のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

己を受容する(7)

2016-04-29 | 5次元宇宙に生きる(神)

(釣鐘・・・・一つ一つの中に自分を抱え込んでいるように見える)

 

 

宇宙は螺旋のように動いて行く。

月も地球も銀河もみな回転運動をしていますが、それはただ同じ場所で回転しているのではない。宇宙は螺旋を描いて空間を旅しているのだと、ナッシム・ハラメイン の新宇宙論では述べられています。

(この連載の冒頭で取り上げました心の旅からの帰還を参照してください)

 

銀河は大きな螺旋を描きながら宇宙を巡礼しているという、新宇宙論を知って、ビックリしたのは1月のことでした。

地球は太陽の周りを回っていますが、一周して同じところに帰っているのではないということですね、弦巻の上を動くようにように、回転しながら前進しているわけです。見た目にはわからないけれど、宇宙は空間の中を回転しながら巡礼しているということですね。

心もまた同じではないのかと思うのです。

内なる自然を受容して安らかな心を得たと思ったら、知性が働いて虚構の世界が現れます。すると再び心は苦悩の色に染まる。同じ苦悩が何度も何度もやってくるというわけです。

面白いのは、やってくる苦悩を受け止め、逃げないで見つめていると、必ずその苦悩の起こっている原因が見えてくるということです。

苦悩に悲鳴を上げるようなことがあっても、それが永遠に続くわけではありません。嫌がらないで、逃げないで、心の中でその苦悩を抱きしめるのです。そして自分自身に、「でも私は生きている」 そうささやきかけて御覧なさい。そのことばは私たちを真実に気付かせてくれます。

苦悩は虚構がつくりだします。その原因(虚構)に真実を突き付けると、苦悩は嘘のように消えてしまいます。まるで苦悩という種から、真実の双葉が芽を出すようです。苦悩から解放された喜びはたとえようもありませんね。

そして苦悩はその喜びを、私たちに何度も経験させてくれることになるでしょう。というのも、苦悩はそのあとも繰り返しやってくるからです。そのたびに「でも私は生きている」という言葉とともに、真実に気付くことを繰り返して行くしかありません。

もちろん言うまでもないことですが、「でも私は生きている」ということばは、呪文ではありませんし、呪文のように使っても効果はないと言っておきます。大事なことは自分が生きているという命の実感に気付くことなのですね。そのためにきっかけとなる何かが必要なだけです。ことばを使わなくても、体の振動で気付くこともあるわけです。

それにしてもこの、真実の気付きはけっして長続きしません。今日良くても、明日には虚構の中で自分を失ってしまいます。これは人間だけが背負った宿命と言っていいでしょうね。

こうして同じところを堂々巡りしているように見えますが、しかし実は目に見えない螺旋を描いて心は少しづつ成長しているのです。

苦悩から逃げ出して、悲鳴を上げるだけでは、おなじ円をグルグル回るだけで成長しません。

しかしやってくる苦悩を受け入れて理解する(受容)することを始めれば、この堂々巡りが必ず螺旋運動に変わります。

真実に気付くということはプラス思考を選ぶということですね。思考エネルギーの中から良いもの(プラス思考)だけをとりあげようという意識を持てば、良い思考がいつも心に浮かび上がるようになります。そうすると、自然に良い思考が集まって来るようになるのです。すると苦悩の螺旋は、弦巻ばねを引き延ばすように前に伸びて、進歩の速度を速めていくのです。

そうすると、くつろぎの時間も徐々に長くなっていくでしょう。それは真実に近づいている証しですね。苦悩から解放されるたびに、さわやかな心の高揚があなたにやってきます。

時には夕焼けを見て、自然の美しさに心奪われるかもしれません。自然の方から発せられるメッセージを受け取ることが出来るほど、心が成長しているのですね。

しかしそれでも相変わらず苦悩はやってきます。私空間 (知性で見る世界)に生きる限りそれは避けられないのです。

それでもいつか、螺旋を描きながら成長している心を実感する時が来ます。

やってくる苦悩に対して、真実を見ようとする思いを強く持ち続けていると、ある日奇跡が起こります。あれだけ嫌がっていた苦悩を、自然に受け入れている心の変化が現れるのです、

そして、苦悩がやってきたら「ありがとう」という気持ちが起こってくる自分に驚きます。苦悩のおかげで、意識して真実に触れる体験が出来る。そのことが、心の底から分かってくるのですね。

そうなると、知性は苦悩と至福をセットで認識するようになります。

つまり、「苦悩がやってくるとその次には、至福が味わえる真実に出会える」と頭脳が理解するようになるわけですね。

そうなってくると知性も、ありのままの姿に価値を見出すようになるでしょう。何もない、何も持たないありのままの姿こそ、金銀にも代えがたい価値なのだという真実に知性が目覚めたら、あなたは胸が苦しくなるほどの至福を体験します。

しかし最後の最後まで、知性は自分の仕事を忠実にこなそうとするでしょう。真実を理解しようとして虚構をつくりだしてしまうのです。どう頑張っても知性が真実をつくることはできませんね。

