想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

物の哀れ「もののあはれ」

2017年12月27日 | エッセイ

 

切り餅 パリッとスリット 1kg
クリエーター情報なし
佐藤食品工業

震災7年12月27日

 下の写真を想い浮かべて見るとよい、私は感ずるのだ。日本人の心の底に流れている「もののあはれ」を…。
はかなくも美しい絵だ。琵琶と共に語られる平家物語を聞くと想わずにはいられない人の儚さを…そう感ずるのは私だけであろうか。

 人生わずか50年と謡う信長の心にも、その言葉が浮かんだだろう。信長と言えば短気や気性の荒さの代名詞みたいに語られているが、果たしてそうであろうか。その辺の真実も確かではない。その、50歳という人生の中に物の哀れを感じていただろうとは予測される。

 限りがあるから輝けるのだ。ちまたでは、高齢化社会という言葉が一人歩きして叫ばれている。長生きばかりが良いのではない。健康で輝いていてこそ、価値があるのだ。何時までも輝いていたいが、人生、そうは問屋がおろさない。生老病死はつきものである。そして、人生には必ず限りがあるのだ。限りを意識したとき、人は輝きを増す。輝きは限りと共にその美しさを際だたせる。その中に物の哀れも存在するのだろう。三島由紀夫も同じだろう。

 私は4人兄弟である。兄、姉、私、妹と、だが、上の兄姉は共に70代の始めに故人となっている。私も今年70歳を迎えた。やがて、私もいつか、そうなるのだろう。が、今は健康であり薬の世話にはなっていない。だが、こればかりはいつ突然訪れるかもしれない。悔いの無い人生を歩むだけである。

 その日のことは、今でもありありと浮かんでくる。当時私は通信大学の学生であり、スクーリングの為、自宅に帰っていて、勤務先に向かっていた新幹線の中で聞いた出来事であった。3年に短大から編入したので3年生だったと想う。専攻は短大が商学部、大学が政経学部政治学科だ。短大は浜松に夜間がその大学しか無かったので、そこに入った。本当は社会学を専攻したかったのだが、そういう、状況に無かったのだ。仕事をしながら通える学校がそこだった。想いと現実はままならないことを痛感していた。

 さて、彼の話にもどそう。日本の美を代表するような作家だった彼が補給統制処(東京 市ヶ谷)に立てこもったのだ。そのときの私の職場は埼玉の第3補給処だったのである。事務官人事の仕事で人事2班にいた。通信大学の学生兼公務員なのであった。それなりに充実して仕事をしていたと、記憶している。私が23歳の時である。自衛隊の高官を人質にし三島由紀夫が割腹自殺をしたと聞いたときは衝撃的だった。

 さて、物の哀れは「わびさび」の文化と密接に関連しているように想う。それは、雪がしんしんと降ると同様英訳の難しい言葉であった。なぜなら、日本人にしか分からない心情を表す言葉だからだ。そんな事を考えていた10代後半の頃がなつかしく想う。

 英語は合理的論理的である反面そのようなアナログ的な表現には不向きなのである。世の中は合理的論理的に動いているとは限らない。だから、小説家が存在するのだろう。人の心は理屈では割り切れない世界なのである。そこをどう言葉だけで表現してゆくかが小説家の技量となるのだろう。

 一言で言ってしまえば、単なる意思伝達はできるだろう。しかし、微妙に揺れ動く心理描写までは無理があろう。同じ言葉を何回も使ったり、微妙にニュアンスが違う言葉を選ぶ必要があろう。だから、単なる伝達でなく表現ということになるのだろう。三島由紀夫は言葉では足らず、行動に打ってでたのであろう。

 表現方法も今は、多彩である。映像もあるし、音だけの世界もある。また、音楽もあり、いわゆる芸術の世界でもある。マルチメディアという言葉がよく使われた時代がなつかしい。昔は、誰もが到達できないような偉人の話ばかり聞いていたが、時代は変わった。

 大谷選手の二刀流の時代である。二つのものを自分で統一してやってゆく良さがやっと現実的になったのだろう。まさに今は、多種多様な時代である。一つの型にはめてしまうとその人の才能がしぼんでしまう。良い時代になったものだと想う。大谷選手活躍が今後も日本で紹介される日が待ち遠しい。

