想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

衣食住、そして、幸せ

2020年06月18日 | エッセイ
 
 
コロナ元年6月18日
 
「衣食足りて礼節を知る。」と、昔の人はよく言ったものだ。なる程、心のゆとりがないと、礼節も出てこないというものだ。また、衣食住と言う言葉もよく使った。このことが補償されている事が人間、何をやるにも大切だと言うことだろう。憲法第25条には健康で文化的な最低限の生活保証というのもあったな。
 
 
 基本的人権について学んだ勤労学生でのスクーリングの頃が妙に懐かしく浮かんで来る。 
 
 
 朝のウォーキングをしていると、色々な事が脳裏に浮かんで来る。士農工商も浮かんでくる。なる程、よく考えて出来た言葉だと思う。幕藩体制の根本を貫く身分制度だ。その下にヘタという身分を作ったのは論外だ。
 
 
 また、最近使われなくなった言葉にエンゲル係数がある。昔はこれが大きいと貧乏だと言っていた事を思い出した。しかし、なぜか、この言葉はいつのまにか使われなくなった。それだけ、全体が豊かななったのかな。全ては消費と効率こそ経済の素という資本主義の行き過ぎが原因だろう。
 
 
 そして、百年に1度と言われた東日本大震災が起こり、温暖化により、その自然災害が日常化されてしまった。百年に1度でなく、毎年起こるようになってしまった。災害の日常化である。自然は正直である。因縁果の法則で今、そうなって来ているのだ。
 
 
 今、困っていることに、海水温が上昇していることがあげられる。海の温度が上がるという事は、相当なエネルギーが貯まって来ていると思って差し支えない。この先、温暖化により、より大きな自然災害が懸念される。
 
 
 その延長にコロナ禍があったとみて多分、間違いはないだろう。昨今人類が追い求めて来た消費と効率が地球環境を痛めて来たとしか考えれない。
 
 今からでも遅くない。コロナ元年により覚醒された人類が今こそ、新しい価値観で結束し、美しい地球と共に歩まなくてはならない。足元を見て、グローバルに行動するのだ。これから、長い新しい日常が始まる。いやいや、想ったより早く終息するかもしれない。その頃には、また、新種が発生するのかもしれない。一寸先は闇だ。
 
 今の課題はどうやって、人類の自然治癒力を高めるかだ。そこにどうやって、人間の知恵をプラスにしていくかに今後はかかっている。
 
 今や色々な化学製品が溢れている。自然界にないものを作り、海をプラごみで汚染している。今後はコロナの教訓をどう活かしていくかにかかっている。
 
 薬漬けの医療も変えなくては行けない。本来生物が持っている自然治癒力が十分に働く社会を今後作っていくことが求められる。ステロイドなどに頼らない日常こそ、大切にしたいものである。
 
 今の医療は、新薬と病気のいたちごっこになっている。それが経済を大きくしているのだ。この連鎖もどこかで断ち切っていかないとだめだ。これには今後も自然と共存する道を歩まなければ人類の未来はない。科学は自然を理解する為にだけ使うのだ。ベクトルをそちらに向けて普段の努力を重ねるしかない。人間も所詮自然の一員なのだから。
 
 間違っても、今後、科学は自然を変えることに使うのではなく、自然を理解し共感する為に使って欲しい。科学は自然を征服するのではなく、自然を理解し、自然と共存していく為にだけ使えるようにして欲しい。
 
 原子力や自然界にないものを作り出さないで欲しい。それが、人類の未来を危うくする。コロナ禍から多くの事を学んで、どうか人類が賢くなって欲しい。自然こそオールマイティで、最高な存在として畏敬の念を抱かなくてはいけない。
 
 畏敬、真理、普遍、悠久、永遠、自然、恒久、ベクトル、宇宙などの大きく広く深く長いプロセスを含んだ言葉を使って考えて欲しい。
 
 今、地球は、大きな岐路に差し掛かっている。私たち団塊のシニアは若者に委ねるしかない。賢明な若者が出てくる事を祈念すると、同時に今までのシニアの知恵も新しい世代に繋げていきたいと想う。
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カラフルなほうれん草?スイスチャード

