想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

私たちが受けた教育とは

2016年12月29日 | エッセイ

震災26年12月28日 

   今の学校教育はほとんどがデコレーションケーキの上の装飾の部分を、手を変え品を変え教えているようなものでしょう。いわゆる促成栽培教育です。

 昔から、下農は雑草を作り 中農は果実を作り 上農は土を作ると言われています。私も、120坪の畑を借りています。この言葉は肝にめいじている所です。私のスタンスは鶏糞と苦土石灰以外はなるべく使わないで、自然界の摂理を生かすようにやっています。自称、里山的農法です。以前は自然農法的にやっていましたが、やはり人がある程度は関与した方がいいと考えて、そういう名前にしました。終活は自然がテーマですので、その一部として野菜も作っています。野菜が生長することは自然現象です。

 ところで、私が受けてきた教育を思い返しますと、当時は理数科というと工学部が人気でした。ですので、その裏に理学部があるなんてことは気がつかないで育って来ました。また、学問にはもっと広い分野があるなんて考えもしなかったのです。当時は9教科で高校入試がありましたので、それなりに音楽や美術も勉強して良かったと思いますが、ケーキの装飾部分だけを扱っていたなと思います。いくら、小手先で装飾を施しても、その根底にある土台の部分の質を上げないと、砂上の楼閣になってしまいます。

 そんな教育の延長線上に入試があります。余分な事を考えるな、ただただ、効率的に学習しないと試験には受からないというベルトコンベア式な教育が蔓延していたのです。その制度に合う人間だけを沢山つくって来たのが戦後の教育だったように思います。適応能力を高めるのも処世術としては必要でしょうが、自分でつくり出し、価値を創造する力はもっと、根源的で大切な事です。人に使われる人を大量生産したのが、戦後の教育だったように思います。

 これからは、それも大切ですが、自分で起業するとか、自分でガイドラインを作り出す適応から創造へとシフトを切り替えていく教育がこれまで以上に大切になってきます。そういう能力があるにもかかわらず、埋もれている人が沢山いることは日本の損失です。

 そういう意味で、最近の生活科や総合的学習は総論としては正しい方向だと思います。しかし、条件整備が整わない中での総論だけが一人歩きしている現状では、各論で問題続出です。その部分にまで、メスを入れていかないと、真の解決にはなりません。東京都知事の市民ファーストと同じで大変な難問です。小池さんにエールを送りたいと思っています。

 

    さて、本来、公平公正に学問を伝えるのが、教育であるはずですが、随分教える内容が偏っていたなと思います。たかが18歳で将来を決めようとするときの、情報が極端に不足していたのです。

   義務教育段階でも、将来の職業選択上の情報を色々教えて欲しかったと思いました。私の無知もありますが、その点、教育の果たす役割は大きいのです。サラリーマン先生ではいけません。

 もっと、生物とか物理とか社会学とか芸術など、広い分野の話を先生方がしていてくれれば、当時の考えも違っていたのになと思います。中学生時代は受験のテクニックばかり教わっていた気がします。成績順で組替えがあったり、成績が張り出されたりと、一体学問の喜びはどこにあっただろうと思います。

 その喜びは、私の場合、自分のお金で進学し、勉強を始めた勤労学生の中にありました。その中で、学問のことを、実践の中で、OJTの中で学んだような気がします。いわゆる、生涯学習のような考え方も、その中で培われたように思います。

 そういう中で私は最終的な職業として、教師を選びました。そして、36年間どうにか、教育界という現実とお付き合いしながらも、職を全うできたことは、この上ない喜びでした。

 

 旧態依然とした教育を受けて来ると、勉強とは苦痛なもので、我慢してやることのように自己犠牲的なものとしてとらえられて来ました。しかし、自分から進んで大学教育を受けて見て、勉強は楽しいものだ。自分の好奇心を満たしてくれる能動的なアプローチができるものに変わっていきました。それは、なぜ、小さい時から、こういう教育が為されなかったのだろうと、従来の教育への疑問に変わっていきました。

 そういう窮屈な教育を受けて来ると、探求心はどこへやら、つじつま合わせの受動的なものに変わってしまいます。生まれもって誰もが持っている未知のことを知ろうとする力はどこかに行ってしまいます。

