のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

仲間たち

2016-03-31 | 日記

(牛窓の小さな漁港・・・夕食前の散歩で)

 

瀬戸内のエーゲ海、牛窓に行ってきました。

若かりし頃、新任の職場で、一緒になった仲間たち。その中のひとりが牛窓に別荘を持った。で、皆で押しかけた次第。

大坂から車で4時間余り、きれいな風景を期待していたが、あいにくの春霞、向かいに大きく小豆島が見えるのだが、ほとんど薄い島影が、もやの中に浮かぶ。

しかし、別荘は海を見下ろす山の尾根に立っていて、その中は、ピアノ、ドラム、マリンバ、三線、馬頭琴・・・ここで毎夜楽しんでいるという、うらやましい生活。

朝日を浴びた室内も見事。地元の人たちとの交流もこの場所で、微笑ましくもいい関係が、近くの農家から届く野菜のおすそ分けを見るだけでうかがえる。

さて、一人4000円で、この料理。

ワイワイ皆で、食事の準備から盛り上がる。豪華な夕食で、20代の時間がそのままスリップして、こんな記念写真も。(私以外は霞がかかっていますが、その下にはは破顔の笑顔)

さてそれからが仲間たちコンサートの始まり。

わずか5年でバイオリンひきになった別荘のオーナー、ベートーベンのソナタをピアノ伴奏で丸ごと演奏、シャンソンの歌姫、ドラムとバイオリンの競演。ピアノはこの夜の案内人で、全編見事のエスコート。

三線を取り出すもの、シャカシャカ楽器を手にして踊りだすもの、私もこの通り、

はじめて触る馬頭琴(モンゴルで観た経験で)をひきだした。バイオリンとジャズもどきの競演は至福のひと時でした。

明けて、朝の散歩で浜辺に降りる。その道すがら、鶯の合唱が山全体に響きわたる。私も参加しながら歩くと、浜で朝日。

別荘の亭主が、前日に観た夜のムーンロードが素晴らしかったと吹聴するので、朝日ではどうかと、砂浜にすわって待っていたら、でました。サニーロードが私のもとまで伸びてきた。

亭主曰く、ここのムーンロードを、音楽が聞こえるような絵にしたら、別荘に飾りたい。40年の歳月を経ても、変わらない挑戦を仕掛けてくる。受けないわけにはいかないではないですか。

それが仲間の意地。と、朝日に手を合わせました。

おいしいいれたてのコーヒーを頂き、

この朝食も、当然込みのおもてなしに、感謝して、食事前の創作お祈りで全員合掌。

 

春霞の中、牛窓の絶景、ハーブ園からの眺めにも満足。

前島が見え、その奥に二十四の瞳の小豆島を想像し、咲き始めた桜の近景、オリーブの木立。

最近はやりだそうで、ハートのオリーブの葉を見つけたらしあわせが来るとか。話を聞くや、皆が色めき立ってオリーブの木にとりつく。

そして見つけました。

見事なハート、オリーブ園でラミネートしてくれました。

最近、死語になったか、あまり耳にしない「仲間たち」にたくさんのしあわせが来ますように。

 

 

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智慧(知識)のかたち(14)

2016-03-26 | 5次元宇宙に生きる(心)

(手入れしない庭なので、花が勝手に咲いています・・・)

 

表現と受容、これは人間のもっとも身近にある特性です。社会をつくり集団生活をする人間の特殊な能力といえばいいでしょうか。

集団生活をする動物や昆虫はいますが、人間は本能だけで動くのではありませんね。今まで見て来たように、人間の思考は宇宙の摂理を離れて、自ら生きようと働きます。それは言ってみれば、本能のように自動的に正解を与えられた生き方ではないわけです。もっと言えば、私たちは、自らの思考に対して、正解を知らないのです。

一方で人は上図のように大きな思考領域を持つわけですから、正しい思考なるものを与えられていない私たち人間にとって、これは大きな冒険と言わざるを得ませんね。

そんな人間にとって、表現と受容は必然的に身につけられた能力と言えるのです。

恋人を喜ばせたい。誰でも思うことです。

で、恋人の好きなものをプレゼントする。いうまでもなくそれは「私」が示す相手への思いの表現ですね。

ところが、それが正しかったのかどうかは「私」にはわからないのです。それを知るためには相手の表現を見るしかありません。

一方恋人は、「私」のプレゼントを受けて、「私」の心を受容します。うれしいのか、迷惑なのか、辛いのか。その受容が恋人の表現となります。

そこで「私」は、恋人の表現を受容してその心を知ることになります。つまり、「私」の思いが恋人を喜ばせたのかどうかの答えは当然のことながら恋人、つまり他者の中にあるということになるわけですね。

この関係は、何も恋人に限った話ではありません。私たち人間は、知識を教えと育みを通して他人から与えられます。人間は他人と「私」の輪の中で成長するしかないわけですが、その時必然的に芽生えてくる意識が「いい人」なのですね。

「いい人」になりたい。という欲望を、意識的であれ無意識であれ、私たちは心の底に宿しています。

するとどうです? この「いい人」は、先の恋人への思いと全く同じ構図になっていることに気付きませんか。

そうすると私たちは「いい人」を表現して生きている限り、不断にその答えを求めなくてはならなくなる。そしてその答えは他者にあるわけですから、私たちは常に他人を受容して自分を見るという生き方をしているのです。

