前回のつづきです。
綾城へ行く途中、こんな銅像がありました。
新刀の開祖といわれる刀工・田中國廣(堀川国広)。
当時の領主・伊東三位入道義祐が「綾の刀鍛治・國廣は学問もある」と耳にし、
孫の満千代の侍臣として仕えさせたのだそうです。
伊東氏が島津氏の侵略に遭い綾城が落城した際には、國廣が当時8歳の満千代を背負って
豊後国に無事に逃げのびたのだとか。そして満千代はそこでキリスト教と出会い、
天正遣欧少年使節において大友義鎮(宗麟)の名代としてローマへ渡りました。
この満千代が、のちの「伊東マンショ」。ここでこんな歴史と出会うとは
こちらは綾陽校(りょうようこう)記念館。
明治21(1888)年に綾小学校として建てられた木造校舎は国の登録有形文化財で、
3度の移築を経てここに移されたのだとか。
現在は農具や生活用具の他に明治時代の教科書などを展示する歴史資料館となっているそうです。
時間の都合で中には入らなかったのですが、外観を見て小豆島の岬の分教場を思い出しました
さて、綾城(龍尾城)に到着。
現在の城は復元されたもので、建てられたのは昭和60(1985)年だそうです。
綾城の始まりは、元弘年間(1331〜1334年)といわれ、足利尊氏の家臣・細川小四郎義門が
この地方に下向を命じられ、その子・義遠が綾の地を領有して山城を構えたそう。
このとき氏も綾と改め、綾氏が数代にわたって城主としてこの地方を治めていましたが、
八代将軍・足利義政の頃には都於郡(とのこおり)城を根拠として日向国の一大豪族となった
伊東氏の家臣となり、綾城も伊東四十八城のひとつとなったそうです。
しかし天正5(1577)年、伊東氏が島津氏に敗れ落城した後、綾城は島津氏の支城となり、
慶長20(1615)年の江戸幕府による一国一城令によって廃城に。
現在の天守は昭和の建築ではありますが、戦国時代の雰囲気を感じるものでした。
現在の綾城内部は、1階は甲冑や刀などの展示、2階は田中國廣資料館となっていて、
國廣作の刀も展示されていました。
階段の右側に見える角柱は、75cm x 75cmという立派なもので、
地元の木材(樹齢約280年の栂(つが))が使われているのだそうです。
この階段を上っていくと、最上階がありました。(つづく)