘密を知る重要な手掛かりなのです。

つまり、感情とは私たちが無意識に下している評価なのです。無論意識的な評価も当然あります。

自分にとって、あるいは自分が守ろうとするものにとって、それは良いことなのか否か。正しいのか誤っているのか。自分が生きていることに対する評価を私たちは無意識に行っているのです。

それが感情となって現れてくるわけです。

「よい」という評価は、人はくつろがせ幸福感を与えます。逆に「わるい」という評価は、苦悩をもたらすのです。

しかし評価である以上、「よい」「わるい」と言えないものも存在します。例えば空腹が満たされて、その満足感も消えたころ、私たちはすっかり「食」についての意識を忘れてしまっていますよね。

学校から帰った子供に、「今日はどうだった?」と聞いたら、めんどくさそうに「ふつう。」とよく答えていたものですが、まさに何事もないのは普通なのです。子供にとったら、考えるのがめんどくさいという「ふつう。」なのでしょうが、しかしそれも子供自身の評価に違いはありません。

感情で、一番厄介なのは「わからない」という評価から生まれるものですね。ここから生まれる最悪のシナリオはカタストロフィでしょう。不安、心配は日常的ですが、この感情が世界に感染すればこれ以上の恐ろしいことはありませんね。

しかし、その正体は評価なのです。感情であるこの評価は、生理的なものから、無意識のものだけにとどまりません。恣意的なものから、善意、悪意を問わず、論理t的、盲信的、虚構など、一切の動機に関係なく、下した評価に左右されます。それが感情なのです。私たちはこの危ういシステムの上で生きているといわなければなりません。

感情とは、私たちが日々、否応なく下している評価なのです。私たちはそれから逃れることはできません。生きることがすなわち評価なのであり、その感じを感情と呼んでいるわけです。

ですから、しあわせという感情がいかに尊く、私たちの命を安全に導くための装置であるかに思いを至らせるのです。

その意味でいえば、「苦悩」とはまさに、私たちを正しい道に導くためのシグナルだと理解することが出来ます。苦痛が身体の異常を教えてくれる装置だとすれば、苦悩は心の異常を教えてくれる警鐘なのですね。

「苦悩」とは、どこかで私たち自身が、「わるい」という評価を下しているしるしです。苦しみは、どこかで「よい」という評価をしなさいと教えているのです。

それは状況を変えることで「よい」とすることもできるでしょうし、見方を変えることで「よい」という評価に変えることも出来ます。状況を変えるのは努力も気力もいりますが、見方を変えることは瞬間に出来ることです。ビリでゴールしたら、一番長く我慢した人としてたたえられるわけですね。

大切なことは、感情は自分がつくりだしているという事実です。つくりだしている以上、自分の力でコントロールできる可能性があるということなのです。

日々の感情と正しく向き合うということは、いのちをもっとも大切にする生き方だと思うのです。

次回は、いのちと感情について、もう少し深く考えてみたいと思います。


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感情の秘密

2016-02-23 | 5次元宇宙に生きる(心)

  (高山駅前 宮川にかかる鍛冶橋欄干 手長象)

 

 

広辞苑では、「心」は知識・感情・意思の総体だと説明していますが、今回はその中の感情について、見ていきたいと思います。

 

よく理性的という言葉に対して、感情的という言葉を使いますね。

理性的とはは冷静で理知的で信用がおける態度を連想しますね。他方、感情的というのは、情動的で盲動するような負のイメージが付きまといます。しかし私の感情についての見方は違います。

先に観てきた思考地図にも示していますが、理性は論理的に整合性が取れている考え方で、理念思考に属していると思われます。それに対し感情は幅広く、論理では説明できない情動を促します。いうまでもなく感情は非論理思考に属するものであり、思考地図に示す通り、より真実に近い実感なのです。つまり、人としての本質はまさにこの感情にあるのです。全ての思考は感情が支配しています。理性も実は感情が昇華したものなのです。

