想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

薬と食べ物と自然治癒力と!

2018年11月27日 | エッセイ

震災8年11月27日

 最近、連日、健康をテーマとする番組が放映されています。これだけ、流されますと、もう、視聴者としてはへきへきしてしまいます。その度にテレビで放映された食品がお店から一夜にして無くなってしまっています。が、最近ではこれだけ放映されると、もう、慣れっこになってきているのでは無いでしょうか。それが人情です。これでは、あまねく、すべての食品が健康に役立つのでは無いかとも思ってしまいます。根本においてはそれを受け入れる人体の状態が大切ではないでしょうか。

 ブロッコリーは栄養価において、一般的にはカリフラワーを凌駕しているように言われていますが、私的には今の科学では、たまたま、そういわれているだけで、カリフラワーの未知な部分が隠されているのだと思っています。新しい発見があるといいですね。そのような今の科学ではたまたまこうなっているという前提で物事を考えた方が正しいのではと思います。

  最近、腎臓の働きの重要性が新たに発見されました。また、脳で考えるばかりでく、臓器での考えを脳に伝えるというようなことも放映されていました。また、従来無用の長物といわれていた盲腸までもが、何らかの働きがあるということまで、分かって来ています。今までの常識が非常識になっていったのです。

  このようなことは、今後、次から次へと起こってくるのではと思っています。だいだい、世の中のすべてのものに価値の差は無いのではと思います。路傍の石はそれなりに価値があり、要はそれを、どう、自分たちの生活と結びつけていくかが重要な気がします。

 かって、科学は要素還元主義が闊歩していた時代がありました。それは、個別的観点から、物事を眺めていたのです。個と全体という言葉がありますが、その両面から考察することが大切なのです。演繹と帰納と言っていいのです。すべて世の中の事は対比でとらえることもできます。栄養価はなくても、その存在価値は大いにあるのです。

 私たちは風邪をひく、お腹を壊す、体調が悪い等の症状が出るときがあるますが、それは病気ではありません。一つの症状なのです。健康な人ならば毎日、体調がいいわけが無いのです。トータルでとらえて、すべてが起こっているのが正常な人間の姿です。自然に四季があるように、そこが、まさにポイントです。生きていると言うことはまさにそのことなのです。

 それが、過ぎたときに災害になり、病気になるのです。ですから、ほどほどにこの変化は抑える必要があるのです。無いと思ってはいけません。生きている限り、そこからは逃れる事はできないのです。その根底にすべてはリズムで決まるのです。正反合を繰り返しながら時間軸で流れているのです。資本主義社会もまさにその流れの中で、好不況を繰り返しているのです。

 さて、病気になると現代人は頻繁に薬を飲んだり医者にかかったりします。薬には必ず負の側面として副作用があります。よく効く薬ほど反作用としての副作用がでます。それを、どう抑えながら、効果を期待するわけです。

 しかし、今の医学は薬の効果はうたいますが、そのときの受け入れる人体の様子については何らコメントしてません。そこが、盲点なのです。同じ薬でも、それを受け入れる場所の状態で代わるはずです。どんなに高性能なヘリコプターでも沼地に着陸できません。沈んでしまいます。それと同じように体の状態がそれと同じようでしたら、どんなにいい薬でもそれを受け入れできません。しかし、そこのことの検討はされていません。薬だけの効能だけが一人歩きしているのです。そこで、大きな過ちを犯しているといえます。

 インフルエンザがはやると、今年はA型が爆発的に増えているとか言いますが、大事なことはそのウイルスではなく、それを受け入れている人体の調子が大切なのです。それを、いつも正常にしておけば、よほどの事が無い限り、インフルエンザで病気にならないのです。それが自然治癒力です。最近の人はその自然治癒力の大切さを忘れてしまっているのです。困った物です。その力を最大限に発揮するようにいつも体の状態を保つことが肝要なのです。まあ、そこが一番難しいわけですが、そこに切り込んで行かないとどうしようもないと思うのです。

 高齢者が多くなった現在、薬漬けの高齢者が大量に出て来ているのです。そして、製薬会社に個人の尊厳までもが奪われて来ているのです。サプリメントも同じです。膨大な利益をそこから捻出しているのです。もう、一端その流れに乗せられてしまうと逃げられません。医者の言うなりです。

 根本に保健医療制度があります。この辺で国民がこのことを再考察してみる時代になってきたのでは無いでしょうか。これでは、医療費は増大の一途をたどってしまいます。生きると何とか、寿命とは、医療と人の幸せとか、その辺の事が今後益々脚光を浴びて来るのでは無いでしょうか。

 過剰医療、尊厳死もその辺の範疇にはいるでしょう。そして、医学は最後の砦でもう、その力だけではどうしようも無いときにお世話になるものだと思っています。

 さて、今回私が言いたいことは、薬はよくよく考えていけば、食べ物でおおかた代用できるのではないかと言うことです。なぜ、もっと速く、このような食物の研究が世間の目に触れなかったのでしょうか。不思議でなりません。この研究がもっと進めば薬は最後の砦となり、日常の体調不良は殆ど食べ物と体調管理ですんでしまうような気がしてなりません。これで、だめな時が寿命です。最近テレビでも言ってましたが、高齢者の透析ができるようになりましたが、その大半が寝たきりの認知症になっていると言うことです。人間の尊厳から考えるとゆゆしき問題だといわざるをえません。

 これだけ、食品の事が分かって来ますと、その食べ物をどう取り入れていくかが日常の健康に大いに関わって来るのに気づきます。

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菜園近影

2018年11月26日 | 家庭菜園

震災8年11月26日

今年の猛暑はすごかった。我が家でも例年になく秋に芝桜が咲き始め、この分では来春の開花が心配になったほどだ。桜も各地で花が咲いたという便りが流れた。確実に気象が一年ごとに温暖化に向かっているようだ。来年の夏が心配になる。