私たちの私空間に現れる他者とは、自分自身に対する反省に他ならないのです。

もちろん相手が子供でしたら、この他者に対して反省はまず現れませんね。子供は「私」にとって育みの対象だからです。

こっそり、つまみ食いをしている「私」の心の中には、母という他者が現れています。その時の心の母は、私の反省そのものです。見つからないうちにことを成し遂げなければ、ケーキをゆっくり味わうゆとりもありませんね。そこにドアのノブが動いた。「私」の悪事を母がひっさげてやってくる。そこに現れたのが弟だったら、一瞬で反省は消えますね。逆に「私」は弟を共犯者にしたてるわけです。

人間の輪が見せてくれる心の悲喜劇がここにあります。

私たちは常に人の中にあって、表現と受容を繰り返しながら生きています。その反映が他者に他ならないのです。

他者は受容だといいました。

いい他者と出会うためには、私たちに出来ることは、この受容をいかに大きく、深くするかということのなのかもしれません。

 

 

 

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智慧(知識)のかたち(13)

2016-03-25 | 5次元宇宙に生きる(心)

(隣接の土地から侵入してきたつる草。今や我が家にも根付きました)

 

 

私空間とは、「私」の認識する世界でした。眠ると闇が訪れ、目覚めると世界が現れる。この当たり前の日常は私空間そのものだといいましたね。

私たちの知る世界は、すべて、私たち自身の認識を通して見た世界なのです。

ということは、この私空間に現れる他者もまた例外ではありません。つまり日常に見ている他者は私たち自身の認識に他なりませんね。この他者について、私たちはどのような理解を示すことが出来るでしょうか。また話がややこしくなりそうですが、懲りずにお付き合いください。1~2回では済まないかもしれませんが・・・・頑張って書いてみますね。

他者というのは、広い意味でいうと、私空間に現れる「私」以外のすべてのものを指します。そして狭い意味では、「私」以外の人のことです。

今回考えたいのは後者の、狭い意味での他者についてです。家族、友人、群衆、すべて他者として私たちは認識しますが、それはどんな意味を持つのでしょうか。

 いうまでもなく私たちは他人の内側を知ることはできません。私たちが知ることの出来るのは、他人を「他者」として認識した結果でしかありません。この、他人を認識するということはどういう意味を持つのか、それを考えてみたいのです。

 

その前に「私」について考えなければなりません。

人は物心ついたころから自我に目覚め、「私」に気付きます。そこから盛んに世界を認識して知識を蓄え一人前の人間になります。そこに私空間が生まれます。

「私」は私空間の中心にいて、世界を見ているわけですが、それは外側だけで、悲しいことに私たちはけっしてその中身を知ることはできないのです。他人の心の中を見ることはできませんし、私の心を断ち割って誰かに見てもらうこともできませんね。

  人は、他人(私以外の人)から教えと育みを受けて「私」を成長させます。ことばを学習し、知識を得ながら私空間を広げていくのです。しかし「私」は自分を成長させてくれた恩師でさえその内側を見ることはできません。けっして他人の中身を知ることが出来ず、表面だけの他者として理解するしかないのです。

そこで人は、互いを認め合うために、常に「表現」と「受容」を繰り返さなくてはならないのです。

表現とはことばによる意識的な表現にとどまりません。呼吸し食べて眠る。生きて存在することそのものが表現だと考えるなら、そのすべてを受け取るのが受容ということになります。

そして私の考えでは、この「受容」こそ他者だといいたいのです。

私たちの心の旅も終盤に差し掛かって、ようやく一番美しい風景が見えてきました。それがこの受容であり、そこに現れる他者なのです。そこには人が人としてその存在を謳歌するすべてのものが集約されて私たちのもとに現れてきます。人間の心そのものの姿がそこにあるのです。

少しずつその光景を味わっていただければ幸いです。

 

さて、

子育て中のお母さんは、赤ちゃんのどんな動作も見落としません。鳴き声の色を聞き分け、動作でオムツの状態を知ります。ぐったりしたら体調を気にし、健やかな寝顔にうっとりします。

お母さんは、赤ちゃんの生きる姿を丸ごと受容してそこに意味を見つけようとするのです。この場合、赤ちゃんの側は、生きる事そのものが表現になっているわけですね。

この関係は長じても変わりません。人はほとんど無意識の領域で、表現と受容を繰り返して日常をおくっているのです。

この表現と受容は、知識とともに成長します。子供の表現と受容はつたないものですが、大人になるにつれて、より複雑な表現が可能になり、それは同時に複雑な心を受容する能力を身に着けることになりますね。

ところで、受容は、発達の度合いによって、大きな変化をもたらします。赤ちゃんを育てる母親は、幼児をくまなく理解しようとする深い受容を持っており、子供の些細な表現でも見落としません。

しかし、私の経験では、男は赤ちゃんが泣いていても、せいぜいお腹がすいているのか、眠いのかぐらいしか分かりませんでした。その時の私の受容は、親として未熟だったというわけですね。

受容は、その人の人間性そのものであり、他者はその人間性に合わせて現れてきます。

ピエロを見て、子供はただ面白い人という他者を見ているだけですが、大人は、ピエロの顔の下にある人生までも受容して、そこに深い一人の他者を見るのです。

 つまり、同じ他人を見ていても、その時、その他人を見ている者の数だけ他者が存在することになるのです。なぜならそれは人間のレベルによって受容が様々に異なるからにほかなりません。

「私」と「他者」、この関係の中で、他者は私たちに何を指し示してくれるのでしょうか。

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第3回のしてんてん絵画奉賛会

2016-03-24 | 展覧会

(光を生み出す・・・・救いのことば)

