想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

ありのままに 詩

2019年03月31日 | 

震災9年3月31日

 人は生きている限り、通常は自分から逃れられない。それが自我というものである。しかし、この自我がくせ者で、このせいで自分を高めることができないでいる人がたくさんいる。

 しかし、一旦、その自我から解放されると他人の言葉や周りのことがわが身にしみいるように入ってくる。

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考え方 点、線、ベクトル

2019年03月19日 | エッセイ

震災9年3月19日

 いつの時代も、次から次へと色々な事件がマスコミを賑わします。最近の子どもへの虐待、いじめ、高齢者へのアポ電詐欺等あげれば切りがありません。

 それを見ていると、点という概念が私には浮かんで来るのです。個人が単なる自分だけの思いで行動してしまっているのです。そのことを起こしたら、将来どうなり他人にどう影響を及ぼすかに考えが行って無いのです。むしゃくしゃしたから、欲しかったから、やりたかったからと自分のことしか考えていないのです。世界は自分中心に回っていると思っているのでしょうか。そう考えているとしか言いようがありません。地球とて自転しながら太陽の周りを公転しているのです。地球も太陽との関わりの中で動いているのです。もっと、大自然から学んで欲しいと思います。大自然があるから今の人間が安心して暮らして行けるのです。そこに畏敬の念があるのです。この畏敬の念も現代人が忘れ去られている言葉です。悲しいかなです。

 電灯もなく、夜になればいろりの火を見るか星を見るしか無かった時代では、昼夜、人間は自然と暮らしていたのです。まさに自然の中に自分もいたのです。そういう時代は自ずと自然への尊敬というか畏れみたいなものが醸成されていたのでしょう。天につばするも同じ系列にある言葉だと思います。その中には必ず自分一人でなく、周りの環境が関わっていたはずです。いつから、人間にはおごりが出て自分だけよければという考えになったのでしょう。自然は征服するものでなく共存するものです。もっと、本来の人間はこのような自然への畏敬の念や感謝の念を持ち合わせていたはずです。

 前で述べたよう自己中からの事件は皆、人との関わりから離れてしまった結果です。今こそ、夜空を眺め星に祈りをささげ、月明かりを思い浮かべ、夜な夜な天地に感謝する大きく広い心を持って欲しいです。

 自分がいて他人がいて国家があって社会が成り立っているという自分という点と自分以外の点が繋がっていないのです。点と点を結べば線ができます。その行為が前後や周囲とどう繋がっているのかという視点が見えてこないのです。

 思いつきや点だけで考えるのでなく、つながりで考えて欲しいのです。そして、それは自他の幸せという方向につながって欲しいのです。点となって湧いてくる事件に心が痛むのです。人間は考える葦であります。

 さて、数学では点が動いて軌跡となり線ができるという考え方があります。しかし、人の生き方には、その先に自他の幸せがなければいけません。点は発生したら、線となり、ベクトルとなり勢いと方向性を持たないといけません。その先にあるのが、自他の幸せなんです。これを忘れて行動して行ったら世界はどうなるのでしょう。火を見るよりも明らかです。

 今、点で物事を処理したり考えたりする人間が余りにも多すぎると感じたことはありませんか。困ったものです。個人以外、法人でも同じです。自分の会社の利益を考えることでいっぱいの会社も沢山あるでしょう。消費者を騙したり、国民を欺いたりする法人もいっぱいいます。厚労省のように嘘の統計値や、医学部の不正入試問題もありました。これも根は同じでしょう。人間性のレベルが低すぎます。

 私は社会を眺める時いつも、点から起こった行動は線となり自他の幸せにベクトルが向かっているかということを考えます。この視点から社会を考察しています。何をなすにも最終的な方向性が大切です。ここに向かう思いやエネルギーこそ素晴らしい社会を気づくものだと思います。すべてのことがこの方向性の線上にあらんことを願わずにはいられません。その中にこそ、希望という光があるのです。これがなかったら何の為に生きているのでしょう。

 今の世相から、こんなことに想いを巡らせている私です。まだまだ、現実世界は力の論理が優先してしまってます。北朝鮮の問題も力な論理や力の均衡ばかりを優先しないで、世界平和や自他の幸せに目を向けて、どうにかその方向で解決に向かって欲しいです。

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放課後子ども教室での卓球指導ボランティア 

2019年03月13日 | 日記

震災9年3月13日

 60歳で定年退職後、小学校、支援学校、コミュニティセンターの事務長、イチゴ農家、学習塾等のバイトをやってきました。その中でもコミュニティセンターの事務長が一番大変な仕事でした。ここでは4年間程フルで働いてきました。

 初めてできたコミュニティセンターでしたので、何から何まで新しく新鮮な反面、地域の人たちを相手の仕事でしたので、神経も使いましたが、未知の経験をいっぱいしました。人間いくつになってもやればできるものですね。

