のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

自分を好きになる

2017-09-05 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

奈良の小路で見つけた手水鉢

苔むした鉢と水。

それだけなのですけれど、是非、時間のあるお方は、小さな画像をクリックして大画面の画像を眺めてみてください。可愛い小さな命を発見できるでしょうか。

100人いれば。100の風景が見えてくる。

不思議な手水鉢です。

 

よかったらあなたの風景を残してください^ね^

 

 

 

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心と魂

2017-05-21 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

2012年作品(心のかたち)

 

先日、田村慶子陶展8th「よりしろ」に出逢ったことが、私の心に変革をもたらしたと書きましたが、その状況は今も続いています。

心の状態は水物、明日何が起こるか分かりませんので、あくまで私の一人旅通信として、お付き合いください。

 

「よりしろ」の表現しがたい形と出逢ったとき、私は5年前に描いた心の世界を思い出しました。

表題の写真もそうですが、

他に、例えばこんな絵です。

 

「よりしろ」と形が似ているということではなく、

心のレベルが違うという、しいて言えば嫉妬心に近い感情だったのです。

私の作品はすべて「のしてんてん」と呼びます。これは心を意味する造語ですが、そのことが示しているように、私の創作は心を描くということに終始しておりましたし、このブログ自体が、文字による心の探求であるわけです。

 

心とは何なのか。

40年その問いを続けてまいりましたが、「よりしろ」はそれをはるかに超えていると思わされたのです。

その一つの具体的な答えが、ハル先生に教えられた「魂」でした。

 

私の創作に魂という視野がないと思わされた一瞬でした。実際に私の追求は心に焦点があてられており、魂を意識することは一度もなかったように思われます。無論魂という言葉を何度も使ったことはありますが、それはいづれも心という範疇で使ったもののように思えるのです。

 

「心」と「魂」その違いを問えば様々な答えが飛び交います。それほど曖昧模糊とした言葉ですが、誰もがうなずくだろうことは。「魂」>「心」でしょう。

心は、私たちが実際に感じ、思う範囲の中にありますが、魂は、その心を生み出す母体であり、しいて言えばそれは私の提唱する五次元の螺旋そのものを意味すると考えられます。

「よりしろ」が私の作品をはるかに超えているという私の感覚を分かって頂けるでしょうか。

嫉妬はそこから来たわけですね。

 

なぜお前は、魂に気付かなかったのか!

そう思うと、自分の作品が上滑りする駄作の経験をいくつも思い出します。

しかし反面、私は充足感を感じてもおりました。

 

自分の根本をこんなふうに見つめることは今までなかったことでした。

そう思うと、「よりしろ」を紹介していただいたガットネロ・松浦さんの洞察の深さに感謝するしかありません。

そんな考えと共に、私の心の探求は、実はこのためにあったのだと思えるようになったのです。

心を探求しなければ、人として在りながら、魂に触れることは出来ない。そう思い至ったのです。

魂に同化するのではなく、人間として魂に向かう。

そのために私たちは、どうしても心を知り尽くさなければならない。人としての能力を100%ひきだすことで魂との統合を果たす。

私のもくろみは、そこにあったのだと、ようやく気付いた訳なのです。

 

そしてそれは、この4月来「感性と思考」というテーマで書いてきた記事、つまり感性と思考の統合こそ究極の目標だと考えたことと同じなのだと思い至りました。

 

機が熟していたのかも知れません。

正直に言えば、「よりしろ」の嫉妬心がエネルギーとなって、私の思考が一気に感性を認めたのです。それは心の変革ですね。

つまり、心が魂を受け入れたわけです。その実感が今の私にはあります。

 

さらにこの、一人旅通信で発信していきたいと思います。

 

 田村慶子 陶展8th「よりしろ」は、大坂 楓ギャラリーで、本日まで

 

 

 

 

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「よりしろ」再び

2017-05-20 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

田村慶子 「よりしろ」

 

案内状に、

ささげるうつわ ー やどすかたち

 

という言葉が添えられている。

 

評論家のハル先生に紹介すると、こんな感想が返ってきました。
 
>不思議な作品ですね。
>陶器というよりは魂とか目に見えないものが形となったような。
>実物を見るともっとはっきりすると思います。
 
 

なるほどと思いました。

私には思いつかなかった、「魂」という言葉がとても新鮮です。

 

魂を形にする

それは私の創作人生の中で、一度も意識しなかったことだけに、「よりしろ」は私に大きなインパクトを与えたのでしょう。

 

ハル先生のおかげで、何か心持ちがすっきりした気がいたしました。

 

ところで、田村様が「よりしろ」に巡り合った経緯を、又聞きとして紹介しましたが、ご本人様からその経緯をメールでいただきました。

こういう話でした。

「かたしろ」に巡り合ったきっかけは陶芸のお師匠さんが亡くなったとき、荼毘に付す前に奥様が手に土を握らせたら、それが陶となって現れたという話からだったそうです。

又聞きで紹介した内容は、実はこういうことだったそうです。

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以下に、画廊の方からお聞きになったことについて少し詳しく説明させて頂きます。
先生(陶芸教室の主宰者でしたが、陶芸家ではなく詩人であり女学校の国語教師でもありました)が亡くなられたのは1992年で、この時に、先生の掌の中の粘土が焼かれて返ってきたのを見るという経験をしました。
この6年後に、地方都市のジュウリ-展の主催者から「陶器でジュウリ-を作ってみませんか、象の首飾りでもいいですから」と誘われ、1999年「追悼のジュウリ-」と題して5点出品しました。
陶器の装身具は重いのですが、亡くなった方のためのものなら、少し重くても大丈夫かと思い、なかば副葬品のつもりで作ったものです。
この制作過程で、先生の送葬の折の掌の粘土を思い出し、亡骸は灰になっても陶器はそのまま帰ってくることに思い至りました。
ただ、こううものを「作品」として発表することに強いためらいがあり、10年間封印していました。
2009年にやっと制作と発表を再開し、この時初めて「よりしろ」という言葉を選んだ次第です。
「よりしろ」という言葉は、若い頃民俗学系の本を読んだ時のおぼろな記憶にあったものかと思います。
 