なぜかといえば、感情は、いのちそのものの姿だからです。感情の根源は、いのちをつないでいく運動の根本原因である身体的「快・不快」にあるのです。

結論から言えば、感情=思考といえるわけですが、私たちが知りたいのは、感情のシステムであり、その構造です。

それを知ることで、私たちは随分上手に、自分の感情と付き合うことが出来ると期待できるのです。

ところで、人間は感情の動物であるとよく聞きますね。私たちは実生活の中で、そのことを十分すぎるくらい実感しますし、何よりロボットとの比較で、その事実を思い知ることになります。

機械にないもの、それが感情です。そしてこれが人間にとって途方もなく尊く、愛すべき特性だということが、この比較だけで理解できますね。

では、その感情の正体はいったい何でしょうか。

まずその手がかりとして、下に表をつくってみました。ざっと目を通して見てください。ちょっと思いつくだけで、感情を連想させる言葉はこんなにあります。語彙力のある人なら、この5~6倍はつくれるでしょうね。実際には言葉の数だけあるというのが私の思いです。

この圧倒的な感情の量にまず驚きます。

なかには単なる名詞も含まれていますが、その名詞の背後に持っている感情を表したと思ってください。

前置きが長くなりましたので、本論は後日にしたいと思います。

まず、この感情の一覧表をごらんになって、出来たらご自分でも新たな感情を捕捉して見てください。そうすれば、この感情の量をより実感出来ると思います。

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思考は人そのもの

2016-02-23 | 5次元宇宙に生きる(心)

 

思考地図の説明をざっと済ませましたが、何の根拠もない思いつきです。

ただ、のしてんてん系宇宙の発想は1977年でした。それから40年近く、自分の心を観察し続けてきた結果ですので、もう少しこの報告を続けていきます。すこしでも参考になれば幸いです。

さて、思考をエネルギーととらえると、自分の中に起こってくる思考は、受動的、能動的にかかわらず、全て自分の中で生み出されたものだということがわかります。

この身体が生まれた時点で、私たちの思考も、その身体を限りにして働き始めるのです。それはやがて身体が崩壊して思考が宇宙に帰るまで続くのではないかと思われます。

この生死のはざまにあって、私たちは人として存在し、様々な体験をします。それは紛れもない事実であり、思考はその人生そのものと言っても過言ではないのです。

何を言いたいのかといえば、つまり、幸不幸もまた、思考そのものだということです。

不幸を不幸と悩む者はいつまでも不幸のままですし、その不幸を他人のせいにしてしまうのは、まさに救いようのない不幸というしかありません。

思考地図を眺めながら思うことは、思考は成長するということです。それは常に気付きによって自然におこります。

たとえば、いのちを営むこの身体は、呼吸によって休むことなく「快・不快」を経験しています。空気を必要としたら「不快」が現れ、「吸」が「快」を体験させてくれます。汚れた空気に「不快」が現れたら、「呼」が「快」となるのです。

その身体的「快・不快」に気付くと、人は自分の中に起こっている様々な感情が見えるようになります。やがて言葉を得ることで、人は精神的「快・不快」に気付きます。

精神的「快・不可」はいつの間にか感情そのものとなって、一秒たりとも自分から離れることはありません。人は思考で満たされ、喜怒哀楽を生きることになるのです。

そして人は、やがてこの喜怒哀楽そのものが、実は、自分自身の思考だということに気付き始めるのです。その気付きは、人に真実を見せてくれるでしょう。思考はこのように流れていくのです。様々な気付きが思考を深めてくれます。

思考が深まれば幸せは確実に増えていきます。なぜなら、不幸は思考によって消し去ることが出来ますし、幸せは思考によって創造することが出来るからです。

誤解があってはいけませんので、あえて言いますと、薬や他人からのマインドコントロールによる幸せは、思考の停止であり、本物とは言えません。必要とする人もいますから、それを否定するものではありませんが、本来思考は個性の中で自由に働くものだと思うのです。

それゆえ、芸術は人生を豊かにしてくれますし、苦悩を至福につなげる術もまた生まれてくるのではないでしょうか。

 

 

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飛騨高山・白川郷

2016-02-22 | 日記

この時期に雪がない

なぜか謝る宿のひと

 

