まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.脳は移植できるんですか?

2014-01-20 20:00:46 | 哲学・倫理学ファック
看護学校での授業が終わってしまってもうだいぶ経ってしまいましたが、
いただいた質問にはまだ全部答え終わっておりません。
看護学校の学生さんたちがまだこのブログを読んでくださっているかわかりませんが、
委細気にせず、答えられそうなときに答えられそうな質問に答えていくことにしましょう。
いただいた質問は正確にはこうでした。

「Q.脳は移植できるのか? できたとしたらどうなるのか?
   人格はどちらのものになるのか? 記憶は共有されるのか?」

グロい質問ですね。
正しく答えられるか自信ありませんが、いちおうお答えしてみます。
とはいえ、私の答えをあまり信じすぎないほうがいいと思います。
まず一番最初の 「Q-1.脳は移植できるのか?」 に対して。

「A-1.技術的には脳の移植も可能であろうと思われます。
     しかし、倫理的に大きな問題があるので、
     脳移植が (法的・社会的に) 認められることはまずありえないでしょう。
     そのような意味において、脳は移植できないと思われます。」

たしか立花隆の 『脳死』(中公文庫) のなかに、お医者さんの話として、
脳だけを取り出して溶液のなかで生かしておくことは技術的には可能だ、
というような話が書いてあったような記憶があります。
(もちろんこれも倫理的な問題からして実際に行われることはないでしょうが…)
それが可能だとするならば、脳を他の人の頭蓋骨のなかに移植することも可能かもしれません。
神経を全部繋いで、脳からの信号を全身に伝えることが本当にできるのか、
いろいろ難しい問題もあるような気もしますが、
可能か不可能かといえば、やはり可能なんじゃないでしょうか。
ただこのような移植手術が実際に許されることはないでしょう。
それはまさに2番目以降の質問と関わってきます。
「Q-2.できたとしたらどうなるのか?」
「Q-3.人格はどちらのものになるのか?」
これは実際にやってみることができないので本当のところどうなるかはわかりませんが、
大方の予想では以下のように考えられるのではないでしょうか。

「A-2&3 おそらく移植された脳の人格になるんではないでしょうか?」

これは脳に人格が宿っているという仮定にもとづいての推測です。
記憶とかも脳にあるのだとすると、人格は脳のほうで決定されるように思われます。
逆のケース (移植された肉体のほうの人格が残る) というのはちょっと想像できかねます。
おそらく多くの人がこのように推測するからこそ、
脳移植はけっして認められることはないだろうと思われるのです。
脳死の人の臓器だけをもらうのではなく、脳死の人の身体全部をもらって、
脳死した脳は取り除いて、そこに別の人の脳を移植して、
脳死した人の身体の中で別の人格が生きていくことになるわけです。
家族としてそんなことを容認できるでしょうか?
社会としてもそんなことを容認できるでしょうか?
さらにこのような脳移植をいったん認めてしまうと、
身体がダメになるたんびにどんどん脳移植を繰り返して、
姿形は変われども永遠に生き続ける人格というものを認めることにもなってしまいます。
これでは人間は死ねなくなってしまうかもしれません。
このようにいろいろな意味で倫理的な大問題を引き起こす可能性がありますので、
脳移植が認められることはまずありえないと思われるのです。

最後の質問はちょっと厄介です。
「Q-4.記憶は共有されるのか?」
今までは脳をそっくり取り替えるという前提で話してきました。
そっくり取り替えたならば、記憶も新しく入れられた脳のものになるだろう、
というのが私の予想でした。
記憶が共有されるというのはどういう事態を想定しての質問でしょうか?
ひょっとすると脳を全部取り替えるのではなく、部分的に移植するということなんでしょうか?
だとするとこれはちょっと何ともお答えしようがありません。

「A-4.脳の部分移植をしたらどうなるかについてはまったくわかりません。」

それが可能なのかもわかりませんし、どうなるかはさらにまったくわかりません。
脳のなかには海馬など記憶の中枢となるところがあることはわかっていますが、
部分移植の場合は、海馬がどちらのものかによって記憶がどちらかも決まってくるのかどうか、
いやホントまったくわかりません。
たぶん部分移植も認められないだろうし、実験もしてみようがないので、
これは永遠の謎に終わるような気がします。
難しい質問をいただきありがとうございました。


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