 さて、表現方法は多様であるが、言葉という道具を使って描写しなければならない小説は体験という経験ばかりでなく、表現の一種でもあるので、それを外に出したいという強い内発的動機も必要だ。限られた言葉を駆使してどう用例や用法も用いるかによる。また、語彙を増やしておく必要もある。その語彙の裏には体験の裏付けも必要だろう。言葉以前の人間理解に通じていないと無理だろう。書くことをいとわない粘りも要求される。私には到底及びもしない世界である。せいぜい、気が向いた時にブログにしたためるぐらいだろう。まあ、しないよりは良いかぐらいでブログを書いている。

 今年も残り後わずかとなってきた。1年も総括して来年度へ向けて行かねばとも想うが、なかなかしがらみの世界もあり、多事多難である。

 諸行無常、形あるものも、やがてその形を変え自然に帰る。そして、また、新たな命に宿り芽吹きまた、同じ動きをする。落ちた花弁のかけらも、もともと、美しい花びらとして存していたであろう。花に命があり、限りがあり、移ろうから植物は美しい。人間もそうして、限りの中でうつろって命を次世代につなげていく。

 散った花弁、残った花弁も美しい、その刹那を一所懸命に生きているから。

寒椿の花

 

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木の葉のスケルトンから想う

2017年12月25日 | エッセイ
正月飾り に最適 門松 迎春 フラワーアレンジメント お正月 の お花
クリエーター情報なし
ほんまもん屋&Hanaファクトリー

震災7年12月25日

 寒椿の葉の上にスケルトンとなって葉っぱが落ちていました。これを見ているだけで色々な想いが浮かんできます。

 スケルトンというとがい骨を想い出します。それは人体のがい骨です。がい骨というと学校の理科室をイメージしたり外国の怪談が浮かんできます。当時小学校の理科室にはよくその模型がありました。今、想えば36年間もよく小学校の教師をやっていたなと想います。その間、社会と家庭以外の主任は殆どやって来ました。算数、国語、理科、音楽、図工、書写、道徳、体育、特殊教育、外国籍、情報教育主任とこれだけの事をやらせて頂き、良い経験でした。

 小学校の良さは総合的に教科を扱うことです。そして、子どもをそのことを通して総合的に看取ることです。広く浅くというか、まあそんなことですが、その本質をつかむ事が大切です。物事の本質こそ、格なのです。だから、人格であり、格調、風格、品格につながって行くのです。最近はこのような言葉があまり言われないのが残念です。人間が薄っぺらくなったのかもしれません。表面的なことにこだわり過ぎている風潮も危惧し手います。

 物事には本質があるのです。そこから波状してくることには間違いは少ないのです。本質を忘れた時から間違いが始まるのです。いわゆるボタンの掛け違いでしょうか。その掛け違いにいち早く気付けば良いのですが、自分に不利益が降りかかって来て初めて、気づく人が多いのは残念です。いわゆる天に唾することです。唾が落ちて来て初めて気付くのです。ついつい奢りが出てしまった等の反省点です。恋は盲目とい言葉がありますが、奢りは盲目です。いつでも謙虚でなければいけません。いつでも人は人間でありどこかとつながっているのです。だから、人と人の間と書くのです。昔の言葉はこうやって考えて来ると含蓄があります。

 「儲ける」は信ずるものが集まるイメージですし、「稼ぐ」という言葉には、「家」に「禾」、すなわち、愛する家族にかてをもたらす光景をイメージできます。「親」は高い木の上に立ちよく見ることです。「忙しい」も、心を亡くすとかくからおもしろいですね。

 今回、こんな物を自然の中で見つけました。葉っぱがスケルトンになっていたのです。肉体が滅びるとまず、こうなってしまうのかと想いました。自然は無情といえば無情です。なるべくしてなり、起こるべくして起こっているのですから。

 そこには、在りし日の葉っぱの面影はありません。自然界とはまさに新陳代謝が常に行われているこのような諸行無常の世界です。生老病死が絶えず行われ、その中でも新し命に引き継がれて行きます。

 私は趣味の一つとして園芸や野菜作りもしていますが、野菜を育てていると一年と言う短いサイクルで次々と新陳代謝が行われ野菜が生長し、変化していきます。このサイクルの中に何ともいえない喜びを感じています。