2020年06月11日 | 家庭菜園

コロナ元年6月11日

    菜園で最近はスイスチャードをよく作っています。イタリア野菜で、原産地は地中海沿岸です。私のスタンスでは、珍しい野菜もよく作ります。最初は食べ方が分からなかったのですが、ほうれん草と同じアカザ科の野菜なので、おひたしにもいいです。色もカラフルできれいなので、サラダにも添えます。 和名では不断草といい、ポリフェノールも豊富です。茎も黄、白、赤とカラフルで栄養豊富です。これから、人気の出てくる野菜間違いなしです。私はおひたしやサラダで食べることが多いです。最近は茎をセロリ代わりにマヨネーズやケチャップをつけて食べます。

 味に癖もないので、工夫次第でどんな料理にも使えます。いつか、葉っぱに来るんで、おにぎりにして食べてみようかとも思っています。そのとき、中に何を入れるとおいしいかも調べてみたいです。今考えているのは、梅干し、ちりめんじゃこ、たらこ等です。

こびとがスイスチャードの森の中から出て来るような気がしてきます。緑が美しい野菜ですね。

 

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コロナ禍 最期に残るもの?

2020年06月08日 | エッセイ

コロナ元年6月8日

 このところ、世界を吹き荒れたコロナの嵐も少し収まってきたかに見えます。各国も徐々に経済活動を再開しつつあります。ここで、心配なのが、第2波です。どの程度のものがくるか、どきどきの毎日です。どの程度のより戻しがあるかは誰も予想できません。まさに、神のみぞ知るです。どの国も薄氷を踏み分けて進むことになるのでしょう。患者の増加による医療崩壊はもっとも留意すべきことでしょう。第一波が終わった今こそ、準備を進めておかねばなりません。

    さて、いつも想うのはなぜ、パンデミックになったかという事です。まさに、原因の第一は、世界の人口の爆発的増加です。それが、多方面に地球に負荷をかけていたと考えて間違いはないでしょう。

 18Cの産業革命以降に世界人口の増加ペースが早くなってきました。そして、20Cに人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験しました。国連の推定では19C末の1900年におよそ16億人だった世界人口は20C半ばの1950年におよそ25億人となり、20世紀末の1998年にはおよそ60億人にまで急増しました。

 特に第二次大戦後の増加が著しく、2011年には70億人を突破し今では77億人と言われています。しかし、世界の人口増加率は1965-70年の2.06%が頂点となりました。ここをピークとして少しずつ、増加のペースを減少させてきており、人口増加は続くものの人口爆発の危機は幾分、遠のいてきたとされています。

 今後は世界レベルでの高齢化、地域間の格差と移民、食料不足、新しい病気やウイルスの登場等が問題の焦点になってきています。つまるところ、人口の爆発的増加に地球が悲鳴を上げて来たということです。

 解決策は、もう、地球にやさしい経済にし、人口を抑制しながらコロナと付き合っていくしか方法はないような気がいたします。そりゃあそうでしょう。同じ広さの体育館に16人いたのが、今では、77人になったんですもの、そりゃ寝るにも食うにも困るでしょう。ソーシャルディスタンスも図るのが難しくなっているのです。感染リスクも上がってしまいます。昔はもっと、人口も少なかったでしょうから、ウイルスやばい菌もうつりようがなかったかと思われます。

 ですから、これからは人間も自然の流れの中で経済活動をして、消費財も土に帰るジャガイモでん粉で作ったり、間違えても石油製品で作らないようにするなど、極力自然に帰る製品にしてゆくなど、大きくパラダイムシフトしてゆくしかないでしょう。科学は地球にやさしくなる為に使って欲しいです。

 ポストコロナは、自然に帰れの世界にならざるをえないでしょう。自然から学び、自然を師と仰ぐことです。そこから、いくらでも学ぶことはできるはずです。私の菜園のスタンスはまさにそこにあります。

 フランス啓蒙(けいもう)期の天才的哲学者ルソーは根本思想にて「自然に帰れ」と叫びました。自然は人間を善良、自由、幸福なものとしてつくりましたが、社会が人間を堕落させ、奴隷とし、悲惨にしました。それゆえ自然に帰らなければならないのです。人間の内的自然、根源的無垢(むく)を回復しなければならない、というのであります。

 これはいうまでもなく、原始的未開状態への逆行を意味するのでもないし、またいっさいの悪を社会の罪にして、人間の責任を不問にするのでもありません。ルソーはあくまで社会を人為の所産とみて、社会悪の責任を人間に問うのであります。「たえず自然に不平をいっている非常識な人々よ、君たちのあらゆる不幸は君たち自身から生じていることを知るがよい」。これが第二論文『人間不平等起源論』を貫く内心の叫びであると、ルソーは『告白』第8巻で述懐しています。18世紀の事ですが、このような考えを持った人がいたのです。ですから、私はいつも想うのですが、世の中は進歩しているように見せてはいても、本質は変化しているとしか言いようがないと想っています。それは、昔のお釈迦様の言葉であり、諸行無常が世の中の本質だといえます。お釈迦様といえば、諸説があり、紀元前400~600年のお生まれです。今から、2500年も前の世界で、個の真理を発見した彼はやはり世界の偉人です。他に、諸法無我なる言葉もあります。これは諸行無常と対をなすものです。直訳すればあらゆる事物には永遠不変なものである我がないという事になりますでも自分にはこの体があるし、五感で感じ、頭で考えることもできるではないかという考えもあるでしょうが、今まで会った人や受けた教育が違えば当然今の自分とは違います。今、ここに自分があるのはこれまでのさまざまなご縁のおかげであり、自分の存在自体も、諸行無常のこの世界ではさまざまな因縁のなかに映し出された影のようなものなのでしょう。「諸法無我」とは、諸行無常」を違う側面から言い表したものなのです。

 昔はアレルギーもなかったように想いますが、最近は誰もアレルギーを持っています。ですから、皮膚科はどこも満員です。そして、アレルギーや抗体が暴走する問題も今どきの課題です。コロナでなくなる人も、そういうことが原因で悪化した人もいるようです。これでは、近代医学と病気の追いかけっこです。どこまで行っても、切りがありません。どこかで、連鎖は断ち切らないといけません。

 私も今までは、なかったようなことを経験するようになりました。いわゆる皮膚のアレルギー反応なのでしょう。それは、菜園をやるようになってからのことです。腕に虫刺されのような傷ができた時のことです。今までは、赤チンや消毒液を塗っておけば可能もせずに治ったのに、ついに皮膚科にゆき、ステロイドの入った軟膏をつけないとなかなか治らなくなってしまいました。昔では考えられないことです。周りの環境が変わって来ているということでしょう。試しに1月ほっておいたのですが、治らないのでついに皮膚科に行き、その薬を塗ったところ、すぐ直ってくるのです。それには驚きました。今はそんな時代を生きているのだなと痛感しました。それからは手や腕の周りをしっかりガードしてから農作業をするようになりました。その後は調子がいいです。

 私は基本的には自然治癒力がすべてだと考えていましたが、今の時代はそれだけでは治らないのだなと感じてきています。残念なことですが、環境が昔と大きく変わって来ていいるのです。人間の体も、自然と少しずつ離れていってるのではと心配しています。本当は自然の流れに戻って欲しいです。

 残念なことに今の農業は地産地消でなく、商業ベースの載せるための大規模な農業になってしまいまし。だから、農業をやっていても、農の本質が見えてこないのです。人の手が入り過ぎて自然の風雨を忘れ、農薬を使い、遺伝子操作が入り、バイオ技術を云々となっています。益々、自然と離れていっていってしまっています。

 昔からのその土地で使われていた種をつかい、細々とでもやっている野菜作りが一番体にはいいのでしょう。外国から輸入すれば、腐らないようにと化学処理がされ、益々アレルギー患者を増やしているように思えてなりません。農は国の基本です。どこかでこの連鎖を断ち切って本来の地産地消のおいしい野菜にしていかないといけません。そうしないと、益々訳のわからない病気も発生してくるのでしょう。そういう意味でも私の菜園づくりのスタンスは自然と人とのかかわりの中で、里山農法とてももうしましょうか。自然にやさしい野菜作りを心掛けています。