 

浄光寺の御住職から、今年度の個展(奉賛会)が許されました。

今回で3回目となります。

(第一回 「浄土」奉賛会2014年5月)

人間の本質を探る、組作品「浄土」を8年がかりで制作した作品を展示しました。

M30号12枚組で、自由に組み合わせ出来る作品です。

(第二回 のしてんてん絵画奉賛会2015年5月)

心の救いをテーマにして描いた作品の展示です。光に導かれる風景。

 

そして今回、第3回のしてんてん絵画奉賛会、5月の法要時に同時開催させていただきます。

今回のテーマは、救いの光は己の中にあるという思いを、絵にしたいと願っております。

そんなことも御住職とお話しさせていただきました。描かせていただいてありがとうございます。

 

のしてんてん絵画、ご要望があれば、どこでも出張展示いたします。ご縁がありましたら幸いです。

 

 

 

 

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智慧(知識)のかたち(12)

2016-03-23 | 5次元宇宙に生きる(心)

(追われても堂々として歩いている。。。ソンナスガタヲワタシハスキダ)

 

 

のしてんてん絵画は、布のキャンバスの上に鉛筆(シャーペン)一本で描きます。黒い背景は何度もひいた線の重なりです。ですから基本白黒です。

仕上げには鉛筆の粉を定着させるために、黄土色で着色したニスを吹き付けます。

今回のように、てんとう虫などを色つきで描くことは例外です。ただ、てんとう虫だけは私の一番好きな虫で、去年思うことがあって、名刺大のキャンバスに、てんとう虫を主人公にした小品を100枚描きました。その流れで描いたクローバーとてんとう虫の作品です。

ところで、この絵に関する質問でした。

白黒であるはずのクローバーの葉っぱが緑に見えるのはなぜかいう疑問でしたが、その秘密ですね。

秘密は、いくつかの要因が重なって、クローバーの葉の色を感じさせてくれるのですが、まずキーワードを上げてみましょう。

 

①無彩色(白黒) ②)補色 ③「ことば」の力=虚構性  ④着色ニス ⑤クローバー

①絵は鉛筆で描いたものですので、当然色はありません。白黒の世界。これを無彩色と言います。時々テレビで白黒の映像を流しているのを見ますが、面白い体験をします。色のないはずの映像に色を感じてしまうことがあるのです。

無彩色に出合うと、人は自分の心をそこに反映しようと働きます。無意識にこの色は何色という問いかけをしているわけですね。そこでクローバーの形を認識しますと、頭脳が勝手に色も一緒に思い出してしまうのです。目は無彩色を見ているのに、頭は緑を思い浮かべているのです。面白いですね。

②仕掛けその2は、補色です。

無彩色の絵に、赤いてんとうむしを配置しました。この赤は、実際に緑を見せる働きをするのです。これを「補色」というのですが、図の色の円で、それぞれの真向かいの色(赤の場合は青緑)が補色関係にあるというわけです。赤を見続けていると、心がバランスをとろうとして反対の色を創ろうとします。夕陽を見て目をそらせると、夕陽の残像が緑色に見える。そんな経験をしたことはありまあせんか。それと同じ効果があるわけなのですね。

ちなみに赤と緑の絵の具を混ぜ合わせると灰色になりのですよ。面白いでしょう。

③「四葉のクローバー」、このことばの持っている幸せのイメージはとても大きなものです。日本でも西洋でも、古くから培ってきた幸せのイメージは大きいですね。よい意味の言葉の虚構性が働きます。クローバーを思い描けばそれだけで、心の中がしあわせに向かうわけです。そのしあわせは緑色とつながっていきます。クローバーの色。

 コラボの相手であるこの絵を観て、私は瞬間にクローバーを連想しました。明るい青と鮮やかな黄色、そこから生まれてくるみどり、そして一点の赤、まわりの色を映す白い虹と花のリズム、そんなイメージの中で、「しあわせの中に」が生まれたのです。

無彩色のクローバーに緑色を感じるのは、総合的にはこのクローバーの持っている言葉の力なのです。白魔法といえばいいでしょうか。

④最後の仕掛けは、着色ニスの仕上げです。ごく薄い黄土色が、心を暖かい方向に向かわせてくれます。無彩色の絵に、ほのかな温かさを感じさせることで、クローバーの言葉の意味を強調するのです。

つまり、こういうことです。クローバーに見えるみどりは、絵の中にあるのではなく、その絵を観る人の(あなたの)心の中にあるものなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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智慧(知識)のかたち(11)

2016-03-22 | 5次元宇宙に生きる(心)

(庭に咲いた小さな花、株ごと手のひらに乗るサイズ。スミレより上に向いている分好きかも)

 

「虚構と真実がよくわからない」そんな声を頂きましたので、もう少しわかりやすく書いてみます。

真実というのはありのままの世界のことで、これを公空間と言いました。たとえば「私」を公空間の世界から見ると、こんなふうになります。

「私」と「地球」は切り離すことが出来ませんね。つまりそれは一体だということです。地球から切り離されたら、私たちは生きる根拠を失います。「私」が宇宙空間に飛び出しても同じ事です。宇宙の果てに行っても、「私」と地球の関係はなくなりませんね。無限に広がっていく宇宙と「私」はいつだって何らかの関係を持っているわけですし、逆に「私」の身体の極小の世界では、原子の宇宙が互いに関係を持って、「私」を創っています。原子同士がてんでバラバラに動いていたら、私たちの身体は永遠にこの世に生まれることはないのです。