一度は行ってみたいと思っていた飛騨でしたが、雪ならぬ雨でした。

合掌造りの藁ぶき屋根にはほとんど雪がありませんでしたが、雪解けのこの時期も春を感じさせるいいものでした。

雨も柔らかく、苦にはなりません。

それでも驚いたのはこの吊り橋。橋の足場とロープの欄干だけで、この川幅を渡ります。吊り橋と言えば、普通頭の上から太いロープが渡されて、そこにしっかり橋が吊られているイメージなのですが、これではいつ落ちても不思議ではない・・・そんな中傘の行列。それも半分は外国人らしい。

なかから見る初めての経験。ここは三階部分で、なんと床はすのこになっていてビックリ。お蚕さんを育てるための工夫なのかなと思いつつ、こわごわ歩いてみました。

 

白川郷から高山で泊

ここの橋ではこんなものを見つけました。

  

飛騨牛が敗けて、うまかった

 

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身体的思考

2016-02-19 | 5次元宇宙に生きる(心)

(誕生日・・・お祝いする価値を見出した人は最高のしあわせを手にする。)


思考地図の最下層には身体的思考があります。

身体の感覚を思考と呼べるのか、そういう反論に対しては答えようはありませんし、答えるつもりもありません。身体感覚は思考ではないと信じるのもまた、間違いではないのですから。

ただ私は、思考をもっとも人間的な行為だと考えます。ならばそれは、私たち人間存在の一部を切り取ることで理解できるものではないと思うのです。

ともあれ、身体思考は、私たち人間の誕生を担う思考であり、成長して理念思考をつくりだすその根幹を担っている思考なのです。頭脳でいえば最初の脳、脳幹の思考と言えばいいでしょうか。

思考とはエネルギーの波動だととらえれば、思考は、まさに生み出された身体の、その前からすでに始まっていると考えるのもまた、自然なわけですね。

身体的思考の特徴は、意識にのぼらない思考の領域ということです。思考として意識されることはありませんが、確かに実在すると思われる思考と考えていいかもしれません。

この身体的思考という大きなくくりの中に、習慣的思考、身体思考、原感覚思考という区分を設けましが、これはその無意識の意味合いの違いによります。

この中で習慣的思考は理念思考が無意識化した思考です。最初はしっかりと理念によって行動していた事柄も、おなじことを繰り返して習慣化すると、無意識に行動をおこすことがありますよね。日常生活の中で、この習慣的思考は大きな比重を占めていると思われます。頭脳は、一度習得した知識は何度も顧みないですね。興味はすでに新しいものに向かって進んでいきます。先へ進むために行う思考の節約のようなものでしょう。それがある時ふと、思考が働いていることに気付くことがありますね。何かのきっかけで、意識が、働いている思考を照らし出すのです。

さらにその深い闇の中に、身体思考が動いています。これは身体そのものの生命活動が生み出す思考です。宇宙の中に生命として生まれた身体。この身体にはすでに生きようとする思考が存在するのです。

生命は、呼吸に象徴されるように、(吸収⇒生成⇒排出)を繰り返して行く存在ですが、そこにもっとも原始的な身体的「快・不快」が現れます。それは無意識の中で身体が体験する思考であり、まさにこの呼吸のリズムが、その思考を象徴していると思うのです。

自己意識は、宇宙にできた孤島のような存在です。そんなイメージで考えるなら、生命という孤島の海岸に打ち寄せる波もまた、私たちには重要な風景となるでしょう。宇宙意識と自己意識の境界に打ち寄せる波。それはやがて私たちの感覚となってゆくエネルギーに他なりません。原感覚思考と名付けた所以です。

海に向かうと、波のリズムにまみれている自分に気付くときがあります。観測した訳ではありませんが、そのリズムの中にいると、地球上のどこで聴いても同じリズムではないのかと思ってしまいます。私たちは間違いなく、大きな摂理の中で生きているのです。

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覚醒する思考

2016-02-18 | 5次元宇宙に生きる(心)

(もう20年以上使っている)


思考地図

 

今回は地図の上段、「覚醒」の区分に入る思考を観ていきます。

覚醒という言葉を使ったのは、真実に目覚めるという意味を込めたかったからです。

理念思考は、言葉による思考でした。この思考の代表的なものは学術の世界ですね。人は幼年から言葉を覚え始め、はぐくみと教えによって、言葉を習得します。「何}という問いかけが芽生えますと、そこから人は爆発的に知識を広げていきます。