私たちの心の旅はここで終わるのでしょうか。真実の門にたどり着いても、門はしまったままなのです。頼りの知性は融通が利きません。あと一歩が踏み出せないのです。

ここでアルキメデスを思い出しませんか。前回の話です。

知性は真実をつくり出しません。しかし、真実をつかもうとする意識が、自分をへとへとにするまで知性を追いこんでいくと、その緊張の極限に知性は疲れ果て、思わず握りしめていた手を緩めてしまいます。すると緩んだ手に、真実の方からそれは自然に流れ込んでくるのです。

知性が真実と出会う瞬間です。アルキメデスはその瞬間を風呂の中で体験したと言います。喜びのあまり服を着るのも忘れて、風呂から飛び出し、街中を家まで走り帰ったと言います。

私たちも同じ体験をしなくてはなりません。知性が思い描く理想の中にある虚構性を見抜き、自然そのものである己の価値を強く意識します。すると眠りの中でもその意識が働くようになります。やがて、この意識は神と同等の価値だということに気付くのです。眠りながら私たちは己の神性を体験します。

「私は神だ」ということばを高慢と、とらえないでください。それは自然という意味です。あるいは真実そのものを人格化しただけの話ですから。

知性は最後まで、その神と戦おうとしますが、アルキメデスのような熱意がやがて知性の握りしめた手を緩めさせる時が来ます。

そのときはじめて、知性は神性を受け入れ、理解します。神の門が開けられ、真実の方から私たちを迎えにやって来るわけですね。

真実が私たちの心の中にやってきます。すると、己を受容することは、神を受容することと同じになります。己の神性を理解する瞬間です。

私たちは、だれ一人例外なく、己の存在が神そのものであることに気付くのです。

すると初めて理解できるでしょう。至福はやってくるのではないということを。至福こそ、今まで私たちを悩ませてきた良い思考と悪い思考のエネルギーが融合した波動だったのです。

私たちの心の旅は、こうして終わることになります。

しばらく、補足の話は続けますが、終着点に到着です。長いあいだお付き合いありがとうございました。

 

真実を得る喜びが、あなたの心にも必ず訪れるますように、願っております。

 

2016年4月29日

のしてんてん

 

 

  (初めて読まれる方へ: この物語は、愚書のしてんてん系宇宙論を 解説したものです。この解説は2016年1月6日付け記事から始めていますので、カテゴリー(五次元宇宙に生きる(空間))の同日付け記事から読んでいただくことをお勧めします。その後(五次元宇宙に生きる(心))を経て五次元宇宙に生きる(神)に至ります。なお、本は有償でもお譲りしますが、「のしてんてん系宇宙論」 のページにあります本の画像をクリックしていただくと、自力でプリントできますので、無料でご利用いただけます。)

 

 

 

 

 

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テーマー展終了しました

2016-04-28 | 展覧会

(自作の前で)

 

自分のテーマで持ち寄った展覧会でした。

こんな雰囲気で、オープニング。

五次元に理解を示していただく作家さんにも出合いました。

最後は立ち飲み屋で散会。

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己を受容する(6)

2016-04-27 | 5次元宇宙に生きる(神)

(今年も咲きました。近所の生垣ですが、毎年楽しみにしている蔓バラ。)

 

 

人間は思考する生き物ですね。しかしその思考をみつめていると、それはやって来ているのであって、けっして自分が意識して思考を始めるというのではないのがわかります。

私たちが自分の思考を操っているように見えるのは、やってくる思考を選別する意志が働いているからだと思えます。私たちは自分の都合のいい思考を選び取り、その思考に意識を向ける傾向があります。思考エネルギーは、意識を向けられた瞬間から自分のものとなり、そこから選別して初めて、自分の意志のもとに思考が進んでいくのです。

思考は、良いものも悪いものも、波のようにやってきます。その思考の波を、私たちは自分の良心で選別しているわけです。悪い思考には意識を遠ざけますね。すると自然にその思考は消えていきます。逆に良いと思われる思考にはそれを選び取って意識を注ぎます。そこに意志が生まれるわけですね。

どんな善人にも悪い思考はやってきます(たぶん)。善人と呼ばれるのは、やってくる悪い思考を選ばないで、常に良い思考に意識を注いでいるからではないでしょうか。

思考の波は、その人が選択して意識を向けると、当然強くなります。意識を向けた思考は自分の中で大きくなるばかりではなく、同じような思考が押し寄せるようになり、悪い思考は徐々に消えていくことになるでしょう。