 ワープロも今までは一太郎を使っていましたが、ワードに切り替えました。それから、エクセルをワープロ代わりに使ったのも新しい試みでした。

 さて、年を重ねて来ますと、一番心配になるのが、健康です。いかに気力を充実させ、生き甲斐を持って生活するかということです。そして、気になるのが、足腰の低下と記憶力の低下に伴う認知症対策です。

 こんな中で体力づくりの一つとして浮かび上がったのが、スポーツとしての卓球でした。とにかく、70歳を前にして初めてやるスポーツです。運動神経にはある程度自身はあったのですが、これならできそうな気がしましたので、始めてみました。

 いつの間にか、やり始めて3年半程が過ぎました。今は地域のみねだ会館、市の体育館、放課後子ども教室のボランティアの卓球指導と三つを週一でやっています。

 私にとって三年半前に始めた卓球は生まれて初めてのことでしたので、最初こそ少し戸惑いましたが、幸い周りの人に助けられ、フォアハンド、ツッツキ、バックハンドをまず覚えました。それができれば後は練習あるのみです。自分で色々と工夫して参考資料や動画を見たり、うまい人のテクニックを見て覚えたりと頭と体の訓練には持ってこいのことばかりでした。

 今ではだいぶ腕も上がり、ラケットは右と左を使い分けての両刀遣いもできるようになりました。左手を使うことは右脳訓練にもなります。私は右利きですが、始めは左手でラケットを持ってやると違和感がありました。でも、習うより慣れろで練習をしているうちに右手と同じくらいにできるようになりました。

 いくつになってもその気になれば技量は上がっていくもんだという自信に繋がりました。常に工夫をしてやることを心がけていましたので、たくさんのことを覚えました。小学生の初心者指導も楽にできるようになりました。小学生にはラケットの持ち方から、サーブの打ち方、フォアハンド、ツッツキ、バックハンドのやり方も進度に応じて指導しています。

 来年度からはいよいよ子ども教室でのボランティアも三年目に入ります。

 

 

 

 

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野菜の成長と教育の育の部分

2019年03月04日 | 家庭菜園

震災9年3月4日

   このところ、日中は日が照ると結構温度が上がって来ています。そして、最近は雨もよく降るようになりました。文字通り一雨毎に暖かさを増して来ています。しかし、まだ、まだ、朝晩は寒い日が続いていますね。

 さて、菜園に行って、ふと、足下を見ていましたら、アスパラガスがかわいい芽を出していました。そうです。昨年種まきをしたのが、すくすくと育っていたのです。今年はたくさんなってくれそうです。

 私は職業柄、小学校に長い間、関わって来ました。その間、ふと、こんな事に気づいたことがありました。

 それは、たくさんの教え子を育てて来ましたが、何故、野菜を教育するとは言わないだろうと言うことです。そうです。野菜には教える部分が無いのです。ただ、育てるという教育の半分があるだけです。

 このことは何を意味しているのだろうと考えたことがありました。人には知能があり、意思や感情や知性や情操もあります。だから、そこに働きかけそこを陶冶することこそ、教える部分なのかなとも思います。だから、教育は教えるが半分育てるが半分だと分かります。

 しかし、野菜には知性や情操などありません。教えても、何も分かりません。だから、人はそれを育て世話することになります。もし、野菜に知性や心があったなら、そこに働きかけて教えるでしょう。そうして、覚えたことを糧にして成長してゆくことができるような野菜ができるでしょう。

 しかし、野菜には教えは通じません。それを受け考える器官がないのです。彼らには人間のような知性が無いのです。その部分が無いので、人が育てるしか無いのです。その野菜の持つ本来の才能や可能性に気づいて、それを援助しながら世話をしてゆくしか無いのです。

 野菜の種類により、酸性土壌だとよく育つ者もありますし、アルカリ性に近い土壌の方がよく育つ者もあります。だから、育てる側がそのことに気づいて手当する必要があります。また、肥料も、三大肥料を中心にして微量なマンガンや鉄分なども大いに関係してきます。さしずめ動物にとっての各種ビタミンのようなものです。

 葉には窒素、実には隣、根にはカリがいいとか、気づいていないといい野菜はできません。また、発芽の温度や保湿も大切です。それと、それぞれの野菜の持つ個性を見分けないといけません。それから、周りの環境や害虫の問題もあります。それらをクリヤーしてすくすくと育ってゆくのです。それらは人がその野菜のことを十分知ってそれの個性を伸ばしてやるしか無いのです。

 そう、考えて来ると、野菜栽培には教の部分は無いにしても、育の部分は同じだなとつくずく思います。人と野菜とは教の部分があるかないかですが、育の部分は全く生物として同じ部分を持っているなと思います。ですから、いい教育者はいい野菜栽培者であるともいえます。毎日野菜を育てていて、こんな事を考えていました。

 

 

アスパラガスがもう芽を出していました。生で食べてもおいしそうでした。これは結構小指ぐらいの太さなので、根っこを植えたのだと思います。

こちらは、結構細いので、種から育てたのだと思います。もう、一年育てないと食べられるまでにはいかないのかな…。

 

 

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