言葉は世代を超えて受け継がれ、知識は時代とともに拡大していくのです。これが理念思考が文明を発達させてきた大きな特徴ですね。ちなみにその他の思考はすべて個人の中で生まれ育ちはしますが、伝承できないということですから、理念思考がいかに人間社会に貢献してきたか計り知れません。

しかし、理念思考による研究にはおのずと言葉の限界があります。真実を知ろうとして進める研究は、時として、真実のほうからやってこなければ、得られないことがあるように思います。言葉を操って真実に至ろうと努力しているさなか、たとえば風呂に入っていて突然その答えがひらめいたというような話をよく聞きますね。

これは、答えを必死で考えていると、ふと緊張が緩んだ瞬間に思考が真実に触れるのではないかと思われます。何の根拠もなく直接真実の方から思考がやってくる。直観がひらめくということです。

理念思考の限界で、なお知りたいという強い思いが、直観を呼び込む。科学はこうして既存の知識から未知の知識を開拓してきたのかもしれません。

このひらめきとは、瞬間に起こる真実の覚醒ではないかと私は思うのです。

瞬間の覚醒が起こるのであれば、宇宙意識そのものへの覚醒も起こりうるという考えは自然にやってきます。つまりそれは、空間を知るということに繋がります。

人(心)は空なり。そう釈迦が理解し、解脱したというのが正しいのなら、その時の釈迦の思考は、まさにこの宇宙意識(空間)への覚醒だったのではないでしょうか。

人間の思考が、自己意識という限られた空間のエネルギーから、宇宙意識にまで広げられるとしたら、そこに現れる思考方法は、五次元しかないのです。

そのような思考があるとすれば、それはもはや完全に論理を超越して、真実そのものとなる思考となるでしょう。没論理思考という区分さえ意味のない宇宙への覚醒なのかもしれません。

 

 

 

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思考の虚構性(言葉)から真実へ

2016-02-17 | 5次元宇宙に生きる(心)

(エンドウの花、10月に種まきしたものが12月には花が咲き始めました。暖冬・・・寒波・・)

 

理念思考、図の中心に位置する思考です。その特徴は言葉による思考です。互いの意思疎通をはかり、考えを伝え、思いを言葉に託して表そうとします。実生活で正確にコミュニケーションがとれるのも言葉であり、言葉での思考は自分の考えをすっきりさせてくれるものです。

何より、科学や思想、文化など、人間社会そのものが言葉で成り立っています。理念思考は、社会をつくる人間の必要不可欠の思考ということが出来ます。

しかし理念思考は、言葉の限界をそのまま引きずっています。誰もが共有する言葉は便利ですが、個人の内にある心は言葉にならないのが常ですね。

自分の思いを言葉にして伝えると、内心ではちょっと違うんだけど・・・という思いがよく起こります。それでも発した言葉は独り歩きしていきます。厳密に考えると、言葉は100%虚構性があると見なければなりません。心の真実は言葉にならないのだと思います。

そこで、人は感情に走ります。論理が破たんしたら感情が動き出すのです。心の真実をそのまま体で表現するわけです。言葉での理解は得られませんが、真実そのものですね。しかし感情的な態度は、コミュニケーションに向きませんね。

そこで人は、言葉の破綻を理性的に受け止めます。それを冷静に表現しようとして二つの思考が生まれます。

ひとつは、言い表せない真実をそのまま、たとえば、「神」と名付けた箱に入れて理解しようとる思考です。この思考はまだ言葉を使う思考であり、閉鎖的ですが、論理性があります。これを宗教的、神秘的思考と呼びます。

もう一つの方法は、完全に言葉を使わないで真実を表現しようという思考です。芸術や、愛情表現など、感性をそのまま使うもので、感性的思考と分類しました。文学や芸能等は、言葉を絵の具のような感覚で使っていると考えれば、同類ですね。

思考はこのように、分類できますが、実際には一つの動きだということですね。この総合的な思考の流れが、私たちの日常をつくりだしているわけです。そこに喜びと苦悩が生み出されるのです。(面白いと思いませんか?)