 今の教育も、受験を間に挟んでしまいますと、どうしても、技術的なテクニックを競い合って、学問の探求心がどこかに行ってしまいます。勉強ができないと、何も自分で考えることなく、すぐ、塾に解決を求めてしまうなど、安易な考えに走ってしまいがちです。

 また、満点が100点という点数で評価することになると、教科毎、内容毎にその価値が違うにも関わらず、同じ100点形式で評価されてしまい、世の中で何がより価値があるのかという、価値付けこそ大切なことですが、その態度化が身に付かないという事になってしまいます。

 たとえば同じ満点でも、計算力満点と、考える力の満点では、価値が大きく違います。後者の方がより価値が高いということが、分からなくなってしまいます。現在の満点をねらうのが受験戦争です。長い持続性のある力を育てる事がおろそかになってしまう教育であってはならないのですが、そこに、受験が入ってしまうと、とにかく、効率的にどうやって早く結果を出すという、結果至上主義に陥ってしまいます。本当の教育はそれであってはなりません。

 もちろん、現実を生きていくにはそのことも、処世術としては大切な事かもしれません。その処世術のみたけた人間が育ってしまいます。処世術としては、ほどほどにして、人生は長いのですから、長期的なスタンスから教育を見直してほしいと思います。

 たとえば、病気になると、何も考えずにすぐ、医者にいったり、薬を服用するのも同じ事です。かわいそうなことです。

 まず、なぜ、病気になったのか、なぜ、学力が下がったのか、どこに原因があるのか、自分の頭で考える習慣を態度化させることこそ大事な事です。これが、できれば、後は自分で生きてゆけるはずです。自分探しの旅はそこから始まるのです。その力こそ一番大事な事ではないでしょうか。それが、生涯学習に繋がってゆくのです。

 学校教育だけが学習ではないのです。今の時代は工夫すればいくらでも得るものはあるのです。自然は最大の教師であるし、我以外は皆師でもあるのです。その人の根底にある考えを能動的に変えるだけで、そういう態度が身に付いていくのです。

 路傍の石も、そこにあるだけでは、単なる無機質な石にすぎません。それを、磨いてこそ宝石にもなるのです。それが人の知恵というものです。知識をいくら積んでも知識です。知恵はその何倍も大きなものを生むのです。

 一匹の魚を釣っていては間に合いません。それを釣る術を学べば何匹でもつることができるです。そういう知識よりも学び方が大切な時代に私たちは生きているのです。生涯学習社会はその考えにより成り立っています。

 学びの素材はどこにでも転がっているのです。それを、どう使うかの技量が求められているのです。どんなに複雑に絡み合った糸ももとを正せば1本の糸です。Simple is beautifll なんです。それを商品に利用して売上を伸ばしてきたのが、無印良品でおなじみの(株)良品計画です。

 今の一見複雑化している世の中も同じようにシンプルに捕らえられれば、実にシンプルな事の組み合わせです。社会の複雑なパズルももとは簡単なものから出来上がっているのです。

 ITの世界も一秒間に地球を七周り半回る電波の速度で考えるから分からなくなるのです。それを、遅くして考えれば、歩行者の目線で考えることができるのです。微速度撮影など同じ事です(こんな世界があったのかと、あなたは目を見張るでしょう。)。単純な原理原則のベースの上に一見複雑に見える装飾が施してあるだけです。内面を磨かないで顔を整形したり、化粧をして表面を変えても本質が変わらなければ、だめなんです。

 今の教育も根本部分を変えて行かないと枝葉を色々くっつけても効果はなかなか難しいでしょう。一日は24時間だという根本から考えていかないといけません。24時間は神でも変えることのできない真理です。神聖な神の領域であると共に畏敬の念すら抱く存在なのです。誰もが、何の疑問も抱かないで生きているこの24時間という有限で絶対無比である世界のことをもっと知るべきです。

 それには、私たちは自然の前でもっと、謙虚な存在にならないといけません。小さい頃から、自然とは何か、人間と自然とはどう関わっていくのが、いいのか、という壮大なテーマを抜きにしては人類の発達も砂上の楼閣になるでしょう。