このように、とても永い時間を経てあのような作品を作るに至った次第です。
ご参考として頂ければ幸いです。
 
田村慶子  (メール抜粋)
 
----------------------------------------------------------
 
私には、この10年のためらいが真に迫って理解できるように思います。
 
火の中から還る器の、その最初の体験。
それは自分の意志だけでは、そのまま表には出ることがなかったでしょう。
 
「追悼のジュウリ-」という力がその扉を開けたのですね。
 
それは人として、創作者として、
 なにものかに導かれている思いが如実にあるという
一つのエピソードではないでしょうか。
 
封印という意志
そしてそれを開示する意志
 
やがてそれが統合されて作品に結び付く。
 
この形は
私の提唱する、思考と感性の統合そのものではないのかと思えるのです。
 

 

 田村様の作品を何度も取り上げていますのは、実は理由があります。

それは

「かたしろ」をきっかけに、私の心にある変革があったからです。

それについては、

「私に必要だから」と言って、わざわざお電話で、同展を紹介して頂いたガットネロ・松浦さんの優れた洞察のおかげだということを申し上げておかなければなりません。

 

私は皆様から生かされている。

そう思い至ることばかりです。

 

 

 

 

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宇宙につながる思考

2017-05-19 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

先日書きました田村慶子さんの作陶は私の心に大きな波紋を投げかけてくれたように思います。

 

正直、そのひたむきな、形の追求に動かされました。

人の生死観と心の流れが、自然に生まれてくるような、

それでいて、火に焼かれる激しさを内に秘めている覚悟がある。

そんな造形に嫉妬を感じたほどです。

 

眼で焼き物の表面をさわっていくと、

自分の心の中に、心のかたちが生まれていくのが分かります。

その時、私の心に写し取られた形は、全く違和感がない私の心だということがわかるのです。

受容によって作者の表現が自分のものとなって動き出す。

伝わるというのは

心から心へ波紋を呼ぶということ。

それぞれの閉ざされた心の空間に、受容者が己の形を創っていくということなのでしょう。

 

優れた作品は、何の抵抗もなく観るものに波紋を受け渡すということなのかもしれません。

 

そのもっとも大きな特徴は

「私はこうだ!」という力みがなく、自然体を実現していることでしょうか。

 

それを、私の言葉に翻訳しますと。

「宇宙につながる思考」が体現しているということなのかもしれません。

 

冒頭で嫉妬と書きましたが、

私が自分で気付かないところから、嫉妬が生まれたようです。それは、自作に対しての心の乱れから自覚出来ました。

 

その乱れというのは、いつまでたってもうだつの上がらない自分というような思いにつながる雑念です。

 

そしてその心の流れのまま身をまかせていると、その雑念が苦悩を生みだしているのをリアルタイムで観ることが出来ました。

 

そしてその雑念をたどっていくと、すべてが己につながって行くのです。

つまり、それは己につながる思考そのものだったのです。

 

己を見つめると

自然に答えが見えてくる。

 

その答えは。

作品そのものにありました。

無心でそれを眺めたら、

作品が私を宇宙に連れて行ってくれる。

 

すると不思議なことに

心の乱れが消えている。

 

私の思考が、宇宙につながる思考に切り替わったのです。

すると嫉妬は微塵もない

私は私の自然を生きたらいいのだと、思えるのです。

 

心が伝わるというのは

こういうことなのだろうかと。

 

 

さえずりや

立体空に

拡がりぬ

 

 

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感性の喜ぶ空間

2017-05-12 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

何のために絵を描くのか

そう考えたとき

私は、感性の喜ぶ空間を創るという答えに行き着きます。

 

今回の私の体験は、

そんな道筋の中で動いたことでした。

 

つまり感性に向かうということが私の創作の常なのですが、

それが極度に、思考が感性の側に入り込んでしまったのではないかと思います。

 

作品は駄作で終わりましたが、

それは大した打撃ではありませんし、むしろ次の道を教えてくれる教材となりました。

 

何のために絵を描くのか

その答えは

なぜこの絵は駄作なのかという理解の中にあったのです。

 

何枚も絵を描いておりますと、中には感性が喜ぶ絵に出逢うことがあります。

そんな絵は、

いつまで眺めていても、心が絵の空間に入って自由にのびのび動いてくれます。そののびやかさ、あるいはドラマが深く宇宙のかなたまで続いて行くのです。見ているだけで心が落ち着き、静かに至福の世界に連れて行ってくれるのです。

 

ところが、頭脳(思考)で描いた絵は、その思考がまず己をごまかそうとするのです。「これは良い絵だ」と思い込んだら、気付かないままに、思考が絵を修正してよく見せるようになるのです。

 