 青々として白菜の芽を見ているだけで幸せを感じます。ネギの色の鮮やかさに感心もします。ネギの色は日本語で浅黄色ともいい、その緑の色は単に緑とだけで言い表せません。やはりネギの色は緑なんですが、浅黄色が一番似合います。まさにアナログの世界です。また、白ネギの白さもその中に生命が宿っていると想うとその白さは何と表現したらいいのでしょう。私たちは毎日その命をいただいているのです。思わず掌を合わせたくもなるでしょう。食事の時の合掌です。ネギは意識してそうなっているのでなく、ただ、命をつないでいるだけなのです。諸々の物をよく見ていると、自然界は実にうまくできているなと感心することしきりです。自然界にはあるべくしてあるものしかなく、いわゆる余分な贅肉が無いのです。だから自然なのです。懐もとてつもなく広いのです。すべてを飲み込んでしまいます。だから、今、自然は畏敬の対象となるのです。

 Viva nature!

 

 

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自然治癒力と医療

2017年12月23日 | エッセイ
【10枚】 平成30年(2018年) お年玉付き年賀はがき 犬のフジさん 無地 インクジェット
クリエーター情報なし
日本郵便

 震災7年12月23日

 森羅万象、本来そこに生存しているということは、意義があってのこと、生物には本来、自然治癒力があります。その力をそぐような薬はいけません。

 人には寿命があるのです。天寿があるのです。体が朽ちるのはごく自然のことです。朽ちるべくして朽ち果てるのです。その流れを天寿と捉えないと、どこまでいっても幸せになれません。

 人の最終目標は幸せです。その為の補助としての医療です。エネルギーはたまれば圧力が高まり爆発するのが、自然の流れです。もっと、自然を眺める事が大切です。

 そこから、気づくことが大事です。永遠に生きようなどということは、人のエゴです。自分の体がどうなっているか、内省し見つめてください。この世には切りがあります。限界があります。人の体もいつか尽きて行くのです。

 病気はすべて体液の流れが正常でない状態です。

 古代ギリシャのターレスは「万物の根源は水であるにちがいない」という結論 に達しました。「水がその姿をいろいろに変えることによって,この世のすべ ての事物が生じるに違いない」とターレスは考えたのです。
胎児は90%、成人は60%が水で出来ていると言われています。病気は全て体液の滞りがあり、そこで炎症が起こっているのです。なぜ、そうなったか治療をする前に、よく考えをめぐらすことです。

 現代人は何でもすぐ、医療に頼ってしまいます。そこに最大の落とし穴があります。死ぬときは死ぬが宜しい。しかし、急いで死ぬことはない。死は黄泉の国の誕生です。

 そして、人はそこで、永遠の命を得るのです。何故人は死をそう怖がるのか?死と生は表と裏のようなもの。
紅葉の葉も裏を見せ表を見せて散ってゆくではないか、死を恐れ医療に頼るよりも、もっと人間を生物の一員として見つめようではないか、何故、人はこの世に誕生し、誰がこの世に誕生させたか、その使命は何なのか。

 この辺に深く想いを馳せた方がよろしい。人は生きるべくして生き死ぬるべくして死ぬのである。深く、自然の理を観察すれば答えは自ずとでてくる。これがじねんたる自然なのだ。


 想いは重ねれば、やがて、思想となり、信念となる。最後に信仰となり、これは、誰にも覆させることの出来ない不動のものとなる。

 最後に人を救うものはこの信仰である。信仰に勝るものはこの世に存在しない。この種の信仰を持てば、死も現生も同じ次元の世界になるのだ。

 現世には空間があり、時が流れている。全てのものに質量があり、物理的に存在している。粗密があり、過去、現在、未来の時の流れの中で全ての物が存在している。

 現世には限りがあり、諸行無常であり、絶えず変化して行く。形あるものは、いつか滅び、栄枯は盛衰して行く。物に溢れ物欲の世界だ。しかし、愛もあり、思い遣りにも溢れている。どちらを選ぶかは、個人の判断になる。

 死後の世界はどうだろうか、命を現世で終えた途端、魂は黄泉の世界に入る。そこは、質量や時間の流れもなく、空間もなく、勿論、無の世界である。

 魂は質量もないので、どれだけの魂も存在していても混雑はない。瞬時に移動も可能、そもそも時間と空間が存在しない世界なのだ。だから、無である。

 黄泉の世界を現世から考えるから分からなくなる。黄泉の世界こそ永遠の命の世界であり、現世は一時的な世界なのである。たかが、百年、されど百年の世界である。だから、まず、この世界で己の魂を磨き、永遠の世界に入って行きたい。

 永遠の世界は、愛と慈しみに溢れた世界と信じて、信じる者は救われる世界、幸せいっぱいの世界 viva nature!