10月は、初日に台風24号で我が菜園も少なからず塩害の影響を受け、葉物はダメージが大きかった。しかし、どうにか、その後は気象が安定し台風の心配もなくなり、順調である。

   最近では大根、レタスなどの野菜の価格も下がり始めて来ている。秋の初めは野菜の値段は高かった。このところの値下がりで消費者もほっとしていることだろう。

さて、最近の菜園を眺めて見た。

<現在栽培中の物>

アスパラガス(種から育てている。)サツマイモ(紅はるか、安納芋、紫芋を収穫中)白ネギ、九条太ネギ、キャベツ、白菜、日野菜大根、大根、ほうれん草、菊、ニンニク、ターサイ、水菜、エシャレット、ジャガイモ(メイクイーン、インカノメザメ、キタアカリ)、イチゴ(秋姫、紅ホッペ)里芋(収穫中)タデアイ(藍染の原料)ブルーベリー、イチジク、プルーン、マルベリー、ハーブ、チョロギ、しゃもじ菜、ルッコラ、スイスチャード、ソラマメ、エンドウ豆、夢咲菜、スティックセニョール、ニラ、

https://youtu.be/5F-AwBnoZLo

 

 

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地球環境保護法(仮称)が必要な時代では?

2018年11月04日 | エッセイ

震災8年11月4日

 前々から気になっていたマイクロプラごみ問題を、先日、NHKのクローズアップ現代で取り上げていました。このところ、連日、マスコミでも報道されるようになってきています。ストローをやめたり、買い物袋を持参したりして努力は始めていますが、増えるごみの量にはかないません。まだまだ、小手先でそれを処理しようとしているのです。

 国際社会にはごみ問題始め温暖化の気象問題始め、資本主義の発達で表面的に富は増大したかに言われていますが、その辺のマイナス面も含めて考えると、ますます、国際経済は貧困化に向かっているように思えてなりません。

 たとえれば、今は、天に向かって唾するようなもので、やがてその唾が天罰として我々の頭上に落ちてこようとしているのです。唾しているときは楽しんでやっているのです。馬鹿げたことをしていると思います。

 そのタイムリミットが刻々近づいているのではないかと危惧をしているのは私だけでしょうか。国際法でプラスチックの生産を中止せざるを得ない状況下になりつつあるのではと思います。自然界にないものを作り出す人間の愚かさに気づいて欲しいのです。法制化は最後の手段でしょうが、そろそろこのような枠組みを作っていかないといけない時期に来ているのではないでしょうか。

 プラスチックの製品は今あらゆる分野に広がっています。特に先日も人工芝が危ないと言っていました。雨が降れば、プラごみも川に流れていきます。特にその中に人工芝の破片がたくさん入っていたようです。人工芝は即刻使用禁止にしてほしいです。最近、結構色々な場所で使われています。困ったものです。植物の芝が一番いいと私の思うのですが、管理が楽だという短絡的な発想から使われているのです。残念でなりません。

 自然のサイクルの中では有機物は、必ず最後は土として帰っていっていました。そうして、古来、地上の物質は自然に任せてそのサイクルの中で循環していたのです。その頃は、ごみという概念もなかったはずです。この世に、自然界では生成されることのない人工的なプラとか、放射能(自然でも微量にはある)を大量に作り消費するところから、ごみという概念も出てきたのです。地球がおかしくなっていったのです。

 これは、どこかで誰かがこの自然界に本来存在しないものを作ってしまったところに大きな過ちがあったということに早く気づいて行かないといけません。軌道を修正していかないと今、大変ところに来ているのだという認識を誰もが持ってほしいとおもいます。やがて、自分の作ったもので、自分が滅ぼされる最悪な事態となってしまいます。夢を追い求めるのは人間の性みたいなものですが、自然界の循環を尊重するという大前提の中での夢追い人でなければいけません。

 最近の、農産物もだいぶ自然と離れて来ています。これも考え物です。遺伝子組み換え食品などは持っての他です。自然の循環の中で粛々と生産されるべきです。栄養価もこれではおかしくなって来ているのでしょう。

 そして、ついに、中国が、外国からのプラごみの輸入をやめるようになってきました。さあ、これまで、プラごみを輸出していた日本は一大事になってしまったのです。本州ではなかなか処理をする業者が少なくなってしまったのです。遠方へ送れ
ば、運送費用もかさみます。国内の処理施設はどこも満杯の状況になりつつあるのです。中国の廃プラの輸入は日本が世界一で、2位がアメリカです。日本の責任は重大です。

 今日までに世界で生産されたプラスチック83億トンのうち,63億トンがすでに廃棄物となっています.そのうち,たったの9%だけがリサイクルされ,12%が焼却され,大部分の79%は埋め立て処分されたか,さもなければ海洋などの自然環境に投棄されました。

 プラスチックの生産量は年間5%増の勢いで増加しており,このままいくと,2050年までに累計330億トンのプラスチックが生産される計算です。恐ろしい量ですね。

  常識的に考えて,人類が生み出したプラスチックは,焼却されない限り,何百年も何千年も分解されずに残ります。 そのため,2050年までに海に蓄積するプラごみの量は魚を超えると予想されています。その結果、生物への影響は図り知れないものになると考えられます。

 2050年といえば温暖化も相当なものになってくるでしょう。そろそろ、地球の大問題としてとらえ、国連で地球環境保護法(仮称)でも制定しないと大変なことになってしまいます。保護主義などといっている時代ではないことは明らかでしょう。

 

 

 

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