のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

「浄土」苦楽

2014-01-30 | 組作品「浄土」

本願という言葉を得て、半月あまり思考実験を繰り返している。

人類の覚醒を願う。それだけで生活が成り立っていくのかということだが、まわりからちょっと変な顔をされることはあるものの、全く普通の生活ができる。普通に仕事をこなし、普通に家庭生活を送ることもできる。問題はない。

思考の中心に自我がない。

この「本願」による思考に切り替えるだけで、至福は長く私に留まるようになった。不安もない。

それでも時々不安の芽が顔を出す。

しかしその不安に取り合う自我がないと不安は育たないと分かった。

そして思考には二通りの方法があるということがはっきりわかった。

自我による思考と本願による思考は、人間の思考の裏と表の関係なのだ。

「神の思考」

何度か頭にちらついていた言葉だが、今はっきりと理解できた。つまり本願による思考を神の思考と言えるということだ。

神の思考によって描くのが、のしてんてん絵画「浄土」だと言うことができる。思考のもつれが取れた気がする。

本願 = 神の思考

このことをできるだけ丁寧に説明したい。

頭脳には自我の思考と神の思考という二つの回路が組み込まれているということが、あなたにもきっと分かると思う。

 

 

 

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「浄土」苦楽

2014-01-27 | 組作品「浄土」

本願というのは、人が生まれてきた真実の道に向かいたいという願いのことだ。

つまり、人の本当の姿を理解すれば誰でも本願を持つことができるということを意味している。

人類が一人残らず幸せになる道がある。

本願はその道を照らしている。

4部作「浄土」の最後のテーマとなるべき言葉だ。

「浄土」は何も見えないままに描き始めた。出来るという奇妙な確信があって、高台から飛び降りいるような気分で、浄光寺での展示を約束したのだったが、ありがたいことに構想が通った。

「門」「道」「苦楽」「本願」

5月6日、5月7日。浄光寺の法要永代経に合わせて、4双の大屏風「浄土」を展示する。

個展ではなく、「浄土」奉讃会と理解して、一般に案内は出さない。

永代経に集まる檀家さんに見ていただくのが、「浄土」奉讃会だと心も定まった。

浄光寺が私に、見えないものを見えるようにしてくれた。

合掌して感謝するばかりだ。

その感謝を本願にこめる。私のなすべきこともここに定まった。

画像は「苦楽」の部分、私の心の原点でもある。

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「浄土」苦楽

2014-01-21 | 組作品「浄土」

「浄土」苦楽、2枚目の作品途中の画像です。

苦楽の道を歩みながら、何億もの人生が進んでいく。虫が光に向かうように、人は何かに向かっている。

自我の中だけを見ていれば人はみな己の幸せを求めて生きているように思えてくる。

ときには味方であり、時には敵となって、己の外に様々な人生を意識する。

個展という言葉は、私がそんな己を主張するために使う道具のようなもので、そこにある願いは有名になるといったような、つまりは己我の願いによって生まれたものなのだ。

浄光寺での奉讃会にそんな願いを持ち込んではいけないと、ようやく気付いたと言っていい。

そういう眼で己を見る。そこに本願がある。

何年も前に生まれた五次元の世界、「のしてんてん系宇宙」は私の知識ではなく直観からやってきた。それもまた本願につながっていることに気付かされる。

人はみな、苦楽の道を歩んでただ一つの心に向かっている。

人はみな、宗教を超えて、科学を超えて一つの心に行こうとしている。

世界は一つになる

それが本願と言えるものだ。

奉讃会は本願をかなえるためにあるべきものなのだ。

そう思って、私の心はようやくすっきりとした。

どのようにして人を集めるかという思いは個展であり、我の願いから出たもので、御住職を困らせ、自分の心を曇らせた。

案内は出さなくていい。

寺に集まる檀家さんに見ていただく。

そのために私はこの本願をかなえようと一心で絵を描く。

これが本願に生きるということではないのか。

私は自分にそう言い聞かせる。

 

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「浄土」苦楽

2014-01-18 | 組作品「浄土」

己を穿つ。それがのしてんてん絵画の進む道だと思い定めて、浄光寺の奉讃会に行き着いた。

それが日程のことで、御住職に思わぬ難儀を振り掛けてしまった。

電話の向こうの御住職の声がいつまでも頭に残り続けて、心が曇ったままだ。

心が曇ると、苦悩が生まれる。心のエネルギーが行き場を失い自我の中で淀み苦しくなるのだ。この苦しみはどこから来るのだろうか。

数日私はその根っこを探し続けた。

そのためには苦悩の中にいなくてはならない。

そしてそのためには苦悩を丸ごと受け入れなければならないのだ。

やってくる苦悩を、そのまま空気のように受け入れ、嫌がらず恐れず、愛しい赤子の匂いを嗅ぐように苦悩と一体になる。

するとその先にぼんやりと、苦悩の根っこが見えてくる。

そこに個展という言葉があった。

40年近く個展活動を続けてきた。絵を見てもらいたいという思いの裏に、来場者が誰もいないという恐れがあった。誰にも顧みられない。最低の芸術家だと思われる。そんな恐れは私自身が見たくもない。意識的に隠された自我というしかない。