駄作を前にしても、感性に違和感があっても、良い絵だと必死で思い込もうとします。そしてそれが自分では気づかない。

 

私はまだその程度の作家なのですね。

 

今回の駄作騒動は、私が自分で尺度と考えている作品が、会場で展示中だったことにあります。

 

つまり、作品を仕上げた今、私は自分の作品が良い仕上がりだと思っている。しかしその思いが、感性によるものか、思考によるものか判然としないのです。

もちろん駄作は、時間をおけばメッキがはがれてきますが、創作意欲が冷めやらないこの瞬間には、分からない。

 

本物の作品と並べてみる必要がどうしてもあったわけですね。

 

感性と思考は、私の創作に関する限り、非常に見分けにくいものなのです。

それは思考が自分を主張しようと、巧妙に働きかけて来るからです。

 

今回私がうれしかったのは、

思考が興奮して、作品を良しと眺めている、いわゆる至福の時間に、ふと違和感を感じたことです。

普段はその違和感を、思考がおさえつけて、とにかく満足しようとして、絵の良いところだけを見ようとするのですが、

今回はその違和感に対して、思考が反応したのです。

一瞬でも感性との違和感が出て、ダメと感じたものは駄作というフレーズがわずかですが思考の中にできたのではないかと思えます。

 

その思考が、

自分をよく見ようとする思考に波紋を立てたのです。

しかしどちらが正しいのか、判断が付きません。自分の思考ながら、それが思考なのか感性なのか分からないのが情けないのですが、疑問が生まれただけでも成長です。

 

で、

作品を持って行って、私の本物の絵の横に置いた訳です。

判断は一瞬です。

「やっぱり」

違和感が正しかったのです。

今まで経験的に分かっておりましたが、自ら意識して理解につなげた初めての経験になりました。

 

駄作に一喜一憂しているわけではなく、むしろ駄作は作者の日常ですから、駄作は駄作で楽しめばいいのですが、

というのも、駄作なくして真作は生まれないと思うからです。

 

問題は、何のために描くのかです。

 

感性の中で人は癒されるように、そんな絵を描きたいのですが、

結局、そのためには駄作を経験しつくすしかないのだろうと思います。

 

そしてその中で幾多の気付きを得ることなのでしょう。

 

今回の駄作騒動は

そんな中の一つの気付きだった訳です。

 

コメントで、いろいろご心配をおかけしましたが、

無言もまたいいものだと思いました。

 

お気遣いありがとうございました。

御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 

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ナウイズム2人展後半始まりました。

2017-05-11 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

ナウイズム2人展、前半を終えて、

突然でしたが、言葉のない世界に引き込まれておりました。

 

波と呼吸を合わせる。

そんな試みを3日ほど続けておりましたら、思考が消える瞬間が現れてきたのです。

 

私は感覚だけになって、呼吸だか波なのか分からなくなりました。

私というものの内側を、何の装飾もなく眺めている感じがして、

それさえなくなりました。

 

そのうちに、絵の構図が生まれてきたのです。

それは

感覚の海に

小さな波動が無数にうごめくような空間が広がり

ひもがねじれて横たわっている

 

そんな光景でした。

 

スケッチブックにデッサンを落とす

急いでキャンバスを張り、

下地を施すと、それが乾くのももどかしく描きはじめました。

 

感覚だけを頼りに

よいと思う方向に線をひていく

言葉がない思考というのか、

言葉を使ったら消えていくというのか、

数日

そんな状態が続きました。

 

言葉ってなんだろう

今になってそう思います

 

呼吸の意識はありましたが、

海のイメージは完全になくなり

思い出そうとしても、再現できません。

 

ほぼ3日がかりで、10号の作品を仕上げました。

仕上げたと言っても

それ以上描きこめない気分になって

創作熱が納まりました。

 

しかし、どうも、悪い予感です。

100%の達成感がないのです。

未熟な作品の証拠。

 

10日から始まった2人展の後半、

その日会場に詰める予定ではなかったのですが、

新作を持って会場に行きました。

 

会場に並べる。一瞬で、駄作。

落胆より

やっぱりという思いで、

せっかくの、無言の行は

失敗に終わったという

顛末。

 

お粗末でした。

 

新作を並べて、たまたま来ていただいた作家さんと鑑賞会。

いろいろ感想を聴きながら、失敗作の展示も、案外役に立つという経験をいたしました。

 

10年ぶりの知人が来てくれて、駄作のおかげで、会うことが出来たと言えば、

それは良かったと笑顔。

 

駄作でしたが、

いい勉強になりました。

 

 

 

 

 

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月の裏側

2017-05-10 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)
 
 
今日の幸せは
ご飯を食べながらありがとうと
思えたこと。

口の中でお米の甘さが広がる。

お百姓さんからお日様と大地へ
気持ちがどんどん広がり、
なんだか宇宙と一体になるような
しあわせを見つけたよ
 
           (2005/11)
 
----------------------------------------------------------
 
深いところに
 
届くか
 
 
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月の裏側

2017-05-09 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

   自分を捨てると

   あなたを作っている大きな宇宙が動き出す

   心の線とは、

   その宇宙とつながる線のことだ。

-------------------------------------------------------

 

波と向き合って、波が消えた。

言葉のない世界を航海中。

絵が見えてきた。

しばらくごめんなさい。

 

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感性と思考 8

2017-05-07 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

心をニュートラルにすると
布団の中

ゆっくりゆっくり
 
 
-------------------------------------------------------------
 

 

