福島の原発事故の影響が日毎に拡大している感があります。
そして今、原子力発電所に対して憤る想いを持った人は多いでしょう。
もちろん自分もその一人で、いろいろと考えること、むかつくこと、
たくさんあるのですが、そうした考えがまとまらないままで、
とっちらかるばっかりで、ブログにポストできるような状態になりません。
ところで、原発に憤るなら、もっと早く国民は声を挙げるべきでした。
建設されて、事故が起こってからではなくて、建設される前に、
憤りの声を、建設反対の声を大きく挙げるべきでした。
原発は原子力の危険性にもかかわらず、安全なんだなと思い込まされて、
大きい地震が起きても、まあ、大丈夫なんだろうという、
そんな根拠のない信頼を国民全体が何となく持っていたのではないかと思います。
でも、現実は違いました。
ロシアのチェルノブイリの事故を、あれはロシアだから起きたんだと、
ロシアの低い技術力だから起きたんだと、傲慢にも日本人は
考えていたんじゃないでしょうか。
それが日本では、あれから四半世紀も経ったというのに、
チェルノブイリと同等かというような事故が起きてしまったのです。
日本は唯一の原爆被爆国なわけですが、それでも原子力発電所の建設を進めたのは、
エネルギー資源に乏しい日本が目指した国策という側面があったのかもしれません。
石油の輸入に激しく依存するエネルギー体質からの脱却、
そういう考えがあったとしても不思議ではありません。
とはいえ、原子力発電所というのは正しい選択ではありませんでした。
そして日本は原発を作りすぎました。世界一の地震国であるのにです。
原子力の事故がどれだけ危険か、わかってる筈なのにです。
何故、日本人はその時点で原発に反対できなかったんでしょうか。
そんなに、原子力の危険を負ってでも、エネルギー逼迫の状況に
あったということなのでしょうか。
いや一方で、原子力は安全でクリーン、なんてキャッチフレーズが
恥ずかしげもなくアピールされるようになっていました。
そして、温暖化防止だの低炭素化だのエネルギー自給率だの、
もっともらしい理屈とともに、原子力の正当性が主張されていったのです。
そんないい加減なことを言って原発を推進してきた、官僚や政治家、
財界、学界など関係者には、今回の災害の補填をしてもらわねばなりません。
ところがどうでしょうか、まさかとは思いましたが、
そういう連中は「想定外でした」で済まそうとしてるんじゃないかと、
以前ブログにポストしたことがあったんですが、本当にそうするとは、
なんて厚顔無恥な連中なことか。
都市が使う電力を、地方の原発で作っておいて、
事故が起きると地域の住民を難民化し産業を破壊しているのです。
避難を強いられた住民や作物の放射能汚染被害を受けた農民の無念さは、
そうでない人間にははかりしれません。
いつの間にか国民は原発の危険性・安全性に対して思考停止に陥り、
疑問を抱き反対することに怠慢だったとも、言わざるを得ないでしょう。
それでも、原発関係者の責任、犯罪性は許せないと思っています。
とにかく、そうした原発推進勢力も含め、
日本全体が過ちを犯した結果なのかもしれません。
これから日本のエネルギー政策はどうなるのでしょうか。
もう、原発なしの生活を選択するとしたら、節電どころではない、
エネルギーに頼らない生活を送ることを迫られるかもしれません。
それはそれでしょうがないかもですね。
電力を多量に使用する生活に慣れきっている日本ですが、
そうした習慣を捨て去る時がきたということでしょうか。
いいじゃないですか、ネオンが少なくて夜の町が多少暗かろうが、
駅のエスカレータが動かなかろうが、今より電車の本数が減ろうが、
それによって多少、経済活動がシュリンクしようが、
そうしたエネルギーのサイズに見合った生活をすればいいだけです。
少ないエネルギーで自然の厳しさとともに暮らせばいいのです。
その、自然の厳しさを忘れ過ぎだったのです、自分たちは。