それは逆もしかりで、悪いことを考えるひとには、悪い考えが次々と押し寄せてくるに違いありません。

このように、思考エネルギーは私たちが意識を向けることで、初めて自分の思考となって働き始める訳ですね。

面白い話があります。アルキメデスと風呂の話を知っていますか。

金の王冠を命じられた職人が、ごまかして銀を混ぜて作った王冠を王様に渡した。

アルキメデスは、王様にその虚実を明らかにせよと命じられて悩みます。どうしたらわかるのか、夜昼考え続けて、食事も喉を通らず、疲労こんぱです。

ある日精根尽き果てたアルキメデスが風呂に入ったのです。思考に思考を重ねるアルキメデスの頭脳から騒がしい思い込みが一瞬、緩んで消えた時、有名なアルキメデスの原理が思い浮かんだ。という話です。

このエピソードから学べることは二つあります。

ひとつは、同じことを強く考え続けていると、真実のほうからやってくるということ。 これと同じような話は、いくらでもあると思います。

そして二つ目に、思い込みの思考を消すと、真実が見えてくるということ。 くつろぎはは真実に一番近いのです。

冒頭の話とあわせて、この三つのキーポイントが私たちにある方法を教えてくれるのではないかと思えるのです。

 

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こんなものつくりました。

2016-04-26 | 日記

(手作りケーキ風)

 

フルーツの缶詰にゼラチンを入れるだけで、こんなものが会来ました。ケーキ代わりに。

サプライズは、フルーツグミをぱらぱらと混ぜ込み、驚きの食感。

材料はこれだけ、水も使いません。

一休みどうですか。

 

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己を受容する(5)

2016-04-25 | 5次元宇宙に生きる(神)

(ナンテンの森)

 

内なる自然を受容する。それが実現出来れば、心は穏やかに晴れて、充足感が訪れる。それを私たちは何度も体験していますね。

自分に対して何の疑問も心配事もなく、たとえば湯船に身を浮かべている姿を想像してみてください。

心は解放されて、ほとんど自然に身体を任せて揺れているのです。

それは産湯に浮かぶ嬰児と同じ、リセットされたくつろぎだと言えるのではないでしょうか。

そこにはプラス思考も、マイナス思考も存在しませんね。ただ「ある」という感覚だけで充足している世界なのです。

内なる自然を受容するということは、まさにそのような感覚を自分の中にみいだすことなのです。

難しいのはそれを、知性を働かせながらそれを実現することなのですね。そこでは知性を働かせて知性を消さなければならないというような、蛇が自分の尻尾を呑込んでいくような問題が起こってくるわけです。

なぜなら、リラックッスした、湯船の時間が終わると、私たちの思考が再び動きはじめます。知性が現実を色付け始めるのです。

そうなると、私たちは抵抗なく、知性の見せてくれる世界を現実として受け入れ、心に重荷を背負わせることになりますね。その中で、半分の人はしあわせを手に入れますが、残りの半分は苦悩を味わいます。誰かがしあわせになれば、だれかが不幸になる。それが知性のつくりだす虚構の世界ですが、当然のように私たちは競争を強いられることになるわけです。

私はこの虚構の世界を悪いものとは思いません。むしろ人間的な愛すべき能力であり、社会はそうして発展してきたのですから。

ただ、苦悩はその能力に傷つき、疲れ果てたものの上に現われます。人間性のマイナス面に半数の人々が苦悩を舐めるのです。そしてその苦悩は知性がつくるこの現実世界にしがみついていてはなくならないわけですね。

疲れたら休めばいい。その場所を私たちは知っているのです。いっとき、知性から解放されて真実の中で身を休める。生れたままの姿を受け入れて、自分の中にある自然を受容する。そこで苦悩は消えていきます。

さあ、私たちはいよいよ、堂々めぐりをすることになりました。つかんだと思った内なる自然は、つかんだと喜ぶ知性が働いて、再び虚構の人間性の中に引き戻されます。

何度も何度も、おなじことが繰り返されます。この循環から抜け出すことは出来るのでしょうか。

知性を働かせながら(人間性を喜びながら)、知性を消す(真実の中に入る)。それはとても難しいことですね。

 

しかし方法がないわけではありません。

次回はそのことを描いてみたいと思います。

 

 

 

 

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己を受容する(4)

2016-04-23 | 5次元宇宙に生きる(神)

(フーの実と箱虫たち)

 

己を受容する。その究極にあるものは、自然です。自分は自然であるということを受けいれ理解するということですね。

自然に対して、人工という言葉があります。人工的という言葉は、人間を特別な存在として位置づける意味が含まれていますね。人間は自然の外にいて、必要なものは何でも自分でつくりだすことが出来るという思想があります。

私は山奥から大阪に出てきました。(ほどなく大阪万博がありました)

そんな私が始めてみたコンクリートと、ビルの街の印象は「死の街」でした。めまいがするほど人がいるのに、無機質の世界に恐ろしい孤独を感じたことがあります。

もちろん今では、好んでアスファルトの上を歩きますし、害虫や泥のないコンクリート世界を、清潔と思える感覚を持つようにもなりました。何年も土を見ないで生きていくこともできるでしょう。都会人として成長したわけです。