(海の波と息を合わせる)

(眠る前に)、(そして目覚めたときに)

 

静かな波、青い空、温かな陽射し

布団の中で、眼を閉じると、そこは南洋の海岸でしょうか

波がまるで呼吸するように、やってきます

①息を吐きます。するとだんだんその力が弱まって、やがてもうこれ以上吐けないところまで来ます。

その体感は、波が打ち寄せて砂浜に拡がり、吸い込まれるように消えていく風景そのものです。

②息を吸い始めます。最初は穏やかな吸気ですが、肺に空気が満ちるにつれて大きなエネルギーに膨らんでいくのが分かります。

この体感は、砂浜に拡がった海水が砂に吸い込まれていく風景と重なります。吐く息が、吸気に変わる瞬間です。砂に拡がった波を吸い込むように吸気が始まります。

(息を吐き切ったら自然に任せます。無理に吸い込もうとせずに、吐く息を砂浜に拡がる水の姿に置き換えて広がるだけ広がらせます。やがて水が砂に吸い込まれるように吐く息が吸気に変わります。それは自然に起こっているのです)

③その吸気は肺に溜まるにつれて圧力が増していきます。そしてこれ以上吸えないところまで達します。

その力は、引き潮そのものです。リズミカルに波が引いて行き、やがて引き潮は満ち潮とぶつかって大きな波頭をつくるのです。吸う息が続かない所まで来ると、波頭が崩れ始めます。その瞬間が、吸気が吐く息に変わるポイントです。

④この時、吸気が止まる瞬間、意識を丹田から肛門周辺に向けると、より意識的な呼吸を実現できます。波頭が崩れる風景と重ねあわせて、吐く息がエネルギーを解放するのです。

この時、波頭がピークに達した瞬間、丹田を意識しないで自然に任せると、柔らかい波となります。でもまだ呼吸を強く感じたいときは、この時に息を丹田に向けるように意識するのです。すると吐き切った状態から、吐く息に変わる一瞬、イチ、ニイという感じで、吸う動作が生まれ、一気に空気を押し出すことになります。穏やかな波と荒々しい波の違いは、その意識の差となって現れるのです。)

⑤解放されたエネルギーは、寄せる波となって、浜に押し寄せます。吐く息が続く限り広がっていきます。そして①に戻るのです。

 

①~⑤を繰り返していると

意識は波そのものになります。自分の身体が波になって大海原に拡がります。いつの間にか眠りに入ります。それはごく自然に起こります。

・・・・・・

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・

眠りから覚めたら

目を開けずにイメージをそのまま続けます

①~⑤を静かに、繰り返します。

ニュートラルになった心に朝の音が聞えます

(鳥の声、新聞配達の音・・・)

(そう言えば今日は何があったっけ・・・)

自然に思考が動きはじめます。愛すべき思考の目覚めです。

生まれたての自分を感じながら、

人間社会に入っていきます。

新鮮な朝

「おはようございます!」

 

 

これだけで、あなたは人生の半分を感性の中で生きることになるのです。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
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感性と思考 7

2017-05-06 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 色彩は心を動かす
 ほのかな赤
 たったそれだけの色が
 意味を生み出す
 
 
 
さあ、今、この瞬間、間違いなくあなたはスマホかPCか、それは何でもいいのですが、この画面を見ていますね。
 
その自分を意識してください。
 
真っ先に灰色の画像を見て、この文字を見ていますよね。
 
波の回転運動をイメージして自分の呼吸を意識しながら、もう一度画像を見てください。
 
その瞬間、感性が動いていることがわかるでしょうか。
 
ドキッとするとか、うっとおしいとか、さわやかだとか、心地いいとか。
 
真っ先に感性が動いているのです。
 
 
その次に「これは何?」がやってきます。
それが思考の働きだした合図。
 
「訳が分からん・くだらない」と速攻離れていく人
「吸い込まれそう・なんだろう」と興味を持つ人
「昔見た岬の風景・・・」と具体的な記憶をひきだす人
「妖精が飛んでいる・・・」みたいに物語を紡ぐ人
 
いずれにしましても、この様々な、個性的な反応を見て、私たちは共通点を見出すことが出来ます。
 
それは思考が行動を引きおこしているということです。
 
 
 
私たちは宇宙そのものであり、感性のかたまりです。
 
瞑想して真実に入っていく。
 
それは感性の中心に座るということだと思います。
 
その究極は、己を感性の中に消すということなのでしょう。
 
しかしそれだけでは、人としての行動は起こらない。
 
思考が必要なのですね。
 
 
まず感性があって、思考が働く
これが人間の理想的な姿だと私は思うのです。
 
先に例示したように、絵に対する反応はまちまちですが、それはすべて素晴らしいものだと思うのです。
 
なぜなら、それはすべて、感性から生まれた思考だからです。
 
感性と思考の統合とは、実のところこのことを指しているのです。
 
 
 
なぜことさら、そんなことを取り上げるのかと言えば、
 
私たちの思考は、その大半が、思考が思考を生み出しているからなのですね。
 
 
心配事、恐れや不安、羨望や嫉妬、金銭名誉欲、心に不幸をもたらすあらゆる思考は、思考が生み出した思考なのです。
 
 
思考が思考を生み出す構図は、もちろん良い面も在ります。科学はそれなしには成り立ちませんね。しかし、洗脳されて恐ろしい事件を引き起こすテロや、国家間のあつれき。原爆をおもちゃにして、脅しの道具に使う子供のような愚かさに気付かない世界。
 
