軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

青天を衝け(1/2)

2021-03-19 00:00:00 | 日記
 今年のNHK大河ドラマの主人公「渋沢栄一」が生まれたのは現在の埼玉県深谷市とされる。最近放映されたドラマでは、その故郷の血洗島村から信州に、その年は害虫被害で思うように収穫出来なかった「藍」の買い付けに行く様子が描かれていた。

 この回の放送を見た時には、いったい信州のどのあたりに、そしてどのようなルートで出かけたのだろうかと漠然と考えていたが、3月に佐久市のフクジュソウを見に出かけた折に立ち寄った「道の駅ヘルシーテラス」に置かれていた観光パンフレットで偶然その答えが得られた。

 
佐久市・佐久市観光協会発行の観光パンフレット

 栄一は現在の国道254号を通り、下仁田を経て佐久市にさらには上田市の方まで出かけていたようである。このルート上にある佐久市内山地区に、上のパンフレットにあるように「渋沢栄一の詩碑」が1940(昭和15)年に建立され今も残されている。

 この詩碑についてはパンフレットに次のように記されている。

 「群馬側から国道254号沿いに車を走らせ、ちょうど奇岩群を見終えたころ、右手に神社の鳥居が見えてきます。その阿夫利(あふり)神社の横の岩肌に、『青天を衝け』の由来となった漢詩が刻まれた詩碑がひっそりとたたずんでいます。この漢詩は渋沢が19歳のころに詠んだものとされ、全文およそ260字。比較的短く、また意味もとりやすいので、全文解読に挑戦してみましょう。なお、この詩碑は1940(昭和15)年に地元有志により建てられました。」
 
 「渋沢と佐久のつながりは、少年期までさかのぼります。13歳のころから生業を担っていた渋沢は、年に4回ほどは信州(長野県)、上州(群馬県)、武州(埼玉県)秩父の得意先を回り、藍玉代の集金や注文取りをしていました。上州から信州への玄関口であった内山峡(内山峠)とそれを越した先の佐久平(佐久盆地)が、渋沢にとって『第二の故郷』であったこともうなづけます。」
 
 ということで、次の地図が示されている。


渋沢栄一の詩碑がある佐久市内山地区の案内図(パンフレットから)



上の地図の部分


 この詩碑に刻まれている漢詩全文は次のようである。

   渋沢青淵先生内山峡之詩
   襄山蜿蜒如波浪西接信山相送
   迎奇険就中内山峡天然崔嵬如
   刓成刀陰耕夫青淵子販鬻向信
   取路程小春初八好風景蒼松紅
   楓草鞋軽三尺腰刀渉桟道一巻
   肩書攀崢嶸渉攀益深険弥酷奇
   巌怪石磊磊横勢衝青天攘臂躋
   気穿白雲唾手征日亭未牌達絶
   頂四望風色十分晴遠近細弁濃
   与淡幾青幾紅更渺茫始知壮観
   存奇険探尽真趣游子行恍惚此
   時覚有得慨然拍掌歎一声君不
   見遁世清心士吐気呑露求蓬瀛
   又不見汲汲名利客朝奔暮走趁
   浮栄不識中間存大道徒将一隅
   誤終生大道由来随処在天下万
   事成於誠父子惟親君臣義友敬
   相待弟与兄彼輩著眼不到此可
   憐自甘払人情篇成長吟澗谷応
   風捲落葉満山鳴
   昭和十五年十一月廿四日建之
      後学 木内敬篤 謹書

 佐久市発行のパンフレットには「比較的短く、また意味もとりやすいので、全文解読に挑戦してみましょう。」とあるが、浅学の私には容易ではない。そこで、渋沢栄一伝記関連資料から次の読み下し文を、また現地には現代語訳を記した説明板が設けられていたので、それぞれここに引用させていただく。

