想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

花菖蒲の季節

2016年05月30日 | 我が家の庭

震災6年5月30日



 この時期、我が家でも、花菖蒲の花が咲き始めました。周りの緑とマッチしてとても美しい花です。梅雨のうっとうしさを払うのにもいい花です。この後、あじさいも咲き出します。




山あじさいです。普通のあじさいより随分小振りになります。ガクアジサイの仲間です。



 


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葉の裏は青虫でいっぱい!

2016年05月28日 | 家庭菜園

震災6年5月28日



 先日、種から蒔いて植えたキャベツの葉っぱを調べたら、予想以上の青虫の子供が沢山いてびっくりしました。それが、すべて青虫の成虫になったらと、危惧したくなりますが、そこまではいかないようです。中途で蜂などの天敵に食べられたり病気になったりで、羽化までこぎつけるのは、ほんの一握りのようです。自然競争も激しく彼らも、食うか食われるという状況のようです。


 沢山、幼虫を見つけましたので、私は手で捕殺しましたが、ずっとおいておけば、蜘蛛などにやられたり他の虫に食べられるようです。先日、我が家には雨蛙が沢山いますが、これが、キャベツの葉に住み着いていて、青虫をぺろりと食べるところをみました。


 自然界もなかなか、生き残る為の戦いがあり、生存競争も大変だなと痛感しました。


 葉の裏には今、卵からかえったばかりの青虫がいっぱいいます。これでは、キャベツも大変ですね。しかし、成虫として残るのはこの中のほんの一部です。それまでに、虫や鳥、動物などに食べられてしまいます。


 今回は見つけましたので、早速、捕殺しました。青虫さんには可哀想だけど、ここは、目をつぶって処分です。


 秋と違い、夏はどうしても、青虫の被害が大きくなってしましまいます。その後、なくなく、手で捕殺しました。


 




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種から苗づくり 

2016年05月27日 | 家庭菜園

震災6年5月27日


 菜園用の苗を育ててきました。これは、1週間くらい前のものですが、今は菜園に植栽して、だいぶ大きくなりました。鶏糞と石灰以外は原則使わない、栽培ですので、毎日、モンシロチョウが来て卵を産み付けていきます。くもや蜂が食べますが、産卵の方が勝っているで、時々、手でこすって卵を取ります。


 これも、自分なりに里山的自然栽培と称していますので、致し方ないところです。自然に栽培すれば、不揃いになるのですが、これも、自然が授けてくれた知恵なんでしょう。全滅することはありません。必ず、天敵が現れます。自然界はうまく流れています。多分、人間の体の中も同じようになっているのでしょう。自然界では100%でなく、60%ぐらいが自然のようです。基本的にはその流れの中で育てるようにしてます。でも、最近はそれに少し手を加えて、里山的自然農法をやりつつあります。


 ただ、人様にあげるとなると、もうちょっと、きれいに作りたいという気もします。下の右の葉っぱにモンシロチョウが3個ほどの卵を産み付けてあるのが、見てとれます。穴だらけになっていますが、こまめに卵を取り除いていると、けっこう、苗がよくなっていました。



植え替え後1週間ぐらいたってからのキャベツです。順調に育っています。



トウモロコシとトマトも種から育てています。楽しみです。



 落花生も種から育てています。安く種を買うには、食用に売っているのがお得です。 レタスはもう、畑に植えました。レタスはモンシロチョウが寄りつかないので、管理が楽です。自然栽培にはレタスがおすすめです。





大きな青虫まで出て来ました。基本的にはその前に大半が益虫に食べられてしまいます。これが自然界です。



 


 


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我が家の庭 二階から撮影

2016年05月19日 | 我が家の庭

 建て売り住宅を購入してから23年が過ぎました。敷石を千鳥に組んで、庭造りに励んだのがつい、先日のような気がします。杉苔も沢山植えましたが、風があるためか、絶えてしまいました。

 それから、下草として植えたフッキソウも僅かな苗が残っているだけとなりました。自然は絶えず変わっているなと諸行無常をひしひしと体感しております。

   垣根も当時は、竹を使い、見よう見まねで作りましたが、時と共に朽ちて、今では撤去しました。

 当時植えた玄関前の黒松は虫に食われれあえなくダウンです。

 それから、目薬の木も珍しいので、植えていましたが、カミキリムシに根元をやられてしまい、これも、10年弱の命でした。毎年秋には紅葉が美しい植物でした。

  1mの小さな苗木から育てた南京ハゼは大きくなりすぎて、隣のうちにも枝を張るようになり、倒木を心配して、泣く泣く木を切りました。

 そんな関係で玄関前のシンボルツリーがなくなりましたので、また、いつか、木を選定して植えたいと思っています。

 秋篠宮紀子さまのお印が「 モッコウバラ」ですが、その花も毎年溢れんばかりに咲いていましたが、それを支えていたアーチ式の支柱が台風の強風に絶えられなくて、よく、倒れますので、これも、泣く泣くカットしました。

 玄関横にうえてあるソシンロウバイの花は年末から正月にかけて咲いてくれます。丈夫な木できれいな花ですので、毎年の開花が楽しみです。

 それから、桃も植えました。花と実がこれも楽しみです。

 梅も植えてあります。豊後という種類ですが、本来ならもっと、実がついても良さそうですが…、剪定の仕方を勉強しなくてはと思います。

 最近は、だいぶ植物が増えました。こうして、二階から見ていると、5月の庭は緑が多いなと、つくづく思います。

 先日も、少し手を加え、枝をカットしました。

 実生から育てたマキの木がだいぶ大きくなり今では、生け垣の一部をになっています。また、サンシュユの木もわずか、1mに満たない小さな木でしたが、今では、大きくなり、ぼさぼさと枝が出て、毎年剪定がひつようになりました。