個展という言葉の裏にそんなものが見えてきた。

苦悩の原因は他の何ものでもない、個展と名づけられた自我そのものなのだ。

そう思い至ったとき、私は驚きよりも喜びが闇を貫く光のように、全身に広がるのを覚えた。

その光こそ本願だったのだ。

本願に行き着いた。そう言っていい。

 

 

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「浄土」苦楽

2014-01-16 | 組作品「浄土」

苦楽のテーマ4枚作品のうち、一枚が完成した。今はその2枚目を作成中だ。

その間に、本願という言葉が私の中で大きく響くようになった。ようやく「浄土」の案内状を印刷して配ってもいいという自信を持てるようになってきた。

案内用のポスターの最終案を前日御住職にお渡ししていて、その可否を電話で伺った。

内容についての了解は得ているので、使用した文字などの誤りがあれば修正するつもりだったのだが、電話の向こうの御住職は困り切ったような声で始まった。それが私には意外だった。

会期を5月6日から5月9日という設定で進んでいた。6日7日の法要を含めた日程で、檀家さんにも見てもらえる個展というのが私の思いだった。出来れば連休中の日程で、法要の前から会期を取りたかったのだが、準備もあるのでと、今の日程に落ち着いたのだった。

「なぜ9日まで必要なのですかな」と御住職の声。

私はそれが寺の許していただける日程と思い込んでいたので、返答はあいまいで言葉が口の中でもつれてしまうばかりだ。

「寺の準備とか、いろいろ住職の一存で行かないこともありましてな、ちょっと困っていますのや。絵の展示は永代経の6日・7日でいけませんかな。」

「もちろんそれでかまいません。お寺さんに迷惑はおかけしないというのが第一ですから」

私は即座にそう答えてはいたが、心は薄暗いもやが立ち込めたように思えた。

電話がおわって、その陰りが自分の中で増殖していくのがわかる。

とても絵を描く心にはならない。

だが、不思議なことに、私の思いは今までとは違っていた。

何かよくわからないが心の隅に、あるいは中心にだったのかもしれないが、これはありがたいことののだという声のような、プラスのエネルギーを感じたのだ。

いつもの私なら苦悩に転じる状況の中に、プラスの波動のようなものを感じた。私はその場所に意識を集中させて、その波動の中に入っていこうとした。

すると、「本願」という言葉が意識に照らし出されるように見えた。

「今を逃してはならぬ」そんな思いも生まれて来た。

そんな流れのまま、私は今こそ、この心に立ち込めている重苦しい陰りを見つめる時だと感じていた。

 

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「浄土」苦楽

2014-01-15 | 組作品「浄土」

御正忌(ごしょうき)に1日だけ参加させていただいた。

親鸞聖人の命日を機縁に行われている本願寺最大の年中行事だそうで、浄光寺では9日~15日に行われる。

その日、御住職はおられず、お内儀さんが導師を務められていた。

本堂の前に立っている親鸞聖人の像がふと、私の内側に立っているような気がした。

元旦の法要でつい出しそびれてしまった個展の案内チラシを、講話の後お内儀さんにお渡しした。これで了解がもらえれば印刷に回して案内を配ろうと思っている。

お堂に集まった檀家さんの中に知り合いがいて、絵の前に花を飾りましょうかと言ってくれた。

私には意外だったが、ありがたいお話だった。

翌日、電話をして、御住職にお話を伺うことにして、知り合いのYさんと寺を出た。

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「浄土」苦楽

2014-01-11 | 組作品「浄土」

私の本願とは何か、いうまでもなくそれは「浄土」を完成させることだ。

それが私の道につながる。

世界は宗教を超えて一つの心になることができる。人は誰でも、地球人の心を持っている。宇宙につながる愛をはぐくむ力を持っている。人はそのことに気付き始めている。

60年己を見つめ続けてきて、私にもその力があることを知った。私にあるのなら、地球上のすべての人にそれがある。あるというより、それこそがヒトの正体なのだ。

「浄土」は真実のヒトに気付く旗印にしたい。

人は必ずその真実に気付く。すると宗教はそのための道しるべだったことがわかるようになる。

右に行きなさい 左に行きなさい 宗教はその立っている場所から進む先を教える道標だ。そう考えれば、人はただ己のの看板の正しさのみを主張して他を排斥しようとする構図が見えてくる。宗教の陥っている我執だ。