人間にとって自然は、克服し安全に利用する対象だと考えるわけですね。しかし、環境を整え、身綺麗な生活を追及するうちに、たくさんの忘れものをしてきたのです。

なかでも大きな忘れものは、「生かされている」という事実の忘却ではないでしょうか。

立派な大学を出て、就職して出世する。それが理想の社会では、「生かされている」のではなく、「自分で生きる」という思想が定着しますね。成功しない者は自分の努力不足に嫌悪感を感じ続けるかもしれません。自分で生きなければならないという強迫感の中では、生かされているなどとのんきなことを言ってはおれないですよね。

原因はどうあれ、私たちは自然と対立するような概念で人工的ということばを理解しています。しかし考えてみてください。人間の科学がどんなに頑張ってみても、血の一滴すらつくることはできません。科学がやっていることは自然の模倣であり、いかに自然に近づくかですね。たとえ自然界にはない物質をつくり出したと言い出しても、それは自然界にあるものを組み合わせただけのことですよね。

もし仮に、科学が究極のところまで極められたとしたら何が見えると思いますか。まさにこの自然を丸ごと理解できるようになっただけの話です。

つまり、何を言いたいのかといえば、人工的なものもまた自然の中に組み込まれているということです。

たとえコンクリートの街の中に生きる私たちであっても、例外ではありません。そればかりか、もっとも大切なことですが、私たち自身が自然そのものだということです。その肉体も、精神も、自然の産物であるわけですね。

自分の中にある自然を眺めてみてください。注意深く眺めていると分かってきます。この身体は生かさているのだと。水も、ご飯も、空気も、光も、何一つ自分でつくり出したものはありませんね。そして呼吸、鼓動。肌感覚、すべては自然に起こっているのがわかるでしょか。

思考も同じです。今思い出して台所に行くとしましょう。夕食の準備。さあ、それはあなたが 考えたのでしょうか。違いますね。もしあなたが意識して考えたのなら、夕食を考える前にその考えを始める準備をしなくてはなりませんね。しかもその準備を意識するためにはその準備の準備を意識しなければできないでしょう。そしてこの話は永遠に終わりません。

意識して何かを考えのであれば、必ずその前にその意識を意識しなければならない。でなければその時点で、考えはあなたではなく自然に生まれたことになるのです。もし仮に、思考は意識してすると仮定すれば、思考はその前の段階で準備の意識が次々と必要となって、一歩も歩めないことになる訳です。

つまり私たちは、意識して考えを始めることはできないのです。思考は突然私たちにやってきます。新しい理論を発見する研究者の思考を考えるだけでもそれはわかりますね。

つまり、私たちはしっかりと考えに基づいて動いているときでさえ、それは自然に起こっているのです。

ただし、私たちは突然起こってくる思考に対して、意識的に判断することはできます。良し悪しを判断して起こってくる思考を取捨選択しているわけですね。良い人、悪い人はそこで振り分けられるわけです。つまり善人にも悪人にも、おなじ思考がやってきている可能性は十分にあります。(少し話がそれましたが)

ともあれ、私たちが人工と思っていることも、実は自然の流れであるということはわかっていただけたでしょうか。

ややこしい話をあえてしているのは、己の受容を深めていくと、私たちは最後にこの自然に行き当たるからなのです。

自己受容を深く進めていくと、生かされている自分を見ることになります。

この命は自然そのものであり、その自然の中で相互依存しながら生かされているのです。

浅い自己受容の段階では、自然から孤立して独自に生きているように見えます。しかしそれは大いなる勘違いというもので、その勘違いが私たちに苦悩を舐めさせていると言ってもいいかもしれません。あるいは、苦悩はその間違いを知らせるシグナルなのかもしれませんね。

 己の内に自然を受容するということは、この宇宙と同化することを意味します。内宇宙と外宇宙、それは同じものだという理解がそこにあるのです。

 

 

 

 

 

 (初めて読まれる方へ: この物語は、愚書のしてんてん系宇宙論を 解説したものです。この解説は2016年1月6日付け記事から始めていますので、カテゴリー(五次元宇宙に生きる(空間))の同日付け記事から読んでいただくことをお勧めします。その後(五次元宇宙に生きる(心))を経て五次元宇宙に生きる(神)に至ります。なお、本は有償でもお譲りしますが、「のしてんてん系宇宙論」 のページにあります本の画像をクリックしていただくと、自力でプリントできますので、無料でご利用いただけます。)

 

 

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明日(22日)からオープンです

2016-04-21 | 展覧会

 

先日、上本町ギャラリーに作品を搬入してきました。

鉛筆の作品は、私一人のようで、どんなふうに配置されるか楽しみです。

私は23日(土曜)、27日(水曜)に在廊します。

 

搬入のついでにガットネロに立ち寄りました。私の作品を常設展示していただいているシャンソン喫茶です。

主宰の松浦さんにお会いしたら、ガットネロの会報が出来たと、最新号を渡してくれました。

封筒から出してみてびっくり、私の投稿がトップ全面になっているではありませんか。

これは、お絵かきで母のリハビリを行った記録を、会報ガットネロに連載していただいているものですが、いつもは紙面中ほど、1/3のスペースを埋める記事でしたのでびっくりです。