これは私たちが、この旅の最初に見てきたスケールの世界、5次元宇宙の姿そのものです。極大の世界から、極小の世界まで、スケールの世界を観察していけば、どこにも区切ることのできない一つの宇宙空間を見ることが出来ました。私たちの真実は、「私」という存在は、この広大な宇宙そのものだということなのです。けっして鏡に映るその姿だけで完結している訳ではありませんね。

つまり、「私」と「野に咲く花」は別々のものではないということです。「花」も「私」も1なる存在の一部分なのです。この、五次元宇宙に存在する1なる存在を真実と呼ぶのです。

しかし、これを認識しろと言われても、それは無理な話ですよね。「私」も「花」も、それを取り巻く世界のすべてがひとりの主人公だという話は、相手役も脇役もない物語と同じですね。そんな物語は、ただ「あります」としか書けないのですから。

そこで人間は、まず「私」と「そうでないもの」という区分を創り、ことばを発明して、世界を細かく切り取り始めたのです。知識は、そのことばに比例して増えてきました。

人間の認識は、このように、(1なる存在=真実)から一部を切り取って理解するということで成り立っている訳です。

私が虚構と呼ぶのは、まさにこのことです。そこには悪いイメージはありません。ことばの虚構は、この世に人間を誕生させた立役者のですから。

しかし副作用が、この虚構から生まれるのも事実です。孤独感、不安、恐れ・・・・。

私たちにとって負の遺産とも思えるこれらの感情は、虚構から生み出される副作用と言えるものです。それは避けがたいものですが、この事実に光をあてれば、少なくとも闇の中の苦悩を救うことが出来るのでなないかと思うのです。

虚構は、「ことば」の属性です。虚構性があるからこそ、私たち人間はこの宇宙に文化を創り、真実の世界を闇の中から光の中に引きだすことが出来るのです。

人間は「ことば」によって宇宙の摂理からひとり立ちをしたと、どこかで書きましたが、まさにこのことを意味しているのです。

 

ところで、興味深いメールを頂きました。

これは以前、コラボ「心と心」と題して、私が描いた鉛筆による絵画ですが、

「四葉のクローバーは白黒のはずなのに、どうしても緑に見えてしまう。何か仕掛けがあるのですか・・・」という質問でした。

確かに、そこにはある秘密があるのです。

虚構のよき側面として考える機会を与えていただいた思いがいたします。

次回その秘密にふれて見たいと思います。

 

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智慧(知識)のかたち(10)

2016-03-20 | 5次元宇宙に生きる(心)

(セメントで作ったデッサンの作品・・・20年以上庭で雨ざらし。風格ある?)

 

 

今回は私空間(しくうかん)と公空間(こうくうかん)という考え方を紹介します。

これは、知識=ことば というとらえ方かたから生まれた、心の世界の2大区分と考えて頂ければいいと思います。

何度も登場している、思考地図ですが、ここに使っていることばです。

図の一番左側の区分を見ますと下から(無のままの公空間)⇒(私空間)⇒(覚醒した公空間)と記載していますが、「ことばの虚構性」に触れると、どうしても避けて通ることはできません。少々理屈っぽくなりますが、お付き合いください。

公空間というのは、私空間に対応して名付けた世界ですが、簡単です。つまり、自然界そのものを意味します。ありのままにある世界を公空間と呼ぶのです。

対して私空間というのは「私」が認識する世界であり、虚構の世界ということになります。

 

この宇宙に人が誕生する前、そにあるのは公空間だけでした。誰にも知られず、ただ闇の中にあったといえばいいでしょうか。それはきっと、無のまま存在し続けていたのでしょう。

人間が生まれると、人は世界を認識しはじめます。ことばを生み出し、世界に名前を付け始めました。山があり里があり、海がある。私がありあなたがあり、社会がある。やがて人間は、この認識した世界の中で生き始めたのです。これを私空間と呼ぶのです。私たちが知るこの世界はどこまで行っても私空間であり、虚構の世界というしかありません。

虚構の中にいる人間は真実を渇望します。科学、哲学、宗教、芸術、様々な分野で真実を追い求めることになります。その目指すところは、公空間への覚醒だということになるわけですね。

無明の空間が、覚醒するという図式がそこに見えてきます。

人間はただ生きているのではない。つまりこの虚構の世界から、意識を持ちながら再び公空間に入っていこうとする過渡期にいると考えられるわけなのです。

私空間は認識の世界ですが、そこになぜ虚構が現われるのでしょうか。

その理由は認識の仕組みそのものにあります。

認識とは区分することで成り立っています。つまり、世界を(認識するものとその背景)に区分しなければ成り立たないのです。闇夜にカラスを認識できないのは、カラスと背景を区分できないからですね。

野に咲く花を認識します。

その時私たちはその他の存在を背景に押しやっているのです。

花には、茎があって根がある。その根は土の中にあり、土は地球と一体です。その地球は宇宙空間に浮かんでいて、太陽のエネルギーを頂いている。この全体を切り離しては存在しえないものですね。花とはなにかと問われれば、宇宙そのものと答えるしかないわけで、これが公空間というものなのです。