道標の示す先は同じ、その先にある真実に気付くとき人はヒトの正体を知る。そのことを知る人たちは増えている。地球上で1割の人が理解したら、地球人の社会が誕生する。5割を超えたら私たちはさらに宇宙人として目覚めるだろう。

宇宙の幸せが己の幸せになる。そこに本願がある。

人は一つの心をもつことができる。しあわせは誰にも与えられた同じたった一つのものだからだ。

その本願に向かって、「浄土」苦楽を丁寧に描いて行きたい。

 

 

 

 

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「浄土」苦楽

2014-01-09 | 組作品「浄土」

心が宇宙とともにある。その理解が与えてくれる感覚はセックスのただなかにいる至福と言える。宇宙との交合はヒトもネコもすべての生き物に等しく与えられたまさに至福のシステムだ。

私はこの理解が、行き着くべき最後の地点だと思っていた。

その思いを揺るがせ、私を再び苦悩に突き落としたのは何か。

癌病を患いながら、僧職を全うする住職の姿がなぜ、私に苦悩を与えるのか、それがわからなかった。

原因のわからない、つかみどころのない苦悩が全身に張り付いてくる。そこから逃れようとする日々が何日も続いた。

早朝の草引きに向かって歩いているときに、そのひらめきが起こった。

「このつかみどころのない苦悩は己だけの苦悩ではないのかと。」

「お前は己のために己の苦悩を取り除こうとしている。己のために苦悩を引き起こし、己のために苦悩を消そうとしている。これが我執だ。

「お前は己のために存在しているのではない。宇宙と一つになるために今ここにあるのだ。そのためにお前にしかできない働きをしなければならない。その役割に生きることこそ至福の道だ。」

そう思い至ったとき私の心に「本願」という言葉が大きく響いた。

御住職の姿は、「本願」そのものだったのだ。

私の生きるべき「本願」はどこにあるのか、私は初めて光をつかんだような気がした。

 

 

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「浄土」苦楽

2014-01-08 | 組作品「浄土」

「浄土」苦楽を描きながら、その先を見据えている。

門をくぐったその先にある世界、真実しかないその世界をどう描いたらいいのか、

その答えを求めながら描くのがまさに「浄土」苦楽と言っていいだろう。

しあわせを求めて、苦悩と戦ってきた、その前には無抵抗な心が苦悩にさらされ続けた時代があった。

やがて苦悩と戦うのは誤りだと気付きはじめる。苦悩はやってくるものではなく己が作り出している幻想なのだという理解がやってきたのだ。

苦悩は己が作り出しているのなら、しあわせも己が作り出すものだ。当然そんな考えがやってくる。苦悩がやってきてもそれ自体がしあわせにつながるものだ。そう思えればすべてがしあわせになる。

すると今度は、苦悩をしあわせにかえようとする戦いが始まる

誰のせいでもない、すべて己の仕業だという理解は、己の中に堂々巡りの苦楽地獄をつくりだす。まるで賽の河原のように、しあわせをつかんだと喜んだ次の日には鬼が来てその幸せをけり崩していくのだ。

その地獄を舐めつくしたら、自然に地獄の正体が見えてくる。その正体は幸せに変えようとするその思いと努力に他ならない。幸せを願う心、それこそが苦楽地獄をつくりだしている。

すべてを受け入れたらいい、すべてを受け入れたら真実がやってくる。真実には苦楽はない。理解すれば、宇宙とともにある永遠の至福至ることができるだろう。

苦楽の世界で心は、終わりがない堂々巡りをして螺旋を登っていく。私のような凡人にはそれだけが唯一の生き様だと思うしかない。そこに「浄土」門に至る道があるのだ。

宇宙とともにある。そう理解した私の心は至福に満たされるはずだった。

ところが、元旦の御住職の講話がそれを覆すことになったのだ。

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「浄土」苦楽

2014-01-05 | 組作品「浄土」

私にとって信仰とは、そこに毛一本の偽りもあってはならないものだ。

居心地の悪いものはどこかに偽りを含んでいる。

そのために私はどの宗教にも帰依することができないで生きてきた。

これまで触れることのできた宗教のどれをとってみても、ありがたい教えであるのは知っている。キリストも釈迦も、真理を得た人たちであることは疑いない事実だ。

教えは2千年を超えて伝えられてきた。教えとともに生きればいい。

だが問題はいつも、この瞬間にある。

昨日理解しても、今日受け入れられるかわからない。

私の心は、この瞬間この瞬間を生きている。

昨日の知識は今この瞬間の命にとっては牢獄になる。

元旦の声明で感じた違和感はそこにあったのかもしれない。

苦楽の根本が見えている。

この根本を見据えて初めて、「浄土」苦楽は描けるのではないか。

私はすでに、信仰を超えて、生きるという段階に身を置いている気がするのだ。

 