それは思考が思考を生み出し、その思考がさらに思考を生み出して、もはや感性のかけらもない妄想が世界の運命を左右していることなのです。
 
しかしそれでも、
その妄想の生まれている源泉には、感性が働いている。
その紛れもない事実に気付く人間は必ずいるでしょう。
 
人類が、この先幸せな社会を築いて繁栄するのか、滅亡するのかという問題の根幹に、感性と思考の関係があるのだと思います。
 
もちろんそんな大きな問題を抱えなくても、
 
私たちがひとり一人、感性を見失わない人生を送ればそれでいいわけですから、ナウイズムの必要性は大きいのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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感性と思考 6

2017-05-05 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

ここ数日、早朝草引きを半分にして、5~6メートル先にある渚の前で座っています。

呼吸を波に合わせてみようと思い立ったためです。

海の渚は、思い描いていたものより複雑で、最初は戸惑いましたが、こちらがリズムをあわせようと意識していると、複雑な波の動きの中に、呼吸しているリズムが見えてきます。

そうして長いあいだ波と向かい合っていますと、一つのことが分かってきました。これは伝える価値があると思いましたので、書いてみます。

 

そもそも、なぜ波と呼吸を合わせようと思ったのかと申しますと、宇宙の規模で、実感し、体感できる波と考えたとき、海を想ったからで、海と言えば毎朝草引きに行っている浜が自然につながったわけです。

必ず。呼吸は海とつながる。それは私の確信でしたから、即実行ということになって、4日目の朝、ようやくそれをつかみました。

波は円運動だと言います。

細かい波に目を奪われないで、呼吸を合わせるとまずこんな理解が生まれました

波は引く波と寄せる波が、図のように回転運動を着ている訳ですが、

それに呼吸を合わせてみると、波の谷と波頭を境にして吐く息と吸う息が入れ替わっているのが分かります。

重要なのは、その境目です。

波を見ながら呼吸をしていますと、次のような事が分かります。

①息を吐きます。するとだんだんその力が弱まって、やがてもうこれ以上吐けないところまで来ます。

その体感は、波が打ち寄せて砂浜に拡がり、吸い込まれるように消えていく風景そのものです。

②息を吸い始めます。最初は穏やかな吸気が、肺に空気が満ちるにつれて大きなエネルギーに膨らんでいくのが分かります。

この体感は、砂浜に拡がった海水が砂に吸い込まれる風景が吸気に変わる瞬間です。砂に拡がった波を吸い込むように吸気が始まるのです。

③その吸気は肺に溜まるにつれて圧力が増していきます。そしてこれ以上吸えないところまで達します。

その力は、引き潮そのものです。大きく波が引いて行き、やがて引き潮は満ち潮とぶつかって大きな波頭をつくるのです。吸う息が続かない所まで来ると、波頭が崩れ始めます。その瞬間が、吸気が吐く息に変わるポイントです。

④この時、吸気が止まる瞬間、意識を丹田から肛門周辺に向けると、より意識的な呼吸を実現できます。波頭が崩れる風景と重ねあわせて、吐く息がエネルギーを解放するのです。

この時、波頭がピークに達した瞬間、丹田を意識しないで自然に任せると、柔らかい波となりますが、丹田を意識すると、吐く息に変わる一瞬、吸う動作が生まれ、一気に空気を押し出すことになります。穏やかな波と荒々しい波の違いは、その意識の差となって現れるのです。

⑤解放されたエネルギーは、寄せる波となって、浜に押し寄せます。吐く息が続く限り広がっていきます。そして①に戻るのです。

 

するとその時、光明がやってきました。

呼吸は往復運動ではないということです。呼吸は波と同じ回転運動なのだと。

 

そう思い至りますと、呼吸は実にスムーズに動いていることに気付かされます。自分が出す吐く息の音は、波が高まって打ち寄せる波頭の砕ける音そのものです。

そして吸う息は、砕けた波を吸い込んでいく回転運動となっていきます。

 

この呼吸のイメージは、睡眠前や目覚めの床の中で素晴らしい効果を発揮します。

と言いますのも、人は眠るとき、腹式呼吸となっていますから、理想的なのですね。

 

そこに、感性と思考の橋渡しをしてくれる何かが潜んでいます。

 

それはまた後日。

 

 

回転する呼吸を意識しながら、下の連歌をお楽しみ下さい。

-----------------------------------------------------

のしてんてん&まかこコラボレーション連歌

二つは一つ  宇宙今空間円相螺旋を  永遠に歩いて行く (参照)

 

(二つは一つ 宇宙空間円相螺旋を 永遠に歩いて行く)

 

 

 

 

 わたしは小さくなる

 

限りなく見えなくなる方向

 

素粒子方向に向かって

 

自分でもいつもの自分と変わらない自分に

 

見えるかもしれないけれど

 

行雲流水万物変化は否めない

 

やがて変化も顕著になるので

 

それはそれでよい

 

わたしは小さくなる

 

限りなく無い方向に

 

わたしさえも無い方向に向かって

 

今空間を歩いて行く

 

宇宙と一体である

 

宇宙今空間未知領域円相螺旋を

 

極微極小永遠体となって

 

どこまでも

 

永遠に歩いて行く

 

 

 

わたしは大きくなる 

 

かぎりなく大きなみえない世界

 