花を認識すると、私たちはその瞬間、この公空間から花だけを切り離しているのです。花を得ようとして切り取れば、枯れてしまうように、認識は虚構となってしまうのです。

無論、この虚構が悪いというわけではありません。それが人間の持つ事実だということです。

良い面も、悪い面も、この事実から生まれてくるのです。

つまり、この事実を知れば、悪い面に遭遇しても、それは虚構だと分かります。たとえ孤独にさいなまれたとしても、不幸と思うことがあっても、それは虚構なのです。

認識の区分を取り払うだけで、真実と出会うことが出来るのです。花に土と水と太陽を与えるように、疲れた自分に自然を返してやればいいのです。

疲れたら休めばいい。

私空間の秘密を知れば、心を癒すことが出来ます。いっとき私空間から離れることが可能になるからです。

その癒しの空間こそ、5次元空間なのだと思うのです。

心の中にそのイメージを持つと、時間の流れが止まります。心の深いところまで意識を伸ばし、今度は逆に心を無限大に広げていく。すると至福の体験が少しずつ増えていくでしょう。そこから自分を救う「ことば」が自然に生まれてきます。

私空間を知るということは、己を知るということであり、それは知識が智慧となることだと思えるのです。

 

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智慧(知識)のかたち(9)

2016-03-19 | 5次元宇宙に生きる(心)

(流木で作った看板、浜に打ち上げられた流木を拾ってつくりました)

 

私が子供の頃、母がよく「むねやけ」という言葉を使うのに気付きました。「むねやけ」と言って胸をとんとん叩きながら、苦しそうな表情をしていましたので、あまりよくないことばなのだと想像はつきましたが、どうしても理解できませんでした。「ゆうやけ」のようなきれいなものでないのなら、胸が本当に焼けるのだろうか。

その後長じて、食事の後で、胃酸が食道に上がって焼けるような痛みを覚えたとき、「これだ!」と心の中で叫んだのをはっきり覚えています。

その時私は、自分が大人の仲間入りをしたような気になったものでした。

「ことば」はこのようにして受け継いでいきます。「ことば」は自然界にあるものではありませんし、道端に転がっているものでもありません。どんなに歴史の深い言葉でも、それは私たち人間がつくった道具なのです。つまり「ことば」の習得には教えが必須条件だということなのですね。しかしまた、教えだけでは完成しないというのが、冒頭の体験談なのです。

 目に見える物の名前の伝達は特に問題はありませんが、心の中にあるものは大変です。その伝達は、図のように、二つの変換を通して伝えるしか方法がないからです。

まず伝えるべき自分の心を、表現できる形にして相手に渡します。その表現を受け取った相手は、心の中で、教えられた表現を、自分の理解できる形に変換して心に収めるわけです。

「むねやけ」は、私の内側で体験がなかったために変換さえできずにいたわけです。

さらに厄介なのは、教えを授けた人が、相手にどう伝わったかを知ることが出来ないことです。それを知るためには、相手の行為を見て推し量るしかありません。推し量るには、学校でつきもののテストが最善の策だというわけですね。

そう考えれば、私たちは互いの心をほぼ100%誤解して生きているといってもいいでしょう。

ここで「誤解」という言葉を使ってはいけないのかもしれません。「誤解」という言葉には受け身の心が反映しています。するとそこからマイナス思考に陥る危険が潜んでいるからです。

言い換えましょう。人は自ら生きようとしたとき、つまり能動的に心を定めたとき、もっとも自然な姿になります。その姿勢から言葉を選べば、ことばの持っているこの欠点は、「誤解」から「冒険」に変わります。

私たち人間は、「ことば」を発明してはじめて、無明の心の世界に向って「冒険」の旅を始めたのです。人が理解できないのは、あるいは自分を理解できないのは当然で、まさに私たちは未知の世界を冒険しているからなのです。

理解してもらおうという思いを持てば、苦悩は必然的に現れます。しかし人生が冒険であれば、私たちの前にあるのはすべて未知の世界なのです。苦悩は必ずその質を変えてくれるでしょう。私たちの目的は、理解してもらうことではなく、生きるということなのですから。

私には30年連れ添った人がいますが、まさに未知との遭遇がいまも続いています。(笑)

 

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智慧(知識)のかたち(8)

2016-03-18 | 5次元宇宙に生きる(心)

(庭に咲いた花スズランのようでかわいいです。・・・名前知りません)

 

ことばは、心の光だということが出来ます。私たちに起こっている思考をはっきりとした形で意識させてくれるのは言葉ですね。

私たちは常に、感覚と感情の中で生きています。しかし言葉がなければ、この波のような感覚を意識することが出来ないのです。

こんなドラマを見たことがあります。

幼馴染で、いつも嫌なことばかりしてくる男の子がきらいでたまらなかった女の子がいました。

いつも学校で会いますが、顔をみれば喧嘩ばかりです。

ある日彼は学校に来ませんでした。その日もその次の日も、そして病気で入院したと分かったのです。

男の子の姿を見なくなったときから、女の子の心に黒い雲のようなものが漂い始めました。通学路にあるベンチを見ると、喧嘩した彼の顔が浮かびます。あんな奴。思い出した姿に悪態をつきます。でもその悪口はいつものように返ってきません。

訳もなく苦しくなったり、いやでも男の子のことが出てきたり、あんな奴と言いながら言葉がなぜか震えているように思えたり。

毎日男の子の姿が頭の中から消えません。その姿が浮かぶと、自分の胸が痛むのを知りました。不安のような、悲しみのような、懺悔のような、願いのような、不確かな気分が女の子の心を一杯にしてしまいます。