どうして?と思ったのですが、別の話題に夢中になってとうとう聞き忘れてしまいました。

何の話かといいますと、この秋に、ガットネロでのしてんてん喫茶室(個展)を企画することになったのです。

五次元を意識した絵画を、今模索中ですが、この秋に向けて作品を仕上げたいという思いを具体化する試みです。

シャンソン歌手でもある松浦さんの生き様にいつも圧倒されながら、パワーをいただいて帰ってきました。

 

 

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己を受容する(3)

2016-04-20 | 5次元宇宙に生きる(神)

(心のかたち・・・・箱虫といいます。のしてんてんの箱を切り取って生まれました。)

 

 

先日このブログにいただいたコメントの一節です。

言葉...とても難しいです。
言葉を発する事で相手を喜ばしたり、傷つけたり、
自分が嬉しかったり、悲しかったり。
言葉は、悩みます。

私たちにとって「ことば」とは何なのかと云う思いに応えてくれるメッセージですね。良きにつけ悪しきにつけ、「ことば」は人間の象徴です。

しかし何度も見てきましたように、真実はことばを超えたところにあるのですから、人間は常にこの真実と言葉の間を振り子のように揺れ動くことになるのです。喜びと同じ数だけ悲しみがある。そんな風にも思えます。

そんな心模様をながめていると面白いことがわかります。この波のように繰り返される喜びと悲しみの正体は、思考方法が切り替わっている結果だったのです。

つまりそれがプラス思考とマイナス思考です。己を肯定する思考と否定する思考と言い換えてもいいでしょう。

言うまでもなく、真実に近づく思考に私たちは喜びを感じ、その逆の思考には悲しみを感じるのです。

そういうと、最愛の人の死を悲しむのは真実ではないのかと反論される声が聞えそうです。しかし考えてみてください。「死」こそ人間が作り上げたことばの産物の親分のようなものです。私たちのマイナス思考の中核ではありませんか。

真実の中には「生」も「死」も存在しません。あるのは永遠の肯定です。

5次元宇宙を思い描いてください。スケールの世界を思い描くのです。すると「私」のこの身体は、真空の中に浮かんだ素粒子のかたまりですし、私たちの立っている地球は、神ヒトの体を創っている素粒子の一つだという空想が出来ますよね。

その認識を広げていくと、私たちは皆、ただ一つの空間に浮かんでいる素粒子の集まりなわけですね。この世界のどこに生と死があるでしょうか。あるのは空間の中で、素粒子の集合が変わっていくだけですね。

しかも、私たちが踏んづけているこの地球は、神ヒトの体を創っている素粒子だという理解も重なって、大胆にも私たちは自分が神そのものの体の中に棲み、なおかつ自分自身が神であるというイメージさえ持つことが出来るのです。

これは言葉ではなく、真実にたいして抱く最大限の世界観だと言えるでしょう。

真実に身を置くと、私たちは存在するだけで満ち足りている。足りないものは何一つないということが見えてきます。永遠に空間は在り、ものは永遠にあり続ける。質量保存の法則というのを高校で習った覚えがありますが、五次元宇宙を思い描くだけで、無機質だった科学が深く心に結びついてくるのです。

そしてそこにあるのは、肯定ですね。五次元はこのように存在そのものに入っていく思想であって、私たちに真実を気付かせてくれるのです。

それは四次元の時間の概念とは対照的です。

この五次元の絶対的な肯定は、私たちに最高の喜びを与えてくれるに違いありません。その喜びを一瞬でも味わうことが出来れば、私たちはありのままの自分を受け入れることに希望を抱くことも出来るのです。

こうして己を受容する力は徐々に成長していくでしょう。

やがて「ことば」から解放される時が来るかもしれません。そうなったら私たちは、悩みを持たないで「ことば」を道具として使いこなせる新人類に進化するかもしれないのです。

己に対する受容は苦悩を踏み台にして成長します。

その成長は、苦悩の殻を突き破って芽を出す双葉のように、初々しく輝くのではないかと思えるのです。

ただ、この若葉は、何度も何度も、しおれ、枯れてしまいます。つかみとった喜びにしがみつきたいと思う心が若葉を殺すのです。

ですが、真実に軸足を置く限り、やってくる苦悩の実から若葉は何度も芽生えてきます。

私たちの心からいつか、その喜びへの執着さえも消える時が来るでしょう。

その時、私たちの自己受容は、宇宙そのものに到達するのではないかと思えるのです。

そうなったら、私たちは気付くかもしれません。

至福とは、宇宙の波動だということを。

 

 


 

 

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己を受容する(2)

2016-04-19 | 5次元宇宙に生きる(神)

(心の風景:セラミック造形と木の実)

 

己を受容すると云うのは、簡単に言えば自分をありのままに受け入れるということになります。

ありのままの自分を完全に受け入れることが出来れば、私たちは皆、釈迦と同じ世界を体験することが出来ると思っています。誰もが、釈迦と同じ人間だと言っていいでしょう。物理学的にも生理学的にも、心理学的にも、私たちと一分の違いもないわけです。