 人は自然と関わり、自然の中でそれを師として育ち、その中で知恵を発揮していかなくては、やがて人類も旧人のように滅亡していきます。

 

 私が中学高校の頃は、静大工学部か結構人気の時代でした。当時の我が家は兄が定時制高校へ、姉は中卒で自分で嫁入り資金を住み込みで貯めて結婚していましたので、私も定時制高校にでもいければと思っていたのですが、高校まで行かせてくれるというので、高校は電気科を選考しましたが、自分の適正などをもっと、チェックする教育があっても良かったのではないかと思っています。電気を選考はしましたが、なかなかそれに徹しきれず、自分の進路に迷いを感じていました。

 漠然と、外大へでもいって外交官もいいなとか、防大や気象大ならお金もくれて勉強もできていいなとも思っていたときもありました。結局は実業高校ですので、やはり就職するのだろうとも思っていました。大学に行くにはお金もないし、親には無理もいえないしと、そんな思いでいつのまにか、何となく就職できた会社へ入ってしまいました。

 いつも、果たしてその選考でよかったのかと、自問自答していた毎日でした。たかが、18歳で将来の方向を決めるのはちょっと、ハードルが高かったかなと思います。自分の個性が自分で分かる迄には後、数年はかかったと思います。自分という存在がかけがいのない自らの分け前だと知ったのは…。

 そんなわけで最終的には、高卒後、日本IBMは受験で失敗、河合楽器2年、ヤマハ発動機1年、防衛庁事務官4年を経て教員となり、36年間小学校教師として過ごすことになりました。

 小学校教育の中で十進数を扱いますが、特に六年の時の事です。繰り上がりを教えるのですが、教科書に書いてあるとおりやるのですが、それは、十進数が0~9の数字10でできているというのが分からないと、実は真の理解にならないのです。ところが、そのことはふれずに教えいました。ですから、教師の中では十進数とは1から10迄の数だと何も分からず知ったかぶりをしている教師を沢山見て来ました。

 現在はITの時代です。ここでは、二進数で動いている世界です。当時の十進数の繰り上がりを教える時に、二進数の事にも振れておけば、IT時代でも対応できる人材を沢山育てることができただろうにと思います。
 
 私も実は教師になって初めて十進数が1~10の数でなく、0~9の十個の数で成り立ち、二進数が0と1の数で成り立っていることを知りました。だから、デジタルなのです。
情報を0と1の数字の組み合わせ、あるいは、オンとオフで扱う方式なのです。ですから、丁度、電気のonとoff、+と-が二つに分かれますので、計算に都合がよかったのでしょう。それも、あり、電子の世界では大きく発展したのでしょう。

 繰り上がりも、その辺の0と1しか使わない世界では2の数字がないわけでですので、0と1の後は繰り上がるしかないわけです。本当の繰り上がりの理解もその辺の事をよく理解してないと分かったとはいえないのです。

 今の教育でもその辺のことを、発展として教えるようなシステムになっていると、よかったなとつくづく思いました。

 

 その間、社会福祉関連の仕事をやり、困っている人の手助けになりたいと真剣に考えた時期もありました。とにかく、どんなに科学が進んでも人でなければできない仕事に価値を見いだしていました。その延長線上に教育の仕事がありました。どんなに科学が進んでも人でなければできない仕事の一つに教育がありました。なってみて、適職を得た気持ちでその後、36年間定年まで勤め上げることができました。

 どちらかというと、のめり込むことなく何でも広く浅く適度にやる性格も相まって、すべての教科を担当し毎日が新鮮な気持ちで努めてこれて幸せでした。

 色々な人や色々な教科も担当し、日に日に新たなりという日々を送れたことは最高の幸せでした。不思議なことに唯一やったことのない教科主任が社会でした。皮肉なことに、社会科中高免許を持っていましたが、いまいち、小学校の社会に興味が持てなかったようでした。音楽も好きでしたので、音楽主任までやることができ、県の器楽コンクールにまで出場することができました。サッカーの部活も持たされ素人ながら、63校中の6位になったことは良い思い出として残っています。