澁澤青淵先生内山峡之詩

襄山(じょうざん)蜿蜒(えんえん)として波浪の如く 西は信山に接して相送迎す
・高い山は蛇のように曲がりくねり波の様である 西は信州の山に接して互いに送迎してくれる
奇険は就中(なかんずく)内山峡 天然の崔嵬(さいかい)けずり成すが如し
・とりわけ珍しく険しいのは内山の峡 天然の高く険しい山は、えぐられてできたようだ
刀陰の耕夫青渕子 販鬻(はんいく)信に向ひて路程を取る
・刀の陰で田畑を耕す私、青淵子 商いのため、信州に向かって行程をとる
小春初八好風景 蒼松紅楓草鞋(そうあい)は軽し
・小春の八日、よい風景である 蒼い松、紅の楓、草鞋の足取りは軽く
三尺の腰刀桟道を渉り 一巻の肩書崢(そう)こうを攀(よ)づ
・三尺の刀を腰に差し、桟道を渉っていく 一巻の書を背負い、険しい山道をよじ登る
渉攀(しょうはん)益々深くして険弥々(いよいよ)酷(きび)しく
・歩き回ること、ますます深くして、険しさはいよいよ過酷となる
奇巌怪石磊々(らいらい)として横(よこた)はる
・奇妙な形をした珍しい岩々が数多く横たわっている
勢は青天を衝き臂(ひじ)を攘(かかげ)て躋(のぼ)り
・勢いは青天を突き刺すようで、うでまくりして登り
気は白雲を穿ち手に唾して征(ゆ)く
・気持ちは白雲を貫き通すようで、手に唾をして行く
日亭未牌(びはい)絶頂に達し 四望の風色十分に晴る
・日は末牌にいたり、頂上に達すれば 四方に望む風景は十分に晴れている
遠近細辧(べん)す濃と淡と 幾青幾紅更に渺茫(びょうぼう)たり
・遠近が細やかに区別できる、濃淡によってである 幾つもの青、幾つもの紅、さらに果てしなく
 広い
始めて知りぬ壮観は奇険に存するを 真趣を探り尽くして遊子行く慨然として掌(しょう)を拍(う)って歎ずること一聲(いっせい)
・初めて知った、壮観が珍しく険しいところにあることを 真の趣を探りつくす、旅人は行く心を
 奮い立たせ手のひらをたたいて感嘆の一声を上げる
君見ずや遁世清心の士 気を吐き露を呑みて蓬瀛(ほうえい)を求むるを
・君は見ないのだろうか煩わしい世間を離れて暮らす清心の士が 気を吐き、露を呑み、神仙が住
 むという蓬瀛の山を求めるのを
又見ずや名利に汲々たるの客 朝に弄り暮に走りて浮栄を趁(お)ふを
・また見ないだろうか、あくせくして名誉や利益を求める客が 朝に向かって夕暮れに走って、は
 かない栄華を追うのを
識らず中間に大道の存するを 徒らに一隅を将って終生を誤つ
・極端ではない所に人の行う正しい道があることを知らずに むなしく社会の片隅で人生をやりそ
 こなう
大道は由来随所に在り 天下万事誠に成る
・人の行う正しい道は、もともと至る所にある 天下のすべてのことは、誠からなる
父子は惟(これ)親(しん)君臣は義 友敬相待つ弟と兄と
・父子の関係は親であり、君臣の関係は義である 愛情と敬意を、互いに持つ弟と兄とは
彼の輩(はい)着眼は此に到らず 憐れむべし自ら甘んじて人情を払うを
・かの輩の着眼はここまで達していない 憐れむべきことだ、自ら人情に払いのけるのを甘んじて
 受け入れることは
篇成りて長吟すれば澗谷(かんこく)応へ 風は落葉を捲いて満山鳴る
・詩が完成し、長き吟じれば谷がそれに応じる 風は落ち葉を巻き上げて、山全体が鳴り響く