 信仰に勝る者なし、良い信仰心を持とう!我以外皆師であり、自然は最高の教師です。

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面照明から想う

2017年12月19日 | エッセイ
QuadPro マグネットブロック 磁気おもちゃ 子ども 磁石ブロック 図形 組み立て 想像力と創造力を育てる 知育玩具 積み木 男の子 女の子 ゲーム モデルDIY 子供オモチャ(76ピース)
クリエーター情報なし
Mygeek Direct

震災7年12月19日

 照明の歴史について、想うことがありました。人類は火と共に歩んで来たといっても過言ではありません。火を自由に扱うことで万物の霊長にまで成長したのだと思います。キャンプファイヤーなどでも、必ず火を灯します。自然の中にあって火は仲間の象徴のような意味も発揮します。だから、火を囲んでキャンプをやるんですね。仲間作りにはいいですね。

 自然の中で灯される火はなぜか人の心をいやし、自然に畏敬の念を抱かさずにはいられません。それほど、人類は火をあがめてきたと思います。オリンピックにも火が使われます。

 

 最近は火というと、さながら火災を想起させます。キャンプの火はいつのまにか時代の流れの中で火災の火になってしまいました。

 さて、火というと、もっとも原始的な照明でしょう。二足歩行を始めた人類が火を利用した頃からそれは始まります。火は人と切っても切り離せない関係になりました。

 たいまつから始まり、ろうそくになり、エジソンが白熱電球を発明しました。そのフィラメントは日本の竹だというのではありませんか。

 その後、蛍光灯が現れ、点灯管のつけられた蛍光灯から、瞬時で点灯する蛍光灯へと進化してきました。昔は「あいつは蛍光灯だな。」と、いうと、反応の遅い代名詞でした。でも、その響きには何となく暖かみがありました。遅い方の良さに目をつけた言い方なのでしょう。

 何でも効率と効果を言う時代の流れでしょうか。いまでは、何でも診断名がつき発達障害という言葉が一人歩きするようになり、世知辛い世の中になったなと思います。それもその人の持つ個性から障害という言葉に変わって来ているのです。もっと、温かい言葉はないものかと思います。

 誰でもその人に割り当てられたものがあるはずです。だから、存在しているのです。そんなことをいいだすと、少なからず誰もが障害を抱えて生きていることになります。「みんな違ってみんないい」と、いった金子みすずが泣いています。

 

 最近とみに叫ばれているのが、省エネです。熱を発する事が少ないLEDはまさに時代の寵児扱いです。LEDも青色は発色が難しく最近やっと量産化が可能になりました。今、まさに省エネの時代の流れを受け、照明も明るく低コストのLEDへとすべてがシフトしてきています。

 私がまだ工業高校に通っていたころです。当時の照明は電球(点)と蛍光灯(線)でした。それは、今から、55年も前の事になります。当時はやがてそれが面の照明になるという想いを持っていました。

 しかし、いっこうにそれは進みませんでした。LEDが出てきましたが、面照明にまでは行きませんでした。密かにそうなると想っていましたが当てがはずれました。この、照明の世界は進歩が遅いなとあらためて思っています。

 

 テレビの世界はブラウン管から液晶へ、そして、画素数は著しく進歩してきています。そのことを考えると、照明がそれほど、進化していないのが不思議でなりません。テレビやカメラの映像の世界ほど、需要が無かったのかもしれません。それとも、そのことに誰も気づかなかった野かもしれません。

 経済は需要と供給の世界で成り立っているわけですが、その需要が少なかったのでしょう。テレビの画素数の向上は目を見張る物があります。4Kテレビから次は8Kテレビへと進化して来ています。カメラの画素数も同じです。

 今後は東京オリンピックが開催される2020年を目指して映像の世界は驚くほどに進歩してゆくのでしょう。どのメーカーも手ぐすねを引いて2020年を待っていることと思います。

  私もそのころにはあと一歩で後期高齢者の時代に突入することになります。人間に高齢者も若者も無いというのが持論ですが、そういう時代に入って行きます。特に団塊の世代が共に後期高齢者になる2025年度問題は、オリンピックの後の大きな社会問題になるでしょう。そのとき私は78歳のなります。