銀河のつどう海にむかって

 

この身はいつまでも

 

思う心に無常の波は押し寄せる

 

よきかな よきかな

 

わたしは大きくなる

 

限りなく1なる世界を求めて

 

わたしでさえ、1なるもののピースのように

 

今この空を見つめる

 

1なるもの この宇宙の血肉となる

 

わたしの未知領域

 

極大無限に向けて

 

いつまでも

 

永遠の広がりの中に進んで行く

               →↑

 

↓ 

 

 ※※※

わたしは大きくなる

わたしは小さくなる

わたしは大きくなる

わたしも小さくなる

わたしは大きくなる

わたしは小さくなる

わたしは大きくなる

わたしは小さくなる

わたしは大きくなる

わたしは小さくなる

わたしはそのはざまで

今、この宇宙と

一つになる

わたしは小さくなる

わたしは大きくなる

わたしは私になる

 

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感性と思考 5

2017-04-30 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

 
 
なんだか笑い声がまだ続いているんです

心をあるがままに
素直にすると

あちこちから笑い声が聞こえてくる

8歳の
お嬢さんに教えられた
しあわせは大きすぎるよ
 
(2006/2 もみじ君の笑い声)
 
 
 
10年以上も前の話しですので、詳細はよく覚えていません。
ただ、もみじ葉の赤い光の下で、
小学生の笑顔と笑い声が忘れられなかったのでしょう。
 
なぜここまで奔放に笑えるのでしょうか。
 
無垢なるものの心は
 
実はまだ、感性チャンネルがしっかり開いているのですね。
 
8歳と言えども、まだ赤ん坊のように笑える心を残している
そんな子供と出逢った印象がその日の記事になったのだと思います。
 
 
 
ところで、
「私たちの心は、2つのチャンネルを受信するテレビと同じだ」というフレーズを使って、感性と思考の統合について考え、その可能性を探っているのですが、今回は感性と思考の歴史を振り返ってみたいのです。
 
と言いますのも、
意識して子供の心を眺めますと、私たちは必ず、忘れていたものを思い出すことができるからです。
 
 
よく考えてみますと、思考チャンネルは、生まれたばかりだということ、
 
そしていつ生まれたのかと言いますと、「何」という問いかけが芽生えて、学習を始める理念思考が出来上がったときと言えるかもしれません。
 
 
上の図は、私たちが人として生まれた瞬間から、思考が成長していく過程を図示したものです。理念思考は中央の赤丸に位置しますが、黄色の線をたどって、宇宙の意識から自己意識を分離させ、一人前に成長していきます。そして、理念思考に至って、私たちは心の中に独自の思考チャンネル放送を始める訳です。
 
ですから、私たちは間違いなく、表題の無垢なる笑いを体験してきましたし、今もその当時の感性チャンネル放送は続いている訳ですね。
 
宇宙意識とは感性が生まれている領域だと考えられますから、理念思考が支配するまでは、つまり赤ん坊から子供の世界は感性のかたまりであった訳です。
 
子供の絵を見ると、それは一目瞭然ですよね。
 
 
残念ながら私たちは、この思考を逆行させるわけにはいきません。子供に戻ることは出来ないのです。
 
華やかな、いたるところでCMの流れる思考チャンネルに目を奪われながら、地味で当たり前の感性チャンネルに見向きもしない時期を過ぎると、自然に感性チャンネルに目が向くようになってきます。
 
当たり前のことに目を向けず、自分とはかかわりのない情報に翻弄されて虚ろな自分を演じる思考チャンネルのドラマに疲れた心は、自然に宗教に向いたり、芸術の中に、素のままの自分を探そうと動き始めるのですね。
 
宗教は真理を示してくれますし、
芸術は感性の存在に再び気付かせてくれます。
もちろん科学は、理念思考を先鋭化して、宇宙の摂理を解き明かそうとして、直接宇宙に飛び込んでいこうとします。
 
思考チャンネルは、こうして、宗教放送局、感性放送局、科学放送局という3局に分かれて心を賑やかにしていきます。
 
しかしどの道であれ、正しく進むなら、この思考チャンネルは、再び緑の矢印に向かって、宇宙の実在を目指していくことでしょう。
 
それは人として生まれた私たちの心の、いわば進化のシナリオなのだと思うのです。
 
三次元に生まれ、四次元の住人となり、五次元に帰っていく。
 
それを約束するかのような、子供の笑い声なのですね。
 
 
若い思考は、自我が幅を利かせ、自分以外を認めようとしません。そんな傾向を強く持っています。
 
わたしは科学派、自分は宗教派、いや芸術派・・・と。
 
しかしそれは実は、本当の意味で己を受け入れない、思考の暴走であることが多いいのですね。
 
今、必要なことは、当たり前のこと、変わり映えしない空気のような存在に目を向けること、その不思議さに金銀財宝以上の価値を見出すこと、
 
とりわけ己のこの存在に対して感謝する心を育てるこのなのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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感性と思考 4

2017-04-29 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

  人生を体験させてくれてありがとう

  世界を見せてくれてありがとう

  命を感じさせてくれてありがとう

  これはみな

  自分に対してのありがとうだ

  自分に感謝する

  それが究極の幸せだ

 

(2010/11)

 

 

感謝の効用は計り知れません。

2010年の私の記事ながら、「自分に感謝する」とはどこか違和感を感じてしまいます。利己主義を増長するのではと。

 