 

 

 

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「浄土」苦楽

2014-01-04 | 組作品「浄土」

御住職の講話は短いものだったが、強く私の心に響いた。

世の中は物事の良し悪しを区別して苦悩をつくりだしているという意味のお話で、

阿弥陀様は良いも悪いもひっくるめてお救いになられる。

良し悪しで悩むより、阿弥陀様に身を任せて今の命をありがたく生きればいいのだと教えられた。

その時ご自分のことを引き合いに出されて話されたことが、私には衝撃だった。

癌を患い、胃を切り取った。その術後の経過が悪く、腸の癒着を引き起こした。逆流して便が口から出る苦痛を味わい、2度も腸の摘出施術を受けたということだった。

そんなことでも、悪いと考えずに身を預けたら、健康のありがたさを教えられると。

淡々とした御住職の中にある壮絶なもの。

私は「浄土」奉讃会の案内チラシの完成版を手渡そうと持ってきていたが、なんだかあまりにも自分のことばかりと思えて、そのまま渡さずに帰ってきた。

苦楽を描くためには、この壮絶さを少しでも意識しておく必要があるだろう。よくわからないままに私は箱虫のモデルをくしゃくしゃに握りつぶした。

それが前回の画像だ。

 

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「浄土」苦楽

2014-01-03 | 組作品「浄土」

己をつくっている堅い殻、それが私自身を真実から隔離している

はなから難しい書き出しで申し訳ないのだが、私の心を伝えるのに他に適当な言葉が浮かばない。

浄光寺の元旦の法要は、導師(御住職)と檀家の声明が主な行事だった。

私がそこに参加したのは、「浄土」奉讃会を意味あるものにするために、出来るだけ寺のことを知りたいという思いからだった。

声明に加わったその最初から、私は自分の心の醜さに気付かされた。どうあがいても私の声明は二重になっていて気恥ずかしさや、取り繕いで心が揺れるばかりだった。

己を穿つと言いながら、無心に進んでいく声明の中で、がちがちの己が浮き彫りになって、その醜さがさらけ出されてしまったのだ。

「浄土」奉讃会に値しない。最初からそう言われたようなものだ。

この人たちに私など必要ではない。必要なのは真実それだけなのに、わかっているはずの私が己という垣根を張り巡らしている。恥ずかしいが失格というしかない。

これからだ。

私はそう自分に言い聞かせる。

自分を穿つということの難しさはあるが、40年描き続けてきた目標はその先にしかない。それだけが私のゆるぎない確信だ。もうあと少し、それできっと己に穴があく。

声明が終わって、住職の講話があった。

そのあとの私の心が画像のような箱虫の形につながっていく

 

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「浄土」苦楽

2014-01-02 | 組作品「浄土」

浄土「道」から、イメージは「浄土」苦楽に移る。

それは現世、今まさに生きている私のすべてだ。

迷い苦悩喜び不安羨望得意失意餓鬼聖人、すべてが一緒くたになって生きている世界。

いいものも悪いものも、真実も虚構も妄想も、

私の心には分け隔てなく、くっついている。

そんな現世の中で、心はより良いもの、正しいもの、益あるものを求めて生きていく。

その求める心さえ迷いの種を持っている。

真実を求めようとする心は、現世の雑巾のようなものになる。

きれいにしようとすればするほど、ゴミあくたが引っ付いて真っ黒になるのだ。

その雑巾を絞り、

最後の最後に絞り出す真実の一滴、そこに愛がある。

「浄土」苦楽の制作イメージから構図が生まれた。

「浄土」門に続く4枚の絵のイメージが今回の画像です。

そして私は

正月の法要に参加させてもらうべく浄光寺に向かった。

 

 

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2014年もよろしく

2014-01-01 | 日記

明けましておめでとうございます。

皆様にとって、よい年でありますよう願っております。

新春、浄光寺では毎年境内で年越しそばがふるまわれます。

今年も、新しい気持ちでお参りし、おそばをいただきました。

カメラを持っていくのを忘れて、映像がないのが残念です。

正月早々

浄光寺住職から頂いたカレンダーをかけて、アトリエの始まりです。

5月ののしてんてん絵画「浄土」奉賛会、絵も心も成長したいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

元旦

北籔 和

 

 

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