そんな感情の波にもまれながら、女の子はふと思い出します。

男の子が野に咲く花を摘んできて、女の子の髪にさしてくれた日のことを。女の子はばかにされたと思いました。頭から花をむしりとると、男の子に向かって投げつけたのです。

「ごめん」ということばが、頭の中に浮かびました。するとその瞬間に「私のために」という言葉が意識されたのです。

すると、「心配」ということばが、女の子のもやもやした気分にはっきり意味を与えてくれました。つかみどころのなかった感情に光があたったのです。

「私は心配している」「なぜ?」

ことばが少しずつ、自分の気持ちに気付かせて行きます。

「好き」

女の子は驚きます。今までそんな言葉を思ったことはありませんでした。でも今、その言葉がやってきたのです。そのことばは、今までのあいまいな感情をすべて残らず、愛という意味に変えてくれたのです。

このように、ことばは、私たちの心に、意味を与えてくれます。それがことばの持っている力といえばいいでしょうか。

しかしこれはいいことばかりではありません。

社会不安を、言葉で他民族迫害に意味づける悲劇はどこにでも見られますし、救済という言葉で人殺しを意味づける事件もありました。

何故こんなことが起こるのでしょうか。

それは「ことば」が、人間が独自で創り上げたものだから、というしかないでしょう。

その意味で、「ことば」は人間が、自然の摂理から離れて独り立ちした証しなのです。そのために、自然の摂理から一切の助言もなく、自らの能力だけで世界を理解し、正義を考えださなければならないのです。

成功もあれば失敗もある。しかしいずれにしても、それが正しいかどうかの答は「ことば」を探ってみても本当の意味では見つからないでしょう。

なぜなら「ことば」は、それ自身が、真実を指し示す道具でしかないからです。恣意的であれ無意識であれ、同じ言葉を、別の真実を指す言葉とし利用することは日常に起こっていることですね。

迷いが出れば、そのまま「ことば」に現われます。価値が乱立して、社会は自ら発明した「ことば」によって混乱をきたす恐れを常にはらんでいるわけですね。

その恐ろしさを私たちは知る必要があります。

図を見てください。人間に起こっている思考の中で、わずか数パーセントの理念思考が、「ことば」で私たちを支配する。これがヒトの心の実体なのです。

私たちは「ことば」を学ばなくてはなりません。

それは言葉の数を増やすという意味ではなく、「ことば」の持っている本当の意味を深く理解するということです。真実を見抜く力が必要なのです。

 

 

 

 

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智慧(知識)のかたち(7)

2016-03-17 | 5次元宇宙に生きる(心)

(のしてんてんとてんとうむし)

 

知識について考えるとき、「ことば」は避けて通ることはできません。

「ことば」は知識そのものと言っても過言ではないでしょう。

教えによって受け取る知識はすべて、ことばですし、自分の思いを告げるのもことばですね。

ことばが私たちとどのようなつながりを持っているのかを見るのは、案外面白いものです。

私たちの思考に光を与えてくれるのも、ことばだと思いますし、己を知るのも、ことばによってでしょう。

「ことば」と私たちは、いったいどのようなかかわりを持っているのでしょうか。このことばの世界を観察することで、心の旅はようやく終わりに近づきます。

さて、

ことばとは何か、そう真正面から問われると、なかなか簡単に答えることはできませんね。分かっていそうで、分からない複雑な関係を持っているのがことばなのです。

下の図は、何度も使っています、思考地図です。私たちの思考の全体を表した図です。

この図の中で、ことばがかかわっている思考はどの部分か、分かりますね。

いうまでもなく、思考の中核にある理念思考です。

思考の位置でいえば、私空間(自分の認識世界)に属し、なおかつ自覚された思考であり、虚構性の強い部分に位置します。

私の考えでは、もっとも人間らしい活動領域にある思考に、ことばは大きく関係しているのです。

なかでも、理念思考は、ことばによる思考といってもいいでしょう。

科学はここから生まれ、伝承されて、様々な文化を築いてきました。思考に光をあて、考えをまとめ上げ、伝承していくのは、ほぼことばの力だと考えていいと思います。

一方でことばは、国や地域によって違います。この事実は何を物語っているかといえば、ことばの虚構性です。

ことばは、真実を指し示す記号だということです。それゆえ、ことばは、国のような大きな生活圏の中ではそれぞれ独自の記号が定着して言語となるわけです。

ことばはつくられた、虚構のものであるからこそ、様々な言語がありうるのですね。

また一方で、人間の心は、自ら作った言葉に支配される傾向もあります。

ことばは私たちの心の中で、いったいどこまで根を張っているのでしょうか。

少しずつ、その世界を観ていくことにしましょう。

その先に、私たちの終着点があるのです。

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のしてんてん瞑想絵画展

2016-03-17 | 展覧会

2012年から現在まで、過去3年間の作品を展示いたします。

(作者と語りながら鑑賞していただけます。入場無料)

お気軽にお越しください。個人、グループ、いずれも歓迎いたします。

海岸では関西空港が一望できます。

今回はマイホームギャラリーでの開催です。独り運営ですので、ご迷惑をおかけなしないために完全予約制とさせていただきます。事前にメールで打ち合わせの上お越しください。

 

事前に打ち合わせできれば、最寄駅までの車送迎も可能ですので、お問い合わせください。

(お問い合わせ先)

メール waakitayabu@yahoo.co.jp  北籔 和(Waa)

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智慧(知識)のかたち(6)

2016-03-16 | 5次元宇宙に生きる(心)

(光に向かって登っていきたい・・・)

 

 

前回の智慧(知識)のかたち(5)に対する質問に、お答えしたいと思います。それは、下の図についての質問でした。

よく分からないのは当然です。説明が必要でした。申し訳ありません。

で、今回はこの図の説明をいたします。

この図は、意識から認識が生まれる過程を示したものです。お尋ねは「核意識」・「満たされた意識」・「破られた意識」・「閉じた相関性」・「私空間」についての意味でした。