  昭和十五年十一月廿四日建立
       後学木内敬篤謹書

 詩碑では7行目に、大河ドラマのタイトルになった「青天を衝け」の出典である「衝青天」の文字が見られる。その部分の読み下し文と現代語訳を並べると次のようである。

【元漢文】勢衝青天攘臂躋
【読み下し文】勢は青天を衝き臂(ひじ)を攘(かかげ)て躋(のぼ)り
【現代語訳】勢いは青天を突き刺すようで、うでまくりして登り

 この詩碑建立の経緯については「渋沢栄一伝記資料」に以下の記述がある。

「内山峡の巌碑除幕式
【内山峡詩碑】
『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年~昭和六年 / 3部 身辺 / 14章 記念事業 / 5 内山峡詩碑 【第57巻 p.866-868】
1940(昭和15)年11月24日(没後9年)
 是日、長野県南・北佐久郡有志により、南佐久郡内山村の岩壁に鑿立せられたる、『渋沢青淵先生内山峡之詩』碑の除幕式挙行せらる。
[ 解説 ] 青年時代、家業の藍販売のため信州、上州、秩父や東京近郊等を訪れていた渋沢栄一は、19歳の折に従兄尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう、1830-1901)と『巡信紀詩(じゅんしんきし)』を合作しました。
 栄一他界から9年後の1940(昭和15)年、『巡信紀詩』中の栄一による長詩『内山峡』に感激した信州佐久の小林義助は、地元有志らとともに現地内山峡に栄一の詩碑建立を発願、南佐久郡内山村肬水(いぼみず)の巖壁に詩碑を制作、11月24日に除幕式が挙行されました。
 栄一の嫡孫渋沢敬三は式の前日より佐久に入り、栄一と親交のあった小山邦太郎(こやま・くにたろう、1889-1981)邸に宿泊、翌日は内山峡での式に赴く途上で栄一と懇意であった木内芳軒(きうち・ほうけん、1827-1872)の生家にも立ち寄っています。
 芳軒の外孫木内敬篤は詩碑の手引石に書を寄せて、その由来について『92歳の終生を一貫せる道徳経済合一の大義が既に胚胎せるを知るべく再吟して…その功業徳望の由来するところを感得せずんばあらず因て郷人有志相謀り茲に巖碑を鑿立して仰景の意を致すと云』と記しています。
  なお、1988年刊行の『渋沢栄一碑文集』(博字堂、山口律雄・清水惣之助共編,p57-59)には『内山峡の碑』として碑の拓影、全景写真、長詩全文が紹介されています。」

 さて、詩中にある「奇険就中内山峡」はパンフレットの地図にもあるように、この地方に見られる奇岩群のことである。これらは、荒船山の火山活動によって生まれた溶岩が風化したものとされ、「高谷岩」「お姫岩」「ナポレオン岩」「屏風岩」「ローソク岩」「蓬莱岩」などと名前が見られる。

 以下、詩碑とその周辺の状況を撮影したので紹介して本稿を終わる。


国道254号沿いに建てられた案内板(2021.3.10 撮影)

詩碑が埋め込まれた巨石壁(2021.3.10 撮影)

道路側から見た詩碑(2021.3.10 撮影)

道路側から見た詩碑と詩碑建立の説明のある石碑(右)(2021.3.10 撮影)

詩碑(2021.3.10 撮影)

詩碑(2021.3.10 撮影)

詩碑の説明板(2021.3.10 撮影)

佐久市が設置した詩碑の現代語訳(2021.3.10 撮影)

途中、254号線の内山峠下から見た荒船山(2021.3.10 撮影)

内山峠から見た荒船山(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つの高谷岩(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つ、名称は不明(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つの屏風岩(2021.3.10 撮影後一部修正)


詩碑の横から見た屏風岩(2021.3.10 撮影)

 尚、今回佐久市の広報活動により、この詩碑のことを知ったのであったが、さらに3月9日の読売新聞の地域面記事で青木村の五島慶太未来創造館において、企画展「渋沢と五島慶太」が始まったことを知った。ここにも出かけてきたので別途紹介する。

 





 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする