想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

驚き!医者の平均寿命?

2024年02月29日 | エッセイ
コロナ5年2月29日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 俗に医者の不養生と言うことを聞いたことがありますが、実際どれぐらいの平均寿命かなと思っていろいろ調べてみました。

 やはり予想どうり相当お医者さんの平均寿命は短かったようです。これでは国の損失になります。国をあげてこの解決に誰かする必要があるのではないでしょうか。私たち国民も大いにこれに協力する必要もあります。

厚生労働省の統計
2020年時点の厚生労働省の統計によると、医師の平均寿命は男性で72.1歳、女性で78.5歳です。これは、日本全体の平均寿命(男性81.41歳、女性87.45歳)よりも短くなっています。

医師の平均寿命が短い要因
医師の平均寿命が短い要因としては、以下のようなものが考えられます。
  • 長時間労働:医師は、長時間労働や夜勤が当たり前という職場環境にあり、過労やストレスが溜まりやすい。(行政の力も借りてここから改善してほしいなあと思っております。)
  • 感染リスク:医師は、患者から感染症をうつされるリスクがある。
  • 自身の健康管理への意識不足:医師は、忙しさのために自身の健康管理を怠りがち。
地方都市における医師の平均寿命
地方都市における医師の平均寿命に関する統計は、全国的な統計ほど詳細ではありません。しかし、いくつかの調査結果によると、地方都市の医師の平均寿命も、全国平均よりも短い傾向があります。

 現実は実に驚く結果になっておりますが、やはり私が想像していたとうりでした。難しい理屈が分かっていても、それを実際にやってみると言う環境が取れてないと意味がないことだなと思います。

 本来はお医者さんにもっと長生きをしてもらいたいと思っていますが、残念な結果になりました。このことはいかに高邁な理論や知識を持っていても、実践をするという場が確保されていないと難しいということです。本人の意欲とそれを実際にやる仕組みや制度が整っていないとできないということです。実に残念なことだなと思います。

 結局のところ毎日の生活にゆとりを持って、適度に体を動かし、 人生を楽しみながら前向きに生活して行かないとだめだということがよくわかります。

 日本の医療の現状を見てみますと治療ということは医療でよくやりますが、予防の医療が出来ていないと思います。本来はお医者さんの寿命は一般人よりも長くなって欲しいと願わずにはいられません。お医者さんがもっと時間的にもゆとりを持って患者さんと接していただければありがたいです。

 インフォームドコンセントという考え方がアメリカから導入され日本にも取り入れられていますが、お医者さんが多忙な為なかなか定着致しません。

 もっと厚生労働省も力を入れてこれが日常どの病院でも行われるようになるといいなと思います。まだまだこの言葉のPRが日本の社会では足りないのではないかと思っています。

 正しい医療を行うのにもお医者さんには充分なゆとりがあるような仕組みや行政が必要だなとつくづく思います。また、まだ日本には医療基本法が制定されておりません。このような法制度もそう急に作る必要があると思います。
 
 教育の世界に教育基本法があるように医療の憲法ともいうべき医療基本法の制定が求められています。

 


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自然の中で生きる。自然の中で生かされる。

2024年02月24日 | エッセイ

コロナ5年2月24日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 まぁ今私がこうしているのも確かに自然の中で生かされているわけですね。私は好きな言葉に感謝と畏敬の念っていうのがあります。


 もう決めてあります。お墓も決めてあります。死ぬ時はお墓に、感謝と畏敬の念を入れてくれって言ってあります。毎日がその連続であります。


 そう、考えていくと、生と死は別物でなく、連綿と繋がっているわけです。肉体としての死は、新たな永遠の生になるわけです。この通過点に死があるわけです。


 その奥深い所に畏敬なる物は永遠に存在してるのです。だから、感謝と畏敬の念を持ち続けるのです。


 感謝する。すべてのことに感謝して、そして、神秘的なもの、科学で解明できないようなものに畏敬の念を抱く。どんなに科学が進んでもそういうようなものが残ります。


 畏敬の対象になる物は、永遠につながります。そういうことが生かされていると言うことにつながってるかなとつくづく思います。


 自分で生きているようで、好きなことをやっているようで、結果的には広い世界から見ていくと私たちは生かされているわけですね。


 そうすると、私たちの命っていうのはなぜここに生まれてきたかって言うと、その生かされているお心、神の御心を感じて、それに応えようとする。それを自分で見つけようとする。それが人生なんだなとつくづく思います。



「自然の中で、生きる。自然の中で、生かされる。」

  • 人は自然の一部であり、その恩恵を受けて生かされていることを忘れずに。
  • 自然の摂理に感謝し、調和を保ちながら生きることが求められている。
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高齢者の特徴、体が先行.細胞の反射.思考抜きの動き

2024年02月13日 | エッセイ
コロナ5年2月13日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

   だんだん歳を重ねていきますと、よく玄関の鍵を閉めて外出したのに、あれ、閉め忘れたかなと自問自答してまた戻る。誰もが経験したことではないでしょうか。

 そして鍵を閉めたか確認することがありますよね。このように人間は歳をとると今やったことを忘れてしまうんですね。

 で、私前々から気になってたんですが、これはどういうことでこういうことになるのかなと思っていたわけですが、よくよく考えてみますとやはりこれは脳からの指令じゃないなと、だから、同じことの繰り返しマンネリ化と言うのは脳を活性化しないなと言うことに気づきました。

 そしてそれは脳ではなくて同じことをするともう脳でやらなくても体で覚えてしまう。まぁ私流に言えば細胞に記憶してしまう。だから、脳の指令がある前に体が動く。まぁ、同じことの繰り返しの場合はそのほうが早いですよね。脳を通すより細胞で動く。だから記憶として脳には残らない。まぁそんな感じになるんじゃないかなと思います。
 
 これを打ち破るにはどうしたらいいかと言うと、マンネリ化を防止する。常に初めてのことをやること。今まで経験してしたことのないことに挑戦する。これに尽きると思います。

 赤ちゃんを見てみますと、赤ちゃんはすべてのことが新しいことなんですね。だから脳も発達するし意欲も出ているわけですね。

 だから高齢者の思考の鍵は今までやったことないことを体験する。それが大切だなということがわかりました。

 そのことを肝に銘じ日々実践しております。そのためには健康な体、これがまず大事ですね。まぁこの健康な体を維持すると言うのが1番大切かな。

 そういう私も先日卓球の試合で右の膝を少し痛めてしまいました。注意に注意を重ねていたんですが、間が刺したと言うんでしょうか。怪我には注意したいです。
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安上りな男が感じる幸せとは?

2024年02月04日 | エッセイ
コロナ5年2月4日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 私は自分のことを非常に安上がりな男だなと思っております。何故かって言うと布団のシーツを洗濯するとそれだけで幸せを感じちゃうんです。それをお天道様のところに干すわけです。そして、お天道様のエネルギーがいっぱいのそのシーツで寝ると、暖かくてとても気持ちが良く、自然と一体になれるんで、まあ、それだけでも幸せ感に包まれちゃいますね。ストレスも何もなくなります。

 今は基本、妻が洗濯をするので、そういう楽しみも少なくなりましたが、結構洗濯は好きですね。

 また、きれいな夕日を見る。きれいだなあと思う。それだけでいいんですね。ふと真冬に空を見上げるとオリオン星座が輝いています。それを見るだけでいろいろ神秘を感じ、その星はどうなってるのかな?星の中に誰が住んでるのかなとか、そう想うだけでも楽しくなりますよね。

 また、あの寒い冬にふと、上を向くと、「月天神貧しき街を通りけり」と言う俳句が浮かんできて、古びた屋根の上を寒そうな月が通り過ぎて、それを見ているだけで、幸せになります。

 ストレスもどこかに飛んで行ってしまいます。想像しただけでも楽しくなりますね。まあ、行ってみれば私は安上がりな男だなとつくづく思います。

 幸せってのはどこでもあるとそういうことですね。心の持ち方でどうにもなりますよ。と、何でもプラスに考えましょうね。マイナスに考えたらきりがないね。上を見ればきりがない。そんなことを昔お袋がよく言ってました。まさにその通りです。そういうお袋にも感謝です。

 幸せっていうのは自分の心が決めるもんですね。うちの親父は言ってました。うちの親父はよく酒を飲みましたけども、職人で家具職人でしたけども、般若心経をよく唱えてました。毎朝そんなわけで私もいつのまにか般若心経をそらんじてしまいまして、仏様の前やお墓の前では私は手を合わせると般若心経を唱えます。

 毎朝、ウォーキングをしていますが、この時も般若心経を1回だけ唱えながら歩くんです。そうすると、自然と自分が不思議に一体となるんです。そして、いつの間にか、心が浄化していくような気持ちになりますね。まあ、それがいいのかなと想ってます。

 またあのクラシック音楽がありますよね。その中でもシューベルトやグノーなどの世界三大アベマリアの曲、それを聞くとほんとに心が浄化しますよね。やっぱりそれもいいですね。スマホでいつでも聴けます。何にもお金もいりません。それだけでも非常に癒されます。

 そうそう、昔、「名もなく貧しく美しく」って言葉がありましたね。確か、佐田啓二が出ていた映画の題名だったな。まあ、今はもうそういう言葉は滅多に聞けませんが、確かに昔は、名もなく、名誉もなく、貧しいんだけど、心は美しいということがあったんだなと私なりに感心してます。スマホもなく物もなく、貧しい方が幸せ感はあるような気がしてました。

 今の貧困は相対的貧困というらしく、自動車があっても生活保護を受けられるようですね。貧困の定義も随分リッチになりました。昔の貧困は絶対的な貧困でしたね。心の純粋さは昔の人の方があったような気がしてます。

 今、想い出すと、子供のころはバラックの家で育ちましたが、貧しくても、ちっとも寂しいとは思わなかったです。これも、貧乏でしたが、親の愛情ですかね。また、新しくたった家よりそのバラックの古い家の方が私は好きだったですね。

 さて、美しいという字ですが、かって、私が中学生の頃、友達が美の字の成り立ちについてしゃべってくれたことを想い出しています。それは、「美」という漢字の成り立ちについて、美は羊と、大(大きい)とから成り、神に供える羊が肥えて大きいことから、「うまい」「うつくしい」意を表すんだよといったことを今想い出しています。

 私が高校生の時、倫理社会という教科があって、その考えが好きで、倫社の先生になろうと想った時期があったんです。もとは工業高校の出身でしたが、専門の電気よりもそちらの方が好きになっていたようでした。

 そういうこともあってか、卒業後、それに関連する本を読んでいて、ただ、それだけで、すごく幸せ感に包まれて、その関連の学者になろうと想った時期もあったんです。ただ、それだけですが、あの瞬間が最高に幸せだった感があったんです。

 結局、その後、夜間と通信の大学に通って、中高の社会科の免許をとったんです。もうその本に吸い込まれてしまって本当にね。これならその関連の学者になってもいいなあと想った時期もありましたね。

 その倫理学の本っていうのは物の考え方が非常に奥が深くて、これならこれで生きていけるなと思った時もありましたね。まあそういう私も、もう76歳にまで、なってしまいました。

 結局、色々な諸事情もあり、結局は36年間、小学校教師で終わってしまいましたがね。

 その後、コミュニティセンターに事務長として4年勤めたこともあり、その間は随分と勉強になりました。当時は社会教育主事の資格があったこともあり、いい勉強になりました。

 まあ、今は、どちらにしても、怒っても1日笑っても1日と、だったら笑って過ごそう。と、勝手に決めて生きています。それが私の幸せですかね。私は絶えず幸せを考えながら、生きながらえていた様に想います。

 人様と、自分の幸せを遥か彼方の宇宙の置いてそこへベクトルを進めていく過程が人生だと考えています。自他のwinwinですね。神様がくれた命、その命の目的を見極めるまで、そこにベクトルを重ねて、これからも生きたいですね。

 日に日に弱っていく体がどこまでついていくかが当面の課題ですが…、いつか新しい世界に飛び立つまでは…、それが、いつになるかは、まさに神のみぞ知るというところでしょうか。
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