まず「閉じた相関性」を説明してから、表の下から上に向かって使っている言葉の説明をしたいと思います。

相関性というのは、物とものが互いに引きあったり反発したりして、何らかの関係を持とうとする力を表す言葉として使いました。互いに引きあう力は、下図のように、集まってくるものの数が増えればそれだけ複雑で強くなっていきます。

閉じた相関性というのは、この相関性が安定して一つのものをつくりだしている状態を言います。たとえば花も。その上にとまっている蝶も、それぞれに閉じた一つの相関性を持っているわけですね。

つまり人間の身体は、原子が集まって、ひとつの身体をつくっている。この身体をひとつにつなぎ止めている力を、閉じた相関性と呼んだのです。これは自己意識をより空間的なエネルギーとして意味づけるために使った言葉と理解していただければいいと思います。

ところで、人は生命活動をしています。これを相関性ということで見れば、常に閉じた相関性は揺らいでいることになりますね。たとえば呼吸一つとってみても、酸素を取り込むたびに体内の相関性は変化するのです。

 閉じた相関性が波のように変化するのがイメージできるでしょうか。「快・不快」が波のように動いて行くのです。

下図のように、この「快・不快」の波に「無感」の状態の中心線が現れます。これを「核意識」と呼びました。つまり核意識とは、生れたままの自己意識を指すのです。

この核意識が揺らぎながらいのちをつないでいきますが、そこに現われる「快・不快」の波そのものをさして、「満たされた意識」と呼ぶのです。

つまり満たされた意識とは、生きる身体そのものを指すわけです。

そこに外界からの刺激がやってきます。すると満たされた意識は、その刺激(光や音など)によって新たな揺らぎを引き起こしますね。

その新たな揺らぎを、(刺激によって)「破られた意識」だと呼んだのです。

この「破られた意識」が感覚(五感)の表れとなります。いのちは身体感覚から、やがて「破られた意識」によって、物の形や色、音としての言葉やリズムを認識しはじめるのです。

そして「何」という問いかけが生まれると、一気に認識する世界が広がり、知識を蓄えはじめます。身体的「快・不快」から、精神的「快・不快」が分化して、やがて認識が認識を生む成人へと進化していくのです。

「私空間」という言葉が表の最上段にありますが、これは認識の世界を指します。私たちの認識は、そのまま他人と共有することはできません。私の認識は私にしかわかりませんし、あなたの認識はあなたにしか分かりませんね。その認識空間を「私空間」と呼ぶのです。

つまりこの表は、人の成長を空間の動きとしてとらえたものなのです。

そして人間は、この空間の揺らぎを記憶に取り込んでいるのだと考えるわけなのです。

身体空間の揺らぎは、おおむね、感覚と感情の体験として私たちに現れます。つまり私たち人間はものごとを感情とともに記憶していることになるのです。

 

 

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智慧(知識)のかたち(5)

2016-03-14 | 5次元宇宙に生きる(心)

(髪の毛の拡大図・・・・かもね)

 

知識とは単純に考えると、認識したものごとの記憶だということが出来ます。学習や体験から新しい認識が生れます。そしてその度に知識は増えていくわけですが、それを支えているのが記憶の働きだというわけです。

先日、機械と人間の囲碁対決のニュースに触れましたが、ゲームを観戦していると、双方の記憶の仕組みにまずその違いを見ることが出来ます。

機械の記憶は(0と1)の集積です。そこに感情の生まれる余地はありません。なぜなら、自ら「よい」・「わるい」の評価を持つことはないからです。

アルファー碁は、終盤笑ってしまうような、プロだったらけっして打たない一手をうちました。それはつまり機械にとって妙手も悪手も同一の価値だということです。そこにあるのはただ。0と1の計算だけなのですね。現われてくるのは、計算の結果だけなのです。

したがって機械の記憶というのは、その計算の蓄積だけであり、コンピューターの性能は、その蓄積された計算をいかにさばくかというスピードに左右される訳です。

人工知能の中身は、自動計算ですが、その内側を見れば、真っ暗闇だということがわかりますよね。機械に心があると仮定して、その心の中に入っていくと、何が見えるでしょう。「よい」・「わるい」に基づく喜怒哀楽のない心とは、ただ闇があるだけですね。

機械は己を知らないのです。

人間は違います。人間の記憶の本質は、全く機械にはないものなのです。

それはつまり、ものごとを、感情とともに記憶していくことにあります。

 

この図は、意識から認識が生まれていく過程を図示したものですが、人間の記憶は、まさにこの過程をそのまま経験に変えていく働きをしているわけですね。

私たちは知っています。自分がどのような人生を送ってきたのか。どのような喜怒哀楽を体験してきたか。善悪は何か。愛とは何か。どうしようもない弱さと、比類ない強さを重ね持つ心。

すべてそれは、感情を記憶していく、いのちのシステムから生まれたものなのです。

人間の知識は、常に個人の中で、ゼロから始めるしかないといいましたね。

機械は10を知れば、次は11から始めればいいのに、人間の知能は例外なく最初から同じ道をたどっていかなければならない。それはまさに、このいのちそのものを記憶していくという構造からすれば、必須の重要な課題だったのです。

 