しかし、あらためて今、感性と思考という2チャンネルの心の構図からそれを眺めてみますと、よく分かることがあります。

 

それは、感性と思考を統合させるためのヒントがあるということです。

 

感性と思考を統合させるということは、具体的にどういうことかと申しますと、思考が感性の存在に気付き、その主役の座を感性に譲るということです。

双方が譲り合って中間点で手を結ぶというようなものではありません。

 

なぜなら感性は、この今に存在するもの、スケール軸をひとつの全体として存在としてある実在から生まれるものであり、

その一方、思考はその実在のヒトのスケールという小さな部分に生まれる仮想空間と言ってもいいでしょう。

 

感性はゆるぎない実在を背景にしていますが、思考は常に揺れ動きます。

ですから、

感性と思考の統合というのは、思考を改革するという以外にはないわけですね。

 

で、どのように改革するのかと申しますと、この自我が思考を操っているという思い込みをすてて、感性の生まれている巨大な実在に思考をまかせるということです。

宗教では「あけわたし」という表現によく出会いますが、おそらく同じことを指しているのではないかと思われます。

 

さて、そう考えますと、私たちの究極の目標は、自我を超越して、五次元で観る実在に身をまかせること。ということになるのですが、

実のところ、それがうまくいかないのです。

 

思考の中にある自我は、そんな理屈で納得して、「はい分かりました」と簡単に明日から明け渡しますなんてことにはなりません。

そればかりか、己が消されるという思い込みから強い抵抗をするようになります。

 

正論は、自我を逆撫でして、実在を否定することだってあるのです。

 

その時、感謝は素晴らしい働きをしてくれるのです。

 

感謝とは、自我が、喜びと共に世界を受け入れることです。

つまり、自我と他我の確執に心を乱していた、まさにその自我が、他我を喜んで受け入れることなのですね。

 

その感謝を、感性を生み出している実在に向けることが出来たら、それこそ、それが究極の幸せとなるわけです。

 

己の感性に向かって、感謝する。

自分に感謝するというのは、

実在に消されてしまうという思い込みで反抗していた自我が、喜んでその実在を受け入れるということなのですね。

 

五次元の実在を感謝して受け入れることが出来たら、自我として働いていた思考から、苦悩が消えていくでしょう。

 

思考は少しずつ、自我を解き放ちます。

 

すると、自我はなくなるのではないと分かります。

自我は消えるのではなく、膨らむのです。

殻を破って生まれる雛のように

自我の殻を破って、実在として生きるものに進化する。

 

そこに感謝という思考のスイッチを見るのです。

 

ひとたび、実在=自我と気付いたら、

人は、

感性のチャンネルに周波数を合わせて、鳥の声をきき、風の音や、雲の流れに身をまかせる楽しみを最高のドラマとして観るようになります。

五月の新緑に踊る木漏れ日にさえ心ふるわせる感動を覚えます。

 

思考チャンネルで見るドラマの幸せは、一瞬で消えてなくなりますが、

感性のチャンネルで繰り広げられているドラマは、実在と共に永遠の幸せと解放があるのですね。

 

人間に与えられた思考。

そこに組み込まれた感謝こそ、

 

思考を実在につなぎ止める命綱だと、私には思えるのです。

 

 

 

 

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感性と思考 3

2017-04-28 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)
 

 

苦悩は理念思考が作り出す虚構の産物だ。

それははっきり分かるようになった。

すると、何か辛いことがあっても、そこから思考が連鎖して次々と苦悩を深めていくことはなくなった。その頃から考えると格段に成長したと確信する。

苦悩がやってくると、これは虚構で、自分の考え方次第でどんなものにも変るとまず思い定める。するとその苦悩の利点を考えるゆとりが出来る。その苦悩は自分にとってよい何かの理由があると思って探せば、必ずその理由は見つかる。

すると苦悩は生まれたまま成長しないでしばらく止まっているが、自然に消えていく。

それが出来なかった頃は、生まれた苦悩に対して、それが自分にとって悪い側面ばかりを見ようとしていた。すると苦悩は、それに輪をかけた苦悩となり、どんどん自分を暗闇に押し込んでいくというのがいつもの流れだった。

この違いは大きい。

苦悩は次々と生まれてくるが、それにかかわらないで居れるようになった。

苦悩は自分が作り出した虚構だと得心したからだ。

すると感性をクリアにすることが出来る。私は絵描きだから、これが何よりありがたい。

 

(2012/10)

 

 

5年前の記事ですが、今これを読み返すと、この考え方が正しかったという根拠を示すことが出来ます。

五次元の概念を通して見れば、それはすっきりと頭に収まるのです。

つまり、五次元を視覚的に理解出来るようになったことで、2012年からさらに進歩したことを知ることが出来る訳です。

 

私たちの心は2チャンネルからなっていると前回申しましたが、それを図で示しますと上の図のようになります。

 

チャンネル1は図の青い横線、時間軸で表されます。ヒトの場に流れる時間ですね。

「苦悩は理念思考が作り出す虚構の産物」五年前の記事ですが、これはまさに時間軸に沿って眺めた風景であることが分かります。

この苦悩は、チャンネル1で映し出されたドラマなのです。

 