ありのままの自分を完全に受け入れる。

私たちの命はそこから始まりました。母の胎内で進化をし、やがて母なる海からこの空間の中にこの身を切り離された。自然そのもの、ありのままの自分を受け入れていた姿がそこにありますね。

意識にも記憶にもありませんが、私たちが最も信頼できる事実です。穏やかな眠りの体験はそれを物語っているのだと思います。

その穏やかな闇の中から刺激を受け取る感覚が生まれ、体内の感覚に「快・不快」の色付けが自然に起こります。

「何」という問いかけが知能の発達を促し、人間は知性の光を手に入れるのです。今まさに見て感じているこの世界は、闇を照らし出した知性の光の及ぶ世界と言っていいでしょう。

闇の中に懐中電灯を照らしますね。すると光の輪の中に物が見えてくる。人間の知性はそれと同じ働きをしているわけですね。

ありのままの自分とは、闇に匹敵します。私たちは生まれたとき、その闇をそのまま受け入れていました。

しかし知性を得た人間は、手にした光に対する理解が未熟なために、この知性の光だけがすべてであるような錯覚を持ってしまうのです。

知性が見せてくれる己の姿を私たちは疑いなく受容して、己を理解する。それは闇の中に照らし出した懐中電灯の光を自分だと思い込むことと同じことでしょう。

知性が見せてくれる自分の姿がありのままの姿だと思い込んでしまうことで、最初の危機が訪れます。それが自己嫌悪ですね。知性の描く理想と、現実とのギャップに心を添わせることが出来ない、若い心が通る道ですね。

成人した私たちの心は、どうでしょう。

私は相変わらず知性による受容が続いていますね。60年以上その姿をみつめてまいりましたが、闇を懐中電灯で照らすようなことをやめられません。というより、これが知性の限界だと思うのです。

慢性の苦悩が相変わらず続いていますが、これはおそらく発展途上にあるためです。その先にあるのは、闇と知性の融合です。知性に置いた軸足を闇の方に移動させることが出来れば、私たちは知性が生み出す苦悩を客観的に見ることが出来るようになるでしょう。そしてありのままを受け入れるということがすべてのことをプラス思考に変えてくれます。

心はプラス思考によって、己を正しく受け入れることが出来るのだと思うのです。すると己の中に富士や夕陽の美しさと同じものを見ることが出来る。

あるいはこうも言えます。美しいものに魅了されるのは、その美しさが己の中にあるからなのですね。それがなければ風景を受容してもその美しさを理解することが出来ないでしょう。この美こそ己だという理解が、自分をありのままに受容することで生まれるということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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瞑想の絵画

2016-04-18 | のしてんてん絵画を知っていただくために

(木靴・・・誰も振り向かないが、いつも窓辺に置いている)

 

今日は、HP「のしてんてん」から紹介します。

「瞑想の絵画」は、電子音楽の作曲家EIMさんの音楽を背景にして、作品を鑑賞してもらうという試みです。

EIMさん(SOUND IMAGEの音楽はとても穏やかで、心に触れてくるものがあって、一目(耳)で好きになりました。

音楽とジョイントしたいと思うようになり、メールのやりとりの中で7年前に二人のジョイント展が実現しました。

そんな関係から、EIMさんに、のしてんてん絵画をテーマにして作曲していただいたり、EIMさんの曲を自由に使わせてもらえることになりました。

そこでできたのが今回紹介の「瞑想の絵画」です。

瞑想の絵画(HPのしてんてん案内板より)

自分では、ゆっくりと絵の中に入って遊べるなぁと思っているのですが、いかがでしょう。

お試しくださいませ。

 

熊本地震、早期の復興をお祈りします。

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早く治まりますように。心の支援も必要です。

2016-04-17 | 日記

 

14日夜、熊本県で大きな地震発生のニュース、それから翌日未明のさらに大きな地震。その後も進度6の揺れが頻発。

どんなに恐ろしいことか、被災地のことを思うと胸が痛みます。

ゆっくり眠ることさえできない日が続くのは限界があります。支援の手は広がっているのでしょうか。

どうか早く、この地震が治まりますように願うばかりです。

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己を受容する

2016-04-16 | 5次元宇宙に生きる(神)

(天にそびえる)

 

受容という考え方は難しいかもしれません。その度合いは、説明する難しさからも推し量ることが出来ます。

ことを難しくしてる大きな原因はわかっています。それは「ことば」なのですね。

私は何でもない日々の気付きのことを言っているのですが、「ことば」にすると、なにか特別なものが隠されているように思えるのですね。その結果、一番大事な、何でもない、さりげない自分の経験のことを飛び越えて、その外に、ことばの意味を探してしまうのです。そうなると、分からない、難しいということになりますし、正解にたどり着きません。

