日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「N5」、「N4」レベルの漢字が読めないし、書けないという人は、「N3」の「文章」は…少々きついですよ。

2018-02-19 08:53:42 | 日本語学校
晴れ。

晴れとは言えないまでも、まあ、晴れでしょうね。うっすらと雲がかかっています。

先日、郊外の駅で、時間が来るまで、見るとはなしに、今はまだ裸の「サクラ(桜)」の樹を見ていました。ここは、線路沿いに「サクラ」の樹がたくさん植えられていて、春になるとお花見ができるほど美しいのです。その上、駅の向かいには、土手に「ナノハナ(菜の花)」が一面に植えられていて、「サクラ」の前に、「ナノハナ」で春を楽しむことができるという場所でもあるのですが。

この小さな土手は小川の両側にあって、川の中には「アシ(葦)」が植えられていて…というか、自生でしょうね。そこで、「アシ」に止まった小鳥を見つけたのです。

「難波の葦は伊勢の浜荻」とよく言われるように、所によって名も異なってきます。この草を「アシ」と呼ぶか、「ハマオギ」と呼ぶか、はたまた、音を憎んで、「ヨシ」と呼ぶかは、人に依るのでしょうが、私は、「アシ」と呼んだ方が、しっくりきます。

この、小鳥に寄られた「アシ」、風がそよぐ度に、揺れているのですが、よく見ていると、他の「アシ」達に比べて、揺れが遅い。小鳥に寄られている分、重いのでしょう。

あの小鳥くらいの重さでも、衆と異なってくる。…何やら考え込んでしまいました。

さて、学校です。

インド圏の学生達、スリランカ、ネパール…もちろん、インドからの学生もバングラデシュからの学生も、パキスタンからの学生もいますが、総じて、文字を書くことが苦手。

習慣がないのでしょうねえ。いくら言っても、なかなか徹底できません。

大卒者であれば、判るのかとも思うのですが、それもだめ。どうしても自国のやり方で押し通そうとしています。

大学院を出た学生は、「漢字は面白い」と覚えようとしますし、家族が日本にいる学生は、姉妹の様子を見て、漢字が書けなければならないことが判り、頑張ろうとするのですが、普通に彼等の国から日本に来た学生は、まず、「漢字を覚えよう」という気がない…という場合が多い。

実際、漢字が書けないし、読めなくても、「N2」に合格出来るという、「非漢字圏」の学生も多くはなくても、結構、いるようなので、切迫感もないのでしょう。

しかしながら、専門学校まではどうにか行けても、それから後の、「いざ、日本の会社に就職」という段になりますと、途端に篩にかけられてしまいますから、その時に「後悔する」ということになりかねません。

それが、判っているからこそ、先人(卒業生)の失敗(「N2」に合格していたにもかかわらず、漢字が大して書けなかったので、日本語学校でアルバイトをしていた時分と大差のないような会社にしか就職できなかった)や、日本の有名大学卒でも、漢字が書けないことが理由で就職できなかったから、改めて日本語学校で漢字だけ習いたいとやってくる英語の達者な外国人もいる(この場合は、断りました。だって、大学でもそういう授業はあったはずです。それができなかった、あるいは、しなかったような人は、別に少々金を払ってでも、もうマンツーマンで教えてもらうより他ありません。ここに来られると、却って在学生によくない影響を与えてしまう可能性があるのです。この学校では、できるか、できないかはとにかく、最初から「漢字、漢字」と、教師は徹底して言っていますから)ことなどを、折りにふれ、話しているのです。

留学生の場合、こういう学校では、特殊な場合を除いて、一斉授業の形をとっていますから、何度話しても、話しすぎると言うことはないのです。その都度、判る人が変わっていきますし、増えていきますから(たとえ同じクラスであっても、ヒアリング力は、一様ではありませんし、また最初に聞いたとき、判ったつもりになったとしても、何回も聞いているうちに、誤解していたことに気づくこともあるでしょう))

たとえば(毎年、同じようなことを言っているのですけれども)、1回目は、そういう折りがあって、話したけれども、みんなポカンとしていた。2回目は2、3人がどこやら判ったふうであった。3回目は、それが4、5人に増えた。けれども、何やらどこかはっきりしないところが見えた…というふうに、何かあったときに幾度となく繰り返さねばならないことなのです。こういうことは。

繰り返しているうちに、いつか、ストンと肚に落ちていくでしょう。なにせ、彼等は「手の文化」の国にいるのですから。

それほど、彼等にとっては字を書かねばならない、文字というのは書かねばならぬものである。書かねば覚えられぬものであるということはピンと来ないことなのです。

彼等の国の文化では文字というのは、いわば、「『ひらがな』で終わり」であるようなもの。それが、「カタカナ」があり、何やら画数の多い「漢字」まであるという、三つの文字があることが、なかなか納得できないのです(ローマ字は別にして)。彼等にしてみれば、「『ひらがな』が書けるから、それでいいじゃないか」というところでしょう。

スリランカの学生は、少々趣の異なった「分かち書き」めいた書き方をします、文を書くとき、マスを一つか二つ分空けたような感じで書くのです。日本人なら、そこに読点が来るはずと思うでしょうね。ただ些か多すぎるのですが、この読点らしき空間。それが、多分、意味のまとまり。だから、全部ひらがなであっても、彼らの言わんとするところはわかる。もし、日本人が、日本人の書き方で、全部、ひらがなで文章を書いたら、どこで切ったらいいのか、意味のまとまりが判りづらくて困るでしょうね。

ただ、いくら知恵を働かせて書いても、ぼろは出る。結局、漢字も頑張らなくてはならないのです。

日々是好日
コメント
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