 そのころには面照明として天井や壁が光る時代がくるだろうか。どうも、このままでは面照明の時代はまだまだ先のような気が致します。そのころになると、映像やインテリア、街並み、印刷の世界もよりシームレス化し、大きく変わるようになるでしょう。益々、省エネが進み電気自動車全盛の時代を迎えるでしょう。1回の充電で1000Kmぐらい走る自動車も実現していることでしょう。もしかして水素自動車の時代になっているかもしれません。また、従来の発送では考えられない、車にのるのでは無くて、道路が動く時代になっているかもしれません。果たしてどうなることやら、神のみぞ知るです。

 また、いつか。紙面を借りてポスト2025年後の社会をひもといてみたいと想います。乞うご期待を!

 ところで、当時は蛍光灯の線としての照明もやがて天井や壁などの面が光る物に変わるだろうと考えていましたが、半世紀以上たっても面の照明にはなりませんでした。そこの垣根がどこにあるのか分かりませんが、そこをクリアーするハードルはすごく高いんだなと思います。

 ブラウン管から液晶の延長上にその面照明も考えられそうに思いますが、なかなかそこを越せないのが現状のようです。企業がアイデアを想いついていないのか、それとも、そういう素材の開発がむつかしいのか…。多分思いついてないのだと想います。今の時代の実力からすれば、その気になればそれくらいのことは朝飯前のような気がします。

 真空管からトランジスター、ICへと小型されデバイスかされている電子部品と比べると照明の変化は遅々として進んでこなかったように思います。

 今後はテレビの画面が大きくなり壁全体がテレビになる時代がいつかくると思いますが、その辺と閉口して面照明も進化してゆくものと思います。テレビに比べれば構造的にはもっと簡単なはずですので、流れができれば速いでしょう。そのころには電子カーテンなる物のできているのでしょう。スイッチによりガラスが一瞬カーテンに変わるという発想です。

 最近の傾向は省エネという流れがあり、LEDが発明されその利用が進んでいる真っ只中にあります。この液晶の大型化が面照明の大きなキーポイントになるのかなと思います。それとも、画期的な資材開発が進み電圧をかけると光るような素材が発明されれば、照明の面化も飛躍的に進むのかなと思います。それは街の照明やディスプレイ演劇、芸能などに大きなインパクトを与えるかもしれません。その変化を見守っていきたいと思います。

 

 そんなことを想ったりもしますが、私の本音は、自然のままが一番いいなと思います。最近のLEDをふんだんに使ったテーマパークがたくさんできましたが、個人的にはあまり、みたいとは思いません。やはり自然の美にはかないません。奥深さが違います。その先には畏敬の念を抱くのです。

 人工物にはなかなか畏敬の念とはいきません。人工物は自然を征服するという考えが底辺に流れているようです。それよりも、自然のギフトに感謝し、それと共生する方がいいなと思ってしまいます。viva nature!です。自然の物には命やあたたかさを感じます。

 最近は電気屋さんよりホームセンターか食料品店によくいくようになりました。毎日の生活には欠かせないものです。ささやかな毎日の生活を充実させるのが、日課となりました。

 

 

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取っても取っても生えて来るモチノキの若芽

2017年12月17日 | 我が家の庭
魔法洋菓子店ソルシエ クリスマスケーキ 5号サイズ(直径約15㎝) コク深いフレッシュ生クリーム と ジューシーな 苺 の コンポートがおいしさの秘密
クリエーター情報なし
ソルシエ

震災7年12月17日

 モチノキはモクセイ、モッコクとともに「庭木の三名木」 として和風庭園には数多く植栽されています。我が家にも二年程前まで、ありましたが、段々成長し大きくなって、隣の家に根っこが生えると大変と思い、昨年根本から伐採しました。その結果が下の写真の切り株です。

 そういう訳か、ヤマモモの木と同様、樹勢の強い木で幹を根っこ近くで伐採しても、次から次へと新し芽が横から出て来ます。そういう、生命力溢れた木です。

 下の写真はもう、5,6回程、芽を摘んでしまったのですが、暫くすると、横からまた、新しい芽が出ていました。生命力というか、成長力の強い木だなとつくづく感心をしているところです。

 

 

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