大切なのは、今、この瞬間を感じていること、ただそれだけなのです。今あなたが感じている世界をみつめながら、その中で言葉の意味を探して頂きたいのです。そうすればどこかで腑に落ちるところがある。それがあなたにとっての正解なのです。

というのも、1月から続けてまいりました心の旅ですが、終盤に差し掛かって、私たちはいよいよ、皆で一緒に進むことが難しくなってきたのです。

これから先は、各々各自、自分の心を行くひとり旅となります。ことばを超えた世界への旅立ちなのです。それを言葉でご案内するわけですから、無謀といえば無謀なわけです。

ゆめゆめ、「ことば」の先にあるものを探すようなことはしないでくださいね。大事なのは、「ことば」から受けるあなた自身の印象です。何より自分の心を大切にすることです。そしてそれが「受容」という言葉の本当の意味なのです。

ところで私たちは、「自分」と「自分でないもの」をはっきり区別して生きていますね。そして今まで見てきた受容は、「自分でないもの」に対する受容でした。「自分でないもの」から発信される表現を受け取って、自分の心の中で理解する。そうしたもので私たちは取り巻かれています。それが社会ですね。

しかし実は、受容は「自分」自身に対しても行われているのです。そしてこの自分に対する受容が、様々な苦悩をつくりだしているわけです。自己嫌悪などはその最たるものでしょうし、考え得る苦悩のすべては、自分自身が行う「自分」受容の結果なのです。

そしてこのことは、私たち人間のもっとも深いところにある特性だと言うことが出来ます。苦悩はここから生み出される。私たちはやっと、苦悩が生まれている道を見つけることが出来たわけです。朗報ですね。

朗報?なぜかわかりますか?

私たちは心をつくっている幹道を見つけたのです。今は苦悩しか見えないかもしれませんが、この道こそ、至福に至る道、神の道なのです。

「受容」は成長すると、どこかで言いましたね。自らの意志と意識の力で、この「受容」の力は成長させることが出来ます。先に進めば、やがて苦悩の霧は晴れ渡るでしょう。その先には高い山がそびえているかもしれません。

しかしもはや疑いなく、人はその山を登るでしょう。

頂きでは、神=宇宙と融合する入り口が門戸を開いて待っているのです。

己を受容する。

その道筋を、最後に、たどってみたいと思います。

もうしばらく、お付き合いください。

 

 

 

 

(初めて読まれる方へ: この物語は、愚書のしてんてん系宇宙論を 解説したものです。この解説は2016年1月6日付け記事から始めていますので、カテゴリー(五次元宇宙に生きる(空間))の同日付け記事から読んでいただくことをお勧めします。その後(五次元宇宙に生きる(心))を経てこちらに至ります。なお、本は有償でもお譲りしますが、「のしてんてん系宇宙論」 のページにあります本の画像をクリックしていただくと、自力でプリントできますので、無料でご利用いただけます。)

 

 

 

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HP「のしてんてん」よりデッサン教室のご案内

2016-04-15 | のしてんてん絵画を知っていただくために

(名刺大のキャンバスに描いた作品と自作の額 マグネットで自由に装着できる)



今日はのホームページ「のしてんてん」からの紹介です。当HPは2002年に立ち上げてから、思いつくままにページを増設してまいりました。

いつの間にか迷路のようになってしまい、分け入って入って行く気にもならないことになっていると自分ながら思うようになりました。

整理すればいいのですが、どこから手を付ければいいものか、悩むだけで時間が過ぎていきます。

そこで考え方をプラス思考に切り替えてみますと、この迷路は私が歩んだ心の旅遺産だと気が付いたのです。

そこで、当ブログで、時々HP「のしてんてん」の紹介をしてみようと腹が座りました。

 

で、初回、デッサン教室の紹介です。

手前味噌ですが、作った当時は、小中学校のホームペ―ジにリンクされて活用されていた痕跡もあって、きっと分かりやすいと思います。

絵は誰でも描けるし、絵がうまいひとだけの特権ではないというのが、「私の信念」だとかっこつけていますが、実際、絵が下手なひとほど絵の効能を受けることが出来るのです。

自分の心を遊ぶ。

そこに才能はいりません。下手な絵を遊ぶという喜びは尋常ではありません。是非その体験をしていただきたいという思いで作りました。

とりあえず。(1)~(4)を紹介します。

  (1)デッサン教室(絵が好きになる) 

  (2)デッサン教室(鉛筆の使い 

 (3)デッサン教室(観るこ 

 (4)デッサン教室(デッサン実

 

 

デッサン教室はこんな画面です。↓

 lesson1~lesson6まで、一週間かけてゆっくり絵と接してもらえたらという考えで作っています。上のlessonの箱をクリックしてレッスンページに入るようにしていますので、良かったら挑戦してみてください。

HP「のしてんてん」から入るのがベストですが、分かりにくかったら、このページから一部直接リンクしていますので上記タイトルをクリックしても大丈夫です。

この形式のデッサン教室は1~9まであって、いずれも6回に分けて学習します。


 