 

 

 

 

 

 

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思考地図について

2016-02-16 | 5次元宇宙に生きる(心)

この思考地図の出典はありません。つまりこれは私の体験による分類であることを先に申し上げておきます。あえて言えば、芸術的考察ということです。

この図は、のしてんてん系宇宙論{第4部}に掲載したもので、宇宙空間の中で、人間の思考はどのように位置づけられるかを模索したものです。

まず私は、宇宙空間はエネルギーそのものだととらえ、そのエネルギーを宇宙意識ととらえました。この宇宙意識は、図の全体に存在するのですが、人が生まれて、そこに自己意識が現れてくると、昼間の星のように見えなくなってしまうのです。

自己意識というのは、人として一つのかたまりとなった体の内側に閉じ込められた宇宙意識という考え方です。宇宙意識と自己意識の概念は下の図の通りです。

 

そして下図のように、取り込まれたた自己意識は身体の感覚を照らし出して自分の体を認識します。そしてさらに、頭脳が発達すると、自己意識は自分の外に向かって認識を広げていく思考そのものを照らし出すようになるのです。

思考地図では、この思考の始まりを、図の下段で表し、上に向かって成長する思考の形を表して行きました。

図の左側には、宇宙との対応を表した連表をつけています。最初に心が生まれる前の初期宇宙(公空間)があり、これは人としては「無」の状態だったのです。この状態が最下段にあります。

人体が完成し、自己意識が現れると、認識が働き始めます。認識は自己意識の中に自分だけの世界(私空間)をつくります。自己意識には最初無自覚の思考が生まれ、やがて自覚する思考が現われます。

さらにこの自己意識は、覚醒することによって、再び宇宙に帰るのです。(図の最上段)

無明の宇宙意識から生まれた人間は、思考の成長によって、覚醒した宇宙意識となる。これが全体の思考の流れだと考えるのです。

大事なことは、ここに示した思考の形態は(追って説明しますが)それぞれ個別に存在するのではないということです。これらは実のところ不可分の1なるものと言えます。思考は図の下辺から上に向かって成長していきますが、習得した思考はなくなることはありません。すべては一個の人生の中に存在し続けていきます。

そしてもう一つ大事なことは、この思考の大部分は虚構の上に成り立っているということです。これは最も大事な要点で、なるべく詳しく観ていきたいと思っています。なぜならこの思考の虚構性が苦悩を生み出しているからです。苦悩とは虚構であり、虚構ゆえに苦悩だとも言えるのです。

この図ではまた、横軸を意識しています。この図の左から右に向かって思考の持っている虚構性の度合いを表しています。左に向かうほどその虚構性は強くなります。

つまり、思考のもっとも中心と考えられる理念思考などは、ほぼ100%虚構の上に成り立っているのです。

次回からそれぞれの思考世界に眼を向けていきましょう。

己の中に起こっている思考を観る作業は、必ずいつか自己撞着に落ちいるでしょう。しかしそれ自体は恐れる事ではありません。自己撞着に陥るころには、自分の思考に対する思いが、野に咲く一輪の花を観るような心持に成長しているからです。人は必ず、この自己撞着に自然のにおいを感じ取れるのです。

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意思(思考地図)

2016-02-15 | 5次元宇宙に生きる(心)

(天にのぼるか、花のゆりかご)

 

思考。

「人は考える葦である。」パスカルの言葉だそうです。

これはつまり、人から「思考」をとってしまうと、ただの葦になるということなのでしょうか。つまり思考は人間そのものだということですね。

そう考えれば、確かに、私たちが意識し感じているこの世界のすべては、自分の思考の働きだと思えてきます。

己の体があって、社会があって、地球があって、宇宙がある。そのイメージの広がりは私のこの思考そのものですね。そして、自分の内に感じる身体の感覚から感情、思い、妄想。これもすべて私の思考が働いているからだと思えます。