苦悩はこの時間軸の上で起こっているのですね。

そして、虚構というのは、時間軸で動く思考の映し出すドラマ。真実はスケール軸が貫く今、この瞬間。そう考えると頭がすっきりします。

誰もが知っている通り、ドラマは台本次第で悲劇にも喜劇にも変わります。

そして台本をつくるのは、ほかでもない、自分のこの思考ですから、苦悩を感じたら、そこから逃げないで、悲劇の台本を喜劇の台本に変える努力をすればいいのです。

いずれにしても、チャンネル1で見る番組は、自作自演のドラマだと知ることです。

悲劇から逃げると、悲劇はさらに深刻になりばかりです。悲劇に同調してるのと同じことになりますので、取り合ってはいけないのです。そっとしておくことです。

 

そして苦悩を感じたら、チャンネル2に切り替える

すると悲劇を喜劇に書きかえるヒントがそこにあるのです。

 

チャンネル2に切り替えると、瞬間に私たちは、今、この瞬間に戻ります。そして宇宙のシンフォニーに包まれて、心を癒し、そこで喜劇の台本を見出すのです。

 

新しい台本を携えてチャンネル2に戻る。すると、私たちは少しづつ自分の感性を人のために使えるようになる。

 

こんな話があります。

なんでも「ありがたい、ありがたい」と言って暮らしているおばあさんがいました。

そのおばあさんの連れ添いが病気になったという話を聞いた村人は、

今度こそおばあさん、嘆き悲しんでいるに違いないと、おばあさんの家に行ったのです。

するとおばあさんはやっぱり「ありがたい、ありがたい」と手を合わせて感謝しているではありませんか。

村人はおばあさんを疑いましたが、やがて心を打たれるのです。

おばあさんは

「おじいさんにお世話ばかりかけていたが、今度は私がお世話出来る」

そう言って「ありがたい、ありがたい」と

感謝していたのです。

 

台本は誰一人例外なく。

己の思考がつくり出しているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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感性と思考 2

2017-04-27 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)
 
思うだけで手が動く
思うだけで足が自分をそこに連れて行く

なんという驚き
なんという精巧さ

思うだけで鶴を折るなんて

無心になって自分を眺めたら
その人間力の尊さに
感動する
 
 (2006/7)
 
 
 
 
無心になって自分を眺めるということは何を意味しているのでしょうか。
 
今の私に言えることは、
 
チャンネルを切り変えるということです。
 
五次元というのは、心に二つのチャンネルを持つということです。
 
一つは時間のチャンネル
そして
もう一つはスケールのチャンネル。
 
 
長いあいだ四次元の概念で生きてきた私たちは、
 
不動の1チャンネル(時間)だけで心を観ることに慣れ親しんでいますので、いきなり2チャンネルと言われても、戸惑って使い方が分からないというのが実情です。
 
 
しかしよく考えてみますと、ここまでは簡単に思い描くことが出来ますね。
 
1チャンネル=時間=思考
2チャンネル=スケール=感性
 
 
その上で、冒頭の考案を見てみますと、
私たちは普段、自分の能力をほとんど見ていないということです。
その理由を、私はこう考えます。
 
つまり私たちの日常は1チャンネルでものごとを見ているということです。そしてそれはなぜかと申しますと、
思考は感性を土台にして生まれたものだからです。
 
こんな例はどうでしょう。
 
テレビのない時代に生きたものは、テレビの力を身に染みて分かります。しかし生まれた時からテレビのあった子供たちには、その使い方には長けていても、その力を意識することは無いですよね。炊飯器だって、冷蔵庫、洗濯機。みなそれが当然と考えています。
 
それと同じことで、
思考が、生まれたときから当然のように感性がそこにあった訳ですから、いわば、思考にとって、感性は空気のようなものなのですね。
 
しっかりとその上に乗っかっているのに、
それが自分の本性だというのに、当たり前すぎて気付かないし、意識を向けようともしないわけです。
 
結局、私たちは思考オンリーと思い込み、思考につまずき、思考が否定されると、自分はもう存在価値のない人間だと考えてしまう訳です。
 
それが1チャンネル思考です。
 
 
しかし、真実は感性から思考は生まれたのです。
2チャンネルは私たちの生まれる前から、それこそいつ始まったのかも分からない時代からあり続けているものです。
 
 
冒頭の考案は、この2チャンネルに気付いた瞬間を書いたものです。
 
私の提唱する五次元、スケールの概念は、けっして未経験の新しい考え方ではありません。それはむしろ、太古から存在している、私たちそのもののことなのです。
 
1チャンネルはまだ生まれたばかりですが、2チャンネルは私=宇宙そのものであり、太古から存在している歴史を持っているのです。
 
私たちが1チャンネルで世界を見ている今、この瞬間にも、もの言わずその思考を支えている。それが2チャンネル、感性思考というものです。
 
 
五次元は、私たちにその2チャンネルの存在をイメージさせてくれるのです。
 
 
私たちはいわば、思考チャンネルと感性チャンネルという2局の放送を受けとる受信機、つまりテレビのようなものです。
 
思考チャンネルでは、世界から己だけを分ける。つまり自分を主人公にしたドラマが映し出されています。これ以上面白いドラマはないでしょうね。
 
一方感性チャンネルでは、太古からつながる宇宙のシンフォニーが流れています。いのちの営みが、回転する銀河の流れと重なって己の境界線はどこにもないのです。
 
 
私たちに必要なことは、気付くことです。
 
私たちは2局放送のテレビだということ。
 
チャンネルは自分で簡単に切り替えられるということ。
 
 
それが思考と感性の統合を目指す第一歩なのです。
 
 
 
 
 
 
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