絵を描くなど思ってもみないと仰せのあなた。

覗くだけでもいかがですか。

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てんとうむし

2016-04-14 | 日記

(のしてんてんの絵の中にやって来きてくれたてんとう虫)

 

暖かい日射し、

草引きをする庭の、石ころの上に赤。

てんとうむしが歩いている。

出会いはいつも突然なのに、その姿を見た途端、まわりの時間が止まったように、私はいつも、そのつやつやした赤と黒の姿に見入ってしまう。

急がずあわてず。

愛らしい姿は、誰のためにあるのだろう。

手のひらで転がるほどの石コロをよじ登り、頂上で確かに、そこからの眺めを楽しんでいた。

その一瞬の間があって、方向をわずかに変えて下りていく。

たったこれだけのことなのに。

私の心はしあわせだった。

 

 

 

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宇宙を受容する

2016-04-12 | 5次元宇宙に生きる(神)

(焼き板・・・浜風対策か、牛窓の民家でよく目にした黒壁)

 

 

富士を美しいと思う。その体験は、無条件に起こるものだと前回書きましたね。

先日、知人から、えも言えぬ美しい夕陽を見たとFAXを頂きました。人生のおわりに見る夕陽(夕暮れ)はこんな風かと思ったそうです。 夕陽(せきよう) 限りなく好(よ)し という李商隠の詩も添えられていました。

おそらく美に対する感覚は、万人に共通のものですし、当然言葉はいりません。万国共通ですね。それは私たちの思考を超えるものなのです。

詩人は、美を表現しようとして、より良い言葉を探し構成するために一生を捧げます。これだけをとってみても、美が私たち人間を超えたものであることはわかりますね。それは真実そのものの姿だと私は思うのです。

この美しいと感じる心は、真実と直接つながったときに起こる感覚のようなものなのかもしれません。それは、五感と同じようなもので、私たちの全身全霊で感じ、共鳴するものなのではないかと思われます。

私がこのことを重ねて言うのは、美は思考ではないということを強調したいからです。

美は人間が思考によってつくりだすものでは決してないのです。

しかし、ややこしいのはここからです。

私たちは富士を「美しい」と感じます。この時、間違ってならないのは、「富士が美しい」のではないということです。富士は「存在」であり、「自然」であるだけです。私たちの言葉でいえば、それは公空間であり、実在があるだけで、いかなる形容詞も存在しません。つまり富士は宇宙そのもの、あるいは神と呼んで差支えないものなのです。

大事なことは、「美しい」のは、富士の存在を受容した私たちの心だということです。富士を受容することで、私たちの心は「美しい」エネルギーで満たされます。美しいと感じた瞬間、私たちは宇宙そのものを体験しているということなのです。

めぐり会って、富士や夕陽を受容します。

すると私たちは思考を止めたまま、全身全霊で美を体験します。私たちは私空間から跳びだして公空間に自分を溶け込ませるのです。公空間のエネルギーの波と波長をあわせた心が、その振動を美しいと感じるわけです。

この宇宙の波動を直接体験するとき、私たちはその体験する波動そのものを美しいと感じているのだと思います。あるいはその時、私たちは富士を通り抜けて、まさに宇宙と一体になっている体験だとも言えます。つまり宇宙と一体となることが美だと考えられるのです。

私空間にしか身を置くことのできない私たちが、希にこのような形で、公空間を体験することが出来る。これは受容の持っているもっともすぐれた能力だといえるでしょう。

受容する(受け入れて理解する)能力は、向上させることが出来ます。富士を受容出来るのなら、その延長で宇宙そのものを受容することも出来るでしょう。そうして、「美しい」という感じのように、ことばを必要としない一体感を体験することが出来るなら、私たちはその時宇宙と溶け合い、1なるものの中で宇宙そのものとなっているのだと私は思います。

ところでそうなったら、5次元宇宙の概念は大きな働きをします。

私たちは五次元宇宙を受容することで、唯一無二の存在である空間を自身の心の中で体験することが出来るでしょう。それは禅に通じるでしょうし、「気」を理解する手掛かりにもなるでしょう。

いずれにしても、私たち人間は、自ら作る私空間の中に閉じ込められた存在であることには変わりありません。しかしそんな私たちにとって、受容は公空間に向かって開かれる扉だということなのです。

私たちはようやく、この旅の出発点を再び視野に入れることができるところまでやってきました。

5次元宇宙は私たち人間をどこまで案内してくれるのでしょうか。

4次元では見えなかったもの、それは何なのでしょうか。

 

 

 

(初めて読まれる方へ: この物語は、愚書のしてんてん系宇宙論を 解説したものです。この解説は2016年1月6日付け記事から始めていますので、カテゴリー(五次元宇宙に生きる(空間))の同日付け記事から読んでいただくことをお勧めします。その後(五次元宇宙に生きる(心))を経てこちらに至ります。なお、本は有償でもお譲りしますが、「のしてんてん系宇宙論」 のページにあります本の画像をクリックしていただくと、自力でプリントできますので、無料でご利用いただけます。)

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