 

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読み・書き・ITと知・徳・体

2020年06月02日 | エッセイ

コロナ元年6月2日

 昔は世の中に出るのに、必要なのが読み・書き・そろばんと、よく言われてましたが、最近は情報社会となり、読み・書き・ITといわれています。特にコロナ対策に追われ、益々活きる力にITは必要不可欠の時代になりました。これからは、まずもって、ITの知識と操作技術は大切です。

 選挙も番号制を利用すればもっと、早く結果が出ると思うのに、政府の情報リークへの危惧・リテラシーの無さ・与党への投票数の低下が大きな足かせとなって、ちっとも電子投票が進みませんし、折角の国民ナンバー制も10万円の支給に当たり、大活躍かと思いきや、封筒で送るやり方の方がはやく国民に支給できるなど、不手際続きが出てしまい、私も当初は番号制で申請しようとし、中途で頓挫せざるを得なくなってしまい、日本は世界でも先進国の中で大きな遅れをとっているような状況です。

 お隣の韓国とは大きな差がついてしまいました。国民№制度ではその背景となる№カードと銀行口座がリンクができていなかったのが、大きな原因だといわれています。私も前々から何のための番号制度かなと、利用がちっとも進まないことを不思議に思っていた時期がありました。案の定、今回のコロナ支給で大きな欠陥が露呈してしまいました。

 正直なところ、私も№制度で支給をお願いしようと、最初は想って総務省に問い合わせをしたのですが、番号だけしか持っていなくて、顔写真を登録した正規の物でないと駄目だといわれてあきらめました。登録申請だけはそのおかげですることができました。後、ひと月もすると国から届くらしいです。スマホで申請を済ませました。総務省のPR不足も大きな原因だと想います。顔写真入りでないと正規の№カードとは言わないようです。市役所の方もそのことは何も言ってくれなかったので、二十手間になってしまいました。

 今回のコロナ禍で在宅に伴うテレワーク化や移動ができない為にZOOMやLINEを中心とするテレビ会議のアプリが大きな活躍を見せたことにより、情報化のどこに遅れがあるかが、国際間の中でより明確化されてきたので、現在の日本の技術からすれば、今後は速いテンポで世界のレベルに追いついてゆくものと想われます。もともと日本は、高度な情報機器の生産国ですから、政府の考えが変われば大きく良い方向に展開していくのではと期待をしています。これからの発展を夢見たいと想います。

 さて、そんな世界の流れの中でも昔から言われてきた知・徳・体にも触れてみたいと想います。昔はこの言葉は好んでどこの学校でも使われてきました。特に昔は徳という言葉が大きな力があったと想います。最近は知・徳・体という言葉は、あまり聞かなくなりましたが、やっぱり、いつの時代でもこの三つは連動してこそ、大事なことだと想います。いつの時代でもバランスが大切なのです。

 理想的には三つの価値が正三角形を構成するのがいいのだと想います。いわゆる職務の事でどこかのブログで私がのべました三面等価の原則です。頭だけよくて、人を見下してもいけないし、体だけ丈夫でも、何も知識がないとこの情報社会に生きてゆけないし、徳だけ優れていて精神論だけでも世の中に疎いと、これまた生活できないわけです。

 地に働けば角が立ち、情に竿させば流されるし、意地を通せば窮屈になってしまうといった明治の文豪、夏目漱石の「草枕」の一説を想いだします。彼もその中でバランス感覚の妙を言っているのだと想います。

 いわゆる「草枕」冒頭に出てくる名句です。人付き合いの難しさを説いたもので、世間の人と付き合うときには頭のいいところを出し過ぎると上から目線になり過ぎて嫌われるし、あまりにも情が深いとそれに流されてしまう危険があるし、また、自分の意見を言い過ぎて衝突することも多くなるだろうといっています。

 私的には俗にいう銀座の№1マダムぐらいがぴったりだと想っております。残念ながら、まだ、実際にお会いしたことがないので、推測で物申すのもはばかるのですが…失礼ながらそういわさせてもらいます。
 

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