そうだとすると、人間とは何かという問いかけは、思考をみつめることで、分かってくるものがあるかもしれません。

水辺に生えている葦と、人間の違いは思考にある。その思考のほとんどは頭脳によると考えてみれば、頭脳は物質がつくりだす最高の構造物だと考えることも出来るわけですね。

ところで五次元思考では、この構造物(人間)は宇宙空間を取り込んで自分だけの空間をつくっていると考えます。たとえば下の図の赤い領域の空間が人だとしますと、思考はこの赤い空間の中で起きている波動だと考えることが出来るのです。

この波動が、私たちには思考というものに見えるのかもしれませんね。赤い領域を「私空間」と考えれば、思考は、人が生まれて死ぬまでの間に、私空間に閉ざされた領域の波動を体感する宇宙の姿だと考えてもいいのかもしれません。

そこで私は、思考を頭脳だけの働きとは考えずに、この身体全体に起こっている空間(エネルギー)の表れとして考えてみようと思いました。

「思考=エネルギー」と考えるなら、人の歴史は、宇宙空間のエネルギーから私空間のエネルギーに変化し、やがてまた宇宙に返るという構図が見えてきます。この私空間に起こる思考はどのように生まれ、成長していくのか。私の興味はそこにあるのです。

取り合えず、その観点から見た思考地図が以下のものです。

この図の説明は後日にして、まずは五次元による思考世界の全体像をごらんください。

 

 

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空間から心へ

2016-02-14 | 5次元宇宙に生きる(心)

(ラベンダーの放射線・・・・勝手に生えてきて、勝手に株が大きくなって、一年中花が咲いています)


「心」というとなんとなくわかったような気がしますが、実際にはどうもつかみどころのない言葉ですね。それでいて日常会話にもよく使われる大切な言葉に変わりはありません。

広辞苑では次のような意味があげられています

  • 人間の精神作用のもとになるもの
  • 人間の精神の作用そのもの
  • 知識・感情・意思の総体
  • おもわく
  • 気持ち
  • 思いやり、情け

 

私はこのうち、3番目の意味に注目します。

つまり、心とは知識と感情と意思(自分の思い)の総合的な現われということです。

真実を知りたいという思いは意思であり。その思いに向かって進むところに知識が集まり、その良し悪しの判断に感情が現れる。その一連の関係が心をつくっていると考えられます。それはつまり、人間そのもののことではないでしょうか。

私はこう思います。

人間存在を物として観たら、肉体があり、空間としてみたら、そこに心があるのだと。

 

心は、一見つかみどころのないもののように思えますが、実はしっかりこの宇宙とつながっているのではないかと思えるところがあるのです。それは言うまでもなく、五次元宇宙で見えてくる空間なのです。

「心は空なり」そんな意味のことをお釈迦様は言ったそうです。その「心」と「空」はどのようにつながっているのでしょうか。釈迦の到達した心と空を、私たちにも観ることはできないのでしょうか。この身を持って体験することは不可能なことなのでしょうか。

私は自分の中にあるかもしれない真実を、絵を描くことで求めてきましたが、深く己を掘り下げていけばいくほど、その先には「空」があるように思えるようになりました。

心の旅は、かつて1500年も前に、釈迦が観た世界に行き着くそんな気がしてなりません。

そう思う最も大きな理由は、私たちが認識することのできる「空間」が、釈迦のいう「空」とよく似ているのではないかと思うからです。

おそらく釈迦は、人間とは何かという思索の中で、この空間の存在に気付いたのではないでしょうか。釈迦は悟りを得ようと苦行を繰り返したと言います。しかし結局それは失敗します。その破綻の末に、突然釈迦は空という悟りを得ました。

これは何を意味しているでしょう。

苦行とは体を痛めつけることで悟りを得ようとする方法でした。煩悩を生み出す肉体から解放される神聖な方法と思われていたに違いありません。

しかしそれは誤りでした。肉体からの執着をなくそうと行う苦行は、逆に肉体への執着を強めるばかりだったのです。肉体から離れようとすればするほど、そのことで心は肉体を意識するようになる。捨てようという思いは、肉体を意識しなければ成り立たないからです。つまり苦行は、常に「有」あるいは肉体の意識を土台にしている。と、におそらく釈迦は気付いたのでしょう。