 サクランボも当初植えたものが、絶えてしまい、今は二代目が植栽されています。今年から実をつけ始め、先日賞味しました。おいしかったです。買うと高いですものね。来年からは、毎年、真っ赤な実を沢山つけてくれることでしょう。

 その後、杏や、柿も植え、狭い庭が余計に狭くなりました。これからは、どう、剪定し、すっきりさせていくかを考えなくてはと思います。

 植物が好きなので、どうしても、種類が多くなってしまいます。適度に、断捨離をしていかなくてはなりません。

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頭のいい人は増えたが賢い人が減った

2016年05月18日 | エッセイ

↑クリック 民泊という新しい宿泊体験

震災6年5月18日

 最近、ノウハウやプレゼンの技術が上がり、いわゆる表面的に頭のいい人が増えたが、人の心に無知な人も比例して増えているように思います。心が深い人、思いやりのある人、思慮深い人…先人が持っていた賢さや知恵がなくなったのではないかと思います。

 確かに自分を発信する技術は、すごく上がってきていると思いますが、受信する能力や察する力がその分減ってきています。

 問い合わせをしているときなども、どちらが、質問者か分からなくなるような回答者がまま見られます。回答者が主体になってそのペースで物事が進んでしまい、回答者が満足する答えで、納得されてしまい、その件は終了なんておかしなこともよく起こっています。それなども、どちらが質問者か、という、本質が見えなくなっているいい例です。

 情操値が高く、倫理的にも優れている中に、その手段として頭の良さがあるならいいのですが、それが逆になり、頭の良さばかりが目立ち、情操面や倫理観に欠ける人が増えてきたのには困ります。

 今、話題になっている桝添問題も現行では、法的には問題がないらしいですが、倫理的、道義的に考えたらどうかなということです。それで、マスコミで叩かれているのです。法規制がなければ、合法だからいいという理屈はないのです。
  
 これは、将来の日本を考えたとき、大きな損失だと思います。何が人生で一番大切なものか、それは、頭の良さでなく相手の気持ちが分かり、理解できるかだと思います。

 それが、できれば、単なる成績は後に付いてくるものではないでしょうか。最近の風潮は勉強さえできれば、後のことはどうでもいいようになっていると危惧してます。

 スポーツでも同じことでしょう。勝たなければ、意味がないではないでしょう。スポーツを通して人を磨き、健康を維持し、生活に潤いを与えるのが目的です。その方向が大切でしょう。

 経済でも金儲けが目的ではないはずです。社会に有為な物を生産し人様の生き方や幸せを満たす手だてとなるのです。

 消費が美徳などはもっての他です。そこに、無駄があってはなりません。幸せを得るためにある物を消費するのです。消費は目的でなく手段です。無駄な消費が美徳であるはずがありません。GDPが増えるのが最終目的ではありません。誰にも幸せ感が増えるのが目的です。

 サッカーは、昔、貧者のスポーツだと言われていました。そうです。ボールさえあればできたのです。それが、今はどうでしょう。靴から、ユニホームまでそろえないと、できないようになってしまいました。お金がかかるスポーツとなってしまい残念です。

 ウォーキングはどうでしょう。服装も靴もきにしないと歩けなくなり、最近ではポールウォーキング等といってスキーのポールまで使うことが奨励されています。これも、単なるスキー販売グッツ屋だけが儲ける為に考え出したのかなと勘ぐってしまいます。

 歩くことは人の健康の根源的な問題なのです。親からもらった素晴らしい体があれば、後はそれを続ける意志力の方が歩く道具よりどれだけ大切なことかは誰もわかるでしょう。

 これでは、未来の日本は危ないと思います。金はないよりはあった方がいいのでしょうが、金はあくまで幸せを得るための手段です。それを間違えると大変なことになってしまいます。

 

 古来日本には程差加減とかいって、加減といういい言葉がありました。それには、バランスというものがあったのでしょう。そのバランスが崩れると、今回の桝添騒動のような大きな金権問題になるのです。

 湯加減、いい加減、何でも程々が大切です。それが、どこかで、たががとれて暴走し始めたのです。ファーストクラスでなく、ビジネスクラスにとめておけばよかったのに、欲が出て、その上まで言ってしまったことに端を発して、ないこと、あることがマスコミにリークされてしまったのです。

 本当に知恵のある人は、見せようとしません。それは、自然とにじみ出てくるものなのです。それが、本物です。富士山のわき水も長い年月を経て、わき上がっているから価値があるのです。工場で化学の数式で大量生産されても、価値は半減です。人間的にみれば、歳月が非常に重要なのです。

 難しい計算は一瞬でコンピュータがはじき出しくれますが、心はエイジングという時を経なければ育ちません。ですので、そのときは誰も平等です。道徳性や、人生の価値観を身につけるには誰も、その時という洗礼を受けなければ育まれてこないのです。時という永遠に平等に与えられているものをどう、味方につけるかに人生はかかっているのです。

 最近ムヒカさんのいう質素という言葉が妙に新鮮に響き心を離れなせん。貧しいとは無限に物をほしがることだという言葉を今一度かみしめてみたいと思います。必要最低限なもので生活する「質素を楽しむ社会」に世界も変わっていって欲しいです。必要以上なものはもういらないと思います。そろそろ、国民もそのことに気が付き始めているのではないでしょうか、だから、いくら消費を煽っても物価指数も上がっていかないのも分かるきもします。

↑クリック 民泊という新しい宿泊体験

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