 いつの時代でも、人を育てる仕事と言うのは変わらない価値ある職業だという思いを持てて定年まで努めたのは幸せでした。

 高校生の時、電子工学の先生が「…君、職業って英語で何ていうか分かる?」と、言うのですoccupationとか professionというと、そうでなくcallingだと言うのです。まだ、静大を出たばかりの先生でした。気があったのか、その先生の下宿にも遊びに行きました。

 彼は敬虔なクリスチャンでもあり、彼らしく「callingとはね。神が呼んでいると言うことだよ。だから、神様があなたのことを思って知らせてくれたことこそ職業だよ、使命感みたいなものだよ。」と、そんなニュアンスのことをいっていたように記憶してます。その後、お会いしてませんが、当時の事が今でも印象に残っています。いつか、お会いしたい先生です。

 さて、私というと、どうしても、物事を考えるときに、昔から、表面的に考えるのでなく、その本質を探りたがる傾向がありました。物事をトータルで眺めることも好きでした。当時はやたらと理系と文系を分ける考えが主流だったような気がしますが、

 今の考えは人をそう一方的な観点から眺めるのは良くないと考えています。人間はもっと、統合的なものです。人様が勝手にあの人は理系だ文系だと分けているだけです。人間とはもっと統合的、総合的なものです。その中心にある心は一体のものであり、各要素に分けることができないのです。それが、分裂した状態が統合失調症です。

 物事は決めつけてはいけないと思っています。いわゆるステレオタイプは良くないと考えます。ステレオタイプは色眼鏡で人を見ることだと思います。

 教師という職業上、そうすることは、その人を固定的にみることになります。誰もが向上する力を持っているのにそれを否定してしまうことです。伸ばす教師でなく、それでは逆にブレーキをかけることになってしまいます。あくまで、教師はその子の個性を見抜き、それをどこまでも伸ばすのが天命、CALLINGだと思います。

 人は文系や理系が混ざっているのです。ある時は感性でものを見、あるときは理性でものを見る必要があるだけです。見る視点は個別になりますが、理解は総合的にしないと過ちを犯します。私は文系だからとパッションで捕らえたり理系だからと理詰めで捕らえるのは固定した観念であり、統合的な人間理解からはマイナスです。

 特に心の問題は総合的にその人を俯瞰しないと本質にたどり着けないと思います。理詰めの良さと感性で感ずる良さの両面が人間理解では特に必要です。理系と文系の間をなんのためらいもなく行き来できる自由さこそ、大事なのです。

 ですので、私はバランス感覚をもっとも大事にします。

 要は心をいつも、液体にすることです。水は方円の器に従うと言います。それが真理なんです。私は新しいことに対処するときいつもそのことを考えます。心を無にするのです。タブララサといってもいいでしょう。心にバイアスがあったなら、斜めにそのものを見てしまいます。できるだけ無我の境地でそのものに接するようにしています。そうすると、向こうから答えを言って来てくれます。その時の私は単にそれを受け入れるだけです。

 後、3か月ちょっとで70歳になります。数え年ではもう、古稀をすぎたのでしょう。まだまだ、人生初体験の事が色々起こってくるでしょう。それに、できるだけ白紙の体制で臨みたいと思います。

 それには、健全な体と健全な精神が大事です。これこそ、神のみぞ知るです。後は神様にすべてをゆだねているだけです。

 先日も102歳の女性写真家がテレビに登場していました。徹子の部屋です。日本で初めての女性写真家だというのですが、司会役の黒柳徹子さんよりもお話のしかたが、若いのにはびっくりしました。あれだけのおしゃべりだった徹子さんの弁舌が最近見た所では少し衰えたなと感じましたのと、102歳の女性の若々しいおしゃべりにはびっくっりした次第です。

 あの写真方の方はどのような人生を送って来たのかと、あらためて思いました。写真を撮っているだけでもあれだけ若いということは、精神をいつも浄化しているのだろうと思います。心技体、人間の体はすべてが関わり合っているのだろうから、どういう生活を送ってきたのか、実に興味深い方でした。

 時間があれば、「100歳を生きた人々」-その秘訣-などと副題をつけて調べてみたいと思いました。

 お話をすると、長くなりますので、この辺で終わりにします。

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