機械の心が闇だとすると、私たち人間の心の光とは何ですか。

それはただ一つ、「気付き」なのですね。

私たちは、だれもが自分に気付いていますね。何を見、何を考え、今何をしているか。この身に感じるすべてにわたって、私たちは知っています。

この知っているすべてを、眼を閉じているときでさえ、私たちは自分という存在を介して気付いているわけですね。まるで光の中で、己を見るように。

まさにこの光が、機械の闇とは相いれない人間の奇跡だと私は思います。

深い深い気付きに入って行けば、やがて人は、自分が何者なのかに気付く。そんなときがくるのかもしれません。

 

 

 

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智慧(知識)のかたち(4)

2016-03-14 | 5次元宇宙に生きる(心)

(山の頂きに伸びる、ある温泉街の夜景)

 

今日は半日、絵も描かずに、時間をつぶしてしまいました。ユウチューブが原因です。

アルファ碁(機械)対プロ棋士の第4局をつい最初から見てしまったのです。人間3連敗のあとの一戦。諦めない人間の強い姿が浮き彫りになりました。やった!!!ね。

前半、解説者も、解説できないくらいの強さを見せた機械が、人間の打った妙手に、悪手を連発して、素人並みの愚考で自滅しました。

イ、セドルは中盤まで押され続けて、持ち時間を使い切り、ハラハラの連続。まさに背水の陣の最後に踏みとどまって妙手を放った。その精神力は素晴らしいものでした。

囲碁をこんなに、最初から最後まで見てしまったのは初めてでしたが、本当に素晴らしいドラマを見せてもらいました。

先に言っておきますが、私は囲碁は全くわかりません。しかし囲碁というのは絵として楽しめるし、ある程度理解できるんですね。それなりに満足しましたよ。それをのしてんてん流に解説しますとこんなふうになります。

前半、押され続けながら進み、盤面に「花」の一文字が現れた頃には、解説者の話では、機械が大差で勝っているという状況でした。そこからセドルが長考して時間を使い切りました。打つ手なく押されて、半ばで時間さえ使い切る。もうダメか。悲壮感が漂う中、彼は花の中央下の赤点に石を打ちこんだのです。それがすべてでした。あとはコンピューターの総崩れ、大逆転です。まさに神の一手というべきでしょうか。

というより、こんなこと書くつもりじゃなかったのですが・・・、言いたかったのは人間の智慧のことで、この対戦はそのテーマを紐解く試金石になるとの思いからでした。

しかし今日はどうも、横道にそれすぎました。本題は次回に持ち越します。

ただ一言だけ付け加えると、機械と人間の最も大きな違いは、この対戦の中にはっきり表れているのです。そしてその違いこそ、人間の心を読み解くおおきなヒントを与えてくれるのです。

まさに人間は素晴らしい、奇跡の生き物なのです。

 

 

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のしてんてん瞑想絵画展

2016-03-13 | 展覧会

(さあ、心を覗いてごらん)

 

瞑想絵画展に、きて頂いた意客様と、昨日、気付いたら5時間もお話をさせてもらいました。

我がパーソナルギャラリーのすぐそばの建築工事現場で働く警備員さんです。

仮にMさんとしますが、そのMさんは、工事が始まった去年の今頃から、ずっと現場の交通警備をされている警備会社の派遣員さんです。

アトリエからよく現場が見えますので、Mさンもよく見かけておりましたが、車がとらないときには、側溝の掃除をしたり、ゴミを回収したりして、何かしら体を動かしている。隣接する団地の住人とも、親しく会話され、子供たちに取り巻かれて話をしているところを何度も目にして、いつも感心させられておりました。

アトリエに向かう途中、Mさんに呼び止められ、展覧会は10時から5時ということだが、仕事があっていけないが、5時からではダメでしょうかと問われましたので、大丈夫ですよと答えました。

するとその日の5時過ぎに、Mさんが来られたのです。

それから5時間、ふたりで夕食とらず、お茶とお菓子だけで、絵を観ながら話し続けた次第。

これを書き始めましたのは、Mさんのお話をみなさんにも伝えたいと思ったからです。

警備員のプロ意識といいましょうか、とにかく私は感動いたしました。

Mさんの仕事ぶりは、冒頭に書きましたが、おかげで周りがきれいになっているのを感謝してお礼を言いましたら、こんな話をされたのです。

私ら警備員は、現場からも地域からも低く観られていますが、それは違うというのです。

単に言われた仕事だけをしていればいいというのではなくて、安全に工事が進むようにするのが私らの仕事。ですから、ゴミ回収や、住民の方とのコミュニケーションは、余計なことをしていると思われがちで、(上司もそういう眼で見るときもあります)が、しかしそうすることで感謝され住民の心が柔らかくなって、工事でかけている迷惑にも快く理解されて動いてくれる。これが警備の一番の目標であり仕事だということでした。つまり、結果交通整理の職務が果たせるし、互いに気持ちよく工事が進められ、安全が保たれるのだそうです。

Mさんはこんなことも言われました。

警備に使う赤旗や警備棒を私は使いません。と、

道具を使うのはわかりやすいのですが、それは一種の命令形なんですね。ですからMさんはいつも手だけで支持をだすのだそうです。目と目を見て、お願いする。それが大事なのだと話されました。

旗は命令形。なる程と、私は感心しました。

余計なことをしているとよく、上から言われるのですが、最後には感謝されます。

それが生きがいですねとMさん。そんな笑顔が素敵でした。Mさんは本職を退職後の第二の人生に選んだ仕事だということでしたが、これがプロ意識なのだと、感心するばかりでした。

展覧会の詳細は のしてんてん瞑想絵画展 でご覧ください。

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