意識を体から空間に切り替える!!身体にとらわれず、この体を生かしている空間を観る。釈迦の悟りはそこにあったのではないかと思います。苦行からの挫折は、苦しくてやめたのではなく、空間の意味を知ったからこそ、無価値になった苦行をやめたのだと考えられます。

そこから釈迦は空間を観ることを始めた。そう思う事が実に自然のように私には思えるのです。

もしそうなら、私たちが認識する五次元の空間は、釈迦が苦行の末に観た風景と同じだった可能性は高いでしょう。

そうだとすれば、私たちは、薄暗い閉鎖空間のように見える宗教の門をくぐらなくても、自由な己の思いだけでお釈迦様を追体験できるかもしれないのです。

そんな思いを持ちながら、心とは何かという問題に入っていくことにしましょう。

心とは「意思」と「知識」と「感情」の総体である(広辞苑)という言葉に従って、次回からまず意思について考えてみたいと思います。

 

今回から、カテゴリーを新しく「五次元宇宙に生きる(心)」に変えて発信します。

うまく説明できるかわかりませんが、お付き合いください。

 

 

 

 

 

 

 

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空間考

2016-02-13 | 5次元宇宙に生きる(空間)

(洗いさらしたハンカチの束、だれが使ってるのだろう・・・。手拭きはズボンの裾派)

 

重力波の観測成功と大きな見出し。

アインシュタインの最後の宿題が100年かかって完成したというドラマが人類に希望を与えてくれる。

「重力波を初観測」米中心の国際研究チーム 発表  NHKのウエブニュース。

 頭の中だけの研究が実際の宇宙観察で実証された。100年かかっても、頭を技術が追いつく。そのすごさだけはわかる。 (1016.12)

 

これは12日付読売新聞朝刊に掲載されたものです。

何がすごいのかを五次元思考からみてみましょう。

今まで世界を認識しようとする前に立ちはだかっていたのが観測問題でした。当ブログでもこの問題を取り上げましたが、簡単に言うとこういうことになります。

世界を認識するためには観測が必要です。これまで観測は、物を見ることで成り立ってきましたが、最小の世界の観測は、物を見る事では不可能とわかったのです。

ところが今回の観測は、空間を観ることで、成功に導いたのです。

アインシュタインの予言した重力波は、存在しても非常に小さい変化で観測不能だったのです。今回観測した重力波は、太陽の何十倍もの質量をもつブラックホールが合体(衝突?)するときに生じたものということですが、極大の物が衝突しても、現れる重力波は、原子一個分ほどの波だということです。

この観測不能の極小波をどんな方法で観測したのか。ここがすごいところです。空間が波打つということは、伸び縮みすることですから、その長さを測ることで観測に成功したというのです。

その施設は4km真空パイプの中で光を何往復も走らせることで、走った距離の差を観る。そんな方法でやっと見える小さな差を確認することで、100年も前にアインシュタインが提唱した重力波を観ることが出来たのです。

事実を理論で観るだけではなく、現実にこの目で観る。一世紀をかけ、一国家の予算を丸ごと使うくらいの金をかけ、それ以外に使いようのない建造物をつくり・・・・たった一つの真実を観るということだけに、膨大な人知と金と時間をかける。

人間というものは、いかに真実を追い求めて生きる動物なのかとあらためて思いますね。人類の生きる目的は、己が何かという真実を知ることだと、私たちの頭にはそんなことが刷り込まれているのかもしれません。

とにかくこれで、空間を観るということの意味が、一気に、多くの人々に理解されるのではないでしょうか。

意識を物から空間に向けると、私たちの認識する世界は格段に大きなものになります。五次元思考はここから始まると言ってもいいような気がします。

何より興味深いのは、今回の空間観察は、新聞によりますと、13億年前のブラックホール衝突で生まれたものだと言います。

私たちが物として生まれて死ぬ時間の100万倍の時間を空間は振動し続けているのです。そして何より、この振動は私たちの素粒子を浮かべている空間をも動かしています。

何が真実かと問われれば、私たちは空間に目を向けるしかないのだと、答えたいのです。

 

 

 

 

 

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